☆瑜伽山蓮台寺多宝塔
2011/07/03撮影:
備前瑜伽山多宝塔11 備前瑜伽山多宝塔12 備前瑜伽山多宝塔13
☆瑜伽山蓮台寺略歴
行基の開基で、坂上田村麻呂の再興、あるいは報恩大師開基(「金山寺文書」)ともいう。
□「蓮台寺縁起」:天平5年勅願により行基が開山という。
行基が当地に立ち寄った時、夢告を受ける。
「この山(瑜伽山)は無双の霊地にして、梵刹を開き、山密瑜伽の行を行い、我(夢告の主の神人)を瑜伽大権現として祀るべし」と。
行基は瑜伽山に大般若経600巻を書き移し埋め、一寺を建立した。これが経尾山瑜伽寺摩尼殊院で、これに瑜伽大権現を付設し、自ら刻んだ阿弥陀・薬師の二尊を祀った。またこの山の西方に怪光を放つ香木があり、それを十一面観音に刻み本尊としたのが、秘仏として今に伝わるという。
※瑜伽大権現の本地は阿弥陀如来・薬師如来と云う。(阿弥陀如来・薬師如来が垂迹し仮に姿を現したのが瑜伽大権現と云う。)
□「新熊野権現御伝記」:瑜伽大権現の地(児島郡山村の地に権現の御社を建立、本地観音の尊像を安置し、新熊野山瑜伽寺と号す。近年改めて瑜伽山蓮台寺と号し、開山の由来を失えり。木見の諸興寺と瑜伽寺と当社(熊野十二社権現)と合わせ新熊野三社とす。
□「長床縁由興廃伝(五流尊瀧院)」:新熊野那智山は児島郡山村の地に権現の社を建て本地仏を営み、観音の聖像を安置し、新熊野山瑜伽寺と号す。・・・・近来改めて瑜伽山蓮台寺と号す。諸興寺瑜伽寺の二所を当社本宮に合して熊野三社とす。
本社証誠伝一本社にては阿弥陀、新宮にては薬師、那智にては千手を本地とす。
→備前熊野十二社権現
室町期、讃岐與田寺増吽僧正、伽藍を現在の位置に建立し、中興する。
☆近世の瑜伽山蓮台寺
近世特に江戸後期には岡山藩池田氏の庇護を受け、現在の伽藍が整えられる。
江戸期の境内木版画:所蔵版画を転載(1960年代後半に蓮台寺から入手と記憶するも不確か)
□江戸期の境内木版画 木版画五重塔(部分図)
木版画多宝塔(部分図)
かっては五重塔も存在(寛文の頃倒壊)したと云う。
「日本の塔総観・中」中西亨では「五重塔跡という位置が残る」とするも、未見・未調査。
□「中国名所圖會」巻之2:瑜伽山
記事:「多宝塔(東の山の上にあり。この山は祇園山といふ。二重にして方3間。九輪まで高さ12間3尺5寸)本尊大日如来。」
その他に、仏堂として仁王門・鐘楼・護摩堂・本堂・大師堂・御影堂・本坊蓮台寺・乗蔵院・最勝院等が存在する。
瑜伽山全図
□「金毘羅参詣名所圖會」:瑜伽山蓮台寺
記事:「金堂(未再建調)、多宝塔・・・」
「往昔は本社の山上に五重の大塔ならびに堂舎これに列なり、本堂の後に金堂・・・巍々たりしが、後年廃して欠くる所多し・・・」
瑜伽山多宝塔部分図・・・
多宝塔は現存する。
瑜伽山五重塔部分図・・・上記記事のように
既に退転していた建物であった。
□現存伽藍
:▼は2001/12/29撮影、▽は2005/05/03撮影、◇は2011/07/03撮影
▽瑜伽山蓮台寺本堂:(観音堂):享保5年(1720)再建。本尊十一面観音。
本尊は総本堂に遷座する。
◇備前瑜伽山本堂2
▽瑜伽山蓮台寺客殿:寛政11年(1799)再建。9×5間の重層入母屋造本瓦葺きの大建築である。
▼瑜伽山蓮台寺客殿2
▼ 同 客殿3
◇瑜伽山客殿4 ◇瑜伽山客殿5 ◇瑜伽山玄関 ◇瑜伽山本坊? ◇瑜伽山客殿庫裏本坊?
▼瑜伽山蓮台寺大師堂:文化14年(1817)再建。大師像は総本堂に遷座する。
◇瑜伽山大師堂2
▽瑜伽山蓮台寺権現堂:神仏分離の時、
瑜伽大権現を奉安した本殿は由加神社として簒奪されるが、本尊瑜伽大権現を奉安するために、簒奪された本殿に代わるものとして明治初頭に新に建立される。
現在大権現は総本堂に遷座、現在では奥の院と称する。
◇瑜伽山権現堂2:現在修理中
▽瑜伽大権現本社1:瑜伽大権現本社:延宝2年(1674)の再建。元の瑜伽大権現本社。
瑜伽大権現拝殿:寛延元年(1748)再興。
▼瑜伽大権現本社2
◇瑜伽大権現本社3
◇瑜伽山参道石階1 ◇瑜伽山参道石階2
☆瑜伽山蓮台寺の神仏分離 参考:讃岐金毘羅大権現
明治6年神仏分離により、本殿・拝殿およびその付属施設は由加神社などと称し、分離する処置が画策・実行される。
明治14年、分離独立した由加神社は国家神道の序列である県社に堕す。
しかし、瑜伽山の諸堂宇の内の瑜伽大権現本社は神社として分離簒奪されたとはいえ、瑜伽山蓮台寺は存続する。
このことは、讃岐金毘羅大権現が平田派教学(復古神道)によって、金毘羅山全山が琴平神社として強制改宗させられた金毘羅山は違う結果となる。
即ち、金毘羅山では象頭山松尾寺は廃寺とされ、金毘羅山は殆ど寺院であった痕跡を留めないが、瑜伽山では、蓮台寺
が存続し、しかも瑜伽大権現は蓮台寺で祭祀されたため、今なお瑜伽山では大権現時代の姿を良く残す。
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由加山蓮台寺伽藍:左図拡大図:
平成3年撮影:「蓮の台」第97号(2004年)より転載。写真中央が、かっての瑜伽大権現本社(現由加神社)で、その左には鐘楼、権現堂、大客殿・方丈・庫裏、総本殿(これは近年の悪趣味な建築)、右には本堂(観音堂)、大師堂、多宝塔など多数の堂宇がある。
神仏分離もしくは近世末仁王門・護摩堂などは失うも、瑜伽山では、維新前の大権現時代の姿を今に良く伝える。 |
※現在、本尊十一面観音は本堂(観音堂)から「り総本殿」に遷座と云う。
※権現堂:神仏分離の時、瑜伽大権現を奉安するために、明治期に建立した堂である。
瑜伽大権現は明治の神仏分離の前までは瑜伽大殿(大権現本社)に祀られるが、明治の神仏分離の後はこの権現堂に祭られる。
なお現在大権現は「総本殿」に遷座と云う。
※近世に存在し今は無き仁王門、五重塔、通夜堂、金堂、護摩堂などは、神仏分離で取壊しとの見解(「岡山文庫144 由加山」)がある。
確かに、仁王門、護摩堂などはその可能性が高いであろうが、金堂は全く不詳、五重塔は寛文の頃倒壊と思わる。
幾つかの建物は権現堂石段下に移設されたとも伝える。
なお、神仏分離後、120年以上以上が経過するも、今なお蓮台寺と由加神社は元の形に復すること出来ず、現在も係争中であると云う。
例:瑜伽山蓮台寺看板:由神社案内附近及び蓮台寺駐車場にある看板
にその一端が表される。
(下掲)
□蓮の台(はすのうてな)第97号(2004年)
平成元年9月:すべての財産(土地・建物)を蓮台寺とする「覚書」を蓮台寺・由加神社で締結する。
(この「覚書」に至る経緯は不詳。)
平成元年11月:蓮台寺瑜伽大権現を神仏分離以前の状態に戻すこと、即ち全財産は蓮台寺一山地となる。
「覚書」に基づき、約112年の経年の後、瑜伽大権現神体は権現堂より瑜伽大殿へ遷座。
平成9年:神社側を名乗る者(5から6人)が大殿を占拠し、独自の宗教活動を実施したため、蓮台寺が明け渡しを求め提訴。
平成16年1月:岡山地裁の判決:由加神社は稲荷宮・お守り所を明け渡す。由加神社の手水舎・香炉堂・便所の使用禁止の判決が出る。しかし蓮台寺は大殿・土地については不十分として、広島高裁岡山支部に控訴。
□蓮の台(はすのうてな)第100号(2005年)
平成17年:広島高裁判決:「神社は毎年、初午・輪くぐり及び秋祭りの各祭祀として使用する以外、蓮台寺が大殿の使用することを妨害してはならない。」が下される。
要するに、上記の例外を除き、大殿は蓮台寺が通年使用するとの司法判断が下されてものと思われる。
しかしながら、現状は駐車場の立て札に見られるように、「由加神社」なるものが無くなったわけではなく、
「由加神社」は国家神道による捏造を歴史として相変わらず「布教」し、活動を行っているのが実態である。
瑜伽山蓮台寺看板:由神社案内附近及び蓮台寺駐車場にある看板で
ある。
(上掲)
平田派神道による
神仏分離で「政治的に分離独立した」「由加神社」は明治維新以前には存在せず、明治の神仏分離で捏造されたものである。
従って、「由加神社」なるものが消滅し、本来の瑜伽大権現に復すまで争うのが当然のことと思われる。
瑜伽大権現は讃岐金毘羅大権現との両参で知られ、近世末には多くの参詣者で賑わと伝える。
参道も田の口港からの南参道、林からの北(裏)参道、日比港からの東参道、下津井港からの西参道の他に琴浦港や迫川などから上る参道もあり、その繁栄振りが偲ばれる。
いずれの参道にも、山麓に鳥居を持つ。
瑜伽山北参道鳥居(木見)
瑜伽山西参道鳥居(上の町)
:途中の児島上の町にあったが「交通の邪魔」という理由で、移設と云う。
2001/12/29撮影:
瑜伽大権現門前町:随分寂れ、ほとんど機能しなくなって
はいるが、その面影が辛うじて残る。
→因みに、讃岐金毘羅大権現は今なお盛況で
ある。
☆瑜伽山蓮台寺妙見
多宝塔より北東約5町の妙見山山頂に妙見菩薩が祀られる。今も妙見菩薩を祀る小祠と小堂がある。
由緒などは不明、江戸期の境内木版画(上掲)
、金毘羅参詣名所圖會(上掲)、瑜伽山伽藍図(江戸期と推定)
にも妙見の存在は確認でき、近世には成立していたようである。
蓮台寺妙見堂 蓮台寺妙見入口石碑:
詳細は不明。
2006年以前作成:2011/07/06更新:ホームページ、日本の塔婆
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