美術館冬の定期上映会“聖なる映画作家カール・ドライヤー”

①『裁かるるジャンヌ』(La Passion de Jeanne d'Arc) ['27]
②『吸血鬼』(Vampyr) ['30-'31]
③『怒りの日』(Vredens Dag) ['43]
④『奇跡』(Ordet) ['54]
⑤『ゲアトルーズ』(Gertrud) ['64]

 東京では昨秋、14本の長編と7本の短編で副題も同じ「神のみわざがなした、映画の奇跡」とする回顧上映を国立近代美術館フィルムセンターや有楽町朝日ホール、ユーロスペースで行っていたが、地方巡回として提供してもらえたのはこの5本で総てだったらしい。きっと配給権といったことでの契約上の制約があるのだろう。それにしても一大快挙だ。僕は二十四年前に『奇跡』を観ているだけで、他には観たことがなかったのだけれど、地方都市に住んでいて、何作もスクリーン鑑賞できる機会が得られるとは殆ど思っていなかった。
 一日三本の上映で前売り八百円・当日千円の割安感は、ある意味でこういう企画上映の地方開催での限界を示してはいるものの、それゆえにこそ公共上映としての貢献度も高いというべきだ。しかも、無声映画の『裁かるるジャンヌ』には、東京での上映と同じピアニスト長谷川慶岳の生演奏が付いていて尚且つこの料金なのだ。


*一日目('04. 2. 7.)

 今回、僕が観た順番は③⑤①②④だった。一日目に観た『怒りの日』『ゲアトルーズ』は、前者がヨーロッパの中・近世に吹き荒れた魔女狩りを時代背景とした1623年のノルウェーの村を舞台に、歳の頃がさほど変わらない義母と息子の恋愛を描いた作品で、後者が現代劇としてのアッパークラスの女性の恋愛遍歴に材を得た作品だ。いずれも通俗的な恋愛劇となってもおかしくない物語なのに、これこそ高尚と呼ぶにふさわしい格調が宿っていて、思わず威儀を正すというか、身構えさせられる。そして、かつて『奇跡』を観た記憶がそうさせるのか、神の存在や信仰を問う視線が潜んでいるところが通底していることに気づかされた。

 どちらの作品にも映像としての教会や鐘の姿が映らないままに鐘の音が鳴り渡るシーンがあるのだ。前者では、特に穏やかならぬ風の音が併せて長々と続いて印象深く、禁断を冒す牧師アプサロンの若き後妻アンネと彼の息子マーチンの恋情が捉えられ、後者では、ゲアトルーズが夫である弁護士の家を出る場面と老いてのち訪ねてきてくれた、結局一度も恋愛関係にはならなかった男友達との再会後の映画のエンディングにおいて鐘が鳴る。さらに後者では、ゲアトルーズとその年下の不倫相手たる新進作曲家との間で「神を信じている?」「人間を超えるものの存在は信じている。この世には不思議なことが多すぎるから。」といった会話も交わされる。二つの作品にそういう形で鐘の音が共通していたことから、ほぼ四半世紀前に観た『奇跡』のクライマックスでも鐘の音が鳴り渡っていたことを思い出した気になり、翌日の『裁かるるジャンヌ』は無声映画だから別にして、『吸血鬼』に鐘の音が鳴り渡るか否かが俄に気になり始めた。『ゲアトルーズ』でさえ鳴るのだから、鳴らないはずがないという気がしたのだった。

 その一方で、宗教的な映画作家というイメージに加えて、女性を見つめる眼差しに意味深長なるもののある映画作家だとの印象をこの二作品を観て得た。そのあたりは、遺作となった『ゲアトルーズ』において特に顕著な気がするのだが、『怒りの日』でも魔女狩りにおける魔女たる所以をアンネの人物造形に置くならば、魔女とは即ち、教会的父権文化の桎梏に収まらない近代的自我に目覚め獲得をした女性のことで、そういう女性たちが魔女として狩られたという女性観をドライヤーが持っていたのではないかと感じさせる部分がある。アンネが率直に性を求め語り得る女性である姿にもその一端が窺えるような気がした。

 そもそも西洋における中世と近代での人々の精神文化の最大の変化は“自我の獲得”にあるのではないかという思いが兼ねてから僕にはあるのだが、人間たる自身の尊重や優位が神の地位の相対的な低下をもたらすのは半ば当然のことで、その流れのなかにあって、神の愛や権威よりも人間同士の愛や性を重んじる文化革命が果たされてきたことが、現代に至る大きな潮流だと考えている。人間を神の子として位置づけたなかで切り結ぶ関係を以て人間関係の基盤とするような人間観と、人間を自立した男女間の自由恋愛の結果としての結婚に基づく愛の結実と位置づけて人間関係の基盤にしようとするような人間観には大きな隔たりがあり、たとえ同じ“愛”という言葉を冠しても、そこには大きな違いがあるような気がする。その違いの原初的なものとは即ち“神の愛”の観念性と“人の愛”の身体性によって対照的に特長づけられると思う。

 そのように考えると、神の愛の観念性を司るロゴスを得手とする男性性と、人の愛の身体性を司るエロスを得手とする女性性というものが実にうまく符合してくるわけで、神が死んだとされる時代以降において時を追って女性が元気になり、男性の影が薄くなってきていることは、言わば必然的なことであるかのようにも思われる。先に記した「神の愛や権威」と「人間同士の愛や性」においても、それぞれの後段に並べた「権威」と「性」について考えてみると、男性が前者にやたらとこだわりがちで、後者の深みにおいてはとうてい女性に敵うものではないことにも符合する。

 このようなところからすれば、15世紀の魔女狩りで火刑に処されたジャンヌ・ダルクの“信仰”を凝視した『裁かるるジャンヌ』で世界映画史の金字塔のひとつを打ち立てたとされるドライヤーが、17世紀の魔女狩りを背景にした『怒りの日』を経て、傑作『奇跡』で直接的に“信仰”を問い掛けたのち、神に代わる愛としての恋愛至上主義的な純化された性愛を信仰して遍歴を重ねて探し訪ねつつも、結局は現世における救いを得るには至らなかった孤独な女性を描いた作品『ゲアトルーズ』を積年の望みを果たして撮り上げ、結果的にそれが遺作となっているところには、太く大きく貫かれた主題的一貫性が窺えるように思う。

 そして今、“信仰”という主題は、新たな局面を迎えて高い同時代性を帯びてきているような気がする。近代合理主義の洗礼を浴びて、都合よく頻繁に奇跡を現出してくれるわけでもない神の愛を信じられなくなって、人の愛に心的充足を見出そうとしたものの、その余りにもの移ろいやすさによって、神の愛による奇跡と同様にそうそう都合よく出会えるものではないゆえに、同じく信じるに足る現実としての心的充足が得られないなかで、恋愛至上主義から性愛享楽主義へと展開した挙げ句、神であれ人であれ、他者との関係のなかで心の充足を得ること自体に懐疑を抱いたミーイズムへと進展してきているようなところが現代人の精神文化にはある。そんななかにあって、信じる力とは何か、心の充足を求めることの意味は何処にあるのか、という人間存在にとっての根源的な主題を問い直すような作品群を改めて観ることの意味は大きいように思う。

 そういう点でも非常にパワフルでインパクトがあったのが二日目の最初に観た『裁かるるジャンヌ』だった。



*二日目('04. 2. 8.)

 『裁かるるジャンヌ』において先ず驚かされたのは、人物のクローズアップで押しまくる映像展開だった。人物描写においてクローズアップというのは、映画の技法として最も強度の高いショットである。半ば一本調子のように最強のショットを連ねるのは、映画のリズムとして決して得策とは言えない手法だ。終盤に待ち受けているはずのクライマックスにおけるインパクトを感受する観客のポテンシャルを予め削いでしまうことになりかねないし、映像展開のリズムそのものが起伏に乏しくなって観る側を倦ませてしまいかねない。ところが、クローズアップで連ねられる人物たちの顔、顔、顔のことごとくが極めて個性的で存在感に溢れていて観る側の目を逸らさせないし、最多で登場するジャンヌの顔には常に深い内面の陰影が表情に宿っていて、まるでその魂そのものを凝視しているかのような畏れさえも観る側に抱かせるほどの凄みが宿っている。

 しかも、それだけの強度で引っ張っておきながら、クライマックスではクライマックスにふさわしいインパクトで観る側を圧倒するのだから恐れ入る。観終えた直後は、大げさに言えば、ぐったりするような脱力を自覚させる形で観客にこの映画の持っていた力を思い知らせる造形を果たしていた。いやはや凄いというしかない。さすが世界映画史の金字塔の一つと賞される作品だけのことはある。このような作品が映画の誕生からわずか三十年ほどで作られているのは、まさしく奇跡だという気がする。しかし、この醍醐味は、少なくとも僕のような者には、ビデオでは到底味わうことのできない性質のものだったようにも思う。改めてスクリーン鑑賞という形でこの作品と出会えたことを嬉しく思った。

 『吸血鬼』は、ジョルジュ・メリエスの映画を想起させるようなトリック映像が興味深い作品だったが、僕としては、前日の二作品を観て予想していた鐘の音が鳴り渡ったのが痛快な作品だった。主人公アランが屋外のベンチに腰掛けて幽体離脱を始めるときと再び戻ってくる場面で鐘の音がしたように思う。やはりドライヤーの映画には鐘が鳴るのだとほくそ笑むような妙に嬉しい気分になった。


 今回の企画上映のクロージングは『奇跡』の前日に続く再映だった。僕の初見は大学を卒業して帰高した年の秋である。1951年から今に至るまで続いている“高知のオフシアターの原点”とも言うべき市民映画会(旧「公民館映画」)でファスビンダーの『マリア・ブラウンの結婚』とともに観た。当時は今のように数多くの映画を観るには至っておらず、映画日誌も綴ってはいなかったが、帰宅後、手元にある日記帳を紐解いてみると、そこには以下のように記してあった。


 上質の映画であることは歴然としているが、如何せん信仰を持たぬ僕には前半がいささか退屈だった。しかし、クライマックスの奇跡のシーンでのヨハネスの言葉には、信仰を超えた説得力がある。死んだ者への祈りというものは、死者のために行う死後の世界での平安の祈りではなく、残された者のための死者への想い出に対する祈りであるというような牧師の態度とちょうどコントラストを描くように、ヨハネスは神を信ずるのならば、なぜ魂を返してくれるよう祈らぬのか、と問う。神を全能としてその存在を信じ、神への言葉として祈るのなら、なぜその本当の願いである死者の復活を神に頼まないのかと。

 ここには、あらゆる形式的なものへのアンチテーゼがある。僕の最も嫌う、形式的なことを形式的と気づかないで自分が取り込まれてしまっている人間の姿があるのだ。そういう“物事への認識に対する自覚”の甘さが、形式的なものをより一層に形式的にし、本来の意味を稀薄化していく。その挙げ句、全く無意味なことにまでなってしまったり、本末転倒してしまう。このようなことは、人間の日常のなかには実に夥しいほどにあるものだ。信仰というテーマを通じて、映画はそこのところを言っているように思う。そうならないためには、形式に己が取り込まれないようにすることだということも併せて言っているように思う。つまり、常に意識的であることが大切だということである。('80.11.16.)」



 今回映画を再見してみて、その些かの隙もない緊密な映画の造形に感心するとともに、四半世紀前の日記に前半に退屈したと記してあることに苦笑を禁じ得なかった。前日からの三作品を鑑賞していたせいもあるかもしれないが、映画を通して女性を見つめるドライヤーのまなざしに対する印象が僕にはとても強いものになっていたから、『奇跡』のなかでもボーエン家の嫁インガは大いに気になる存在だった。また、四半世紀前には僕がまだ独身であったことも作用して、『奇跡』の主題たる“信仰”ばかりに幻惑され、家族劇としての人物造形の妙味には思いが及んでいなかったのだろうとも思う。さらには、こういう緊密な映画を鑑賞し享受する感受力に不足もあったのだろう。そして、今観て最も惹かれる“信じる力”のなんたるかとの観点には、およそ関心を向けてはいないながらも、作品自体の持つ力だけはからくも感受し、自身の実感に引き寄せて形式主義による形骸化というものについて思いを馳せているところは微笑ましくもあった。

 しかし、今回『奇跡』を再見して最も苦笑を禁じ得なかったのは、実は鐘の音であった。初日の二作品を観てからやたらと気になり始めた鐘の音が『吸血鬼』でも登場し、やはり『奇跡』に限らず、欠かさず出てくるのだとほくそ笑んでいた当の『奇跡』では全く鐘の音が鳴り渡らなかったのだ。最も鐘の音が鳴り響いてもおかしくない作品ではあるのだが、実際には鳴らなかった。「ほぼ四半世紀前に観た『奇跡』のクライマックスでも鐘の音が鳴り渡っていたことを思い出した」というのは、いったい何だったのだろうと、つくづく記憶なるもののいい加減さを思い知ったのだった。



参照サイト:「高知県立美術館公式サイト」より
http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~museum/previous/dreyer/dreyer.htm

*『奇跡』
推薦テクスト:「銀の人魚の海へ」より
http://www2.ocn.ne.jp/~mermaid/ka1.html#奇跡
by ヤマ

'04. 2. 7・8. 県立美術館ホール



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