日蓮宗本山本満寺本堂扁額※

本満寺概要
広布山と号する。本尊:十界曼荼羅。日蓮宗一致派本山。
開基は日秀上人(関白近衛道嗣の子息)、応永17年(1410)本国寺から分立する。
天文8年(1539)天文法華の乱後、関白近衛尚通が現在地に移建。
後奈良天皇が勅願寺とする。近世は徳川家の祈願所となる。
 ※京都本圀寺に属する。

※2007/03/25追加:
○「日蓮宗の本山めぐり」:
 応永17年創建、開山は日秀上人(関白近衛道嗣の嫡子・本国寺5世日伝上人弟子)、寺地は新町通今出川。
 広宣流布山本願満足寺と号する。
 天文8年(1539)天文法華の乱後、関白近衛尚通が現在地に移建。
   ※この「寺伝」には疑問があるとの説がある。→後段の(注)を参照
 12世日重、13世日乾、14世日遠各上人はそれぞれ身延第20、21、22世を継ぐ。
  →秀吉の方広寺千僧供養会の出仕・不出仕についての12世(身延20世)日重上人の立場は
      「仏性院日奥上人」>「大仏殿千僧供養会を廻る評価」の項を参照。:2013/01/17追加
  →13世(身延21世)日乾上人は身延退山後、能勢頼次のもと能勢に隠棲する。
   能勢頼次は日乾に帰依し強権をもって領内を全て法華に改宗し、能勢皆法華の世界を築く。
   従って、能勢の日蓮宗寺院は真門流の持経寺などを除き、殆ど全て本満寺末及び孫末である。
      「攝津能勢法華・日蓮宗諸寺
  →14世(身延22世)日遠上人の事跡は
      「甲斐本遠寺」を参照
 宝暦元年(1751)日鳳上人、徳川吉宗の病癒祈願を為し、幕府祈願所となる。

万治4年(1661)・宝永5年(1708)(宝永の大火)・天明8年(1788)に類焼するが、その都度再建される。
なお墓地中に山中鹿之助の墓があると云う。(未見)
 明治44年13面四面の本堂焼失、昭和2年現本堂再建。

2010/12/19追加:
○「花洛羽津根」清水換書堂、文久3年(1863) より
 広布山本満寺塔中:
慎蔵院、実泉院、十妙院、良寂院、真応院、正行院、善勝院、孝音院、本立院、玉持院、覚仙院、法界院、法性院、妙音院、円明院、専玄院、妙行院、一乗院、玉庵 19ヶ院

2011/08/21追加:
○日蓮宗本末一覧(明治3年11月作成、寺社掛、太政官達により京都府寺社掛が作成) より
 本満寺塔中
・実泉院、正行院、一如院、孝音院、円明院、・守玄院、・一乗院、・法泉院・・・8ヶ院現存
法性院、本立院、慎蔵院、良寂院、真応院、善勝院、妙音院、妙行院・・・8ヶ院無住など寺籍のみ
「花洛羽津根」に記載の玉持院、覚仙院、法界院、専玄院、玉庵の5ヶ院の坊名の記載はなし。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 明治15年、寺中孝音院移転、妙応山孝音院として秋田県北秋田市米内沢字ヲッコ沢91に現存、
  明治に開創した教会が、明治15年孝音院の寺号を移転。
 昭和5年、寺中玉持院が復興、林光山玉持院として兵庫県神戸市東灘区住吉宮町6−5−6に現存、
  明治初頭に本満寺實泉院に合併するも、昭和5年神戸市で復興。

○大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(上京第九學區之部)
文政10年3月本堂を建つ。明治44年2月7日本堂妙見堂自火により焼失す、塔中元30院あり、維新後僅かに6院となる。旧境内4,598坪、今3,544坪。
法泉院・守玄院・円明院・玉持院・実泉院

2011/08/21追加:
○京都市明細図:昭和2年頃、「大日本聯合火災保険協会」が作成、昭和26年頃まで加筆・修正がなされる。
 京都市明細図本満寺:現在の一乗院は守玄院、現在の守玄院は圓明院とある。 この間の事情は不明。
妙見社の北には坊舎名の記載がないが、実泉院が存在すると思われる。

本満寺現況
現伽藍(概要図) :概要図は目測をメモしたもので必ずしも正確ではない。
           直下写真:本堂は2001年5月25日撮影、※は2001年6月10日撮影。
本堂(明治44年 、13間四面の本堂焼失・昭和2年再建、桁行5間梁間5間の規模に縮小)・方丈・妙見宮・鐘楼・総門※・表門等がある。
総門は西山門と云う。西山門手前に妙見堂、西山門を入ってすぐに七面堂がある。
境内は部分的に駐車場化する。
塔頭は法泉院・實泉院・一乗院・守玄院の4院のみが残る。

無印は2011/08/14撮影、▽印は2015/06/28撮影
 本満寺現伽藍:Googleより
西門
 本満寺西門門前    本満寺西門     ▽本満寺西門2
南門
 本満寺南門     ▽本満寺南門2
本堂
 本満寺本堂1     本満寺本堂2     ▽本満寺本堂3     ▽本満寺本堂4     ▽本満寺本堂5
方丈など
 ▽本満寺方丈など
鐘楼
 本満寺鐘楼     ▽本満寺鐘楼2     ▽本満寺鐘楼3
妙見社
 本満寺妙見社     ▽本満寺妙見大菩薩2     ▽本満寺妙見大菩薩3
  → 洛陽十二支妙見
七面社
 本満寺七面社     ▽本満寺七面堂
日重上人五輪塔
 ▽開基日重上人五輪塔
歴代上人墓碑
 ▽本満寺歴代上人墓碑
鐘楼前常夜燈:元文3年(1738)攝津久々知廣濟寺開基日昌上人と寺中善勝院の寄進と知れる。
 ▽本満寺常夜灯1:正面は常夜燈、右面は宿坊/善勝院と刻む。善勝院は少なくとも幕末頃には退転と推定される。
 ▽本満寺常夜灯2:左研には攝州久々知山廣濟寺開基/○律師如意珠院日昌上人、裏面には元文三戊午歳(1738)十月六日の年紀がある。久々知山廣濟寺は本満寺末寺である。
本満寺寺中
 本満寺実泉院     ▽寺中実泉院2     ▽寺中実泉院3     ▽寺中実泉院4
 本満寺法泉院     ▽寺中法泉院2     ▽寺中法泉院3
 本満寺一乗院     ▽寺中一乗院2     ▽寺中一乗院3
 本満寺守玄院     ▽寺中守玄院2
 ▽推定坊舎跡:坊舎跡と推定されるも坊舎名を明らかにせず。


(注)2007/03/25追加:
天文8年(1539)天文法華の乱後、関白近衛尚通が現在地に移建という寺伝には疑問があると云う。
その論点は
同志社大学歴史資料館 の 発掘物語3  に掲載される。
以下はその「要約」である。

 寺伝では、本満寺は応永17年(1410)、関白・近衛道嗣息・日秀の開基とする。
その経緯については、日秀自身が父の別荘を得て近衛殿に建立、あるいは、日秀の異母兄弟兼嗣が近衛殿に寺を建立して兄・日秀を招聘、あるいは父・道嗣自身が法華宗の熱心な信者であったために邸宅を寺にする、など様々な説がある。
しかしいずれにせよ、本満寺は近衛家を出自とする人物によって、もともとは近衛殿の敷地内に建立された寺であったというのは揺るがないであろう。
 その後、本満寺は近衛殿の南外側に分立するが、その寺域は伝承などから元本満寺町の北側全体を占めていたと推測される。
 「後法興院記」(日秀の三代後の近衛家当主・政家の日記)では、
本満寺住職が年末年始の他たびたび政家をたずね、政家もまた頻繁に本満寺を参詣する、近親縁者の法要を本満寺で行い、政家の姉二人と娘のそれぞれの臨終では本満寺にその身を移したことも見える。さらに、文亀3年(1503)の住職と寺僧との確執では、政家が調停に立ったとも見え、また日甄(ニッケン)が新しく住職となった年には政家を訪ねている。
要は政家代までは本満寺は近衛家の「菩提寺」的な性格であったと思われる。
 近衛殿・元本満寺地図
  近衛家の邸宅(別業):現同志社大学新町校舎の場所
  本満寺は近衛殿の南側に位置した。

天文五年(1536)「天文法華の法難」で焼失。

本満寺寺伝(江戸期の作成)によれば、本満寺は天文法華の法難の焼失後、天文8年に近衛尚通(近衛政家息)により現在の寺町通鶴山町に移転したと云う。

しかしながら「言継卿記」(山科言継の日記):天文14年6月10日条によれば、
本満寺は「近衛殿近所」にあったある。
だとすると、江戸期の寺伝は誤りを含んでいると思われる。
即ち「天文の法難」後の再興は「近衛殿近所」で行われ、現在地(寺町)への移転は、常識的には、天正年間(1573〜1591)末頃、豊臣秀吉が寺町に寺院を集約した時であろうと考えるのが正しいと思われる。

ではこの「近衛殿近所」とはどこか。これについては、3つの推測が可能と思われる。
1.「中古京師内外地図」(江戸期の応仁の頃の回顧)に「本マン寺」と描かれる場所がある。この場所は近衛殿の東向い、現在の同志社大学新町校舎の東向いにある三時知恩寺の辺りであった。
2.近衛殿の南、つまり天文法華の法難で焼亡した元地。
3.「上杉家本洛中洛外図屏風」(天文年中末期)では本満寺は近衛殿南隣ではなく、一条小川付近(さらに南方)に描かれている。
要するに、天文8年の再興は、現在地(寺町)ではなく、上記3箇所のいずれかに再興されたとすべきであろう。

洛中洛外図には、法華16ヶ寺本山のうち、本満寺を含め6つの寺が描かれてるが、乱後の再興場所は全て、秀吉による京都整理事業による大幅な寺院の移動以前の位置に描かれている。このことから、乱後に本満寺が再興された場所は、近衛殿の南側ではなくて「一条小川」の位置であった可能性があるとも考えられる。
 近衛政家は、その日記によって、本満寺と密接な関係があったことが知られる。(上出)
ところが、息子・尚通は、「後法成寺尚通公記」(近衛尚通の日記)に見る限り、父・政家と違い、特別に本満寺との関係が親密であった記録は殆ど見られない。
この理由は、当時の経済状態の違い、法華宗に対する信仰の度合いの違い、血縁関係の違いということなどが考えられる。
 寺伝で、法難後の再興(しかも寺町での再建とする)は尚通によるとされる。
天文法華の法難(1536)は、尚通の在世中であり、「上杉本洛中洛外図屏風」では本満寺の再建後と考えられる姿は一条小川付近描かれている。このことは、法難後の再興が元の場所である近衛殿の南隣にされなかったということでもあり、尚通という人と何か関係がある可能性があるかも 知れない。

本満寺末寺

成翁山法華寺(北海道檜山郡江差町本町)
 法華寺末:啓栄山本昭寺(北海道爾志郡乙部町栄浜)
 法華寺末:七面山光明寺(北海道二海郡八雲町熊石黒岩町)
 法華寺末:青苗山日潮寺(北海道奥尻郡奥尻町字青苗)
 法華寺末:妙宝山登順寺(北海道寿都郡寿都町字磯谷町島古丹)
妙光山法華寺(北海道松前郡松前町豊岡)
 法華寺末:大圓山妙蓮寺(北海道松前郡福島町字福島)
 法華寺末:妙見山感応院(北海道松前郡松前町江良)
 法華寺末:一乗山実相寺(北海道留萌郡小平町字鬼鹿田代)
 法華寺末:久高山本澄寺(北海道苫前郡羽幌町大字焼尻字豊崎)
 法華寺末:妙見山大盛寺(網走市桂町)
  大盛寺末:明泰山日清寺(斜里郡小清水町字小清水)
○宝幢山法立寺(弘前市新寺町) →弘前の社寺
 法立寺末:境智窟本迹院(弘前市新寺町)塔頭
 法立寺末:南栄院(弘前市新寺町)塔頭
 法立寺末:正法山法華寺(平川市町居山元)
 法立寺末:青蓮山妙乗寺(五所川原市金木町朝日山)
 法立寺末:薄市山弘法寺(青森県北津軽郡中泊町中里字亀山)
 法立寺末:本立山日精寺(青森県南津軽郡大鰐町大字大鰐字大鰐)
 法立寺末:梅田山法光寺(青森県南津軽郡藤崎町大字藤崎字村元)
顕乗山久城寺(秋田市旭北寺町)
 久成寺末:法雨山堯林院(男鹿市船越狐森)
 久城寺末:観広山見性寺(秋田市土崎港中央)
 久城寺末:湧出山実城院(秋田市土崎港中央)
 久城寺末:金銀山法華寺(北秋田市阿仁銀山字下新町)
照高山伝法寺(秋田市旭北寺町)
 伝法寺末:湊圓山本住寺(秋田市土崎港中央)
久遠山法華寺(秋田市旭北寺町)
 法華寺末:雷祈山法久寺(大仙市大曲丸の内町)
仏眼山正法寺(横手市大水戸町)
妙応山孝音院(北秋田市米内沢字ヲッコ沢)・・・・・上述(寺中の消息)のように明治15年寺中孝音院が移転。
長応山本善寺(秋田県仙北郡美郷町六郷字東高方町)
長栄山本善寺(大仙市字刈和野)
観広山法興寺(山形県飽海郡遊佐町大字庄泉字西谷地)
吉長山満勝寺(掛川市中)
 満勝寺末:松柏山本寿寺(静岡県榛原郡吉田町神戸)
 満勝寺末:鶴寿山慶住寺(牧之原市静波)
 満勝寺末:長勝山浄心寺(牧之原市福岡)
 満勝寺末:妙福寺(磐田市福田)
 満勝寺末:最勝山本行寺(佐伯市上浦最勝海浦)
普潤山妙雲寺(高島市安曇川町川島)
瀬瀧山聖福寺(京都市右京区芹生町)
○利生山愛染寺(京都市上京区亀屋町) →山城の日蓮宗諸寺
○清雲山円成寺(京都市北区鷹峰北鷹峰町) →妙見大菩薩中の山城鷹峯岩戸妙見
法秀山善徳寺(大阪市北区中崎西)
光智山法清寺(大阪市北区曾根崎)
 法清寺末:高丸山法華閣教会(宝塚市仁川うぐいす台)
光徳山妙経寺(大阪市中央区谷町)
 妙経寺末:霊鵲山朝日寺(堺市堺区大仙町)
瑞光山本養寺(池田市綾羽)
○永昌山妙華寺(大阪府豊能郡能勢町吉野) →能勢法華宗諸寺
○永昌山妙法寺(大阪府豊能郡能勢町倉垣) → 同上
○長渓山正林寺(大阪府豊能郡能勢町倉垣) → 同上
○石用山涌泉寺(大阪府豊能郡能勢町倉垣) → 同上
○七面山七宝寺(大阪府豊能郡能勢町倉垣) → 同上
○普門山安穏寺(大阪府豊能郡能勢町倉垣) → 同上
○無漏山真如寺(大阪府豊能郡能勢町地黄) → 同上
 真如寺末:妙見山別院(東京都墨田区本所) → 同上
 ○真如寺末:境外仏堂能勢妙見山(大阪府豊能郡能勢町野間中) → 同上
○正行山清普寺(大阪府豊能郡能勢町地黄)  → 同上
 ○清普寺末:首題山妙唱寺(大阪府豊能郡能勢町上田尻) → 同上
○善養山長久寺(大阪府豊能郡能勢町下田尻)  → 同上
○長栄山興徳寺(大阪府豊能郡能勢町野間大原) → 同上
○龍淵山円珠寺(大阪府豊能郡能勢町野間中)  → 同上
○宝林山法華寺(大阪府豊能郡能勢町野間稲地) → 同上
○受持山善福寺(大阪府豊能郡能勢町野間出野) → 同上
○広栄山蓮華寺(大阪府豊能郡能勢町今西     → 同上
清岳山法性寺(大阪府豊能郡豊能町切畑)
○法華山本澄寺(高槻市上牧町)     →摂津の日蓮宗諸寺
 本澄寺末:○本立院(高槻市上牧町)塔頭     → 同上
 本澄寺末:○真如院(高槻市上牧町)塔頭     → 同上
 本澄寺末:御殿山欣求寺(枚方市小倉町)
 本澄寺末:妙広山境智院(東大阪市日下町) →河内の日蓮宗諸寺
 本澄寺末:梅龍山勧成院(東大阪市東豊浦町     → 同上
○霊岡山妙浄寺(高槻市上牧山手町)  →摂津の日蓮宗諸寺
○福生山田中寺(高槻市梶原)        → 同上
○法久山成就寺(高槻市萩之庄)       → 同上
○常智山本行寺(高槻市大手町)       → 同上
寂光山源覚寺(高槻市道鵜町)
正法山円通寺(高槻市富田町)
昌徳山本頂寺(茨木市郡山)
○真如山妙徳寺(茨木市片桐町) →摂津の日蓮宗諸寺
栄長山本要寺(堺市堺区新在家町東)
林光山玉持院(神戸市東灘区住吉宮町)
  上述(寺中の消息)のように、寺中玉持院は明治初頭實泉院に合併するも、
  昭和5年玉持院の寺籍を当地に移し、玉持院が当地に復興する。
久々知山広済寺(尼崎市久々知)
  開基は如意珠院日昌上人、上に掲載の本満寺現況→鐘楼前常夜燈の銘が残る。
吉祥山法華寺(徳島県海部郡海陽町鞆浦字東町)
福王山本證寺(朝倉市秋月)


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