美術館特別上映会“増村保造映画祭”


4月29日
(一日目) :

『くちづけ』(57年)88年鑑賞済み/『青空娘』(57年)
『暖流』(57年)/『巨人と玩具』(58年)
5月 1日
(二日目):

『最高殊勲夫人』(59年)/『氾濫』(59年)
『からっ風野郎』(60年)/『偽大学生』(60年)
5月 2日
(三日目):

『妻は告白する』(61年)/『黒の報告書』(63年)
『女の小箱・より 夫が見た』(64年)/『卍』(64年)
5月 4日
(四日目):

『清作の妻』(65年)/『刺青(いれずみ)』(66年)
『陸軍中野学校』(66年)/『赤い天使』(66年)
5月 5日
(五日目):

『妻二人』(67年)/『痴人の愛』(67年)
『華岡青洲の妻』(67年)/『盲獣』(69年)
5月 6日
(六日目):

『千羽鶴』(69年)/『女体』(69年)
『でんきくらげ』(70年)/『遊び』(71年)


 一昨年の秋、東京のユーロスペースで行われた第13回東京国際映画祭の協賛企画としての50作品一挙上映というレトロスペクティヴからのセレクションだ。57本を数えるという増村保造のフィルモグラフィのなかの選択された24作品というのは、ちょうどいい加減の作品数かもしれない。連休中の日替わり上映という苛酷なスケジュールで、東京の二年遅れとはいえ、東京での回顧上映のときに今回と同じプログラムを総て鑑賞しようとしたら、最低でも2万5千円あまり要したところが、4千円で済むのが県立美術館の公共上映としての面目だろう。加えて、当時の大映が発行したプレスシートのコピーが取り置きで配賦されており、解説やストーリーばかりか、宣伝文案や放送原稿、宣伝ポイントに加え、キャストの配列順の指定や宣材に使用するロゴや図案例など往時を偲ぶ、実に興味深い資料が提供されていた。

 選ばれた24作品のうち22作品が、初監督から1969年までの数えて12年間、換言すれば、監督が三十代前半から四十代半ばまでの作品に集中しているのは、何を物語っているのだろう。僕は、増村保造の監督デビューの翌年に生まれたため、その全盛期にリアルタイムで観る機会がなく、リバイバルでも観た覚えがないところへもってきて、若い頃に日本映画をあまり観なかったし、ビデオで映画を観る習慣がない。そのせいか今回の回顧上映までに自分が観たことのある増村作品は、わずかに四本しかなかった。そのうち、リアルタイムだったのは、確か遺作になったと記憶している『この子の七つのお祝いに』を '82年に松竹で観たのみだ。けれん味が空回りしていて、ホラー映画なのに観ていて失笑ばかり漏らしていた覚えがある。

 そんな記憶があったものだから、 '88年に初監督作品の『くちづけ』を観て、若さが実に瑞々しく表現されていることに驚いたものだった。その後、 '98年に是非にと勧められてビデオで観た『盲獣』と、2000年にその上映にも多少関わった映画祭で観た『曽根崎心中』によって、そのインパクトの強烈さにすっかり圧倒され、彼の監督作品は、いつかまとまった形で、じっくりと観てみたいと思っていた。今回は、まさしく念願かなった上映会となったわけだ。


*増村作品に感じた特徴
 23作品通覧して最も印象深かったのは、初期から一貫して変わることのない、造形世界にこだわった映画手法だった。どの作品の人物造形も息遣いの聞こえるようなリアリズムなど小指の先程にも気に留めないどころか、リアリティなどせせら笑うかのように強烈に造形された人物像が繰り広げられる。初監督作の『くちづけ』と同年作品の『青空娘』『暖流』で造形された、ハイティーンの有子(若尾文子)、良輔(川崎敬三)、二見(菅原謙二)の颯爽としてさわやかな若者たちのキャラクターにしても、看護婦の石渡ぎん(左幸子) の、信念などという大仰を持ち出さずに、自己にとことん忠実であれるなかでの、姑息さが微塵もなく、思い切りと覚悟が腹に座った潔さにしても、明らかに現実離れしている。後の作品における人物造形の強烈さが、えてして人間の影の部分に繋がるものであることによって、初期の作品群は対照的な作風だと受け取られがちかもしれないが、僕には、それゆえに、むしろリアリズムに背を向けた造形主義ともいうべきスタイルの一貫性が際立っているように感じられた。

 うまく嵌まったときは、半端なリアリズムなどによっては到底実現できないような強烈なインパクトがある。とことん色と欲に流されるのが人間だと言わんばかりの『氾濫』を観た後は、人間としての生の意欲や希望が打ち砕かれるような脱力感を覚えたほどだ。露わになった一家崩壊の後、出勤する真田(佐分利信)に、玄関口でいつものように鞄を差し出す文子(沢村貞子)の姿を捉えた静かなラストシーンには、これといった変哲もないなかに底知れぬこわさが宿っていて、思わずゾクリときた。『巨人と玩具』での、かなり自罰的な思いとともに宇宙服を着てサンドイッチマンをする洋介(川口 浩)に「笑いなさいよ、笑わなきゃだめよ」とにっこり笑いかけ鼓舞する雅美(小野道子)の姿もなかなかこわく、忘れがたいラストシーンだ。洋介の行き場のなさが、日本という国自体の行き場のなさをも示していたような気がする。

 ところが、外れてしまうと、リアリティという底支えがないだけに、無残なことになってしまう。例えば、今回、三島由紀夫主演ということでセレクトされたらしい『からっ風野郎』のように、全く情けなくなるほどの空疎さにも繋がりかねない。だから、彼の作品に当たり外れが大きいのは、ある意味で仕方のないことだという気がする。だが、徹底的に造形世界にこだわり続けた、作家としてのスタンスは、『暖流』の石渡ぎんのごとく潔いとも思う。そして、その人物造形は、いわば、徹頭徹尾、頭でこしらえた人物像であって、心で捉え、情緒で表現された人物像ではないという気がする。そこには、東京大学を法学部に加え、文学部哲学科をも卒業したという増村保造のインテリならでは個性が窺える。懐疑的で思索的なインテリなればこそ、直情や胆力への憧れというものがあって、そういったものが、どの作品にも通底する女性観としての、男が到底かなうものではない女のつよさ、こわさを凄みでもって描かせたのではなかろうか。『清作の妻』には、そのあたりの対照が珍しくも女対男の勝ち負けといった結末ではない形で、うまく表れていた。貧しさゆえに小娘のときから妾奉公に出たことで村人から蔑まれ、疎外されるお兼(若尾文子)の気丈さと直情の生み出す胆力というものと清作(田村高廣)が愚劣な人間界で模範的と称されたことのもたらす空疎との対照が、頭で考える男の正しさよりも、身体性で捉える女の正しさのほうが遥かに正鵠を射ているということが鮮烈に表現されていた。

 全くどの作品においても、女性たちの見せる胆力は生半可ではなく、そのことは、初期の作品から一貫している。そして、23作品も通覧してみると、増村作品では、やたらと男が女を殴る場面に遭遇して、いささかうんざりさせられる。粗雑で幼稚な暴力に訴えるしかない男の脆弱さを表しているのだろうが、その頻出には閉口する。増村作品の最大の弱点は、こういったところにも窺われる“類型化”なのだろう。リアリズムを排し、造形に賭けているのだから、登場人物たちの造形が類型的に過ぎてしまうと、たちまち力を失ってしまう。作を重ねて、描出手法が造形的であるだけでなく、加速度的に、描く対象そのものがエキセントリックな人物になっていったのは、ある意味で必然だったのかもしれない。

 台詞で耳に残るのが「信じる」「信じてくれ」という言葉だ。色恋のなかでだけ現れるのではない。嘘とか欺瞞といったことに非常に敏感だという気がする。そういう点で、非常に強烈な印象を残してくれたのが『偽大学生』であった。人間の持つ欺瞞について、これだけ強烈なインパクトを持った作品は初めて観たような気がしたし、60年安保の挫折時点で、なぜ学生運動が国民的運動になり得なかったのかを痛烈に描いていたことに驚きもした。個人が個人としてでなく、集団の一員として存在しようとするとき必ず見舞われる、無責任で無自覚な攻撃性と欺瞞というのは、体制側だろうが、反体制側だろうが、本質的に同じで、そうでありながらも、集団のなかで生きる社会的動物であることを避けがたい人間という存在は、それゆえに存在自体が欺瞞的であるとさえ感じさせる。出口なしの袋小路に追い込まれていく緊迫感とラストの顛末の象徴性に富み、皮肉の効いた滑稽さは、ブニュエル作品にも通じるほどの力を持っていたような気がした。

 また、『青空娘』での継母母娘(沢村貞子・穂高のり子)の我が侭ぶりや意地の悪さ、『暖流』での医者たちの卑しさ、『最高殊勲夫人』で三郎(川口 浩)がやたらと“庶民的”を美徳として口にする繰り返しやとことん色と欲に流される人間の姿を描いた『氾濫』などの初期作品には顕著に窺える、反上流階級意識というのも、この欺瞞に対する敏感さに関連しているのかもしれない。

 その一方で、インテリ風のハイカラ趣味が初期の頃は顕著に窺える。『暖流』には、若き日の美輪明宏が歌うアングラステージ風の場面が出てくるし、『巨人と玩具』には、南方民族舞踊風のステージの場面が登場し、いわゆるフォトジェニックな美を打破しようとする革新的な写真芸術というものが重要な素材となっている。『最高殊勲夫人』は、オープニングのクレジット・バックからして、モンドリアンの絵を意識しているようだし、映画のなかでは前衛華道や前衛書道が寸描されており、前衛生け花は、『氾濫』にも登場していた。

 ところで、前述の『偽大学生』は、大江健三郎の「偽証の時」を原作とする作品だが、まさしく裁判が女の偽証によって破れ、生真面目な検事城戸(宇津井健)が左遷されてしまうのが『黒の報告書』だ。城戸検事は、綾子(叶 順子)を過信するという甘さから裁判に敗れるが、老獪な工作を施して彼女に偽証をさせた凄腕の悪徳弁護士山室(小沢栄太郎) もまた、彼女を甘く見たために足元を掬われることが仄めかされたラストが、秀逸だった。山室は綾子の欲につけこんだわけだが、言わば、彼女の欲を過信していて、損を省みない意地による心変わりを予測できなかったわけだ。最後の変心が良心への目覚めや改悛ではなく、ただじゃおかないという意地であるところがいい。津田巡査部長(殿山泰司)が畳に仰向けになりながら「女は化け物だぁ」と嘆息した台詞がやけに印象に残っている。

 同じく法廷ものである『妻は告白する』も力のある作品だった。今回の特集上映では、増村作品の1/3を越える20作品に出演している若尾文子の出演作が14本上映されたが、この作品は、そのなかの5作目で、彼女がそれまでの気丈さを越えた女の凄みを演じ切っていて、圧倒された。


*増村作品における若尾文子
 若尾文子の出演していた14作品のなかで、その際立つ魅力に、僕が特に惹きつけられたのは、『青空娘』とこの『妻は告白する』、そして『女の小箱・より 夫が見た』であった。『青空娘』では、苦境の歪みや汚れを自ずと弾き返して寄せつけない、颯爽とした健康的な美しさが眩しかったが、増村は、随所に岩場や階段、ダンスなどのシーンを設け、子供との格闘シーンまで用意して、あの手この手を使って、溌剌とした若尾文子の肢体をやたらと触らせていた。なんだか後年の作品群が偲ばれるようでもあり、なんとも可笑しかった。『妻は告白する』『女の小箱・より 夫が見た』では、彼女の豊かな官能性が匂い立つようで、愛と情念に一点の曇りなく直進できる女の直情と胆力に、大いに説得力を与えていたように思う。作品的には、後者がかなり見劣りし、那美子(若尾文子)のみならず、洋子(岸田今日子)も含めた女の人物造形には凄みがあるものの、周囲の登場人物たちの造形が類型的に過ぎて、作品的には境界ライン上にあるような気がした。また、若尾文子の吹き替えヌードの肢体にもいささか不満が残った。彼女のあの艶やかさからは、豊満さとともにもう少し張りがほしいところだ。そんな細かなことが妙に妥協しがたいくらいに、彼女は実に美しく魅力的だった。だが、そのあとの『卍』以降の作品では、惹かれる魅力よりもこわさや凄みのほうが勝っていって、なんだか観ていて気の毒な思いにもとらわれた。

 増村作品における総体としての若尾文子は、気品と淫蕩の妖しいカクテルというイメージだ。観ている分には実に美しいけれど、実際に飲むとえらく悪酔いしそうな、でも、どうせ飲めやしない手の届かなさという感じがある。あの少し篭もったような声が、押し込められ凝縮された官能の激しさへの妄想を煽るようなところがあって悩ましい。『刺青』では、背中に入れられた女郎蜘蛛の刺青のせいだという口実があるとは言え、奔放な悪女ぶりが圧巻だった。口実があるときの女の歯止めのなさには手がつけられないと言わんばかりだ。実際、この作品での若尾文子の過剰さには増村もいささか持て余しているような感さえあった。それゆえか、ラストシーンでの彫師清吉(山本 学)の漏らす心境には、増村保造がダブッてきて、妙に可笑しかった。名コンビと言われたらしい両者の組み合わせは、三年後の『千羽鶴』が最後だったようだが、川端康成の原作によるノーベル文学賞受賞記念作と謳われたこの作品は、友人の未亡人太田夫人(若尾文子)を愛人にしていた父親(船越英二)の死後、夫人に誘惑され、恋仲になった主人公菊治(平幹二朗)が、彼女の自殺後、残された娘文子(梓 英子)と深い仲になるというとんでもない話だ。亡き恋人の面影を遺児に見いだし溺れ込む想いの業の深さに宿縁を偲ばせているということなのだろうが、親子丼のたすき掛けとは、なんとも凄まじい。この映画のなかで若尾文子は、京マチ子扮するちか子から「いつも目が潤んだ、か弱そうにグニャグニャした色ボケ女」と形容され、恥知らずと非難されたりしていた。なんだか引導を渡されたかのような役どころだったという気がしなくもない。そういう意味では、初監督作品から立て続けに出演していた川口浩が、僕が観た限りでの増村作品では、常に“わかっちゃいない甘ちゃん坊や”の役どころであるにもかかわらず、そのことをあからさまになじられることなく来ていたのが、『妻は告白する』のラストで、婚約者の宗方理恵(馬淵晴子)から手酷く非難と宣告を浴びせかけられ、そのことを思い知らされる幸田修という人物を演じたのが最後になっているのと、少し似ている気がした。行くとこまで行って、起用する意欲がもう湧いてこなくなったんではないだろうか。


*谷崎原作の三作品、『卍』『刺青』『痴人の愛』
 増村作品は、そのほとんどが原作もののようだが、なかでも谷崎潤一郎原作の三作品がよく知られているような気がする。耽美的で、いささか常軌を逸脱した性愛の世界が、増村の作風にマッチしていると評されているようだが、今回23作品を通覧してみて、僕にとっての増村作品の最上位ランクに並んだものは一作もなかった。性愛ものは、映画においては殊更に往時のインパクトを失いやすいという側面があるのかもしれない。露出度は三作品のなかで最も高いのに、とりわけ『痴人の愛』にその感が強かったのは、やはり女優としての力の差なのだろう。己の欲するがままに奔放な女像の造形という点では、後の『女体』におけるミチ(浅丘ルリ子) のほうが圧倒的に冴えていた。『刺青』は、かなり面白く観たが、大いに笑えたのが『卍』だ。耽美と言うよりも、ほとんど戯画化された誇張が、作品を壊しそうで壊さない危ういバランスのうえに踏み留まっていて、カルト的な魅力を発散させていた。当時、話題を呼んだらしい光子(若尾文子)と園子(岸田今日子) の同性愛の部分よりも、強烈な存在に魅了され、翻弄されていくうちに、園子と孝太郎(船越英二)夫婦が、何もかもがどうでもよくなり、思考停止の投げやり状態になっていく感じのほうに惹かれた。弁護士夫婦の滑稽な姿を半ば笑いながら観ているうちに、強烈な存在たる光子の持つ意味合いがシンボリックな暗示性を帯びてくるところが曲者だ。ヒットラーや昭和天皇に惹かれ、崇拝し、彼らへの忠誠と献身を求めるファシズムの嵐のなかに自ら身を委ねていく時代の波に対して、なす術もなかったインテリたちの投げやり気分のようなものが投影されているように感じた。似たような観後感を得たのが、市川雷蔵主演の『陸軍中野学校』だった。後にシリーズ化されたものの第一作が増村作品だったようだが、太平洋戦争前夜の昭和十三年、思いがけなくもスパイになることを求められた青年将校たちが、約束されたエリートとしての道を断念し、ある種の理想主義に共鳴した形で身を投じながら、思わぬ闇へと向かう姿には、戦後の学生運動の状況が投影されているようだった。

 『卍』と同様、あくまで娯楽作品としてのプログラム・ピクチャーという枠組みのなかで、ハッとするような切れ味を見せたことが、より強烈に印象に残ったのが、『女体』だった。増村の力業が冴えわたり、怪物のような奔放さを体現した浅丘ルリ子とドラマの展開に、そんなアホな、そんなアホなと呆れながらも押し切られた。そして、観終えると、そこには決して否定できない“時代を撃つ力”があったことを痛感させられる。余人には真似のできない芸当だ。タイトルとは裏腹に視覚的な肉体の魅力は、ほとんどないに等しい浅丘ルリ子を用いて、女体の力というのは肉体そのものの魅力ではなく、女の魔性を体当たりに表現することによって発揮されるものだと言わんばかりだった。猫科の猛獣を思わせる浅丘ルリ子の強烈さには、魅せられなかったが、圧倒された。死んで消えてもらわない限り、男は太刀打ちできないどころか、食い殺されるほかないというわけだ。


*女に拮抗して戦えるのは、女だけ
 増村作品においては、概ね男は、女に対抗するには力不足だ。かたなしといった印象を残すことが多い。だが、女同士となれば、直接的な対決ではなく、男を挟んで引っ張りあったり、対抗しあう形であっても、俄然、凄みが増してくる。その端緒は、凄みに至る前の作品にも顕著に窺われ、『青空娘』『暖流』『最高殊勲夫人』『氾濫』もそういった側面を持っている。

 その構図が際立つ形で効果をあげていたのは『女の小箱・より 夫が見た』であった。作品的にはかなりツライところもありながら、捨てがたい魅力を残したのは、若尾文子と岸田今日子のそれぞれの個性が生かされた凄みの造形に力があったからだという気がする。

 三年後の作品『妻二人』は、そういう観点からは、非常に似た構図を持った作品だが、展開の軸が妻の文子(若尾文子)ではなく、夫の健三(高橋幸治)に移行している分、対象化され、作品的なバランスがよくなっている代わりにパワーが落ちている。だが、類型的であることを逆手に取ったような人物造形には力があり、作り物の魅力で観せきられる。健三を愛し続けた昔の恋人順子(岡田茉莉子) には、初期の作品に見られたような、潔くピュアな直情の偲ばれる人物造形がされていた。

 この女対女の対抗が、嫁と姑という形で真っ向から捉えられている、有吉佐和子原作の『華岡青洲の妻』を増村が映画化しているのは、言わば当然の帰結だという気がしなくもない。女に拮抗して戦えるのは女だけだという思いを新たにさせられた。


*ひとつの頂点としての『盲獣』
 先に谷崎原作の三作品に関連して、性愛ものは、映画においては殊更に往時のインパクトを失いやすいという側面があるのかもしれないと記したが、江戸川乱歩原作の『盲獣』は、観る者すべてをたじろがせるような強烈さが三十年余りの時間を経ても、いささかも失われていない、圧倒的なインパクトを持った作品だ。性愛から情緒的な心情や情念をはぎ取り、皮膚感覚に凝集させ、その極致的な深遠さというものを、誰もが有する人間の生体に潜む恐ろしさとして突き付けてくる。登場人物が男と母と女のわずか三人しかいないシンプルな構造が象徴性を高め、性愛のみならず、人間存在の本質を抉り出すような造形世界の構築に成功している。

 とりわけ印象深いのが、だんだん視力が衰えてきたというアキ(緑 魔子)の独白のあたりから、触覚世界への没入において、彼女のほうが完全に道夫(船越英二)をリードし始めるくだりだ。皮膚感覚の覚醒がひたすら凝集へと向かっていくさまが、狂気に近い凄みを帯びて、比類なきインパクトとともに描き出される。そして、増村の映画が描き続けてきた女の凄みや胆力を生み出す“凝集に向かう女の力”というものの根元は、まさしくその身体性であることを凄絶なヴィジョンで描出している。

 視力の減退は、実に象徴的だ。目をつぶって、物事を見ないようにして突き進み出したときの女に歯止めを掛けられるものは何もなく、待っているのは、死に至る滅びでしかないということだろう。だが、それを増村は至上の恍惚として肯定している。しかし、そこに至るには、我が身を切り刻む痛みに耐え、それを快楽として陶酔できる反転を果さなければならない。だが、目をつぶり、皮膚感覚を研ぎ澄ませば、人間はそうなれると言っているような気がしなくもない。こわい映画だ。最早こわさを描いた映画ではなく、作品そのものがこわい存在になっていると思った。

 そういう人間の根元性に迫った作品としては、日本以上にフランスで評価されたとの『赤い天使』も忘れがたい。末期状態の戦場で、前線の従軍看護婦として極限状況を体験する西さくら(若尾文子)と軍医岡部(芦田伸介)の物語で、従軍慰安婦や傷痍兵なども多数登場し、極限下における人間の生と死、性と愛が強烈に描かれていた。最も印象深かったのは、新婚二か月で徴兵され、妻が恋しい身の上で戦地に赴き、命の代償に両腕を失った折原一等兵(川津佑介)のエピソードだ。女の体を知り、妻恋う気持ちが募る若い身体で両腕を失い、自慰もままならぬ苦しさをさくらに訴えていた。また、坂元一等兵(千波丈太郎) や折原一等兵らの死に対して、いささか過剰なまでの責任意識を負うさくらの姿によって、反射的に、若い日本兵士や中国の村人などを実に無頓着に無感覚に死に至らしめているものの存在を糾弾しているようにも見えた。過剰なる造形が効用として働いていたと言える。


*70年代の2作品
 『でんきくらげ』『遊び』は、いささか作品的にも粒の小さいものだった。三十余年ぶりにスクリーンで再会できる渥美まりと関根恵子が注目を集めるのではないかという期待からセレクトされたような気がしなくもない。それでも、『遊び』には後年の『曽根崎心中』を偲ばせるところがあり、作品的には比べるべくもないながら、その肥やしとなっている作品だという気がした。関根恵子の瑞々しさには確かに魅せられたのだが、もはや初期の監督作品において見せたような映画世界の造形には戻れない時代の変遷というものも感じた。フーテン娘の端役で出演していた松坂慶子の若さも新鮮だった。

 それにしても、出来の善し悪しにかかわらず、四本や五本くらいなら続けて観てもいささかも疲れさせないテンポのよさとけれん味を持ち味にしていることに改めて感心した。間に一日づつ休息日があったとはいえ、連日、3~4本の作品を六日間続けて観ることは、今の僕には、他の監督特集だったら到底適わない。ほんとにいろいろな意味でも、感心させられた、実に刺激的な上映会であった。





参考テクスト:「高知県立美術館公式サイト」より
https://moak.jp/event/performing_arts/post_167.html


*『清作の妻』
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20040803
推薦テクスト:「こぐれ日記〈KOGURE Journal〉」より
http://www.arts-calendar.co.jp/KOGURE/04_04/WAKAO_Ayako%26THE_CLASSIC.html

*『盲獣』
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20041124

*『偽大学生』
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2014nicinemaindex.html#anchor002539
by ヤマ

'02. 4.29.~ 5. 6. 高知県立美術館ホール



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