桔梗は、目を閉じたまま女からの接吻をねだる自分が、なんだか途方もないことしているような気になっていた。
まったく奇妙なことではあるが、なんとなくその場の状況にながされてこうなってしまった。杏珠というこの女に惑わされたのか。
この女が桔梗の前に現れたのは、昨夜のことであった。
夜……。
桔梗は夜が嫌いだった。
結婚しても、将門は桔梗の閨に訪れるのはほとんどなく。たまに共寝をしても、指一本触れるでもなくそのまま寝てしまう。それでいて他の女のもとへは行くのだ。
それが桔梗には、辛く悲しかった。
だからといって、それを口にするのは恥ずかしく情けない。
乳母がさりげなく慰めるのも、うっとうしい。他の誰にかまってもらうことも嫌だった。
だから、昨夜も桔梗は誰もいない部屋。帳台の中に一人でいた。
帳台は、何につけても京風を貴ぶ父が置いたものだ。板敷きの上に畳二帖を並べて敷き、四隅に柱を立て、天井には白絹張の明障子。四隅と前後左右正面に帳を垂らす。
京の姫君は、寝るだけでこんな狭苦しい空間を必要とするらしい。
だが、ひとりになりたいときには都合がよかった。
ひとりになったからといって、桔梗が泣くことはない。
めそめそと泣くのも腹立たしい。
けれど、胸に重い石を乗せられたような心地がたまらなかった。小次郎のことばかりが気にかかって他のことが手につかない。
この理不尽な思いをさせる小次郎をどうしてくれようか……。いくら呪ってみたところで、今の桔梗にはなすすべがない。
そこへ現れたのが、この杏珠であった。
まさしく鬼神のごとく、仄暗い帳台にこの女はいたのだ。
初めての接吻は、小次郎がよかったのに。
そう思ったが、ここで引くのも業腹な気がする。小次郎はすでに他の女と接吻どころかそれ以上の関係になっているのだ。
妻である自分には、触れもしないくせに。
小次郎を誑かした女どもの髪を引きむしってやりたい気になる。だが、それをしても小次郎は、相変わらず他の女に手を出すのを止めないだろう。
いんちきな禁厭(まじない)やら、呪禁やらを使ってもどうしようもない。子供のころのように、どんな悪戯をしても小次郎は、そのうち笑ってやりすごすようになった。
小次郎だけが勝手にひとりで大人になっていくようで、それさえも情けなく口惜しい。
もっともっと、きりきり舞いさせて苛めてやりたい。嫌われたってかまうものか。
無視されるより、ずっといい……。
目を閉じていると女の甘い香りが濃く匂う。どんな香木とも違う。異国の珍しい果物のような匂いだ。
小次郎ではないのか……そう思うと、なんだか切ない気分になってきたが、それもこれもみな小次郎が悪い。
ふいに近づいていた女の匂いが離れた。
桔梗の耳に突然、ぶちん、ぶちっと、何やら奇妙な水気のある不気味な音が聞こえた。
「き、桔梗から離れろぉおぉおおぉ!!!!」
小次郎が奇態な蔦をその身にまつわらせたまま仁王立ちになっている。
一瞬、桔梗はわが目を疑った。
単衣は裂け、ようやく腰紐で引っかかっているという状態。
手足にも首にも緑の蔦が巻きつき、身動きもできないと思っていたのに、どうやらあの蔦を引き千切ったらしい。
「この妖怪女。桔梗に何をしようとした!」
小次郎は、杏珠からすばやく桔梗を奪い獲った。横抱きにして吠え猛っている。
これほど激昂した小次郎を見たのは、初めてだった。
怒りのあまり顔を鬼のように真っ赤にして、こめかみに血管を浮き上がらせている。小次郎の右手の拳が振り上げられる。
杏珠は、その場から飛びのいた。床板の割れる音が響く。
人払いをしているせいで、その音を聞きつけて駆けつけてくる者はない。
そのまま杏珠が残っていれば、小次郎の拳で床ともども打ち砕かれるところだ。
息を継ぐ暇もなく、次の攻撃がきた。耳のすぐ横へ太刀が突き刺さる。もとから短い杏珠の髪が一房切れて散った。
「ずいぶんと舐めたまねをしてくれることよな」
優位にたった者の傲慢さで小次郎は言う。杏珠の丈の短い着物の裾から見える足が震えている。
片腕に己を抱いているとは思えぬほど小次郎は身軽だった。