『許されざる者』(Unforgiven)['93]
監督 クリント・イーストウッド


 ちょうど二十年前の公開時に観たとき、Aクラスの作品ではあることは論を待たないものの、今一つ釈然としないというか腑に落ちてこず、感銘を受けるには至らないで、割り切れないものが残った覚えのある作品だ。

 明治期の北海道を舞台に、今頃になってリメイクされた邦画の予告編を観て、何だか忘れていた宿題を思い出したような気になって再見してみた。だが、不惑どころか既に天命を知るはずの歳になっていても、相変わらず手ごわい作品だったように思う。

 圧倒的な美しさで広がる自然を捉えつつ少々緩慢にも思えるドラマ展開のなかで登場する人間のほうは、死んだ妻について語るビル・マニー(クリント・イーストウッド)の言葉から偲ばれるクローディア以外は、皆人が“真・善・美”から程遠い者ばかりという物語だ。

 神妙に「殺人ほど悪辣な所業はない、人の過去も未来も奪ってしまう」などと述懐するマニーが誰よりも数多くの人を殺して生き残り、それによって得た大金で西海岸に渡り、成功を収めたらしいとの顛末で締め括られる物語に対する思いには、二十年前とは若干異なるものが生じてきた。

 本作で描かれているのは、少なくとも暴力否定でも止む無き肯定でもないことだけは間違いないような気がする。再見してみて今回ひどく気に掛かってきたのは、賞金稼ぎのイングリッシュ・ボブ(リチャード・ハリス)から強権的な保安官リトル・ビル(ジーン・ハックマン)に乗り換えて聞書きを進めていたノンフィクションライターのW.W.ボーチャンプ(ソウル・ルビネック)の存在だった。

 伝記と言えば事実が語られていて、伝説と言うとかなり脚色が加えられているように、何故か感じるものだが、両者に明確な区分がないのは自明のことだ。いくら当事者に取材したとしても当人が事実そのままを語るとは限らず、ある意味、感情や思惑に左右され脚色を加えずにはいられないはずの体験者の話と、冷静に分析を加えて資料に当たる未体験者の話とでは、どちらがより真実に近いのかは少なくとも即断できないことだ。しかも厄介なのは、体験者のなかにも冷静で客観的な立ち位置を保つ者もいれば、非当事者にも感情的で思い込みの強い者がいて、当事者か第三者かで立ち位置が保証されるものではないから、誰の話が最も真実に近いのか、なかなかわかりにくいことだ。

 人殺しの経験はないのに五人殺したなどと吹聴していたキッド(ジェームズ・ウールヴェット)が、叔父のピートから聞いていたマニーの逸話に脚色があるのかないのかは、ネッド(モーガン・フリーマン)という証人を得て、多少は担保されたりするものの、それ以上のものではない。イングリッシュ・ボブの語る武勇伝がいかに脚色に満ちていたかを暴き立てたリトル・ビルの証言のほうが事実らしいということは、ボブがその場にいての話だから、かなり信憑性があるものの、保安官のビルと収監者のボブという立場のなかでのことでしかないとも言える。また、ボブから自分に乗り換えて聞書きを始めたボーチャンプに向かって、ボブ以上に嬉々として語っていたリトル・ビルの話に騙りはないのかと言えば、疑わしいことこの上ない。要は、何が真実なのかは容易には判らないということだ。

 そのように考えると、このビル・マニーの物語というのは、彼の西海岸での成功の噂を娘の墓参りに来た母親が耳にしたという部分も含め、ボーチャンプが主にキッドから聞き取って残した物語なのではないだろうかという気がしてきた。そして、オープニングでもエンディングでも語られたクローディアのマニーとの結婚について、その理由が彼女の母親には分らないままだったと強調されていたように、人の営みの是非や理由など判りっこないものなのだ。関わりのないところから無責任に善悪を問うのではなく、殺すにしても生かすにしても、人を人として扱うことのほうが大事だから、マニーは「ネッドの遺体を(晒しものにせずに)きちんと葬れ、娼婦たちを切り刻んだりするな」と言い残して去っていくのだろう。

 保安官のリトル・ビルがマニーから「貴様が一番の悪党だ」との引導を渡されていた理由もそこにあって、横暴で暴力的だからとか、バッジを笠に着ているからだとかではなく、自分以外の人を人とも思わぬ傲慢さに対してのものだったような気がする。

by ヤマ

'13. 9.11. DVD観賞



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