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●寛延3年(1750)
●宝暦元年(1751)
●宝暦2年(1752)
●宝暦6年(1756)
●宝暦7年(1757)
●宝暦9年(1759)
●宝暦10年(1760)
12月−池大雅が紀州藩の儒官祇園南海を訪ね教えを乞う。
9月8日−紀州藩お抱えの儒者で,文人画の指導者紙園南海(76)没。
紀州藩、甚御勝手差支(はなはだおかってさしつかえ=財政が非常に窮迫している)につき倹約を厳命する。
紀州藩赤坂藩邸火災により、幕府から2万両を与えられる。
9月16日−17日にかけての暴風雨で淀川や紀ノ川などが氾濫し,八軒屋(はちけんや)堤が切れ、
吉田あたりや新内(あうち)中屋敷、宇治屋敷等は軒まで水つき、海辺に死体が1,000人余り打ち寄せられる。
この年,幕府が,紀伊高野山大徳院修復費と木材のほかに元金を与え,
これを村々へ貸し付けた利息で以降の修繕を賄うことを許可する。
9月25日−大坂から名古屋送りの品を積んだ廻船が,志摩大王崎沖で難破し,早田浦へたどりつく。
11月−梶取屋治右衛門による日本初の鯨の専門書「鯨志」が刊行される。