『カナリア』
監督 塩田明彦


 この映画での岩瀬道子(甲田益也子)母子のニルヴァーナ教団への出家誓約が平成13年ではあっても、観る側の僕らはチラシにある「あれから10年、…」を想起せずにいられないわけだが、つい先頃の地元新聞に「オウム真理教(アーレフに改称)が今月中旬に開いた夏期集中セミナーに在家信者約三百人が参加し、参加費や布施などの名目で約三千万円の収入を得ていたことが二十日、公安当局の調べで分かった。昨年夏のセミナーに比べて参加者は約三十人減ったが、収入はほぼ同じだった。」との記事が出ていた。人数が一割減った一方、これで得た収入はほぼ同額で三千万だとする公安調べの数字の精度のほどは、いったい何が担保している数字なのか心許ない気もするけれど、かの教団が十年前の事件以降も何故に信者を保持し続けられるのかは、流行言葉にもなった“洗脳”や“マインドコントロール”といった言葉で片づけられるものではない気が長年していた。

 そのことは、七年前に森達也監督のドキュメンタリー映画『A』を観ても今ひとつ掴めずにいたことだけれども、今回『カナリア』が感覚的にもひしひしと伝えてきていた“居場所のなさ”というものに触れて、得心できるものがあった。彼らの“居場所のなさ”それ自体は、むろん言葉では以前から認識していたことなのだが、僕自身の感覚からすれば、当然ながら、それでも気のしれなさのほうが先に立つわけで、そこのところを乗り越えさせてくれるのは、やはり映画ならではの力と言うべきものだろう。

 そのうえでは、母に死なれ父親との関係のなかで“居場所のなさ”に苛まれていた新名由希(谷村美月)の存在が効いている。教団の起こした無差別テロ事件後に保護された児童相談所からの引き取りを祖父(品川 徹)に拒まれ、妹の朝子と引き離されたために関西の児相を脱走した岩瀬光一(石田法嗣)に、たまたま行き合わせた彼女が添い続けたのは、単に今時の出会い系絡みでの危うい場面を図らずも救われたからでも、光一に世間ズレした今時の少年にはない生真面目な頑なさを見出したからでもなくて、彼が自分と同じ“居場所のなさ”に苛まれていることを嗅ぎ取ったからではないかという気がする。そして、自分が何らの引け目も負わずに済む光一という存在に対して、自分でさえも厄介者ではなく助けになれることに、失っていた“居場所”を見つけているように感じた。

 そして、作り手の視線が“居場所のなさ”というものにあればこその咲樹(りょう)と梢(つぐみ)のレズビアン・カップルとの出会い場面だったのだろうという気がする。彼女たちもまた居場所のないカップルで、この旅行が終われば別れることに決めていたようだ。こういう作り手の視線の先に信者家族や元信者、教団に残り続ける者たちなどがいるのは明白で、指名手配の実行犯となった岩瀬道子の実家が無惨な落書きや投石で居場所を追われていたように、元信者の伊沢彰(西島秀俊)たちが脱会信者同士や取り残された信者家族とだけで寄り合って廃品回収業で細々と暮らしている姿にも、彼らの“居場所のなさ”というものが際立っていた。だが、同時にまた、東京でたまたま彼らと出会ったことで光一たち二人が得た“安心”の大きさと切実さが描かれており、居場所を得られることの意味と大切さというものが浮き彫りにされていたように思う。それまでならば、恐らく汗して働くことなど好まなかったであろう由希が、廃品回収してきた洗濯機を喜々として光一と運び洗う姿や、教団に家族も財産も全て奪われた盲目の老婆(井上雪子)が目の見えないままに確かに折りあげた亡母の思い出に繋がる折り紙細工に感動している姿に、そのことが印象深く込められていたように思う。

 僕は社会心理学の専門家ではないから確証を持ち合わせてないが、経済活動からの要請による大量消費社会の象徴とも言うべき使い捨て商品の普及と氾濫が、人々に“棄てる”ことへの意識や行動を変容させ、用がなくなり役に立たなければ、“人を棄てる”ことにさえも今や抵抗感がなくなり、平気になってきているような気がしてならない。「自分に要らないものは(無視し)棄てる」というのは、判りやすく明解な今風の態度だが、これが人にまで及ぶような社会は、やはり冷酷で気持ちが悪い。それから言えば、由希も光一も見棄てられている子供たちであり、元信者も信者家族も、そして、今もって教団に留まり続ける信者も、教団の実態が明るみにされて以降むしろ積極的に社会から棄てられている存在だという気がする。伊沢彰が教団に留まり続ける信者たちのことを「あいつらのほうがエラいよ」と零しつつ、自分が入信を誘った逃亡中の教団幹部ジュナーナ[津村](水橋研二)に「津村は今でも本当に心から信じているのか? 信じるしかない、信じたいとしがみついているんじゃないのか?」と問い掛けるのは、同じ“居場所のなさ”を迫られ、棄てられている者同士での率直な思いからだったような気がしてならない。

 そんななかで、作り手が“棄てる社会の冷酷な気持ち悪さ”を端的に嗅ぎ取っていたのは、社会の最小単位たる家族における親子関係に対してだという印象が残った。由希の父親が娘の出生自体を否定して傷つけたことや、光一・朝子の母親である道子が子供たちに負わせたこと、道子の父親が娘を“失敗作”と捉えるようなところが彼女をニルヴァーナ教団へと追い遣ったらしいことなど、親子関係に向ける不信感には根深いものがあったような気がする。そのうえで、この作品は、天啓を受けたように神懸かった口調で突如祖父に赦しを与える白髪と化した光一の、あたかも教祖誕生のごとき姿の提示と彼に従う由希と朝子を画面に捉えて終えていた。そこには、棄てられた者の行き場のなさの昇華が生み出すものが示されているとも言えるわけで、「あれから10年、…」彼らを棄て続けることが何を意味しているのかを示唆すると同時に、かつての彰晃の誕生にもそのような側面があったのではないかということを偲ばせていたように思う。

 そして、彰が光一に諭す「自分自身を背負って自分で生きていく」ということの実現が、ローティーンで白髪化して独自の道を見出すことでしかないとしたら、そこにまで追い遣る“棄てる社会の側の責任”は、あまりにも重たいし、酷薄に過ぎるではないかと感じた。しかし、今の日本社会は、改革の名のもとに、確実にそういう酷薄社会の色合いを鮮明にしてきているような気がしてならない。自身に向ける言葉ならいざ知らず、他者に向けるためのみに使われる“自己責任”などという言葉が極めて当然のようにして、時に訳知り顔の卑しい小気味よささえ漂わせて人口に膾炙する時代なのだから、いかにも寒々としている。人の落伍感に対して酷薄であるという点でも、僕の生きてきた50年近くの間で、今ほど容赦のない時代はなかったように感じないではいられない。

 由希が繰り返し口にする「自分の頭の悪さ」にしても、彰が零す「教団内で後輩に階位を抜かれていった焦りと悔しさ」にしても、競わされるなかで生まれたものであるのは間違いない。しかし、かといって僕は、競争自体に問題があるとは必ずしも思わない。ただ、競わせる以上は、落伍感を抱く者に対するフォローやケアの仕組みをセットにして準備しておくのが、“競わせる側の責務”であると思うわけだ。勝者が“強者の論理”で野放図に恣にし、敗者を切り捨て、結果に対して何らの了承感もケアもチャンスも与えないのは、酷薄の極みであって、競争原理を賞揚し、実際に人を競わせる資格がないということだ。



参照テクスト1掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ過去ログ編集採録
参照テクスト2シネマ・サンライズ掲示板での談義の採録
参照テクスト3:塩田明彦 著 映画術 その演出はなぜ心をつかむのか読書感想文


推薦テクスト:「K UMON OS 」より
http://blog.goo.ne.jp/vzv02120yamane/e/4847337c1c3bc48242abd2aa49dead0d
by ヤマ

'05. 8.27. 美術館ホール



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