最近訪問した塔婆・ご提供画像(2004//〜2004/ )

過去の訪問塔婆履歴

2005/03/20
「X」氏ご提供画像
下野薬師寺塔跡1
  同       2

2005/03/20:「X」氏情報:
「X」氏及び新聞報道などを総合すると概要は以下の様です。
2005年3月発掘調査で、従来金堂跡とされていた跡が塔跡であることが判明した。
今回の発掘調査で、掘込地業(基壇と発表)が確認され、基壇1辺は約12mと推定。
中心位置の地下に心礎石の据付け穴(径約2.5m)も確認された。以上からこの堂跡は塔跡であると断定された。
心礎据付け穴には、心礎を抜き取った際に混入したと考えられる焼けた凝灰岩や瓦の破片が見つかり、この塔が焼失していることがわかった。塔の創建は7世紀末で、地下式心礎であり、中軸線上に位置することが確認された。

以上により、未確認ながら、下野薬師寺は大和飛鳥寺と同様の1塔3金堂配置である可能性が出てきたと評価された。即ち、今般確認された塔跡北側の建物跡2カ所と、講堂とされた跡の計3カ所が金堂の可能性があると云う。
しかし、その3ケ所の建物は各々中金堂と東西金堂であるのかどうかは推測の域を出ない。そうであるとも考えられるし、そうでないとも言えるであろう。仮に3金堂だとすると、確かに1塔3金堂であろうが、現段階でわかっている下野薬師寺遺構から 判断すると、大和飛鳥寺とは凡そ懸け離れた伽藍配置で、「飛鳥寺以来2例目」の「画期的な発見」のような表現は聊か過剰な表現であろう。
なお塔東北遺構の基壇は東西約21m、南北約17m。塔西北遺構は東西約16・5m、南北約13・3mとされる。回廊の北側にある講堂とされた建物跡が中金堂であろうと推定。
また、回廊外の塔(再建塔・東塔)は、9世紀後半のものであるとされる。
以下は東塔跡です。
 下野薬師寺塔跡1    同       2 :2004/8/2:「X」氏撮影

2005/03/13 近江石山寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
  同       14
  同    塔本尊1
  同    塔本尊2
  同    塔本尊3
  同     本堂1
  同     本堂2
  同     鐘楼1
  同     鐘楼2
  同    東大門1
  同    東大門2
再訪:
建久5年(1194)源頼朝の寄進により建立。現存多宝塔中で原形を留める最古の多宝塔とされる。
一辺5.8m、高さ17.2m。内部四天柱を立て、来迎壁を設ける。
塔本尊金剛界大日如来。
東海道名所圖會から 石山寺伽藍図(部分図)、図多宝塔(部分図)
記事;「 二層多宝塔:建久の頃、将軍頼朝卿の建立したまふなり。本尊大日如来、四隅の柱に三十七尊の画像あり。丹青妙厳なり。」
石山寺は天平勝宝元年(749)東大寺良弁の開基と伝える。現在は西国33ヵ所霊場の第13番札所。
本堂(平安期)が国宝。
本堂は以下の建築から後世される複雑な構造を持つ。正堂は正面7間、側面4間、寄棟造の建築で、合の間(桁行1間、梁間7間)を付設し、南に懸造の礼堂(正面9間、側面4間、寄棟造、檜皮葺 )を設ける。正堂は永長元年(1096)、礼堂は慶長7年(1602)の建築とされる。
鐘楼(重文)鎌倉後期の建築と推定される。
東大門(重文)は建久元年(1190)源頼朝の寄進により建立され、慶長年中に大修理が行われたという。
(石清水八幡宮関連)
近江国分聖徳太子堂
近江聖徳太子堂には山城石清水八幡宮太子堂安置であった聖徳太子2歳像を安置するという。
聖徳太子2歳像:像高5.4cm(?)、寄木、内刳、彩色、裸形、玉眼。元亨元年(1321)の年記があり、法眼宗円作とある。昭和35年解体修理。
元は山城石清水八幡宮太子堂安置仏であったが、神仏分離により、明治2年5代目真田武左衛門によって近江国分の地に安置されたと云う。真田武左衛門とは当地の富裕層と思われる。
国分の聖徳太子堂は昭和32年(財)国分聖徳太子会によって新しく建立されたようです。
石清水八幡宮および経緯(推測)等については「石清水八幡宮」のページを参照ください。
近江石居廃寺跡1
  同       2
  同  南礎石列
  同    心礎1
  同    心礎2
  同    心礎3
  同    心礎4
  同    礎石1
  同    礎石2
  同    礎石3
 
史跡:心礎と思われる礎石の大きさは110×75cm。柱座径65×5cm。径21×10cmの擂り鉢状の円錐穴 を穿つ(実測)。
以下の資料などから塔の存在は十分推測はできますが、この礎石が心礎かどうかは疑問がある。
確かに舎利孔もしくは枘孔と思われる孔はあるが、その形状は擂り鉢状であることまた他の金堂礎石と形状・大きさが類似して、擂り鉢状の孔を除けば、金堂などの礎石と考えた方が自然 とも思われる。また心礎とするにはこの礎石が塔跡から運ばれ、のちにこの堂跡に置かれたと推定するしかない。さらに、この礎石は塔跡の心礎位置から出土したという証明や伝承もない。
云ってみれば、この擂り鉢状の孔は後世の加工(意図は不明)である可能性も有り得るであろう。
あるいはまったく逆に柱礎石に孔を穿ち、心礎に転用した可能性も考えられ、いずれにしろ不明とするしかないであろう。
「古代近江の遺跡」:金堂と推定される土壇が残る。ただし道路整備で原形を損ねている。
基壇上に19個の礎石(花崗岩製・円柱座を造出)がある。但し西・南の配列は乱れ、同時期のものとは疑わしものもある。南側東から3個目礎石は径24/22cmで深さ11cmのすり鉢状の円孔を持つ。なお基壇南東約50mの字は「塔の前」と称する。瓦・塼仏・塑像・泥塔などの破片が出土。
「滋賀県の歴史散歩」:基壇は11.7×7mで基壇南・西は道路整備で削られ、礎石配列はやや乱れる。堂は5×3間と推定される。基壇北にはかって、礎石らしい巨石があったといい、また南東「塔の前」の小字が残る。本寺は白鳳期創建で平安期まで存続したと考えられる。「近江輿地志略」では「在原寺」跡と 云う。
「日本の木造塔跡」南側礎石の東から3個目礎石には径60cmの柱座に径24×12cmの孔を穿つ。南側礎石は動かされていて、移動の折に、この礎石列に塔心礎が紛れ込んだものであろう。心礎大きさは90×80cm。
近江紫香楽宮廃寺 第1次近江国分寺:甲可寺(甲賀寺)跡:詳しくは「近江国分寺」のページを参照ください。
近江国昌寺 第3次近江国分寺:詳しくは「近江国分寺」のページを参照ください。
近江瀬田廃寺 第2次近江国分寺:詳しくは「近江国分寺」のページを参照ください。
2005/03/13
「X」氏ご提供
常陸下君山廃寺心礎1
  同         2
  同       露盤
詳細な情報はありません。写真で判断すると、心礎は方形に加工され、中心円孔を穿つ。
「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、145cm×138cm×34/27cm、径25.5×15cmも円孔がある、雲母片岩、奈良後期。
「日本古代地方寺院の成立」;石造露盤が現存、出土瓦は白鳳期か?、周囲から8世紀の金銅仏が出土。
露盤の大きさは方約1mのようです。出土金銅仏は銅造誕生釈迦仏立像(茨城県立歴史館所蔵)。
現状は、古天宮と称する土壇状の藪に廃寺が忘れられたようにあり、心礎・石製露盤が放置されているようです。また附近には布目瓦の散乱を見るようです。
2005/02/04 山城紀井寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       7
御香宮石塔残欠類
再訪 :天保義民碑のある裏には「石塔残欠」の写真に見られるように、その由緒・謂れは不詳ですが、石塔類残欠が廃棄物同様に捨てられています。
心礎実測値:大きさは約190×180cm、円穴の径は約80cm
付属:
御香宮内東照宮1  御香宮内東照宮2  御香宮内東照宮3  御香宮内東照宮4
2005/02/20 尾張明蔵寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
昭和51年(1976)建立。欅・白木の本格木造建築です。
高さ17m強、一辺3.25m。
野宮山と号する。真宗本派。
 
尾張国分寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同     礎石
尾張国分寺跡は下記に掲載の江戸期と余り変りのない環境にあります。 もっとも、江戸期のような荒地ではなくて、植木畑に変化はしていますが、辛うじて、茫洋たる環境の中に礎石だけが残されています。心礎が今日まで伝えられたのは幸運というべきか。
現状塔跡には心礎と礎石2個が残されています。心礎の実測値:大きさは185×160cm、出枘径35cmで微かに凸が残る。出枘は近年に決失したものと思われます。他に2個残る礎石には出枘は見られませんから、大きさから判断してもこの礎石が心礎と思われます。
附近からは耕作で大量の布目瓦の出土を見るようです。
現在までに、塔と金堂と推定される遺構が確認され、塔跡では心礎と3個の礎石が発見されたという。また尾張国分寺は創建後まもなく水害で壊れたと も云われるようです。
写真礎石は2個残る礎石です、左の奥の礎石は心礎です。
尾張名所図会 後編巻之2より
記事:「 矢合村にありて、今も礎石残り、古瓦多く地中に埋れ、薄など生い茂りて、その古跡を存せり。・・・」尾張国分寺跡(部分図)
「幻の塔を求めて西東」:心礎は出枘式、180×150cmで、出枘径36cmで突起は欠失。
尾張国分寺心礎:「佛教考古学論攷」
尾張性海寺多宝塔
尾張性海寺心礎
再訪:宝塔・心礎については未見。
詳しくは「尾張性海寺」のページを参照ください。
尾張甚目寺三重塔
尾張甚目寺心礎
再訪:但し心礎については初見。
詳しくは「尾張甚目寺」のページを参照ください。
尾張長谷院多宝塔 1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8

天保5年(1834)建立。総高約11m、一辺約3m。高い川原石積の基壇上に立つ。
初重は大斗肘木で上層は4手先。初重軒は一軒吹寄せ垂木、上層も一軒扇木垂木を用いる。
基本的に唐様で、簡素な造作です。本尊は愛染明王。
堀江観音と称する。大和長谷寺と同木という巨大な観音を本尊とする。今次大戦等たびたび被災し、現在境内は少々荒廃している。
尾張名所図会 後編巻之3より
記事:「浄土宗。名古屋阿弥陀寺に属す。・・・本尊十一面観音は大和国長谷寺本尊と同木同作なり。・・・」  多宝塔の記事はありません。尾張長谷院全図 尾張長谷院部分図
2001/1/13撮影 : 図1  図2  図3

美濃蓮台寺心礎
<美濃白髭神社所在>
美濃蓮台寺 石碑
  同   心礎S1
  同      S2
  同      S3
  同      S4
<美濃笠松別院所在>
美濃蓮台寺心礎K1
  同       K2
  同       K3
  同       K4
  同     刻印

心礎は2個に割れ、半分は白髭神社境内に、残りは東本願寺派笠松別院にある。
白髭神社境内:昭和32年の土地改良事業で、長池東流の地下から多くの布目瓦とともに塔心礎の半分が出土。寺院は奈良期のものと推定されている。現在の白髭神社が蓮台寺跡と推定され、おそらく出土地点と思われる所に蓮台寺遺跡の石碑があり、心礎が置かれている。 なを神社自体は近年の創建と思われ、正体不明です。
笠松別院:明治初めに経蔵を建立するときに、長池の信者が田中から掘り出したこの礎石を土台石にと寄進したと云う。当時は心礎との認識は無かったようです。
昭和32年の発掘調査では、上記心礎と心礎右位置に礎石1ヶが出土。但し塔基壇など他の遺構は発見されていないようです。心礎は硬質砂岩製で円形柱座に円孔を持つ。
2002/01/26:「X」氏情報:大きい円孔の径81cm、小さい円孔の径32cm。
白髭神社所在  笠松別院所在・・・「X」氏ご提供画像
2003/6/10:「幻の塔を求めて西東」:心礎は2重円孔式。150×120cm、円孔は82,5×3cm、、中の円孔は34×8.5cm、白鳳後期。

2005/02/26 河内河内廃寺 詳細は「河内河内廃寺」のページを参照ください。
大和二光寺廃寺堂跡1
  同         2
  同         3
  同         4
  同      基壇1
  同      基壇2
  同      基壇3
  同      基壇4
  同      基壇5
  同      基壇6
  同      礎石1
  同      礎石2
【参考資料】:残念ながら今回の発掘で、塔跡もしくは塔を示唆する遺跡・遺物が発見された訳ではありません。しかしながら、この時代の寺院のあり方から見て、今般の堂跡が金堂跡とすると、附近に塔が建立されていた蓋然性は高いと思われます。
2005/02/26現地説明会;説明会資料より要約
圃場整備整備事業の前提として2004/12より発掘調査、字二光寺より遺跡が出土し、二光寺廃寺と命名。基壇建物の東半分を発掘。出土遺物により飛鳥期の創建で、建物は平安期に倒壊し、鎌倉期に耕作地となったと推定される。
大和二光寺廃寺跡航空写真;上が北:説明会資料より
中央に堂跡東半分があり、法隆寺式伽藍配置とすると西に塔、四天王寺式伽藍配置とすると南に塔が想定されますが、いずれにしろ、継続しての調査に期待するしかないようです。
大和二光寺廃寺堂跡(南)  大和二光 寺廃寺堂跡(東)  大和二光寺廃寺堂跡(南東)
大和二光寺廃寺堂跡略図:説明会資料より
基壇:ニ重の乱石積基壇で、南北12.7m、東西は出土部分で12.5m。基壇上部は削平されていたが、南西部の礎石根石から高さ1.4m以上と推定される。
礎石:4列×5列の大部が出土、耕作の妨げになったため掘り出され、ほぼ元位置に再び埋め戻された状態のようです。礎石は1m前後の自然石で、柱間は約3m(中央部の南北は3m超)を測る。
大量の瓦の出土がりこの建物は瓦葺きで、塼仏が多く出土し、この建物が5間×4間と推定されることから金堂の可能性が高いとされる。
瓦:創建時瓦推定される瓦は朝妻廃寺・高宮廃寺と同范のようです。
塼仏:4種類を確認。大型多尊塼仏(唐招提寺塼仏、伊賀夏見廃寺塼仏と酷似)、方形六尊連立塼仏(朝妻廃寺塼仏と同范)、方形三尊塼仏、方形十二尊連坐塼仏。
方形六尊連坐塼仏部分1  方形六尊連坐塼仏部分2
方形三尊塼仏  大型多尊塼仏  方形六尊連立塼仏
螺髪:土製螺髪1点が出土。丈六仏の安置が想定される。
大和朝妻廃寺 詳細は「大和朝妻廃寺」の項を参照ください。
2005/02/
「N」氏ご提供
山城本法寺多宝塔 ごく最近、塔の北側屋根が垂下したようです。詳細・理由は現地を未見のため不詳。
<多宝塔(江戸後期)の項番=681参照> 2005/2/23撮影。山城本法寺のページ
丹後智恩寺多宝塔 <多宝塔(室町期)の項番=628を参照> 2005/2/10撮影。
丹後円隆寺多宝塔1
  同        2
画像1:雪景、画像2:上重に鳥居を構える。意味不明ですが、神仏習合の表れと解釈も可能です。
<多宝塔(江戸後期)の項番=673参照> 2005/2/11撮影。
2005/02/11
「X」氏ご提供
茶臼権現推定心礎1
  同        2
旧北条市河野(別府若宮)
153×138×69cmの大きさで、径87cmの円柱座があり、その中央に38cmの出枘を造る。
礎石であることはほぼ確実ですが、心礎なのか否かは判断不可です。しかし大きさおよび形状から判断して、心礎である可能性は高いと思われます。形から奈良後期の心礎もしくは礎石と思われます。
なお、現在、礎石は茶臼権現という小祠の台石になっているようです。茶臼権現とは「この礎石を茶臼権現と称して信仰されるのは、昔、殿様がお通りになったとき、当所の涌き水で茶をたてたところよい香りが漂ったという伝説によっている。」所以のようです。
由来・出土物・その他の遺跡などの情報については皆無です。写真には礎石とも思われる石が写っていますが不明です。
朝生田廃寺塔心礎1
  同        2
松山市朝生田町:「幻の塔を求めて西東」:二重円孔式、200×143×60cm、円柱座造出径43×1/3cmと径29×20cmの孔を持つ、白鳳期。
写真で見るかぎり、二重円孔と言うより、円孔に廻りに排水溝を彫り、2本の排水溝を彫る形式のようです。現状側面の一部は欠損しているようです。
現在心礎は善宝寺境内にある。
善宝寺と朝生田廃寺との関係は不明ですが、善宝寺は縁起によると、
推古天皇の代、河内の僧宥全が当地に聖徳太子作阿弥陀如来を祀ったことを始まりとする。
天平年中には行基が留錫し、観音像を刻み、本尊となし、観音寺と改号する。
弘仁11年弘法大師が来り、真言院となす。斉衡3年(856)地震により三重塔倒壊。
天慶3年(940)藤原純友の乱により伽藍焼失。弘安4年(1281)河野通有により伽藍再興。
嘉元3年(1305)12坊中8坊を焼失。観応2年(1352)足利尊氏伽藍再興、善宝寺と改号する。
中ノ子廃寺塔礎石1
  同        2
「飛鳥時代寺院址の研究」来住廃寺の南方1km弱 に廃寺跡がある。現状は全部開墾されているが、かつては素我神社があり、明治45年に開墾されるまで、素我神社の旧地は方5間(高さ7尺余り)の土壇であった と伝える。
その土壇上には礎石と思われる石が2個あり、この2個は付近の五十鈴神社に運ばれ現存する。また開墾した当事者の話を総合すると、大量の瓦片(南の小川辺に捨て、今も散在する)と地下10尺位のところから3、4百貫もある巨石(形状ははっきりしない)が発掘されたという。その巨石は砕いて搬出したと云う。おそらくこの土壇は塔土壇で、巨石は心礎と思われる。なお五十鈴神社へ移動 した礎石は表面を平に加工した自然石で、1つは手水鉢に加工され、1つは拝殿左に置かれているとされる。
礎石1:手水鉢に加工された礎石(推定)、礎石2:拝殿左に置かれたとされる礎石(推定)
2005/01/29 (山城西山廃寺)
山城足立寺 塔跡1
  同      2
  同    心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同     堂跡  
再訪:山城の塔跡の山城足立寺の項を参照ください。
豊蔵坊信海墓 詳しくは「石清水八幡宮」のページを参照ください。
石清水八幡宮西谷
    阿弥陀堂遺構
再訪。ほとんど放置されている状態で、かなり腐朽が進行しています。
早い時期の修理が必要と思われます。
現存するほとんど唯一の岩清水八幡宮の本格仏堂遺構として後世に伝えるべきものと思われます。
詳しくは「石清水八幡宮」のページを参照ください。
2005/01/22 攝津西観音寺跡 「大山崎」のページを参照:相應寺、宝積寺、離宮八幡宮は再訪。
山城相應寺心礎
山城宝積寺三重塔
山城離宮八幡多宝塔跡
山城淀姫社 幕末もしくは明治維新まで多宝塔が現存したと思われます。
詳しくは「山城淀姫社多宝塔」のページを参照ください。
2005/01/03 大和内山永久寺跡 再訪。三重塔跡は冬場も状況は悪く、ほとんど新規情報はありませんでした。
詳しくは「内山永久寺跡」のページを参照ください。
大和長岳寺五智堂1
  同        2
  同  心礎心柱1
  同  心礎心柱2
  同 五智如来・組物
  同    境内図
真面堂 、傘堂ましくはマメ堂と通称する。勿論塔建築ではありませんが、礎石の上に心柱が建ち、層塔の心礎及び心柱の擬似的な関係を間近に観察できます。擬似的という意味は層塔の心柱は相輪を支えるだけのものですが、五智堂心柱は堂の構造材とも思われます。尤も心柱が大日如来を表すという意味では構造材と割り切る訳にもいきませんが。
心柱は欅材であり、心礎の構造は全く不明で、また、現実の層塔とは状況が違いますが、心礎と心柱との関係が視覚的に観察できます。
方一間、単層宝形造本瓦葺。鎌倉期の建築とされ重文指定。心礎が大日如来で、四方の凡字を刻んだ額を掲げ、五智如来を表現したものとされる。
長岳寺:天長元年(824)淳和天皇勅願により、弘法大師が釜口氏廟所に精舎を建て、創建したという。鎌倉期には興福寺大乗院末。中世には隆盛を極め、本堂、五重塔、十羅刹堂、真言堂、経蔵、宝蔵、客殿、浴室、宿堂、坊舎四二坊を有したと伝える。応仁の乱・文亀3年(1503)の兵乱にて炎上。
慶長7年(1602)徳川家康100石を安堵。
明治の廃仏毀釈で全ての坊舎が廃絶し、今参道脇にその跡を留める。普賢院、霊山院、自性院などの名称が伝わる。
楼門(鐘楼門・重文)創建時のままと伝えられるも、下層部は鎌倉・室町期の改装とされる。
旧地蔵院本堂(寛永8年棟札・重文)及び庫裡(寛永7年・重文)
境内図は大和名所圖會より:右下に傘塔として五智堂が描かれています。
大和平等寺 再訪。詳しくは「大和大三輪寺・大和平等寺」のページを参照ください。
大和大御輪寺 再訪。ニ重塔再興。詳しくは「大和大三輪寺・大和平等寺」のページを参照ください。
大和海龍王寺五重小塔1
  同           2
  同           3
  同           4
  同           5
  同           6
  同           7
  同           8
  同      西金堂1
  同      西金堂2

  同    多宝小塔1
  同    多宝小塔2

国宝。西金堂に安置。高さ4.6m。造作は天平初期とされる。
但し本格建築ではなくて、箱物に組物を貼付している構造と言われる。それゆえ、建築というより工芸品の要素があるようです。(元興寺五重小塔にやや先行する様式とされる。 しかし、元興寺小塔は本格建築に準じて造作されているとされる。)
とは云っても、少しもこの小塔の価値が減ずるものではなく、天平期の五重塔遺構はこの小塔しか現存せず、天平期の唯一の五重塔遺構として稀有の価値のものとされる。
海龍王寺自体元々屋外の塔を持たず、(代替として?)西金堂安置の小塔を造ったものとも考えられるようです。(鎌倉期と推定される伽藍指図には西金堂内に五重小塔の書き込みがあるという。)
また、基壇上段台座裏に、永仁5年(1297)の墨書があるという。基壇の作成と同時に塔の修理も行われたとされる。
海龍王寺は隅寺(平城宮の隅にある)とも通称される。
天平3年(731)光明皇后の御願により創建と伝える。その後、玄ム僧正が住し、海龍王寺と 号したという。鎌倉期西大寺叡尊が中興。叡尊中興時の経蔵<正応元年(1288)>を残す。
西金堂(重文):桁行3間、梁間2間、切妻、本瓦葺き。奈良期の建築の遺構で、鎌倉期に大改造されているものという。
多宝小塔:本堂安置、銅製。特に取り立てて取り上げるものではないようですが、たまたま眼に留まったものです。
大和法華寺本堂1
  同       2
総国分尼寺。法華滅罪之寺。三重塔2基があったとされる。治承4年(1180)の南都焼討ちで焼失。俊乗坊重源が塔2基等を修造。応永15年(1408)の火災で西塔焼失。寛正3年(1462)に塔供養。明応・永正の 兵火等で堂塔が焼失。慶長の地震でも堂塔が倒壊。最後まで残った東塔も宝永4年(1707)の地震で倒壊。画像は稚拙ですが、寛文年間発行「京童追跡」巻3 より
本堂は豊臣氏により再興された大堂です。(桃山期・重文)、木造十一面 観音立像(国宝)、乾漆維摩居士坐像(重文〕)などが安置されている。
2005/01/02 伊賀鳳凰寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同    塔礎石
  同    礎石1
  同    礎石2
  同    礎石3
  同    礎石4
  同    礎石5
  同    礎石6
真言宗薬師寺一帯が伽藍地とされ、薬師寺床下にも礎石が残されていると云う。
心礎は本堂裏に保存され、心礎と一直線上に礎石が2個(或は3個)置かれているが、塔の礎石かどうかは不明。
本堂前面には本堂前面に柱座のある礎石が十数個並べられている。
出土瓦から白鳳前期の創建とされる。
地元では、天智天皇采女つまり大友皇子の母である伊賀采女宅子(やかこ) が壬申の乱後、故郷に帰り、大友皇子の菩提のために建立したのが鳳凰寺との伝承があるようです。
「日本の木造塔跡」:心礎は1.2m×1.06mで、中央に径74cmの柱座を造る。現状では枘孔は勿論、出枘の痕跡さえも見当たらない。元々、柱座だけで出枘のない珍しい心礎なのか、あるいは磨耗して出枘の痕跡さえ残さないのかは不明。鳳凰寺は天正9年の兵火で焼失、慶長3年再興、薬師寺と称したという。
大和毛原廃寺立地
  同    配置図
  同 推定西塔心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同    西塔跡

  同    金堂跡1
  同   金堂礎石1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同    南門跡1
 (中門跡より南門を望む)
  同   南門礎石1
  同        2
  同        4
  同    中門跡1
 (南門跡より中門を望む)
  同        2
  同   中門礎石1
  同        2
  同        3
  同 推定食堂跡1
  同   食堂礎石
  同    六地蔵

廃寺は大和ではあるが、大和の東北隅、伊賀の国境近くのかなり山奥の地域にある。
当然、伽藍を建立するような平地はなく、笠間川流域の急な斜面の中の緩やかな傾斜地に立地する。 南向斜面で伽藍は南面する。ちょうど立地は粟原川流域の斜面に立地する大和粟原寺に似ている。(但し粟原寺は北向斜面で、伽藍が北面する。)
金堂・中門・南門跡は、ほぼ現位置に柱座などを持つ花崗岩性の大きなかつ精巧な礎石をほぼ完存することに驚嘆します。
西塔跡及び推定塔心礎の現状:
西塔跡は金堂の西方にあり、現状は畑地で一部は人家です。礎石 8個が埋没しているとされ、特に地上には何もありません。
心礎については、おそらく西塔心礎と思われる礎石が、金堂跡にある稲荷の小祠の鳥居前に 手水鉢として転用されています。しかしこの推定西塔心礎は円形柱座の周辺に沿って、無慚にも割られていて、元の大きさは不明です。
現状は径53cm高さ0.5cm程度の円形柱座を持ち、その中央に径29cm深さ20cmの円孔を穿つ。さらに円孔底の円周の位置におよそ径2cm程度の排水孔が1本、約45度の角度で、外に向かって管状に穿孔されている。さらに円形柱座も多少は上面が削られている可能性もあると思われます。
以上のような状態ですから、この石が礎石であるのは間違いないとは思われますが、心礎かどうかは外形だけでは、判断できません。しかも円孔底の斜め45度下に穿孔された排水管も当初のものなのか、あるいはこの礎石を手水鉢に転用したときに穿孔した後世の加工なのかも判断できません。
しかし排水管の加工は後世の手水鉢への転用の時の加工としても、円孔は正確に彫られていて、手水鉢に転用するために、彫ったと思われる形状ではないと思われます。おそらくこの円孔は当初のものであり、心礎自体の元々の大きさを窺い知ることは出来ませんが、心礎である可能性は高いと思われます。
金堂跡 :7間×4間(24m×13m)の大規模の堂宇です。身舎を除く礎石の36個中34個を残し、内27個を見ることができます。礎石はいずれも大型の花崗岩製で、柱座もしくは地覆座をかなり高く彫りだし、精巧に加工されています。
中門跡:金堂南に位置する。5間×2間(18m×7m)、礎石18個中13個が原位置に残存しています。これも精美に加工された第1級の礎石です。
南門跡:中門から一段低い南方約10m下った地点(約2m強)に ある。礎石18個中露出礎石は11個で、その他は地中に埋没しているとされる。なお中門と桁行梁間は同一ですが、柱間間は中門ようり若干広いとされる。
食堂跡 (推定):金堂の西方、谷を越えた約1町先にある。現状は水田であり、地表には何もありませんが、地下約1mの 所に礎石は残存するという。堂の規模は5間×4間。
なお昭和13年の道路工事で礎石が出土し、 業者の手で外部に持ち出されたという。その後(昭和17年)、芦屋の黒川古文化研究所が散逸防止のため入手し、同研究所の所有になっていたが、昭和49年研究所の西宮移転に際し、無償で地元に返却され、その返却された7個の礎石は食堂跡地の隣に置かれている。
なお、真偽は不明ですが、昭和13年の 試掘調査で、南約3町半の地点(シノノ地区)で東塔心礎らしき礎石を発見したとの説もあるようです。勿論東塔がその離れた場所にあったのではなくて、おそらく、東塔のあった地点の背後の崩落等などで、東塔跡もろとも流されたと解釈する のが妥当のようです。
「日本の木造塔跡」:心礎なし、側柱礎3残存とする。
「大和古寺巡礼」現代教養文庫390、昭和37年:礎石の数は170余といわれ、全て1m余に及ぶものである。出土瓦は奈良後期とされる。創建・寺暦については明確な資料がないため不詳。但し、この地方は東大寺の板蝿杣の地と言われ、この地の支配の重要な末寺であったと伝えられる。現在毛原に現存する唯一の寺院である豊原山長久寺(現在は東寺真言宗)は古くから東大寺戒壇院末であったと伝える。
なお石造六地蔵は室町期のものと推定され、南門東南方向にある。廃寺関係の遺物かどうかは不明。
2004/11/06 大和興福寺三重塔 再訪:詳しくは「大和興福寺」のページを参照ください。
大和室生寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
  同       14
再訪:
平安初期(延暦年間<781−805>頃か)造立。高さ16M余、一辺2.48m。屋外五重塔では最小。
近年台風で大破・解体修理。
2000/5/24朝日新聞記事:1998年9月台風7号によって半壊した塔の修復が終了。現在は厚さ20cmの桧皮葺きであるが、創建時から江戸期(1768年大修理)まで、板葺きであったようです。
奈良・室生寺五重塔、台風被害の修復終わる。
 台風7号(1998/9)で半壊。2000/7/7修復工事が終了。檜皮(屋根)葺き替え。柱・壁再塗装(朱色の土とベンガラを混ぜたものと黄土などを使用)。修復費用は約1億4000万円。
<2000/7/7朝日新聞HPからhttp://www.asahi.com/paper/special.html#asahicom>
金 堂1金 堂2(平安初期・国宝・5間×4間・1間の外陣・江戸期)、
灌頂堂1灌頂堂2灌頂堂3(本堂・鎌倉・国宝・5間×5間)、
弥勒堂1弥勒堂2(鎌倉・重文・3間×3間)、御影堂(鎌倉・重文・3間×3間)などと
本尊釈迦如来立像(平安初期・国宝)、本堂十一面観音立像(平安初期・鎌倉)、本堂板壁帝釈天曼荼羅図(平安初期。国宝)、弥勒堂客仏釈迦如来坐像(平安初期・国宝)をはじめその他多くの優れた仏像を残す。
大和長谷寺 再訪:詳しくは「大和長谷寺」のページを参照ください。
大和元興寺極楽坊 再訪:詳しくは「大和元興寺」のページを参照ください。
2004/12/12 大和平等寺ニ重塔
 「X」氏ご提供
詳しくは「大和大御輪寺三重塔(附:平等寺)」のページを参照ください。
2004/11/14 大和大安寺西塔跡 詳しくは大和大安寺のページを参照ください。
大和粟原廃寺塔跡1
  同        2
  同  心礎(大)1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
 同 心礎(小)四天柱礎
  同  心礎(小)2
  同        3
  同        4
  同        5
  同   塔礎石1
  同   塔礎石2
  同   塔礎石3
  同   塔礎石4
  同    礎石1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同 十三重石塔
 同 石碑・役行者石像


 
史跡:天満神社境内背後(南)に、塔・金堂跡が残存。江戸中期、談山妙楽寺の宝庫から発見された「粟原寺三重塔露盤の伏鉢銘」(国宝・談山神社蔵)によると、当寺は仲臣朝臣大嶋が草壁皇子を偲び創立を誓願したが果さず没した。そこで比売朝臣額田が持続天皇8年(694)から元明天皇和銅8年(715)にかけてこの地に伽藍を建て、丈六釈迦仏像を鋳、金堂に安置した。また三重の塔を起し、草壁皇子とともに発願者大嶋の冥福をもあわせて祈ったとされる。中臣氏は鎌足一族であるが、藤原氏の姓は鎌足の直系のみが受け継ぎ、傍系の中臣氏は神祇伯として元姓を名乗る。
塔跡には四天柱、側柱礎石(径約90cm内外の自然石・一部柱座の加工の痕跡もある)を完存し、心礎は2個置かれている。2個のうち小さい心礎が四天柱礎の中央に置かれ、心礎(大)は心礎(小)脇に置かれている。
心礎(大)は1.8×1.67×1,2mの大きさで、中央に径82×3.6cmの円穴を彫り、1本の排水溝も彫る。この排水溝は円穴底の深さで、その意味で完全に排水溝の役割を果たす。
心礎(小)は割られていて、凡そ半分のものと1/4弱の大きさのものが残り、後の1/4は亡失。凡そ径60×15cmの円穴がある。心礎(大)とは比較すると大きさは格段に小さいものである。
「日本の木造塔跡」によると、心礎(大)は一度礼拝所の台石として持ち出され、その後の塔再興に当っては現在の心礎(小)と思われる別の心礎が置かれたらしい。再び心礎(大)は元位置に戻されたが、塔跡ではなく、一段上の十三重塔の台石に転用されたという研究結果でなっている。
以上、心礎(大)が本来の塔心礎で、心礎(小)はその後の再興塔心礎と解釈されるようです。三重塔といえども、かなり大型で、心礎(大)の柱径を持つ心柱であってもおかしくはないと思わる。
(なお心礎(大)は現在の十三重塔のある金堂跡にあったと思われますが、現在は塔跡の現位置に移されたようです。)塔1辺は約6m強と推定される。
金堂跡は塔跡西の一段上にあり、十三重石塔と礎石が数個残されています。
この石塔は「鶴の子の塔」と呼ばれているようで、鎌倉後期とされ、明治22年大宇陀町半坂に至る半坂道にあったものを、移設したと云う。
塔跡東の一段低い平坦地に、金堂跡北西の竹薮等から出土した多数の礎石が並べられている。礎石は、円柱座・地覆座を連結した形式のものが多く、かなり精巧な礎石です。
塔跡には石碑と役行者石像と石灯篭2期があり、石碑には「奉修(?)行両峯三百卅三度為現(?)當増益也」(寛政10年)と刻まれ、役行者台石には「大峯山上」(文政7年)とあり、これが栗原寺のものとすると、江戸後期にも何らかの修験の活動拠点であったことも考えられます。
寺跡は標高260m辺りのかなり急斜面地(北向斜面)にあり、大寺院があったとは思えない場所です。しかし三重塔跡真北に大門、すぐ南の檀上の畑に塔ノ上、さらに南に鐘ツキ堂の字を残し、塔跡北には大門の字があることから、北面していたと思われます。
また栗原寺は流失したことがある(時期不明)と伝えられ、その折当寺の仏像(「粟原流れ」といわれる)は近隣に移されたと云われる。桜井大願寺本尊、桜井来迎寺本尊木造地蔵菩薩立像、桜井外山(とび)報恩寺本尊、桜井興善寺毘沙門天像・薬師如来座像、石井寺薬師三尊石仏、遠くは信濃清水寺地蔵菩薩座像などが栗原寺旧仏とされる。いずれも国重文指定。
大和極楽寺三層堂1
  同        2
  同        3
  同        4
浄土宗仏現山極楽寺と称し、門・本堂・庫裏などがある形どうりの町中の寺院です。沿革などは未調査。山門右に三重塔風の鉄筋コンクリートと思われる三層堂があり相輪を載せている。但し正式の三重塔の設計とは思えないため塔婆参考として掲載。なおこの三層堂西には用途不明の細長い三層堂も並んで建立されています。(三層堂1の写真を参照)。境内は狭く、人家の中にあるので写真は前の道路から撮るしかないと思われます。

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