『大菩薩峠』['57]
『大菩薩峠 第二部』['58]
『大菩薩峠 完結篇』['59]
監督 内田吐夢


 大菩薩峠の名も机竜之助の名も何故か十代の時分から知っているが、読んだことも観たこともないままに五十路を迎え、僕の生年の前年に作られた映画を今にして初めて観るに至った。

 勧善懲悪を旨とする時代劇において、かように複雑な人物像が造形されているとは知らず、些か驚いた。原作小説は、大正2年から昭和16年にかけて連載されて未完のまま終えた小説らしいが、その中里介山作の長編時代小説の連載が途絶えた翌年に刊行されたカミュの『異邦人』のような殺人事件がいきなり起こる冒頭から始まり、その巡る因果が多くの者の人生を翻弄しながら絡み合っていく物語の第一部をなす映画化作品だった。

 竜之助(片岡千恵蔵)のみならず、お浜(長谷川裕見子)やお松(丘さとみ)の叔母にしても、何やら得体の知れない感じがあっていい。人間というものの計り知れなさを窺わせつつ、妙に哲学的に深入りすることのない程の良さに、作品自体の何やら得体の知れない感じが漂ってくる趣があったような気がする。

 そして、曲者のようでいて最も筋の通っていた裏宿七兵衛(月形龍之介)や立派な剣豪 島田虎之助(大河内傳次郎)、善良なる与八(岸井明)の人物造形を上回って、愚かしい生き方しかできないでいる人物たちのほうが気になるように描かれていたように思う。

 そのうえで、器量の良さゆえに神尾主膳(山形勲)に目を付けられたり、遊廓に売られたりするお松の生きにくさと武士であるがゆえの生きにくさが、与八のようにはあれない竜之助や宇津木兄弟(波島進、中村錦之助)の姿として対照されていたようにも思う。それは、序盤で竜之助が操問題についてお浜に詰問していた姿に、女も武士もともに箍を嵌められ課せられている同種のものを感じ取っている様子が、その執着ぶりとして表れていたように感じられたからだ。

 竜之助は、己が武士の操への抗いとそれを捨て切れないでもいる自身の甘さを突き付けられて苛立っているような気がした。そして、お浜の操を奪い、捨てさせることをもって自身の迷いの払拭に繋げようとした風情があるように感じた。二人が腐れ縁的な夫婦暮らしを始め、息子までもうけた挙句に討ち合うに至る縁を結んだのもそれゆえだったのではなかろうか。


 『大菩薩峠 第二部』['58]では、第一部に描き出されたほどの“人間の得体の知れなさ”がかなり後退し、登場人物の性格付けや人物造形がシンプルになっていたが、竜之介(片岡千恵蔵)の虚無、神尾主膳(山形勲)の下衆ぶりは、ますます冴え渡る。そして、「心の窓とも云われる目が見えなくなり、心は闇に沈んだままだ」などと嘯く竜之介のモテようは尋常ではなく、次から次へと女の庇護を得られるところが凄い。神尾主膳の愛妾お絹(浦里はるみ)が寝所に忍んでくるのも、シングルマザーのお徳(木暮実千代)が長逗留を促すのも、羨ましい限りだったが、艶っぽさでは、お豊(長谷川裕見子)が際立つ感じだった。

 それにしても、こういう作品を観ていると、かつての日本人の価値基準の持っている“非論理性と非経済性”というものが浮き彫りになってくるような気がする。善悪や正邪といった論理は後付の建前としての意味ほどのものでしかなく、建前を要しない人々においては何らの考慮の代物ではない。大事なのは、ひとえに非論理的な“美学”としての義理人情や惚れた晴れた、或いは行き掛かりや縁だったのだということがよくわかる。

 そして、終盤の温泉場での千恵蔵の槍による殺陣が、なかなか見事だった。わけもなく湯樋が落ちて湯煙の上がるさまが絵柄的にも効いていたように思う。


 『大菩薩峠 完結篇』['59]では、第二部を観て感じた「かつての日本人の価値基準」の部分は、完結篇において益々顕著になってきたような気がする。お松(丘さとみ)が再び屋敷奉公に上がることができたりすることや、駒井能登守(東千代之介)と破牢者との顛末なども、今ふうの論理性からすれば、なんだか話のための話のような無茶苦茶さがあるような気がするけれども、あながちそうとも言い切れないのだろうとの納得感のあるところが凄いと思った。

 それにしても“悪女大姉”などという戒名には驚いた。実に直截で凄まじい。お豊でそれなら竜之介は何となるのだろう。“悪党大兄”ではとても足りない気がする。例によってモテモテの机竜之助(片岡千恵蔵)は、本作でもお銀様(喜多川千鶴)にベタ惚れされているわけだが、公然と金山支配の能登守を襲撃して取り押さえられても、神尾主膳(山形勲)の悪意のようなものさえ働かなければ、兵馬(中村錦之助)が奸策に嵌められて入牢したような憂き目にさえ会わないのが何とも面妖だったりした。

 第二部の温泉宿での槍の立ち回りのときに上がった湯気以上に、古屋敷が燃え上がっていることを示すオレンジ色の煙を背景にして繰り広げられる大立ち回りが目を惹いた。思えば第一作でも、最後は爆薬の炸裂する土煙が上がるなかでの立ち回りだったし、机竜之助ではなく、煙竜之介だなどと思った。

 完結篇に至っても竜之介をシリアルキラーであり続けさせたのは立派だったが、最後の最後に、子供の名を呼びながら地獄(だと思う)へ堕ちていく顛末にするのは少々腰砕けというか、易きに流れたような気がしなくもなかったが、三部を通観してみると、やはりなかなかの作品だったように思う。




参照テクストウィキペディアより「大菩薩峠 (小説)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%8F%A9%E8%96%A9%E5%B3%A0_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
by ヤマ

'12. 8.12. あたご劇場
'12.10. 8. あたご劇場
'12.10.19. あたご劇場



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