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『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』を読んで | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
塩田明彦 著<イースト・プレス> | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
九年前に『カナリア』の拙日誌に対して「その指摘を読んだ時には少々込み上げるものがありました」とのコメントを寄せてくださった塩田監督の講義を採録した本書は、読むなり、その講義を実際に受けて、取り上げられた場面を観てみたくて仕方のなくなる、非常に刺激的で共感するところの多い内容だった。 ちらっと読み始めた冒頭、溝口の“一線を越える”表現について書いてある部分しか読んでいない段階で早くも二十年前に綴った拙日誌『エンジェル・アット・マイ・テーブル』の中段、「具体的には、エピソードの配置構成や個々の映像、そのいずれにも作り手の明確な表現意図が窺われ、極めて論理的で必然性があるからである。 例えば、・・・」以下の部分を思い出し、十四年前にチネチッタ高知の“お茶屋さん”と『肉弾』について語り合ったときも、そういった観点から意見交換していたことを思い出した。 その「動線」から始まって「顔」「視線と表情」「動き」「古典ハリウッド映画」「音楽」「ジョン・カサヴェテスと神代辰巳」と題された7回の講義のなかでも特に面白かったのは、第5回の「古典ハリウッド映画」で語られた省略の生む豊かさの話と、第6回「音楽」だった。 「今や失われたハリウッド映画の話法…物語はすべて「省略」と「行動」によって語られていく…何を思ったかは省略して、何をしたかを徹底的に描いていく。そうやってお話をどんどん前に転がしていって、上映時間がほぼ90分以内に収まるように映画ができている。…それでも、お話をそんなふうに効率よく語って、その分、人物描写は浅く表面的な感じにしかならないかっていうと、ぜんぜんそんなことはない、というのが当時の話法のすごさ…いわゆる「リアルな芝居」が台頭してきて、それまでのシンプルな芝居が失われていきます。」(P157)、「今僕らが映画で描こうとしているのは、単に現実に引きずられているだけの無駄な描写ではないのか。本当は何かを大胆に省略し、あえて描かないことによってより多くのことが描けるんだっていう、映画の一番重要な話法を僕らが忘れ去っているだけではないのか? 演技も本当は引き算が必要なのに、足し算することばかり考えてるんじゃないか?」(P174)といったところを読みながら、十八年前に上梓した拙著において、“時間芸術としての映画”に言及した箇所のことを想起した。 拙著には「現実世界は、かたときもとどまることなく、一定のリズムで時を刻み続けます。その中で回すカメラによって、どのように時間を切り取り、繋ぎ、構成していくのかが問われるというところが、時間芸術と言われるゆえんなのだと思います。 実際、現実の時間は、常に一定のリズムで流れていきますが、その中で生きている人間にとっては、時間の流れは一定ではありません。いつも緩急と起伏に富んだものとして感じ取られています。退屈な時には遅く、夢中になっているときには瞬く間に過ぎていきます。 映画とは、そういう時間の流れを目に見える形で再構成した表現なのです。そして、その時間の流れの再構成の仕方の中にこそ、作り手の表現者としての真骨頂があるのだと思います。あるカットをどれくらいの長さにするのか、あるシーンをいくつのカットに割るのか、そして、それらをどのように編集するのか、その具合によって同じラッシュフィルムからでも全く別物と言えるくらいに異なった映画作品が生まれます。…ですから、映画作品は、それぞれの作品に固有の時間のリズムを持っているわけで、観客がまずそれに身を委ねることを選ぶところから、作品とのコミュニケイションが始まるのです。」(拙著『高知の自主上映から〜「映画と話す」回路を求めて〜』P22)と記したのだが、そこで僕が“リズム”として言葉足らずに触れたものに対する感覚を塩田監督が第6回「音楽」のところで取り上げてくれているような気がして、無性に嬉しくなる感じを味わった。 「どの1分を切り取るかという選択、その意志によって、それは「映像」じゃなくて、「映画」になるんです。」(P117)というのは第4回「動き」で語られた至言だが、「ショットとは、なによりもまず被写体の発見であって、その動きの発見です。その動きを切り取る作り手の意志が、スクリーン上にひとつの出来事を描き出します。」(P121)ということこそが、映画のようには時間を自在には切り取れない演劇や被写体の発見の叶わない文学、動きを発見することのできない絵画にはない魅力を映画が与えてくれるのだと改めて思った。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
by ヤマ '14. 4.16. イースト・プレス単行本 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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