『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』
(The Lord Of The Rings:The Return Of The King)
監督 ピーター・ジャクソン


 壮大で圧倒的な画面とキャラクターの際立ちによって有無を言わせない力に満ちた造形のほどには、シリーズ三部作に一貫して瞠目させられるほかない。映画としては、見事な出来栄えだ。だが、前作を観たとき一作目を上回っていると思いながらも、一作目同様「僕が気持ちの上で乗っていけなかったのは何故なのか、未だによく解らないでいる」と日誌に綴った理由が少し分かってきた。こういう戦闘大作に対して申し立てても詮無いことなのだが、あまりにも派手派手しく死屍累々となっていく物語自体が僕の気に沿わないのかもしれない。名のある者の命と名もなき者の命の軽重の違いについて、それを当然のコラテラル・ダメージ(目的のための犠牲)とする無頓着さが前提にあって、あまつさえ結局のところそれが冥王サウロンを倒し、ゴンドールの正統な王位継承者たるアラゴルン(ヴィゴ・モーテンセン)の帰還による人間治世の時代を迎えるための覇権争いでしかなかった事の顛末に至ってしまえば、尚のこと単なる娯楽活劇とはいえ、何だかなぁという印象が残ってしまう。どうみても悪い役回りを与えられていたゴンドールの執政官に、敢えて戦いを放棄して生き延びよという叫びをあげさせたうえでガンダロフ(イアン・マッケラン)に始末させることとか、ローハンのセオデン王(バーナード・ヒル)やエオウィン姫(ミランダ・オットー)の半ば自己陶酔的な専断で死を目指した玉砕攻撃にかけるような指揮官の姿を美化するのは、結果的にもたらされる勝利が約束事となっている物語ではあっても、あまり気持ちのいいものではない。死屍累々の戦場が描かれても『スターリングラード』などにはそういう犠牲を肯定するまなざしはなかったように思う。

 また、『二つの塔』で登場したスメアゴル[ゴラム(アンディ・サーキス)]の複雑なキャラクターがフロド(イライジャ・ウッド)とサム(ショーン・アスティン)の旅の試練において、三作目では、より深い意味合いを示した展開になるのかと思っていたのに、単純に悪の側に偏ることでサムの引き立て役に成り下がっていたのも不満だった。だが、第二作で長らく指輪を保持することでフロドといえども蝕まれつつあったことを踏まえた顛末を準備していたことには感心するとともに、サムの言葉に留まらぬフロドの負った重荷の大きさが示されていて納得がいく。そういう面からも最終的に最もヒロイックに描かれたのが、旅の仲間のなかでは名もなき側により近いところにいるサムであったのは嬉しいところで、長大な三部作の完結を示すラストシーンに映し出される顔がサムだったのも好感が持てる。

 それにしても、滅びの谷に指輪を葬ることというのは、元々はサウロンを倒す手段ではなかったような気がするのだが、僕の第一作の記憶は既に遠い。冥王に絶対的な力を与えないようにするための手立てであって、サウロンに替わってアラゴルンが君臨統治するための手段ではなかったように思うのだが、どうなんだろう。フロドの負った使命として、そこのところには大きな意味の違いがあるように思う。原作ではどういう意味が与えられ、どういう結末を迎えていたのか気になるところだ。




参照テクスト掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録


推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0402-2lotr.html
推薦テクスト:「多足の思考回路」より
http://www8.ocn.ne.jp/~medaka/lordrings3.html
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2004/2004_02_23.html
by ヤマ

'04. 4.18. 松竹ピカデリー2



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