河 内 ・ 河 内 寺 跡 / 河 内 寺 廃 寺 跡

河内・河内寺跡/河内寺廃寺

河内寺跡塔跡は堂跡(金堂跡)と訂正

2020/02/03追加:
2005年第11次発掘調査で調査された遺構は塔跡とされたが、その後2014年(平成26年)に再調査され、塔跡ではありえず、5間×4間の堂(金堂)跡と判明する。

塔跡が堂跡で訂正された経緯は次の資料に詳しい。
○「国史跡河内寺廃寺跡第22次発掘調査概要」東大阪市教育委員会、2015 より
 今般の調査は史跡整備のためのもので、平成26年(2014)に実施される。
 実施目的は、これまで塔跡と考えてきた建物基壇の規模等を再検討するためである。
 今回の調査により 基壇上面で検出した柱列は以下のとおりである。
  河内寺跡金堂跡平面図(従前では塔跡)
北側柱列は、1列及び 1' 列である 。礎石は、後世に1列から1' 列へと 0.6m (2尺)動かされていたことを確認した。基壇北辺西側の断面観察より、北側柱礎石が1列から1'列へと動かされた時期は、1' 列の直下にある基壇斜面のにぶい黄褐色 (10YR4/3) 極細粒砂層から出士した遺物より、近世であることが分かった。
南側柱列は、5列及び5' 列である。平成22年度調査で検出したD5' 礎石は、5列から5' 列へと0.6m(2尺)動かされていた痕跡を確認した。
東側柱列はF列で、西側柱列はA列である 。それぞれ礎石は検出されなかった。
第11次発掘調査(2005年)で、塔の北西及び北東の四天柱の抜取穴と考えられていた箇所を再精査したが、それぞれ据付け又は抜取の掘り形、根石等明確な痕跡は確認できなかったため、この位置に柱はなかったことを確認した。
 調査トレンチ鳥観図:三次元写真測量による     調査トレンチ全景
◇遺構の検討
まず基壇規模について検討する。基壇規模は、北・東側柱筋から犬走りまでの距離をそれぞれ軸線で折り返し、東西13.9m、南北12.3mに復元できた。
次に基壇建物の復元について検討する。検討する建物は、創建時及び後世に再建された建物についてである。
 ・創建時の建物:
今回調査した基壇建物は、塔ではない。建物は桁行五間、梁行四間で、身舎は桁行三間に四面の庇が付き、柱間はすべて 1.95m(6.5尺)の等間の金堂である。すなわち、北側柱が1列、南側柱が5列、東側柱がF列、西側柱がA列となり、身舎の桁行はB〜E列の三間、梁行は2〜4列の二間となる。
 ・創建時基壇と礎石を再利用した建物:
現存する礎石は、東西の側柱礎石全てと身舎の礎石2石が抜かれ、南北の側柱礎石がそれぞれ 0.6m(2尺)動かされている。一方でF列では、55列から5' 列へ礎石が動かされた痕跡は確認できなかった。したがって、現存する礎石を利用した建物は、南北にB列.E列、東西に 1’列 .5’列の側柱をもつ正面三間、側面四間の建物であった可能性が指摘できる。
◇まとめ
今回の発掘調査で、これまで塔跡と考えられてきた建物基壇は金堂跡であったことが分かった。
これによりまず、調査トレンチ北方にあり、これまで金堂跡と考えられてきた基壇は講堂跡となる。
そして、未検出となった塔跡は、金堂と南面回廊の中間で、現在は住宅地となっている一角に遺されている可能性が高まった。
 新旧伽藍配置復元図
従来塔跡とされていた遺構は金堂跡とされ、金堂跡とされていた遺構は講堂跡とされる。つまり判定が再度覆される。
従って、従来回廊は金堂跡に取付くとされたが、講堂に取付くことになる。
なお、塔跡の遺構は現在まで発見されていない。

2015/01/29追加:
○「原始・時代の枚岡」河内歴史研究グループ、昭和41年(1966) より
この付近一帯の字は「河内寺(こんでら)」といい、古い時代には寺院があったことを伝える。
 「中河内郡誌」片岡英宗著、大正12年 では
  「村の西北に字河内寺(こんでら)あり。その地一畝余にして、土地自ら高く、付近の田畑より多くの古瓦破片発掘せらる。
  当寺は行基基にて巨刹なりしが、南北朝以降兵火に災せられ、遂に天正の頃ほい廃滅せしなりと云ふ。」
河内寺跡の古瓦は数点採取されるが、これらにより創建は飛鳥後期であり、鎌倉期まで存続したことが知られる。
○「枚方市史 第1巻 本編」枚方市役所、昭和42年(1967) より
河内國河内郡に所在し河内の名を冠したこの寺院はこの地に居住し河内郡大領であった河内直一族の氏寺と考えられる。
また河内直は百濟王朝の末裔と(「新撰姓氏録」)いわれる。この廃寺から採取された瓦の文様は百濟系のものなのかも知れない。

2020/01/03撮影:
史跡整備後の河内寺廃寺跡
 河内寺廃寺跡1     河内寺廃寺跡2:中央に金堂跡・講堂跡が並び、手前は東面回廊跡
 河内寺廃寺金堂跡1     河内寺廃寺金堂跡2
礎石は出土したもので、南北にそれぞれ1個ある礎石は後世に動かされたもの、基壇を囲む石と南石階はレプリカという。
 河内寺廃寺金堂跡礎石:金堂跡礎石が動かされたものであろう。     金堂復元イメージ
 河内寺廃寺講堂跡     河内寺廃寺東回廊跡     東回廊復元イメージ:廻廊の礎石や基壇はレプリカという。


従前の伽藍配置に関する調査の概要は次の通りである。
 (河内寺跡第11次発掘調査の概要 及び 「河内寺廃寺跡発掘調査報告書」2007年 の項)

河内寺跡第11次発掘調査の概要:2007年史蹟指定

2005年第11次発掘調査で塔跡が検出される。
2005/02/26:発掘調査現地説明会:概要

 河内河内寺廃寺跡塔跡概要図(下図拡大図):現地説明会資料より転載

基 壇:
 創建時の基壇は乱石積基壇で、一辺10.7m(36尺)高さは1,4mを測る。
 また奈良期には基壇を南に2.4m(8尺)拡張したと推測される。
礎 石:
 側柱礎は北側東西列で4個、西側南北列で2個(合計5個)
 抜取り穴は西側南北列で2個を検出。
 四天柱礎は西側2個の抜取穴を検出。
 側柱礎は、抜取り穴の調査から上面と上面とに別れ、
 2時期にわたる据え直しが行われたと推定される。
 心礎は第5層上面(基壇版築土層)から1.5m発掘するも、未確認。
 (さらに地下にあるものと推定される。)
塔初重柱間は等間隔で、柱間は1.95m(6.5尺)。
層 位:
 第1層;現代の地層
 第2層;飛鳥〜奈良期の瓦を主体にした瓦礫層、江戸期の盛土層
 第3層;鎌倉期後期以降の盛土層、焼土層。中世仏堂の焼失に伴う堆積。
  上面は礎石抜取り穴の遺構面、下面は礎石の掘形土坑の遺構面を形成
 第4層:塔廃絶の直後に堆積した炭化物層
 第5層;基壇の版築土層
階 段:
 中間間に南面する2段階分を検出。巾は柱間1間分と推定される。
 創建時のものと推定。
雨落溝:
 階段直下で凝灰岩製の雨落溝を発見。
創建時階段の西列に沿って凝灰岩の抜き跡も検出。

伽藍配置:
これまでの発掘調査の結果では、今回確認された塔跡が金堂跡、その北方遺跡が講堂跡と推定されてきたが、
今回の塔跡の確認により、従来金堂跡といわれた遺跡が塔跡、講堂跡(22m<73尺>×14.5m<48尺>)と推定された遺跡が金堂であり、講堂はさらにその北方にあるであろうと訂正された。四天王寺式伽藍配置であることは従来の見解と変らず。
2008/05/13追加:
 河内寺廃寺伽藍平面図:帝塚山大学考古学研究会配布資料

塔跡の状況

河内寺廃寺跡塔跡全景:写真上が南(現地説明会資料より転載)

2005/02/26撮影:
河内寺廃寺跡北側脇柱礎:左図拡大図
  同           2
  同           3
  同     西側礎石等
  同        礎石1
  同        礎石2
  同        礎石3
  同 四天柱礎抜取穴1
  同 四天柱礎抜取穴2
  同     塔跡階段1
  同     塔跡階段2
  同     塔跡階段3
  同       雨落溝
  同    創建時基壇1
  同    創建時基壇2
  同    創建時基壇3
  同      塔跡土層
  同      塔跡版築

2008/05/13追加:
 河内寺廃寺塔跡空撮:「河内寺廃寺跡」東大阪市教育委員会、平成19年

塔の創建は出土瓦から飛鳥期と推定される。平安期の差し替え瓦が若干観察される。
廃寺東方に客坊廃寺と称する浄土教の大寺が建立され、塔はその頃(11世紀)に再整備されたと考えられる。
塔はこの頃にも存続していたが、12世紀前後に焼失したと考えられる。
塔焼失後、この基壇には中世仏堂が築造・盛土がされ、結果として遺跡は保護され、今般良好な状態で出土した。
中央部には発掘跡が無い事から、心礎も地下式心礎として残されているものと推測される。

出 土 瓦

大量の瓦の出土を見る。
少数の飛鳥期様式の瓦と大量の白鳳期様式の瓦の出土があり、この瓦の組み合わせが塔創建時の瓦と推定される。
鎌倉期の中世仏堂に使用された瓦も一定量出土。
平安中期の軒平瓦の顎部に朱が遺存することから、この頃塔の再整備が行われたと推定されるという。
2005/02/26撮影:
 河内寺廃寺跡出土瓦(飛鳥)
 河内寺廃寺跡出土瓦(白鳳)1      河内寺廃寺跡出土瓦(白鳳)2      河内寺廃寺跡出土瓦(白鳳)3
 河内寺廃寺跡出土瓦(白鳳・奈良期)

「河内寺廃寺跡発掘調査報告書」東大阪市教育委員会、平成19年(2007) より
2008/05/13追加:
 昭和40年初頭塔跡:南から撮影
 河内寺廃寺金堂北基壇   河内寺廃寺金堂南基壇   河内寺廃寺金堂西基壇
  金堂基壇化粧は乱石積基壇、基壇規模は東西23.1m(77尺)、南北15.0m(50尺)。
 河内寺廃寺回廊跡1:東面回廊、南東から撮影    河内寺廃寺回廊跡2:東面回廊、北から撮影
  東面回廊の大部分と南面回廊の一部を検出、梁行は3.0m(10尺)、単廊

この廃寺は河内郡大領であった河内直(連)であった河内氏の氏寺と考えられる。
河内氏は百済からの渡来系氏族と考えられ、日本書紀や日本三代実録にその活動が記録されていると云う。

2020/02/03追加:
 ・はしがき
平成16・17年度(2004-05)の調査では、きわめて残りの良い塔跡が見つかる。
調査に至る経緯
この地にも宅地化の波が押し寄せ、遺構の破壊が憂慮され、発掘調査が実施される。
昭和42年(1967)第1次発掘調査、昭和47年(1972)第2次発掘調査、昭和48年(1973)第3次発掘調査

さらに、金堂跡とされていた南基壇に個人住宅の建築が申請され、平成16年(2004)に第11次の発掘調査が行われる。
この発掘で、当該地から良好な塔跡が発掘され、地権者との話し合いの結果、当該地は公有化される。
その結果、発掘された3基壇は次のように評価される。
第1次発掘調査 第2次発掘調査 第11次発掘調査
北基壇 講堂 -- 講堂  
中央基壇 金堂 講堂 金堂
南基壇 金堂  

塔跡の土壇、中央基壇、北基壇の三つが南北一直線に並ぶ特徴から、四天王寺式伽藍配置をとるものと推定された。
 塔基壇平面図     塔基壇・礎石実測図     金堂跡平面図


2006年以前作成:2020/02/03更新:ホームページ日本の塔婆