高知シネマフェスティバル2000“青春を憎め!怒涛の二日間★ATG映画特集”


『肉弾』1968(S.43) 監督 岡本喜八
『絞死刑』1968(S.43) 監督 大島 渚
『日本の悪霊』1970(S.45)  監督 黒木和雄
『書を捨てよ町へ出よう』1971(S.46) 監督 寺山修司
『股旅』1973(S.48) 監督 市川 崑
『青春の殺人者』1976(S.51) 既見/見送り 監督 長谷川和彦
『曽根崎心中』1978(S.53) 監督 増村保造
『Keiko』1979(S.54) 監督 クロード・ガニオン
『ガキ帝国』1981(S.56) 監督 井筒和幸
怪異談 生きてゐる小平次』1982(S.57)
              未見/見逃し
監督 中川信夫
 ATGで製作配給された日本映画101作品のなかから実行委員たちが選んだ十本は、思っていた以上に粒ぞろいの作品ばかりだった。なかでも鮮烈だったのは、やはり60年代の二作だ。

 岡本喜八監督の『肉弾』は、前年の大作『日本のいちばん長い日』のドキュメンタルな手法とは対照的に大胆なまでの象徴性を秘めたシリアスな戯画化が強烈で、ドキュメンタルな手法では語り尽くせないインパクトを持っていた。かねてより観たくて、手元にビデオを持ちながらも初見はスクリーンでとの思いから留保していただけに、今回の上映は嬉しく、また予想を遥かに上回る作品の力に、観ていて込み上げてくるものがあった。
 数多ある反戦映画のなかでも、つくづく、本当に馬鹿なことをやっていたんだということを情けなさとともに、これほど思い知らせてくれる作品を他に知らない。真摯に生を見つめようとする青年(寺田 農)は、いかなる有意の言葉も頼りとならない地点にまで至り、無味乾燥とも思える数式のみを、それゆえにからくも己が魂を支え得る最後の念仏ないしは呪文のようにして、繰り返し繰り返し唱えていた。その姿に、絶望とも自覚することすら麻痺させざるを得ない脱感作的な絶望の深さが偲ばれて、胸に迫る。それにもかかわらず、掃き溜めの鶴のようにして出会った少女(大谷直子)や少年と触れ合うだけの魂の清冽さと感受性を保つためには、あのどこかとんでもなく現実感を遊離させたような感覚が、抜き差しならないものだったのだろう。それだけに、そうまでしなければ、命の営みを続けられないくらい追い込まれた袋小路のなかで生きるしかなかった若い魂の哀しさが、何とも明るくのどかな音楽によって際立たされる形で、観る者の心に沁みてくる。
 一見とぼけて間の抜けたような演出と脚本でありながら、むしろ、だからこそ、そのようなものを表現し得るのだという確信をもって臨んでいる作り手の気迫と気骨は、敬服に値する。戦後二十三年、当時の現在へと繋げた波間に漂うドラム缶は、映画のラストシーンの白眉とも言えるものだった。

 大島渚監督の『絞死刑』もまた奇想天外な着想と設定ゆえに、リアルなドラマ以上に真実と核心を突く問題提起が、痛烈な批判とともに鮮やかに果たされた、見事な作品だ。現実と現実認識の差異、記憶や意識の現実に対する優位の側面と劣位の側面などを巧みに掬い取りながら、不確かで揺れる人間の意識を固定し、定着させて割り切ろうとする制度といった社会的枠組みを皮肉っている。しかも、それに対してそれぞれのレベルで何らかの形では馴染まずには生きられない社会的動物としての人間という視点も抜かりなく、官吏、刑吏、医師、牧師といった人々の意識のさまざまな縛られぶりとか困惑、反応が滅法面白く、あまり場面転換もないのに二時間という時間をいささかも長いと感じさせない。
 死刑制度の是非や在日朝鮮人の差別問題や民族問題、さらにはインセスト・タブーなど、若々しく挑発的な問題意識が作り手に率直に窺えて好もしく、痛快だ。場面転換として印象深かったのは、絞死刑執行室のある建物から出ると、それがそのまま貧民窟のバラック小屋から屋外に出る形になった場面の、まるで意識世界のありようを端的に示したかのような鮮やかな展開の仕方だった。若かりし頃の大島監督の才気と知性には大したものがあると改めて思った。過去に観た作品では『少年』が僕の内では最高位だったが、この作品は、それに匹敵するものだ。

 黒木和雄監督の『日本の悪霊』は、これより先に同じATGで撮った『とべない沈黙』の先鋭な問題意識と刺激に満ちた作品ぶりからは、いささか破綻した作品だとの印象を免れない。しかし、ある種の時代的感覚を見事に掬い取り、宿らせているのは流石で、それは単に岡林信康や土方巽を起用しているからというだけのものではない。だが、この作品から三十年を経て今世紀最後の年に公開された新作『スリ』では、原田芳雄や石橋蓮司、伊佐山ひろ子といった個性の強い俳優を起用すると、多くの作品が彼らの個性に寄り掛かった使い方しかできないでいるなかで、監督としてのコントロールがきちんと効いているように感じられて感心はしたのだが、そういった意味での時代を掬い取るアンテナの感度が随分と落ちてしまっていることに気づかされる。演出の力量に溢れた監督は他にいくらでもいる。他に抜きん出て時代的感覚を掬い取ることにたけていたという最大の魅力の部分が失われていることを少し淋しく思った。

 増村保造監督の『曽根崎心中』では、その力業に圧倒された。冒頭からハイテンションで始まり、この先どうなることかと思いきや、そのまま一本調子で真っすぐ二時間、最後まで押し切ってしまったのだ。オープニングが高いテンションで始まる作品は特に珍しくもないが、ほとんどの場合、その後ぐっと地味で、たいがいは過去に遡った、本来の始まりのシーンに帰っていく。そこからまた徐々にオープニングのハイテンションにまで盛り上げて、さらにはそれをも上回るクライマックスへと到るとしたものだ。
 ところが、この作品では、愚直なまでにいささかも緩めることなく、芝居掛かった台詞回しとひたすら思いつめ、自らを追い込んでいく強迫的な思い込みをまるで相互に張り合うかのような掛け合いによって、高まった気合いを維持し続けながら、心中に到るまでの道行きを綴る。
 通常は、ハイテンションを効果的に際立たせる効果をもたらす緩急のリズムといったものが映画の文法として踏まえられるものだが、それを一切無視したうえで、観る側の慣れによる緩みをももたらすことなく、二時間貫徹してしまう力量は、半端なものではない。つとに知られた近松浄瑠璃のシンプルさゆえに効果的に働いた演出法だとは思うが、驚くほかない。
場面としては、お初(梶芽衣子)と徳兵衛(宇崎竜童)がそれぞれの決心のほどを直接語り合わず、上框に腰掛けたお初の、他人に向けていながらその実徳兵衛に向けて語る言葉を聞きながら、床下に潜んだ徳兵衛がお初の足を撫でて掴んで確かめ合う場面がとりわけ魅力的だった。

 クロード・ガニオン監督の『Keiko』は、退色がひどくて赤茶けた映像になっていたのが残念だったが、今観てもというか、今のようにジェンダーに対する社会的関心が強まり、同性愛に対する寛容度が一般化してきたなかで観ることで、二十年前当時、作り手の持っていた視線の自然さというものが、かなり先進的なものだったことが判るような作品だ。京都を舞台にしながら地域色の窺える言葉でないことが、ドキュメンタリー・タッチを標榜しているだけに惜しまれるが、風俗的な側面で時代のモードをうまく捉えつつ、京都の外れの庵でケイコと同棲するレズビアンのパートナーの人物造形やその生活スタイルの趣味やセンスなど今観てもなお先進的なかっこよさを保っているところが、なかなか新鮮だった。



*参照テクスト『肉弾』:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/taidan/nikudan.html

推薦テクスト『肉弾』:「シネマ・サルベージ」より
http://www.ceres.dti.ne.jp/~kwgch/movie_this_week_back.html#2001-09-16
推薦テクスト『肉弾』:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20090822
by ヤマ

'00.11.25.~26. 県民文化ホール・グリーン



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