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陸奥弘前東照権現 |
→弘前大円寺(最勝院)のページ中、附:若干の弘前の寺社→弘前東照権現の項を参照。 |
陸奥仙台東照権現 |
→陸奥大崎八幡別当龍宝寺のページ中「仙台東照宮康国寺仙岳院」を参照。 |
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上野世良田東照権現 |
長楽寺は徳川氏の開創、家康は天海に命じ寺を復興させる。寛永17年(1640)天海、家光に請い、元和造営の旧奥社拝殿・唐門・木造多宝塔を移建する。つまり長楽寺に東照権現を勧請して成立する。
→上野世良田東照権現 |
下野日光山東照権現 |
元和3年(1617):家康の遺骸が久能山より、霊地日光山に遷る。徳川秀忠が東照大権現を創建する。
→日光山東照権現 |
常陸常磐山東照権現 |
元和7年(1621)頼房が、霊松山(元禄年中光圀により常磐山と改称する)に創建する。
中央に東照大権現、左に山王権現、右に麻多羅神(日吉大神と同神と云う)を祀り、「三所権現」と称する。
元和10年台徳院霊屋を建立、その後、歴代将軍の霊が相殿として祀られる。
別当は大照寺であったが、天保14年(1844)斉昭によって寺僧は罷免され、祭祀は神式に改められ、左右の配神二座が除去される。
明治8年県社、社殿は創建時のものが残り国宝であったが、昭和20年戦災により焼失する。
常磐山東照宮・水戸東照宮 |
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武蔵中爪普光寺 |
武蔵中爪普光寺:比企郡小川町中爪
https://yakuyoke.site/history/ |
武蔵川越仙波東照権現 |
元和3年(1617)家康(遺骸)の久能山から日光山への遷座の途中、川越喜多院に4日間逗留して供養。
寛永10年(1633)天海が喜多院の一画に東照宮を創建。これが仙波東照権現である。
→武蔵仙波東照権現 |
武蔵浅草東照権現 |
元和4年(1618)日光造営を受けて、当時幕府の増上寺と並ぶ重要寺院であった浅草寺においても東照宮の建立が開始される。
寛永8年浅草寺炎上。すぐさま寛永の造営が行われ、東照宮などが再営される。
一方幕府による寛永寺の造営が開始され、寛永13年江戸城内紅葉山山王之社が寛永寺観理院に移転、その後紅葉山には東照宮が創建され、浅草寺東照宮神体が江戸城内紅葉山東照宮に遷座する。
寛永19年浅草寺は再び全焼。その後の慶安度造営では東照宮社殿は造営されず 、廃堂となる。
→武蔵浅草東照権現 |
江戸城紅葉山東照大権現宮 |
2024/06/17追加: 詳細は未調査。 ●江戸圖屏風:徳川幕府創成期の景観
江戸図屏風は江戸期初頭(徳川幕府創成期である家光の頃)の江戸を描いた貴重な江戸圖とされる。
国立歴史民俗博物館>江戸図屏風 より転載 江戸圖屏風・紅葉山東照大権現宮:右叟・左上方(江戸城天守閣上方)に描かれる。 |
武蔵上野寛永寺東照権現 |
寛永4年(1627)藤堂高虎が上野の高虎家敷に創建する。これは元和2年(1616)家康遺命と云う。
慶安4年(1651)家光が社殿を改築、この社殿が現存する。
→武蔵上野寛永寺東照権現 |
武蔵芝増上寺東照大権現・安国殿 |
元和2年(1616)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言し、翌年社殿が増上寺境内に完成する。この社殿は家康の法名から安国殿と称された。神像は駿府城にて祭祀していた家康「寿像」を安置する。
寛永10年(1633)家光が新社殿を造営、旧社殿は開山堂となる。
寛永18年(1641)移転改築がなされ、駿府城惣門、福岡藩主黒田忠之が寄進した鳥居、拝殿、唐門、透塀が造営される。
明治の神仏分離の処置により、増上寺の抵抗を排除し、芝東照宮が捏造される。
昭和20年戦災によって灰燼に帰す。(「寿像」は残る)昭和44年現社殿再建。 2024/06/17追加:
●江戸圖屏風:徳川幕府創成期の景観
江戸図屏風は江戸期初頭(徳川幕府創成期である家光の頃)の江戸を描いた貴重な江戸圖とされる。 国立歴史民俗博物館>江戸図屏風 より転載
江戸図屏風・芝増上寺:右叟・中央やや右に描かれる。
後述するように、五重塔、台徳院殿御廟所、台徳院殿御成門、台徳院殿御佛殿、台徳院殿勅額門、崇徳院殿御灵屋、東照大権現宮、増上寺堂宇などが描かれる。
本図では、東照大権現宮は増上寺北側に描かれ、江戸名所圖繪で描かれる「安国殿」とは別もののようである。
上記で云う寛永10年家光が新社殿を造営という社殿なのであろうか。(要調査)
→武蔵芝増上寺安国殿 |
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駿河久能山東照権現 |
→駿河久能山東照権現 |
駿府圓山東照権現 |
家康死後(元和2年没)、駿府城内に家康が祀られる。
元和8年(1622)駿府城内の「東照宮」は府中浅間社別當惣持院境内に遷される、これが圓山東照権現の始りという。(「駿国雑誌」「安東村」)
惣持院は天海が宿所とするという。 明治元年神仏分離の処置で惣持院は廃寺、東照宮のみ残る。 明治8年東照宮は村社となる。
明治33年一社一村の令により、隣村の八雲社を合祀し、東雲社と改称する。(東雲は「しののめ」ではなく「とううん」と発する。)
平成17年(2005)放火により東雲社(圓山東照宮)は全焼する。 平成20年東雲社は小祠ながら、再建される。
なお、 東照大権現坐像が現存する。 社殿は平成17年焼失するも、どういう事情かは不明であるが、本像は現存する。
静岡市有形文化財に指定される。
東照大権現坐像の像高:37.5cm、檜による寄木造、圓山東照宮に伝来、寛永20年は家康生誕100年であり、それを記念して造立か。
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東照大権現坐像
東照大権現坐像:左記拡大図
造底の墨書銘:次のとおり
天下安全萬民安楽 於駿州久能山開眼■■尊陽
奉刻彫(?)東照宮■ 種字(バイ)(薬師如来) 寛永20癸未暦(1643)
願主 駿府宮中玄陽院法印鎮宥 敬白 将軍家光公 武運長久子孫繁昌
※玄陽院は浅間社(新宮)別當 |
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三河鳳来寺東照権現 |
→三河鳳来寺東照権現 |
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佐渡蓮華峯寺 |
→佐渡蓮華峯寺:東照権現社と台徳院御霊屋の2棟を祀る。 |
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比叡山東照権現 |
→比叡山東照権現 |
南禅寺金地院東照権現 |
拝殿・石の間・本殿は重文。
徳川家康の遺言で建てられ、家康の遺髪と念持仏を祀る。
元和2年(1616)徳川家康は、側近の以心崇伝、南光坊天海、本多正純を召し、「(遺体は)久能山に納め奉り、御法会は江戸増上寺にて行はれ、霊牌は三州大樹寺に置れ、御周忌終て後下野国日光山へ小堂を営造して祭奠すべし。京都には南禅寺中金地院へ小堂をいとなみ、所司代はじめ武家の輩進拝せしむべし」と遺言したという(「徳川実紀」)。
寛永5年(1628)社殿造営。拝殿はいわゆる権現造で、総漆塗、石の間・本殿は軸部を丹で、壁や扉は白・黄・緑といった極彩色で彩られる。拝殿天井には狩野探幽の「鳴龍」が描かれ、さらにその欄間には土佐光起画・青蓮院宮尊純法親王の書になる「三十六歌仙」額が掲げられる。
江戸期には京都所司代の番所が置かれていたという。
元禄6年(1693)幕府により1千両をかけて社殿回りの修復と御門廊下の新設が行われる。
正徳4年(1714)幕府により社殿回り、門柵の修理が行われる。社殿は「東照宮御宮、御幣殿、御拝殿、御廊下、御門、御供所、南指出、表御門、御唐門、御成御門」(「京都御役所向大概覚書」)という。
2021/09/09撮影:
金地院東照宮門1 金地院東照宮門2 金地院東照宮門3 金地院東照宮門4
金地院東照宮門5 金地院東照宮門6
金地院東照宮手水舎 金地院東照宮参道 金地院東照宮参道・鳥居
金地院東照宮
金地院東照宮唐門1 金地院東照宮唐門2 金地院東照宮唐門3 金地院東照宮唐門4
金地院東照宮唐門5 金地院東照宮唐門6 金地院東照宮唐門7
金地院東照宮透塀1 金地院東照宮透塀2
金地院東照宮社殿1 金地院東照宮社殿2 金地院東照宮社殿3
金地院東照宮拝殿1 金地院東照宮拝殿2 金地院東照宮拝殿3 金地院東照宮拝殿4
金地院東照宮拝殿5 金地院東照宮拝殿6 金地院東照宮拝殿7 金地院東照宮拝殿8
金地院東照宮石間1 金地院東照宮石間2 金地院東照宮石間3
金地院東照宮本殿1 金地院東照宮本殿2 金地院東照宮本殿3 金地院東照宮本殿4
金地院東照宮御成門
2021/12/13追加: ●金地院東照宮1/10模型
国立科学博物館・理工学研究部・理工電子資料館 に 金地院東照宮1/10模型 がある。
なお 本模型(重要文化財東照宮 金地院模型)製作は「尾田組」である。
金地院東照宮1/10模型
◆金地院
応永年間(1394 - 1428)洛北鷹峯に創建され、慶長10年(1605)頃に以心崇伝によって現在地に再興される。
方丈(重文)は慶長16年(1611)伏見城遺構を移築、塀重門は明智光秀に因む門で、明治期大徳寺方丈から移築。ここに建てられていた唐門は豊国社に移築され、国宝として現存する。
開山堂は以心崇伝塔所。
2021/09/09撮影:
金地院山門 金地院塀重門 金地院庫裡
金地院方丈1 金地院方丈2 金地院方丈3 金地院方丈4 金地院方丈5
金地院方丈6 金地院方丈庭園1 金地院方丈庭園2 金地院方丈庭園3
金地院開山堂1 金地院開山堂2 金地院開山堂3 金地院開山堂4
金地院開山堂5 金地院開山堂6 金地院開山堂7
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山城東本願寺東照権現 |
2010/11/01追加:2009年03月報道発表 より
文久2年(1862)「東照宮御霊殿」落慶、徳川家茂の入洛に合わせて建立される。
幕末においても幕府と東本願寺は昵懇であったというべきかあるいは幕府政治の行き詰まりで藁をも掴む窮余の策であったというべきなのか。
2年後の元治元年(1684)蛤御門の変で焼失し現存せず。
建立場所は阿弥陀堂西南の東西60m南北30mほどの敷地(現在の同朋会館の場所であろう)で、本殿・拝殿・廻廊・唐門・築地塀からなる。
東本願寺東照権現1 東本願寺東照権現2:東本願寺蔵、東照宮御霊殿鳥瞰図
→東本願寺 |
山城御香宮東照権現 |
山城御香宮に非常に小規模な東照宮がある。社殿の彩色が鮮やかなので近年(2001年以前)に修復されたものと思われる。沿革などは情報がなく不明。
東照宮鳥居の年紀は安政5年(1858)、東照宮御宝前石燈籠2基のうちの1基の年紀は嘉永辛亥年(4年1851)が刻まれ、以上によれば幕命が危うくなった幕末頃急遽造営されたものなのか。(伏見奉行所は当宮の南にある)
あるいは、御香宮は家康との関係が深く、また頼宣、頼房は伏見で生誕したといわれ、御香宮は紀州・水戸の寄進もあったようであり、その関係から東照権現を祀っているのであろうか。
→山城御香宮
2001/12/16撮影:
東照宮本殿向拝(非常に小規模であるが、近年修理・復元されたと思われる。
)
2005/02/04撮影:
御香宮内東照宮1
御香宮内東照宮2
御香宮内東照宮3
御香宮内東照宮4
2010/11/06撮影:
御香宮内東照宮5 御香宮内東照宮6
2014/04/13撮影:
御香宮内東照宮11 御香宮内東照宮12 御香宮内東照宮13 御香宮内東照宮14
御香宮内東照宮15 御香宮内東照宮16 御香宮内東照宮17
2020/07/18追加 安永9年(1780)の「都名所圖繪・御香宮」では、東照宮は本殿の向かって右後(北東)に描かれている。
現在この地には東照大権現ならね豊国大明神が皮肉のように祀られている。
しかし、なぜ、こうなったのかは分からない、また何時ころ現在地の遷宮したのかも分からない。
少なくとも、江戸中期には東照宮は存在し、また本殿の向かって右後(北東)にあったことは確かであろう。 |
山城志水正法寺 |
東照権現堂が存在する。 →山城志水正法寺;正法寺は相応院(徳川家康側室・徳川義直生母)菩提寺である。 |
大和東大寺東照宮 |
東大寺鎮守八幡宮神楽所の一郭に東照宮社殿が現存する。
明治の神仏分離の処置で東大寺東照宮(現天皇殿)から放擲され、鎮守八幡宮に移動するという。 →東大寺東照宮 |
攝津川崎東照宮 |
明治維新の神仏判然の処置で、廃社となり廃絶する。 |
攝津四天王寺東照宮 |
用明宮が江戸期には東照宮となり、明治維新後は用明殿として祭神(用明天王ほか六躯)が復活する。
明治の神仏判然令などにより、東照宮は廃される。 →摂津四天王寺>用明殿の項を参照 |
紀伊東照権現 |
→紀伊東照権現 |
.紀伊高野山 |
→高野山興山寺東照宮
→高野山大徳院東照宮 |
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因幡東照宮 |
鳥取藩初代池田光仲(徳川家康曾孫)によって造営され、慶安3年(1650)竣工する。 祭神は、勿論、東照大権現である。
本殿(桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺)・拝殿・幣殿・唐門は重文。
明治7年、国家神道の愚策で樗谿神社と改称、配神として池田忠継・忠雄・光仲・慶徳を合祀する。
平成23年、どういう頭の構造か見てみたいが、鳥取東照宮と改称する。
なお、別當は大雲院であり、現在は鳥取市立川町に移転して現存する。
2021/06/07撮影:
因幡東照宮手水舎
因幡東照宮随身門1 因幡東照宮随身門2 因幡東照宮随身門3
因幡東照宮随身門内
拝殿・幣殿・唐門・本殿
因幡東照宮拝殿幣殿1 因幡東照宮拝殿幣殿2 因幡東照宮拝殿幣殿3
因幡東照宮拝殿1 因幡東照宮拝殿2 因幡東照宮拝殿3 因幡東照宮拝殿4
因幡東照宮拝殿5 因幡東照宮幣殿1 因幡東照宮幣殿2
因幡東照宮唐門本殿
因幡東照宮唐門1 因幡東照宮唐門2 因幡東照宮唐門3 因幡東照宮唐門4
因幡東照宮唐門5 因幡東照宮唐門6
因幡東照宮本殿11 因幡東照宮本殿12 因幡東照宮本殿13:上図拡大図
因幡東照宮本殿14 因幡東照宮本殿15 因幡東照宮本殿16 因幡東照宮本殿17
因幡東照宮本殿18 因幡東照宮本殿19 因幡東照宮本殿20 因幡東照宮本殿21
因幡東照宮本殿22 因幡東照宮本殿23 因幡東照宮本殿24 因幡東照宮本殿25
因幡東照宮本殿26 因幡東照宮本殿27 |
備前東照権現 |
正保2年(1645)岡山藩主池田光政、東山玉井宮の地に東照宮を勧進する。
玉井宮はもともと児島郡小串村光明崎(今は米崎)に鎮座するも、応徳2年(1085)上道郡門田の山中(東山)に移転遷座する。
東照宮勧進に伴い、山頂の玉井宮は南側の一段下に移築され、その跡地に東照宮が建立され、その東照宮本殿は現存する。
明治14年東照宮と玉井宮は合祀され、玉井宮東照宮と号する。
明治33年旧玉井宮の建物は移築され、拝殿が建立される。
昭和22年操山山頂の三勲神社を合祀する。
※三勲神社とは三勲の名の示す通り、明治8年に国家神道の教義により岡山の国家主義者たちによって創建された和気清麻呂、楠木正行、児島高徳を祭神とする神社である。
平成元年幣拝殿・神饌所・社務所・参集所などが焼失する。
本殿は正保元年(1644)竣工、東照宮本殿である。桁行三間、梁間二間、入母屋造、屋根銅板葺。
2014/02/15撮影:
備前東照権現本殿11 備前東照権現本殿12 備前東照権現本殿13 備前東照権現本殿14
備前東照権現本殿15 備前東照権現本殿16 備前東照権現本殿17 備前東照権現本殿18
備前東照権現本殿19 備前東照権現本殿20
備前東照権現本殿平面図 備前東照権現随身門 |
安芸尾長東照権現 (広島東照宮) |
二葉山山麓にあり、尾長東照宮とも称する。
慶安元年(1648)広島藩2代藩主浅野光晟によって創建される。 社領300石が付与される。
光晟生母が家康三女正清院(振姫)であること、諸国の大名が争って東照宮を建立していたこと、浅野家の権威を広島藩内に示すことなどが建立の動機であろう。
昭和20年8月6日被爆、爆心から2.1km。拝殿・瑞垣・本殿・神馬舎などは倒壊・焼失。
唐門・翼廊・手水舎・本地堂・御供所・脇門は被爆による焼失を免れ、これは慶安5年の創建時の建築である。
昭和59年拝殿・本殿が復興する。 2024年0月本地堂解体修理工事竣工、施工は広島・株式会社砂原組
本地堂は方3間、宝形造・屋根本瓦葺、本尊は東照大権現の本地薬師如来であったが、神仏分離の処置で須弥壇と共に撤去されたのであろう。
修理の過程で本地堂は全体に春慶塗が施されていたことが判明し、内外が春慶塗で復元される。
なお、東照宮で本地堂が残存するのは当所だけという。 別當: 別當は長尾山松栄寺であったという。
明治の神仏分離でおそらく廃寺となったと思われるが、Web上には全く情報がなく、詳しい経緯や堂宇・仏像などの行方などは全く分からない。
僅かに、松栄寺は江戸上野東叡山(寛永寺)末といい、東照宮の西側にあったという。
○サイト:国際平和拠点ひろしま>被災を免れたご神体・平和の神様・徳川家康を祀る広島東照宮 より
被爆・焼失前の社殿
大正期の東照宮:拝殿・中門・瑞垣・本殿の構成であった。
本殿は仏堂風の入母屋造で、向拝には唐破風を付設。屋根は何れも檜皮葺と思われる。 ◆本地堂 修復中で実見できず。
□修復前の本地堂
○GoogleMap、から転載
修復前本地堂01:2019.09写真掲載 修復前本地堂02:2019.11写真掲載
修復前本地堂03:2020.03写真掲載 修復前本地堂04:2021.04写真掲載
○広島東照宮ルーフレット(本地堂保存修理工事・奉賛依頼) から転載
修復前本地堂05
○2023/06/19撮影:
修復前本地堂05:現地説明板を撮影
□修復後の本地堂
○(株)砂原組サイトから転載
修復後本地堂11:上図拡大図 修復後本地堂12 修復後本地堂13
○YouTube:東照宮本地堂全解体保存修理【#25】<(株)砂原組> から転載
修復後本地堂14 修復後本地堂15 修復後本地堂16 修復後本地堂17
修復後本地堂18 修復後本地堂19 修復後本地堂20 修復後本地堂21
○YouTube:広テレ!News>【広島東照宮・本地堂】建立当時の姿がよみがえる から転載
修復後本地堂22 修復後本地堂23 修復後本地堂24
修復後本地堂25 修復後本地堂26 修復後本地堂27
◆東照宮社殿
2023/06/19撮影:
広島東照宮社頭1:鳥居は慶安元年(1648)三次藩主・浅野長治の寄贈という。
広島東照宮社頭2 広島東照宮鳥居扁額
参道の両脇にそれぞれ17基の石燈籠が並ぶ
広島東照宮石燈籠1 広島東照宮石燈籠2
広島東照宮石燈籠3 広島東照宮石燈籠4 広島東照宮石燈籠5
広島東照宮石階・唐門・翼廊1 広島東照宮石階・唐門・翼廊2 広島東照宮唐門・翼廊
広島東照宮唐門1 広島東照宮唐門2
広島東照宮唐門扁額:長尾山は別當松栄寺の山号という。
広島東照宮唐門3 広島東照宮唐門4 広島東照宮唐門5 広島東照宮唐門6
広島東照宮翼廊1 広島東照宮翼廊2 広島東照宮翼廊3
広島東照宮翼廊4 広島東照宮翼廊4 広島東照宮翼廊6
広島東照宮手水舎1 広島東照宮手水舎2 広島東照宮手水舎3
広島東照宮御供所
広島東照宮拝殿
広島東照宮本殿1 広島東照宮本殿2 広島東照宮本殿3 広島東照宮本殿4
広島東照宮神輿庫
「尾長」の由来
現在広島東照宮の西隣には広島神社庁があるが、その場所には古来マツの老木があり、この老木の幹の穴に黒蛇が住み着いたという。
その情景に人々はそのマツを「尾長」と呼び祠を建て祭祀する。それ故この地一帯は尾長と呼ばれるようになったという。
なおその祠は後に”尾長神社”として社となるが、現在は存在しないという。
別當の山号「長尾山」と紛らわしいが、この付近の地名と別當の山号とは無関係と思われる。
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周防氷上山東照宮 |
築山神社・氷上山東照宮の遷移
慶長10年(1605)毛利輝元、上宇野令村多賀社宮司・高橋民部丞言延に命じて、多賀社境内に宝現霊社を創建せしめる。
※多賀社とは今の山口大神宮と理解しているが、多分そうであろうと思う。
その祭神は大内義隆、配神は嫡男・大内義尊以下、遭難・殉死・忠死した諸公卿諸士28人、相殿には大内氏世々霊を祀るというので、その目的は、表向きには大内氏などの鎮魂と思われる。
その後、この宝現霊社は龍福寺の境内に移され、社領は没収される。
言延の孫・延実はこのことを嘆き、遷座を訴えて、文政11年(1828)、後河原(「趣味の山口」、「山口県神社誌」では字片岡)に社殿を遷す。
明治3年宝現霊社は現在地・築山館跡に遷され、社殿には氷上山興隆寺山内の東照宮を移し、築山神社と改号する。
東照宮の東照大権現は築山神社に合祀される。 明治4年市川少輔七郎の霊が合祀される。
※築山館跡は28代大内教弘<応永27年(1420)~寛正6年(1465)>が築いた大内氏の別邸の跡地であり、現在も西方・北方に土塁を残す。。
※氷上山東照宮は、当時幕府が諸藩の東照宮の所在調査を行ったのが契機で、萩藩が造営に到った経緯があり、当時の幕府と藩の関係(政治的思惑・駆引)を示すものと思われる。
↓ 徳川家の出来事と長門萩藩の反応について、ページ「氷上山興隆寺HP>氷上山興隆寺・北辰妙見社の歴史」 から、抜粋する。
(※萩藩としては、幕府に対してかなり配慮はしていたものと思われる。) 慶安4年(1651)
徳川家光(大猷院)逝去、毛利綱広(元禄2年/1689逝去)その霊牌を氷上山に安置し百石を寄進 寛文元年(1661)
氷上山に大猷院殿(家光)の牌殿を建立 延宝8年(1680)
徳川家綱(厳有院)逝去、翌年氷上山に霊牌を安置し開作地二十町(二百石)寄附 元禄15年 (1702)
伝、氷上山薬師堂再建(※左記だけでは判断不能であるが、薬師堂とは家康本地堂である可能性あり?) 享保3年(1718)
氷上山真光院、幕府累代の位牌安置により位牌料二百石を加算し、五百石とする 享保20年(1735)
日光東照宮御神影を氷上山護摩堂に安置 寛保元年(1741) 氷上山に東照宮を新築遷宮 文化12年(1815)
徳川家康200年祭により藩主斉煕、氷上山に参詣 明治2年(1869) 東照宮の社殿を山口の築山神社へ移築
明治3年(1870) 氷上山東照宮を山口宝現霊社に合祀
何れにしても、氷上山東照宮社殿は築山神社社殿として現存するのは喜ばしいことである。
氷上山興隆寺時代の東照宮配置は次の絵図で分かる。 (氷上山境内図)・・・下記の拙ページに掲載
氷上山興隆寺に関しては拙ページ・氷上山興隆寺 を参照
▽築山神社社殿:旧氷上山東照宮社殿
本殿【市文】:桁行三間、梁間二間 拝殿【市文】:桁行三間、梁間二間、入母屋造、向拝一間、向唐破風造、屋根鉄板葺
以上は寛保2年(1742)氷上山興隆寺に建立された姿のままという。
拝殿にはかつて接続していた釣屋(石の間の意であろう)の痕跡があり、釣屋の存在を示す。
幣殿(現在ある桟瓦葺部分)は移築時に新築されたものである。
少し前までは老朽化が激しく、応急処理がなされたいたが、近年修築され、平成29年(2017)市文となる。
少し前の社殿の状態については次のような様子であった。 腐朽した旧氷上山東照宮社殿1 腐朽した旧氷上山東照宮社殿2
:何れも、パージ「旅人のブログ>築山神社(山口県山口市)」 より転載 ▽旧氷上山東照宮社殿(現・築山神社)の現況
築山館土塁1 築山館土塁2
なお、現在龍福寺境内山門入っ直ぐに宝現霊社という小祠がある。
龍福寺が大内義隆の菩提所であることそして宝現霊社は龍福寺の境内に移されたということであるから、龍福寺に宝現霊社があるのはある意味自然なことであろう。
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筑前荒戸山東照宮 |
→明治以降の五重塔の福岡大圓寺の項(564)を参照、明治維新後東照宮は廃社、別当なども全て廃寺。 |
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