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●明和8年(1771)
●安永元年(1772)
●安永2年(1773)
●安永5年(1776)
●安永6年(1777)
●安永7年(1778)
●安永8年(1779)
●安永9年(1780)
6月20日−奄美大島・ハンガリー人べニョフスキーが、カムチャッカを脱走し、マカオへの途中、薩摩国、阿波国
に寄り、ロシアの南下を警告する。
薩摩藩八代藩主重豪(しげひで)は家臣の言語・風俗・容貌を上方風に改めさせる。
また城下町の商業をさかんにするため、他国からの商人が移住することを奨励。
このとき山形の紅花商人源衛門一家も鹿児島に来て、木屋町(金主[かなう]町)で呉服・太物(麻・木綿)
商を営み、後の繁栄の基礎を築く。
翌年5月にかけて徳之島に疫病が流行し多数の死者をだす。
8月−薩摩藩が二之丸前の空地(現中央公園)に聖堂(造士[ぞうし]館)と武芸稽古所(演武館)を創設する。
また医学館の建設に着手し翌年完成。
重豪の三女茂姫(広大院)と徳川豊千代(11代将軍家斉)の縁組が決まる。家斉が将軍に就任すると
重豪は岳父(妻の父)となり、世に高輪下馬将軍と呼ばれるようになった。
徳之島がたびたび大風に襲われ,食糧欠乏に悩まされる。
奄美大島・喜界島・徳之島の三島砂糖の惣(総)買い入れの達しが出される。
8月−種子島に記録所が建てられる。
10月1日−桜島が大噴火して死者150余人、潰家500余戸、田畑の損高20万余右に及ぶ。桜島近海に3島が噴出し、
翌年4島が噴出した。燃(もえ)島はこのとき噴出した島。
10月−薩摩藩が鹿児島に明時館(天文館)を建て、中国やオランダ製の観測機器を買い入れて
天体を観測し、薩摩暦(さつまごよみ)を発行する。
重豪(しげひで)は城下や各外城(とじょう)に薬園を設置させるが、城下の一つは
吉野帯迫(おびざこ)に設けられる。
外城衆中(とじょうしゅうじゅう)を郷士または外城郷士と改め、天明3年には曖(あつかい)を
郷士年寄と改め、功才を名主(みょうしゅ)と改める。