杏珠は、そろそろと帳台から抜け出す。
切羽詰った声をあげて、とうとう将門は爆ぜたらしい。
振り返るとびくびくと痙攣する二人の姿が見えた。
簾を引き上げ、妻戸の錠を開ける。室内には燈台の油と空薫き物の芳しい香り……それから、将門の放った青臭さがこもっている。
妻戸を押し開くと、冷たい外気が入り込む。
庭に面した簀の子縁へ出ると、また将門の嬌声が聞こえた。
あわてて妻戸を閉めて、あたりを見回したが白砂を敷いた庭では、遣水の流れる音だけが響く。
「元気だなぁ……」
杏珠が呟くと、庭の池が月光にきらりと波打つ。
背後で白砂を踏む音がして杏珠は、あわてて振り返った。
背の高い男の影が、月明かりの下で伸びる。
杏珠の眉根が今にも泣きだしそうにひそむ。
「こんなところにいたのか」
わずかに掠れた男の声が杏珠に呼びかける。
杏珠の眉間の皺がいっそう深くなった。
「なぁ……んだ。アザゼルか」
「なんだとは、なんだ」
月明かりの中で、赤銅色の肌をした青年が勾欄に寄りかかって立っている。
杏珠と同じこの時代にはそぐわぬ衣装。
もっともアザゼルの着るものは、いつも時代を超越している。初めて逢った時には、チーマーかチンピラを連想させるようなものだったのに今は、ギャル男とホストの中間のようなファッション……。ヒョウ柄のジャケットはどうかと思う。
ヴァチカンの儀仗兵なんてやっているから、ファンションセンスが世間から大幅にずれているようだ。
「イリアが来てくれたのかと思ったのに……」
ふてくされて杏珠が言うと、アザゼルは苛立ったように、ブーツの踵で白砂を踏みにじった。
「俺で悪かったな。こんな並行世界に飛ばされやがって、主が血眼で探しとるわ!!」
「だって、イリアの目はもとから赤いわけだし……」
「お前のせいでそうなったんだろうが、この疫病神!!!」
「悪魔に疫病神って言われるなんて……」
「どっちでもいいわ。とっとと帰るぞ」
「ちょっと待ってよ。平行世界って、ここ昔の日本じゃなかったの」
「お前たちの世界の平安時代みたいに見えるが、微妙に違うだろう」
杏珠は、首を横に振った。
平将門も清盛の区別も曖昧なくらいだから、微妙な違いなど判るはずもない。
「ある世界から分岐して、平行に存在する世界だ。たとえば、小娘の世界ではお前と主が恋仲だが、別の世界では俺が主をいいようにしている世界もあるってことだ。あんなふうにな」
アザゼルが唇の端をつりあげて笑った。
妻戸を閉めても、将門の声があまりに大きすぎて外まで漏れている。
あの様子では、もはや浮気の心配はなさそうだが、初めてがあの太刀ではこの先、どうするつもりなのだろう。
……いや。他人の心配ではない。
杏珠は、今のアザゼルの言葉を頭の中で繰り返した。
アザゼルがイリアを?
一瞬、本気で想像しかけて、後頭部を殴り飛ばされたような気がする。
馬鹿な……あのイリアが。でも、あり得ないことではないかもしれない。
凶悪なまでにきつい目をしているが、あれだけの美貌。むしろ「じつは男好きです」と言われたほうが納得してしまうかもしれない。
杏珠は、手に持ったままの瓶子をぐっと握りしめて息を呑んだ。
ちゃぽっと音をたてて蔓が伸び始める。
「……おい。小娘。お前……何を……」
アザゼルの顔色が変わる。もっとも肌の色が濃いので、青くなっても判りにくいのだが。
「おい、ちょっと待て……俺は、そっちの趣味は……」
「大丈夫。あの小次郎さまだって、あんなに愉しそうじゃないの。ね?」
「何が、ね? だ。お前……主に悪いとは思わんのか。よその男のケツを掘るつもりか!」
「ここまできたら、一人掘るも二人掘るも同じよ。それよりあんたなんかに、あたしのイリアを掘らせてたまるもんですか」
「じょ、冗談だ! ……俺は、べつに……うぉっ!!!」
逃げる隙も与えず、瓶子の蔓が音を立てて飛び出す。アザゼルの四肢に絡みつき、口さえも犯す。
同じころ背後で聞こえる将門の声は、だんだん啜り泣きに変わっている。
時おり、桔梗の前がくすくす笑う声がそれに重なった。
鈴を転がすような可愛らしい姫君の声が、あまりに爽やかでこの妻戸の向こう……帳台の中でどんな淫靡なことが行われているかなど、この目で見た杏珠でさえ疑いたくなる。
うす雲ひとつない蠱惑的な深い夜。
こんな夜は、どんなことでも起こり得るのかもしれない。
杏珠の足もとでは、美しい悪魔が緑いろの妖しに嬲られてもがいている。新たな獲物を得た蔓が狂喜して笑っているような気がした。
fin.