『月光の囁き』['99]
監督 塩田明彦


 七年前に'05年度マイベストテンに選出したカナリアの拙日誌に関して、今はなくなっている公式サイトの掲示板にコメントを記してくれていた塩田監督の本作は、'02年に『害虫』を観たときから気になっていた作品だが、基本的にスクリーンで観賞できる作品を優先している僕が観る機会を得ていなかったものだ。

 思っていた以上の出来栄えで、少々驚いた。五年前に読んだ、SM青春小説などと評されている『私の奴隷になりなさい』(サタミシュウ著)などよりも、ずっとスリリングに青春というものが捉えられていて、その瑞々しさと危うさに少なからず狼狽えた。

 普通の恋に憧れ、普通の恋がしたかったのに、と植松先輩(草野康太)に助けを請うばかりか、遂には拓也に「死んでくれ」とまで言い、本気かと訊ねられて頷くまでに苦しみ、引き裂かれていた紗月(つぐみ)の姿に妙に現実感があって、痛切を覚えた。Mを引き出されるのであれ、Sを引き出されるのであれ、感受性の強い女性の感応力というのは、自身のアイデンティティ・クライシスを引き寄せるほどに強いことを改めて思った。年の端の問題でも性的成熟度の問題でもない“女性力”というもののような気がする。紗月のように硬派な剣道部員に敢えて置いてあるがゆえに、そのことが余計に際立ったように思うし、十代半ばという青々とした瑞々しさが凄みを倍加していたような気がする。

 また、そのあたりの純度では、不器用さを露わにしつつも自身の倒錯性には些かのブレも迷いもなかった拓也も負けておらず、紗月が「あんたは何もかも私の言いなりになっているようで、失ってるのは私ばかりじゃないの」と拓也に当たるのも無理ないように感じられた。普通の恋愛関係ではないとしか思えない倒錯した関係しか結べなくなるよう強迫してきているのは専ら拓也だと紗月は考えているのだが、自分の変貌を自身で目の当たりにするなかで、自分のなかに眠っているものを引き出されているとの自覚を受容するに至るには、相当の過程が必要であることがよく描き出されていたように思う。

 序盤での二人の交際の始まりにおける爽やかで微笑ましい清々しさが実に効いていて、中盤での禍々しさを突き抜けて最後に再びある種の清々しさに帰着する余韻を与え得たのは、演じた二人のキャラクターもあろうが、前半の演出の挙げていた効果が大きいように思った。

 さりとて二人が死の淵を覗いたからといって易々と今後が保証されているわけでは毛頭なく、ある意味、困難な道の鳥羽口に立っただけなのだ。主題歌として流れていたスピッツの『運命の人』の歌詞になぞらえて言うならば、果たして二人で神様を見つけられるのだろうかとの問いへの答えが出たわけではない。普通の恋愛だろうが、風変わりな恋愛だろうが、そこのところに何らの違いはなく、鳥羽口に立つまでの受容の難度が高ければ高いほど、そこに立ち得た共有によって錯覚をしてしまうリスクは、倒錯的な性関係のほうがより強いとしたものだ。しかしそこには、その風変わりさゆえに並々ならぬ掛け替えのなさも宿りやすいというアドバンテージがあって、一概には断じられない微妙な綾があるような気がする。

 ラストシーンは、チラシの絵柄にもなっていた土手に並んで腰を下ろした二人の姿だったのだが、骨折して松葉杖を使わなければ歩けない拓也の病室を訪ねた紗月がベッドの傍らのパイプ椅子に腰掛けていることに目覚めて気づいた拓也が「来てくれたんか」と喜んだことに対して、「喉が渇いた、コーラがええ」と階下の自販機まで缶コーラを買いに行かせ、戻った彼に「やっぱジンジャエールがええ」と再び買いに行かせ、拓也が買って戻ると病室から姿が消えていて、ジンジャーを持ったまま表の土手まで追って出たのだった。草叢のうえに腰を下ろしているのを見つけて缶を差し出しても礼もなく「要らんわ」と素っ気ない彼女の横に並んで腰を下ろし、黙って色づき始める空に目をやろうとすると、「虫に食われたわ」と腕を差し出す紗月。その腕を黙って掻いてやると「ギブスが取れたら、海へでも行こうか。丸ケン(関野吉記)も誘って。」と紗月が囁いていた。まだ月光は射してない夕暮れ時の“囁き”だったのだけれども、学生時分に読んだ遠藤周作の短編小説『月光のドミナ』の囁きかと思った。
by ヤマ

'13. 2.24. ちゃんねるNeco録画



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>