「あにさま。あにさま……」
 幼いころに、よくそう呼んでいた桔梗の姿を思い出す。
 今よりもずっと小さいころだ。
 まだ振り分け髪の愛らしい桔梗が、後ろ手に何かを隠していた。
「あにさまに、いいものあげる」
 そう言って、差し出したものが青大将だったり、蛙だったり……。
 将門が腰を抜かすほど驚くのを見ては、手を叩いて歓んでいた。

 またあるときは、庭の池を覗き込んで桔梗が言う。
「あにさま。あにさま。取ってくだされ。わらわの扇が水に落ちましたゆえ」
 下人にやらせようとすると、泣きながら駄々をこねる。
「あれは、わらわの大切なものゆえ、他の誰にも触らせとうない。あにさまの手に触れられるならともかく、荒くれた男の手になどまっぴらじゃ」
 仕方がないので取ってやろうと、水の上に手を伸ばしたとたん、背後から蹴飛ばされて水に落ちた。
 池の水は、子供の足が届かぬほど深く幼い将門は、危うく溺れかけたのだ。
 あれで懲りて、泳ぎを学んだ。

 また別の日。あれは節句の時期か。伯父の家に招かれたおり、やはり池のそばで、桔梗呼ばわる。
「あにさま。あにさま。わらわの大切な毬をとってくだされ」
 二度目はあるまいと、背中を押そうとした桔梗を避けて庭石につかまると、その庭石がごろりと転がった。あやうく圧死しそうになったこともある。それで懲りて、今度は身体を鍛えた。

 さすがに三度目は、池のそばでどんなに桔梗が呼んでも、傍にも行かなかった。
 すると桔梗は強硬手段に出た。
「あにさまから、いただいたお歌なのに……」
 将門は、にわかに青ざめた。
 京の姫君たちのように手紙が欲しいの、歌が欲しいのと言い出したので、青い薄様の紙に書きつけてやったものだ。
 武士が歌などと……最初は鼻であしらっていたのだが、将門がよその女にちょいと手をだしたことを知って、桔梗が泣きべそをかいた。
 幼いばかりだと思っていた桔梗が、悋気を起こして暴れるでもなく、さめざめと泣く。その様子が哀れになって、我ながらぎこちない恋歌を書いてやったのが失敗だった。
 何度も死にかけたことのある池に、自ら飛び込んだ。遠くで下郎たちが騒ぐ声が聞こえたがそれどころではない。
「若様!! 危のうございます。その池には鮫がおります!!」
 何故、上総国にある伯父の屋敷にそんなものが放してあるのか。まさかと思っていたが、果たして鮫はいた。
 あやうく鮫に喰われそうになった将門を、手を打って桔梗は笑う。
 女の悋気の恐ろしさを思い知ったのは、あれが初めてのことであった。女の嫉妬は、地三尺の虫が死ぬほどというが……。桔梗の嫉妬は地獄の鬼でさえ、怯えるのではないか。