『エンジェル・アット・マイ・テーブル』(An Angel At My Table)
監督 ジェーン・カンピオン


 外見であれ、内面であれ、少し変わったところのある感受性の強い子供が非常に内気で自信を持てないままに成長することは、さして珍しいことではない。だが、精神病院に入れられたり、ロボトミー手術をされかけたりすることにも異議の申立てができないほどの自信のなさというのはどこからくるのだろう。最初の端のエピソードが、他人(先生)に対してジャネットが強い意思を見せる唯一の場面であるのは興味深い。自信のなさに生来などということはあり得ない。彼女だってかつては意地を張ったこともあったのである。しかし、この時は不幸にも、確証もなく疑われることの不当さを主張できる事実がジャネットにはなく、疑われた通りの事実しかなかった。誰にも覚えのある苦い経験である。(殊にこの場合、彼女は島へ渡ってきた転校生である。既に数多くの共有体験を持つ既存の集団のなかに独りポンと放り込まれた時に感じるプレッシャーとハンディは、仲間入りを承認してもらうための貢ぎ物の提供とか道化によるサーヴィスとかを促さずにはおかない。

 このように、自分の憤りそのものは必ずしも不当なものではないのだが、行ないがその正当さを主張できない立場に自分を追いやってしまっているために、正当な憤りでも抑圧せざるを得ない悔しさというものを子供の時分には何度となく味わったものである。そういう悔しさを招いてしまうことは、自分に対する信頼感すなわち自信を損なうものであるが、人はその一方で、他人に認められることで自信の獲得をも成し遂げていく。結局、ジャネットの自信のなさは、傷つく自信を補い得るだけの認められ方を他者から得られなかったことからきているのではなかろうか。清潔さなどというものは、ジャネットならずとも子供は元来持ち合わせていないのが普通なのだが、彼女の場合、それだけでなく口下手で内向的で非活動的でモジャ頭と表面的にはなかなか認められにくい要素を持ち過ぎていたとも言える。

 それにしても、他人の目には精神の異常と映ってしまうほどに繊細で傷つきやすい魂などというのは、僕などには想像もつかない。そのか弱さでは人間としての生存本能すら支え切れないおそれがあり、実際ジャネットはロボトミー手術を施されかけた。そのことに震えるほどの不安と恐怖に慄きながらも、彼女はあくまで受動的である。あの時、妹が出版をしてくれてなかったら、あるいはそれが賞を獲得していなかったら、彼女はどうなっていたのか。そのことだけではない。出版や作家としての道のり、精神病院からの入退院、人生のどの場面でも彼女の基本的な態度は常にアリストテレス的なパトス[受苦]に支えられている。そのために失ったものや失いかけたものは数え切れないが、同時にそのことによってこそ獲得した掛け替えのないものがあって、結果的にそれが彼女のテーブルに天使を招き、彼女を救ったのである。この作品は、そのことを実に明晰に語っていて、きちんと伝えてきてくれる。

 しかし、僕には認識できても共感としては伝わってこない。自分の作為を放棄して人生を天使に預けてしまうような生き方は、僕が思春期に自らの内から排除しようと努めてきたものなのだから。同時にまた、この作品を観ていると、認識できても共感できないことによって、いかに自分が受動・受苦的なパトスに準拠するのではなく、能動・支配的なロゴスに拠って立つようになっているのか、言わば、強者の論理に則っているのかということに気づかされる。その辺りが、よく出来た作品を目のあたりにしながら、僕が感動や共感といったカタルシスを得るのではなく、居住いが悪く落ち着かなかった最大の理由ではないかという気がする。逆に言えば、それだけ見事にジャネットのパトスを語っていたということでもある。

 具体的には、エピソードの配置構成や個々の映像、そのいずれにも作り手の明確な表現意図が窺われ、極めて論理的で必然性があるからである。
 例えば、ラストで地元新聞記者が取材にジャネットを訪ねた時、その場所が急斜面で足が滑ってなかなかインタヴューができない場所でなければならないのは、安易な接近を試みても容易には近づけない高みに彼女の魂があるからであり、しかも、かつての無関心が彼女の苦悩の時を長引かせたのとは対照的に、変貌した態度を見せる周囲の軽薄さを滑らせる足の滑稽さによって同時に表現したかったからである。しかし、当の彼女は近づかれることを拒んだりしない。(ジャネットの穏やかではにかみを含んだ笑顔がとても良い。
 また、歯が黄色く薄汚れ、次第に黒くぼろぼろになっていく時、そこには傷つく魂が投影されているから強調されるのである。そこには、フォトジェニックな面での減退効果などものともしない作り手の毅然とした意志が窺われる。(もっとも、生理的感覚に対する感性のタフさは女性監督ならではのものかもしれないが…。実際、女性客の多くは殆ど気にならなかったようである。
 更には、幼児の足のアップと拙い歩みで始まったジャネットの物語だからこそ、彼女が天使と出会い、ある意味で脱皮を遂げたことの表現は、靴を脱ぎ、靴を履き替え踊り出す映像によって語られなければならないのである。(その観点からは、靴を脱ぐ時の足のクローズ・アップはあったが、脱いだ足そのものを映さなかったのが画龍点睛を欠いた気もする。
 そして、彼女が再び精神病院を訪れる場面、これは作品のなかでは彼女が自分の意志と選択によってとる唯一の行動でなければならない。それは、この行動がそれまでの彼女がおずおずとだが確実に自信を獲得してきたことの帰結であり、すなわち彼女のテーブルに天使が訪れたことを語るものとして強調されなければならないからであり、そのお蔭でかつて自分に下された診断が誤診であったことを知るからである。

 このように優れた作品からは、作り手のきちんと対象化された明確な表現意図が映像を通して伝わってくる。しかし、この作品からは、そういう理屈に片寄ったお固い芸術映画という印象は決して受けない。それは対象化と同時に、この映画がカンピオン監督のジャネットに対する暖かい感情移入に満ちているからである。覚め過ぎず、溺れ込まない両者のバランスの絶妙さは全く見事というしかない。そうであるからこそ、共感できない者に対しても深い印象を残すものを伝えることができるのである。

 それにしても、人間にとって認めてもらいたい異性に認められるという体験のもたらす生命力の何と偉大なことだろう。スペインで彼女が恋に落ちた相手はたいした男とは思えない人物であったのに、それが彼女にとっていかに重要なことであったのかは、自らの魂の危機さえ招きながらも守り続けてきた彼女の詩の心を託して連日打ち続けていたタイプライターの音を何週間もの間すっかり止めてしまったことからも窺える。しかし、それ以上に、自分の意志で精神病院を訪ねたのがスペインからの帰還後であったことが最も雄弁にそのことを語っている。素晴らしい恋に出会ったわけではなくとも、恋に出会うということはこんなにも素晴らしいものなのである。そして、恋とは人をかくも変え得るのである。もう聞き飽き、見飽きたこんなことさえも、甘い夢物語としてでなく、もっともらしい人生訓としてでもなく、さりげなく説得力に満ちた語り口で描かれると思いがけなく新鮮で納得させられてしまう。この作品が万人からの支持を得て、なおかつ厳しい眼を持つ批評家たちを感嘆させたのも当然のことと言えよう。


推薦テクスト:「たどぴょんのおすすめ映画ー♪」より
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/4787/f/g622.html
by ヤマ

'92. 1.28. 県民文化ホール・グリーン



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