参考文献:
【A】「相馬地方の妙見信仰」(−千葉氏から相馬氏へ−)野馬追の里原町市立博物館企画展図録 第21集、千葉市立郷土博物館特別展図録、平成15年刊
【B】「千葉氏とその時代」(新世紀。市制施行80周年記念特別展)、千葉氏フォーラム実行委員会、平成13年


中村妙見山歓喜寺

以下は、「奥州中村藩における『お妙見さま』と相馬妙見歓喜寺について」、相馬妙見歓喜寺第53世 氏家拡譽
(【A】「相馬地方の妙見信仰」−千葉氏から相馬氏へ−:平成15年 所収) を要約。
 <但し、原本は歓喜寺様ご提供の「再構成版」を利用>

歓喜寺の草創は不詳とする。
文永5年(1268):西京宇治郡上醍醐松橋無量寿院(*1)の直末であったと云う。
元来は、行方郡大井邑岩迫(現在の相馬郡小高町)に在り、行方郷の元の郷主・古小高氏(藤原氏の一族で本姓・行方氏)累世の祈祷寺であったと伝える。
元亨3年(1323):相馬重胤の奥州下向に伴い、妙見菩薩像(相馬氏守護本尊)の正別当となる。
文明17年(1485):相馬高胤、歓喜寺に阿弥陀如来像・阿弥陀堂を寄進。(阿弥陀院と号する。)

慶長16年(1611):相馬利胤、中村城移城、妙見菩薩像も城内に遷座。
慶長17年:正別当歓喜寺、宇多郡中野邑熊野山(俗称清水歓喜寺山・現在の相馬市清水)に移転。

寛永20年(1643)北斗山妙光院の「奧之院」として、妙見祠(妙見堂)を現在地に建立遷座(現存)。
※造営及び屋根葺替棟札10枚(歓喜寺蔵)などによると、歓喜寺主僧が諸儀式大導師を務めるという。
 【A】建永20年妙見宮棟札(歓喜寺蔵):「奉造営妙見宮一宇御願円満 平義胤 別当歓喜寺16世法印俊盛」と読める。
※この妙見祠を現在、相馬中村神社本殿と称する。

江戸期の歓喜寺については
『相馬領真言本寺三個寺の第一なり。門末(末寺)凡そ百十余個寺』を統理し、寺料は『往古二百五十石余、慶長7年(1602)相馬封国没収のことあり[中略]延享4年(1747)百十五石六斗九升、以来これに同じ』(「奥相志」)と記されると云う。

明治3年:神仏分離の処置で、中村城丑寅方角の現在地に移寺(奥州中村領真言本寺三個寺であった古刹安養寺跡地)。
相馬妙見菩薩像※も遷座し、歓喜寺本堂に祀られる。
なお、現在の相馬中村神社社務所は歓喜寺末寺「北斗山妙光院」を転用すると云う。
 【A】「妙見境内図」(江戸期・歓喜寺蔵)では、妙見本殿・幣殿・拝殿、石段・参道、石暗下の妙光院等の配置が色分されて見事に示される。

 ※相馬妙見菩薩像について、歓喜寺第53世氏家拡譽師は以下のように考察される。
『この相馬妙見菩薩像は、重胤公によって嘉暦年間(1326−8)に小高城築舘の砌、新たに勧請されたものを寛永20年の妙見祠(妙見堂)建立遷座に際して、現在の「剣を両手で下向きに衝立てるお姿」に修補改彫されたと伝えられます。この尊像は最も古い妙見菩薩のお姿のひとつでありますと同時に、妙見菩薩すなわち北斗七星(道場観としては主に台密では北極星が本尊であるのに対して東密では北斗七星が本尊です)は北方の守護本尊であり、此の地を以て相馬領北限すなわち平定(決着)の地との強い決意の表徴としての尊像様式とも理解することができるのではないか。』
なお
相馬氏の太田から小高移館にあたり、妙見像は重たくなって遷すこと能わず、小高では新しく勧請されたと伝える。
であるならば、太田妙見菩薩像は下総から遷座した像と思われる。
また、この小高妙見は中村に遷座する訳であるが、中村妙見菩薩像は、小高からの移転の際、小高に新たに勧請された像が遷座すると云う。従って、小高妙見金性寺 が奉持する妙見像は中村遷座後に小高妙見に新造された像であると推定できる。

明治5年、神仏分離の処置で、仏堂であった妙見祠は「中村神社」とされ、さらに明治28年に現在の「相馬中村神社」に改称。
昭和15年:相馬中村神社「妙見大明神」扁額の取り外し。
また同時に、「駅の名所案内や各観光案内から相馬中村神社を指しての『相馬三妙見の一』は全て消され」たとされる。

相馬中村神社に「妙見大明神」扁額が掲げられていることについて、当時の歓喜寺住職が抗議もしくは意見具申をなし、この問題は神社庁と文部省に持込まれ、その裁可で、扁額は降されることと なると云う。
往時の貴族院議員・安藤正純代議士(戦後、鳩山内閣文部大臣)の国会質問趣旨は以下の通り。
『妙見菩薩が祀られてもいない相馬中村神社の本殿に「妙見大明神」の扁額が堂々と掲げられているのは参拝者を欺く行為ではないか。』
扁額は東郷平八郎元帥揮毫(*2)であった。
但し、現在は福島県知事佐藤栄作久の揮毫した扁額が掲げられていると云う。

○昭和15年10月15日「河北新報(と思われる)」記事(歓喜寺様ご提供)要旨:
相馬の中村神社
  妙見様の額を外す
    神様異変 信仰家に波紋
歓喜寺住持氏家義興師より「妙見様は昔から歓喜寺に安置されてゐるのであって中村神社には祀られてない。」と内務大臣、神社局長、知事宛に「不条理」を具申。その結果県当局の意見もあり中村町長が仲に入って、神社の鳥居に掲げてあった有名な「妙見大明神」の大額を取り外してしまった。
県の大高社寺兵事課長の談:中村、太田、小高の所謂妙見様は正確には天之御中主神を祭神とする中村神社、太田神社、小高神社であるのだが、(中略)妙見大明神の大額は地元で自発的に取り外したが、当局としては正確な社号で呼びたいと考へる。
○発行年月日・新聞名不詳であるが、上記と同時期と推定される新聞記事(歓喜寺様ご提供)要旨:
妙見神社異変
  本家争ひの最中に
    東郷元帥揮毫の額は何処へ
中村神社・・は別名を妙見神社と呼び地方民の信仰篤い神社であるが一昨年から妙見本尊はこちらにあると・・歓喜寺住職氏家義興師が抗議を続け・・・・・同神社朱塗鳥居にあげられてあった東郷元帥揮毫の神額「妙見大明神」がいつの間にか取り外されてゐる・・・
県社寺兵事課では、中村神社は明治5年の社号改正から呼ぶようになったが、それ以前は地方民によって妙見宮と呼びならされてゐましたから、地方民は中村神社と呼ぶよりは妙見神社と呼んだ方が分かりが早い・・・・(詳しい事情は分からないが)中村神社といったり妙見神社といったりしては煩わしいから妙見大明神の額を自発的に外したのではないか。

昭和32年7月10・11日:妙見菩薩本尊を城跡に迎えて歓喜寺と相馬中村神社の合同護摩祈祷(*3)が行われる。
僧侶が護摩修法読経、宮司が祝詞という形式(*4)であったと云う。
 
 ※江戸期の宮司の関わりは不詳であり、形式も不明であるが、江戸期にも宮司は常勤していたと思われる。

歓喜寺本堂(内陣)並びに尊像の様子:
歓喜寺本堂の正面奥の厨子には阿弥陀如来像、向かって右奥の厨子には不動明王像、左奥の厨子には毘沙門天像 を祀り、これらの三尊は永久に開扉されない絶対秘仏とされる。
この厨子の前の宮殿に相馬妙見菩薩像が安置される。
妙見菩薩は歴代藩主も容易に拝すことが出来なかった秘仏で、最近の開扉は昭和24年盛岡永福寺(南部藩筆頭寺)に出開帳した記録があるのと、平成11年「天覧野馬追」に際し、相馬家44代当主以下が拝したのが最後 とされる。
 ※永福寺出開帳の写真は【A】に掲載がある。

歓喜寺には、多くの什宝(以下)が伝えられる。

相馬家系図
下総国千葉郷妙見寺大縁起絵巻 二巻 紙本・着色:
 天文年間(1532〜1555)下総で作製され、坂尾栄福寺蔵の原本(現在は亡失)から
 寛文2年(1625) <千葉妙見寺19世光雅によって作成>に模写したと伝える。
太田妙見菩薩画像 一幅 絹本・着色(江戸)
妙見菩薩十二神将画像 一幅 紙本・着色(江戸)
六字経曼荼羅 一幅 絹本・着色(室町)
九曜尊画像 九幅 紙本・着色(江戸)
北斗真形図 九幅 絹本・着色(江戸)
文昌帝君像 一幅 絹本・着色(江戸)
妙見信仰関係版本(江戸)
 (妙見経関連の版木(約80帖):北辰菩薩陀羅尼経・妙見経祕要鈔・妙見経直解・妙見経愚解鈔などから成る。)
妙見宮棟札:社殿完成時の寛永20年を含む10枚。
絹本著色名体不離阿弥陀画像(鎌倉)
紅頗黎色阿弥陀如来像(江戸期)
聖観音立像(鎌倉期)
白衣観音画像、愛染明王画像、高祖画像(尊像名不詳)、開山阿仙上人画像等の室町期以前の掛軸などを有する。
 ※上記什宝の多くは【A】及び【B】に掲載され解説がある。

また歓喜寺は江戸期には豊山派檀林であった。この伝統は昭和43年まで豊山派東北専修学院として継承される。

注:
西京宇治郡上醍醐松橋無量寿院(*1)
 :出典不明、西京宇治郡の表記は寡聞にして不明であるが、山城宇治郡上醍醐無量寿院と解される。
 :光台院南東1丁に無量寿院がある。康治年中に元海僧都が建立、松橋流の本寺でありまた五門跡の一つであった。
  広壮な堂宇があったが、明治39年火災のため烏有に帰す。「醍醐山小史」醍醐寺、昭和59年
東郷平八郎元帥揮毫(*2)
 :東郷元帥は、戊辰の役で、維新政府海軍士官として、奥州・函館を転戦した経歴を持つ。
合同護摩祈祷(*3)
 :この合同護摩祈祷は、この時だけで、継続はしていないと思われる。
 :参考:石清水再興放生会:山城石清水八幡宮では不完全ながら、
  神仏分離後137年ぶりに神仏分離以前の形である放生会が再興さる。
江戸期の形式(*4)
 :神職の存在あるいは「江戸期にも宮司祝詞ということがあったのかどうか」は未確認。

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