最近訪問した塔婆・ご提供画像(2011/01/04〜2011/09/18)

過去の訪問塔婆履歴

2011/09/18 下野薬師寺跡 下野薬師寺跡
下野鑁阿寺 再訪 下野鑁阿寺
下野足利法界寺跡 下野足利法界寺跡(足利樺崎寺跡)
上野大雄院三重塔 上野大雄院三重塔
上野上植木廃寺 上野上植木廃寺
上野十三宝塚遺跡 上野十三宝塚遺跡
2011/09/17 上野板倉寳福寺 上野板倉宝福寺
2011/09/17 下野高勝寺 再訪、下野高勝寺(岩舟地蔵尊)、小雨薄暗し
下野大慈寺 下野大慈寺(塔跡、相輪橖)
日光山東照大権現 再訪、日光山(日光山三重塔、日光山五重塔、日光山相輪橖など)、降雨薄暗し
下野慈雲寺相輪橖1
下野慈雲寺相輪橖2
下野慈雲寺相輪橖3
下野慈雲寺相輪橖4
日光含満ヶ淵にある。相輪橖の情報は皆無、詳細は一切不明。感触では鉄製と思われる。
そもそも東照大権現を創建した時、別当大楽院の地には一山僧侶の墓地があり、天海は弟子晃海(公海)に墓地の移転を委嘱する。承応3年(1654) 晃海大僧正は、この地を開き、慈雲寺を創建、阿弥陀如来・師の慈眼大師天海を祀ると云う。
明治35年台風に伴う大洪水により、全てが流失する。
昭和48年本堂が再建される。相輪橖は慈雲寺山門前にある。
2011/08/23 大和唐招提寺 大和唐招提寺:東塔跡、ストゥーパ
大和秋篠寺 再訪、大和秋篠寺
2011/07/31 備前国分寺 再訪、備前国分寺跡
備前千光寺 再訪、備前千光寺
備前八塔寺

八塔寺三重塔は池田綱政により宝永3年(1706)建立(再興?)され、寛政2年(1790)焼失し、その後再興されずと伝える。
現在八塔寺常照院の西裏手(高顕寺本堂裏でもある)に旧吉永町史跡として塔跡・礎石が残る。
塔跡に残る礎石は四天柱の礎石であり、元の位置であると云う。
四天柱礎石間隔は、4尺4寸(1.33m)で、等間の平面を持つとすれば1辺13尺2寸(4.0m)の三重塔と推定される。(あるいは礎石間隔は1.6mで、等間の平面を持つとすれば1辺約4.8mという計測数値もある。)
礎石は花崗岩製で、方1尺5寸5分、中央に方3寸深さ2寸の枘孔を穿つ。
さらに、四天柱礎石で区画される方形区画に多くの加工された花崗岩製の石が積み重なるように置かれる。この石は小型で、粗く四角に整形され中央に円孔を穿つものであり、その大きさ・形状から束石であろう。 しかし束石が中央に集められている理由は分からない。
 以上が概要であるが、しかしながら、この遺構を直ちに塔の遺構とするには若干の疑問がある。
即ち、脇柱が建つと思われる位置には四周とも全く礎石が見当たらないことで、明確に脇柱礎が全て除去されたと云う確証がない限り、塔遺構と断定する訳にはいかないだろう。
また、現時点では、どのような寺伝・伝承・古文書などに基づきこの遺構を塔跡とするのかの情報がなく、この点も塔遺構とするのに躊躇せざるを得ない理由である。
 ※「備前国絵図」は多くの時代のものが存在するが、慶長もしくはそれ以前と推定される「備前国絵図」(未見)では八塔寺には七重塔が描かれると云う。
 備前八塔寺三重塔跡1    同         2・・・X氏ご提供画像
2011/07/31撮影:
 備前八塔寺塔跡11   備前八塔寺塔跡12   備前八塔寺塔跡13   備前八塔寺塔跡14
 備前八塔寺四天柱礎1  八塔寺四天柱礎2    八塔寺四天柱礎3    八塔寺四天柱礎4
 備前八塔寺束石1     備前八塔寺束石2    備前八塔寺束石3    備前八塔寺束石4
八塔寺は、寺伝では、神亀5年(728)聖武天皇の勅願で、弓削道鏡が創建すると伝える。
また中世には、源頼朝の命を受けた梶原景時によって十三重塔を含む堂塔が建立されると云う。
 ※十三重塔頂上にあった青銅製の塔頭が高顕寺に残ると云う情報があるが、未確認。「塔頭」とは不明であるが、宝珠などの相輪の部材であろうか。
その後最盛期には坊舎72坊を数えるとされる。
 ※学侶坊8院、行人方64坊で構成され、学侶坊は、明王院・宝寿院・三宝院・弘法院・常照院・寂院・徳院・善院、行人方は浄徳房・法潤房・賢房・大善房・万代房・妙賢房・了得房・東南房などの名称が伝えられる。
しかし南北朝以降、たびたび兵火に焼かれ衰微するも、天正年中には、豊臣秀吉より知行500石を安堵、文禄4年(1596)には、宇喜多家より寺領50石の寄進を受ける。
近世、初代岡山藩主池田光政、梵鐘を寄進、宝永3年(1706)2代藩主池田綱政、八塔寺本堂と三重塔を再建する。この堂塔は寛政2年(1790)の大火で焼失。その後本堂は再建されるも、三重塔の再興はならず、塔跡のみ残る。
 慶長20年(1615)には常照院(愛染院)・宝寿院(真言院)・明王院の3院に減ずる。
寛永6年(1629)八塔寺は代々真言宗であったが、当時無住であった常照院に天台宗の僧侶が入寺し、寛永10年(1633)八塔寺を真言宗より天台宗に改宗し紛糾する。
天保元年(1830)真言宗を維持していた明王院と宝寿院の2院は高顕寺と寺号を改め、現在に至る。(岡山藩寺社奉行石黒後藤兵衛の調停)
 (現在の高顕寺本堂が明王院で現高顕寺本坊が宝寿院である。)
2011/07/31撮影:
 備前八塔寺全景:写真右が八塔寺常照院、左は高顕寺本堂(明王院)、写真に写らないが右に高顕寺本坊(宝寿院)がある。
 八塔寺常照院全景     八塔寺常照院本堂    八塔寺常照院庫裏本堂
 八塔寺常照院鐘楼:梵鐘は池田光政寄進の鐘か。
 高顕寺本堂(明王院)    高顕寺本堂山門    高顕寺本堂(明王院)
 高顕寺(明王院)石垣    高顕寺(本坊)宝寿院

2011/07/30 安芸国分寺跡  →安芸国分寺跡(再訪)
2011/07/03 備前瑜伽大権現  →備前瑜伽山蓮台寺(再訪)
2011/06/25 和泉慈眼院  →現存多宝塔613(再訪)
旧藤田男爵邸(太閤園)  →旧藤田男爵邸・伝東大寺塔礎石
和泉禅興寺心礎  →和泉禅興寺心礎(長滝喜多邸心礎)
2011/06/04
2011/06/18
京都玄琢土橋永昌堂邸  →播磨殿原廃寺心礎
 →京都玄琢土橋永昌堂邸
2011/05/19 播磨殿原廃寺  →播磨殿原廃寺
2011/05/26追加:2011/05/19撮影
播磨殿原廃寺発掘図:山門の向かって左の網掛け部分が塔基壇想定地。「兵庫県埋蔵文化財調査年報」昭和57年 より
現在の国府寺は殿原廃寺の上に建つ。
殿原廃寺(国府寺)遠望:山門向かって左が塔跡である。
殿原廃寺塔跡1;写真中央の石垣付近に心礎があったと云う。
殿原廃寺塔跡2
殿原廃寺塔跡3:国府寺塀内、塔の北半分があった部分である。
「知識経(大智度論 巻第九十一)」近江石山寺蔵の奥書には「天平六年歳次甲戌十一月廿三日寫播磨國賀茂郡既多寺 針間國造赤刀自(あかとじ)」とあると云い、殿原廃寺がこの既多寺ではないかとの説がある。※天平6年(734)
播磨吹谷廃寺心礎1
播磨吹谷廃寺心礎2
播磨吹谷廃寺心礎3
播磨吹谷廃寺心礎4
播磨吹谷廃寺心礎5
播磨吹谷廃寺心礎6
播磨吸谷廃寺礎石1
播磨吸谷廃寺礎石2
播磨吸谷廃寺礎石3
播磨吸谷廃寺礎石4
吸谷廃寺五輪石塔1
吸谷廃寺五輪石塔2
播磨慈眼寺堂宇
東に開けた浅い谷筋の中ほどに慈眼寺の小宇が残り、ここに庭石に転用された心礎をはじめとする多くの礎石が残る。心礎は薄く荒れた小礎石であるが、礎石の多くは柱座を造り出す。
吸谷廃寺の具体像は判明してはいないが、慈眼寺付近に伽藍が展開し、創建は白鳳期とされる。
○「古代寺院からみた播磨」2002年2月 より
慈眼寺境内に心礎・礎石(柱座・地覆座をもつ30個)が庭石に転用される。伽藍配置は不明。
○「日本の木造塔跡」:心礎は160×79×30cmの大きさで、径61×11cmの円穴がある。
慈眼寺の庭石組みに礎石は転用され、柱座のある礎石16個(内10個は地覆座も持つ)とその他礎石と推定される石7個を残すが、どれが塔の礎石かはまったく分からない。
○2010/08/12追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
現在境内には江戸末期の平面3間(宝形造)の堂宇と庫裏が残る。この堂宇の柱礎は地覆座や円形柱座を持つ礎石が使用される。
また堂前には弘安6年(1283)の在銘の石造五重塔が残る。
 慈眼寺遠望: この当時、礎石は観音堂前に立てて置かれていたようである。(庭石組に利用されたのはこの後であろう)心礎は観音堂向かって左の石製五輪塔の前に写る。
 観音堂転用礎石     播磨吸谷廃寺心礎    弘安6年銘石製五重塔    播磨吸谷廃寺心礎実測図    播磨吸谷廃寺礎石実測図
○2010/08/12追加:「加西市埋蔵文化財調査報告8」加西市教委、1992
 播磨吸谷廃寺心礎実測図2    播磨吸谷廃寺礎石実測図2
播磨酒見寺多宝塔11
播磨酒見寺多宝塔12
播磨酒見寺多宝塔13
播磨酒見寺多宝塔14
播磨酒見寺多宝塔15
播磨酒見寺多宝塔16
播磨酒見寺多宝塔17
播磨酒見寺多宝塔18
播磨酒見寺多宝塔19
播磨酒見寺多宝塔20
播磨酒見寺多宝塔21
播磨酒見寺多宝塔22
播磨酒見寺多宝塔23
播磨酒見寺多宝塔24
播磨酒見寺多宝塔25
播磨酒見寺多宝塔26
播磨酒見寺多宝塔27
播磨酒見寺多宝塔28
播磨酒見寺多宝塔29
播磨酒見寺多宝塔30

再訪。
2011/05/19撮影:
仁王門(楼門):文政8年(1825)再建。三間一戸、入母屋造、本瓦葺。
 酒見寺仁王門1     酒見寺仁王門2
引聲堂(常行堂・阿弥陀堂):建立年代不明(新しいものと思われる)
 酒見寺引聲堂1     酒見寺引聲堂2
地藏堂:建築年代不明。
 酒見寺地蔵堂
新観音堂:建築年代不明。
 酒見寺新観音堂
本堂(根本堂):元禄2年(1689)再建。重層入母屋造、裳階付、本瓦葺。
 酒見寺本堂1     酒見寺本堂2
鐘楼:寛文4年(1664)再建。彩色を復原。
 酒見寺鐘楼1     酒見寺鐘楼2     酒見寺鐘楼3     酒見寺鐘楼4
御影堂:建立年代不明、本尊弘法大師。
 酒見寺御影堂
本坊:
 酒見寺本坊全景     酒見寺本坊護摩堂     酒見寺本坊客殿
弁天堂:
 酒見寺弁天堂:写真中央やや右の小宇が弁天堂
酒見大明神:
 酒見寺酒見大明神社遠望

播磨野条廃寺 2009/09/29及び2011/05/19廃寺跡を探すも、廃寺の位置を特定できず。
播磨繁昌廃寺  →播磨繁昌廃寺
○「幻の塔を求めて西東」1980-81年に発掘調査され、 西塔(東塔は未検出)、金堂、講堂、築地、南門、北門を検出、その結果は薬師寺式配置とされる。寺域は東西84m以上、南北157m。西塔は1辺13〜14m。7世紀前半建立。
○「X」氏情報:現状、寺跡の確認は困難。
△側柱礎を残し・・△
○2010/08/12追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
 播磨繁昌廃寺地籍図
繁昌廃寺付近地籍図にある「635芝」と記された処がある。この処の所有者の言によれば、もと此処は高さ約70cm広さ1.8アール程の土壇があり、壇上には数個の礎石と巨大な礎石が1個土中深く埋没していたと云う。しかるに明治39年頃この巨石は破砕され、東側を流れる普光寺川の字椋ノ木の河淵へ捨石用に搬出、残余の若干個は明治40年江脇橋詰の積み石に使用と云う。(椋ノ木の河岸および江脇橋の積み石にはそれと思われる石が残存する。)以上を信じれば、此処は塔阯であろう。
また此処から北方やや東約34mに「636ノ1芝」と記された処があり、周囲から侵食されて細っている土壇が残る。金堂跡と推測される。
さらに古老の記憶によれば、「636ノ1芝」の北の耕地からも古瓦の出土を見たと云う。この付近に講堂が想定されるか。
以上から四天王寺式伽藍配置を採ったものと推定される。(その後の発掘調査で、塔は西塔とされる。地籍図の位置関係を多少ずらせば、西塔としても矛盾はないと思われる。)
○2010/08/12追加:「加古川市史 第1巻」加古川市、2008 より
 繁昌廃寺伽藍配置図
○2011/05/26追加:2011/05/19撮影
現在繁昌廃寺跡は圃場整備がなされ、何も遺構は残らず、纔かに寺域西端に設置された1個の石碑によってここに繁昌廃寺があったことを知るのみである。
 播磨繁昌廃寺石碑:昭和63年?建立と刻む。
 繁昌廃寺跡(西から)
  :写真中央付近の民家が金堂跡、塔跡は写真右端のさらに右側にある(付近住民の教示)
 繁昌廃寺跡(東から)
また普光寺川の河川改修もなされ、江脇橋は現存するも、堤防・河川敷はコンクリートで蔽われ、「播磨上代寺院阯の研究」にあるような礎石の片割を見ることは出来ない。
なお地元民は次のように述べる。現在奈良国立博物館に収奪されたままの乎疑原神社五尊石仏は繁昌廃寺の本尊であり、古法華石仏が地元に返還されたように強く返還を要求する 。
播磨百代寺1
播磨百代寺2
乎疑原神社鐘楼
乎疑原神社宮司邸
「佛教考古学論攷」石田茂作に以下の記事がある。
「百代寺多宝塔、加西郡九会村繁昌、高野山真言宗、天文年中火災」
※繁昌廃寺南西200m程のところに乎疑原神社があり、隣接して百代寺・同別院が現存する。
百代寺と乎疑原神社、百代寺と繁昌廃寺との関係情報は殆ど無い。従って以下は推測である。
乎疑原神社 の祭神は大国主、少名彦、菅原道真というから、大国主・少名彦が明治維新の付会とすれば、本来の祭神は道真であり、天神社であったのであろう。百代寺は神社に隣接するから天神社別当であった可能性が非常に高い。
また神社境内から古法華石仏と並ぶ白鳳期の古仏である五尊石仏が出土したと云う。現在この石像は奈良国立博物館寄託されているが、地元民はこの石像は繁昌廃寺本尊であると云い、早く地元に帰して欲しいとの願望があると云う。
百代寺は殿原廃寺の法灯を継ぐ可能性が考えられる。
百代寺多宝塔については明らかにする資料がない。
なおこの規模の神社にしては珍しく宮司の居宅がある、この居宅の地は社僧(寺坊)の跡地なのであろうか。傍証として神社には現在梵鐘・鐘楼が現存する。
播磨量興寺遠望
播磨多哥寺心礎1
播磨多哥寺心礎2
播磨多哥寺心礎3
播磨多哥寺心礎4
播磨多哥寺心礎5
播磨多哥寺心礎6
播磨多哥寺心礎7
○「古代寺院からみた播磨」:心礎は量興寺境内にある。伽藍配置は四天王寺式あるいは山田寺式伽藍配置と推定される。回廊内規模:東西52m、南北60m。7世紀中葉の建立。
心礎は現存するも、心礎は元位置を動き、従って塔の位置は不明である。
 多哥廃寺心礎図
○「幻の塔を求めて西東」:心礎の大きさは250×220×120cm、径94×14cmの円穴を彫る。
○2011/05/19撮影:
現地説明碑では心礎の大きさは2.8m×2.4m、厚さ1.3mで、上面の中央には直径95cm深さ20cmの孔が穿たれるとある。
何れにせよ、播磨では最大級の、全国的にも第1級の大きさを誇る心礎である。
播磨野村廃寺
(上ノ段遺跡)

○「古代寺院からみた播磨」:播磨野村廃寺(上ノ段遺跡)
寺域東西90m、南北70m。正門は東側にあり、金堂は西寄りの最高所にある(5間・2間が身舎で、周囲1間の庇が廻る 。桁行7間・梁間4間)。塔は金堂の前にある(1辺12mの基壇)。講堂は金堂の東。僧房は講堂の北。
○2005/12/11追加:「X]氏情報:西脇市郷土資料館情報:
「住宅地(茜ヶ丘)開発に伴う全面調査を行った寺院跡である。調査後、主要部(金堂跡・塔跡)は埋め戻し地下保存。
位置は茜ヶ丘集会所横の公園(グラウンド)地下になる。現地には何の案内も設置されてはいないと云う。
郷土資料館(西脇市童子山公園)で発掘当時の空中写真、出土遺物(瓦・墨書土器・塼仏・塔の相輪片など)を展示。
○2007/02/11追加:
 播磨野村廃寺塔相輪片:西脇市郷土資料館展示  播磨野村廃寺相輪片部位図
○2010/09/06追加:「西脇市文化財調査報告書第11集」西脇市教委、2002 より
 播磨野村廃寺建物配置
○2011/05/19撮影:
 播磨野村廃寺遠望:遺跡は地下保存され、地表にはグランドが広がるだけである。
 播磨野村廃寺跡:遺跡上には約1mの表土を被せると云う。(付近住民の談)
 野村廃寺塔相輪片2:西脇市郷土資料館展示
 野村廃寺金箔押塼仏:西脇市郷土資料館展示、野村廃寺出土

荘厳寺多宝塔模型11
荘厳寺多宝塔模型12
荘厳寺多宝塔模型13
荘厳寺多宝塔模型14
荘厳寺多宝塔模型15
荘厳寺多宝塔模型16
荘厳寺多宝塔模型17
荘厳寺多宝塔模型18
荘厳寺多宝塔模型19
荘厳寺多宝塔模型20
製作者:黒田庄町若手宮大工大城戸一秀氏の第一作目模型。
2003年完成。(2002年に大城戸氏は文化庁の「新進芸術家国内研修」を受け、その研修テーマにこの作品を選ぶと云う。)
スケールは1/5(総高2.9m)。前半分のみを製作する。
部材は約3000個。屋根は檜皮葺を再現。
以前この作品は黒田庄町中央公民館展示であったが、黒田庄町は西脇市と合併、その結果であろうか現在は西脇市郷土資料館展示となる。
2011/05/10 京都土橋邸 京都土橋永昌堂・・・ただし邸外にある礎石の様子である。
2011/04/13 筑前塔原廃寺心礎1
筑前塔原廃寺心礎2
筑前塔原廃寺心礎3
筑前塔原廃寺心礎4
筑前塔原廃寺心礎5
筑前塔原廃寺心礎6

筑前武蔵寺伽藍跡か1
筑前武蔵寺伽藍跡か2
(伽藍跡と思われるも不確実)

塔心礎1個が僅かに残る。心礎は花崗岩製で、大きさは約1.8×1.7m×70cm、上面は平面に加工され、中央に径98cm、深さ11cmの円形孔があり、さらにその中央に方形2段刳り込の舎利孔が穿たれる。 蓋受孔は方19.7×1.8cm、舎利孔は方13.9×12.4cm。
付近から白鳳−奈良初頭の瓦を出土。
そのほかの伽藍は不詳。心礎は原位置を動くとされる。
「筑前国続風土記」(貝原益軒著・江戸初期):「 村の前なる圃の中に、十王堂の址あり。今に礎残れり。其所を今も十王堂と云。むかし此所に塔あり。遠くより能見ゆ。此塔ある故に塔原といひしとかや。」とある。
2007/12/24追加:
○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 筑前武蔵寺心礎:方形舎利孔
2011/02/04追加:
○「塔原廃寺(福岡県文化財調査報告書第35集)」福岡県教委、昭和42年 より
遺構は古くから畠地にあり、心礎が残る。それ以外には今僅かに森山秀治氏・権藤源一郎氏邸に花崗岩製推定礎石1個を各々残す。
また南方の大行事山の高木神碑(明治11年銘)の台石にも礎石が転用される。
心礎がある西側の水田には礎石が並んでいたという伝承や遺跡南の原口池の明治初頭の築成の時礎石を割って使用したとの伝承もある。
今般の発掘調査で、現在畠の畔にある心礎は明治初期に現在の位置に動かされたものと判明する。
心礎はほぼ方形で一辺が1.8m厚さ約60cmを測り、表面は削平され、中央に径98cm深さ11cmの円穴を彫る。そして円穴中央に2段の方形刳り込みがある。上段は一辺9.7cm深さ1.8cm、下段は一辺13.9m深さ12.4cmである。
 筑前塔原廃寺全景     筑前塔原廃寺心礎1     筑前塔原廃寺心礎2     塔原廃寺心礎実測図
 筑前塔原廃寺礎石:高木神碑の台石が転用礎石
◆関連遺跡:武蔵寺
塔跡南500mに武蔵寺が現存する。
現武蔵寺東には伽藍跡と思われる雛壇状の造成がある。出土品から中世の武蔵寺跡と思われ、付近には正法寺・善正寺・蓮衣寺・宗正寺・石水寺・池上坊などの字を残す。おそらく現武蔵寺も左記の寺院と同様の旧武蔵寺の子院であり、本寺退転のため、名跡のみを継いだものと想像される。武蔵寺は「梁塵秘抄」「宇治拾遺物語」(いずれも平安期)にその名が見え、大伽藍であったと云われる。
 武蔵寺縁起1  武蔵寺縁起2:武蔵寺蔵(武蔵寺縁起絵掛軸5幅のうち)、時期不詳(室町〜江戸)
○なお般若寺↓の項も参照。
(塔原廃寺から直線で北東約1.5kmに般若寺跡がある。また南500mに現在の武蔵寺がある。)
筑前安楽寺天満宮 太宰府安楽寺天満宮
筑前宝満山 筑紫宝満山/竈門山
筑前観世音寺心礎1
筑前観世音寺心礎2
筑前観世音寺心礎3
筑前観世音寺心礎4
筑前観世音寺心礎5
筑前観世音寺心礎6
筑前観世音寺心礎7

観世音寺推定塔礎石1     観世音寺推定塔礎石2     観世音寺推定塔礎石3
観世音寺推定塔礎石4     観世音寺推定塔礎石5
観世音寺講堂(本堂)      観世音寺金堂(阿弥陀堂)     観世音寺鐘楼
観世音寺北方僧坊跡
なお、観世音寺戒壇院・天智院などは未見。

 →筑前観世音寺

筑前国分寺塔跡1
筑前国分寺塔跡2
筑前国分寺心礎1
筑前国分寺心礎2
筑前国分寺心礎3
筑前国分寺心礎4
筑前国分寺塔礎石
国分寺転落塔礎石
国分寺復原塔瓦積基壇

筑前国分寺跡現況:現国分寺と復原塔基壇が残る。写真左に2基の擬二重塔形式納骨堂が写る。
 →筑前国分寺跡

2011/04/13撮影:
小冊子「筑前国分寺跡」の境内図に納骨堂とある。
 筑前国分寺擬二重塔一号
 筑前国分寺擬二重塔二号
  →九州諸国の擬塔婆形式納骨堂
筑前国分寺塔復原模型1
筑前国分寺塔復原模型2
筑前国分寺塔復原模型3
筑前国分寺塔復原模型4
筑前国分寺塔復原模型5
筑前国分寺塔復原模型6
筑前国分寺塔復原模型7
太宰府市文化ふれあい館で屋外展示。
高さ5.4m (基壇の高さも含むと思われる)。
スケール1/10。模型素材はFRP(強化プラスチック)。彩色は古色仕上。
 →筑前国分寺跡
筑後高良山玉垂宮 筑後高良山玉垂宮
筑後安養寺二重塔1
筑後安養寺二重塔2
擬二重塔形式納骨堂:地図に納骨堂と明示。RC造。詳細不詳。久留米市御井町高良山下。
建久3年(1192)頃、聖光上人の開山と云う。上人は当寺にて千日の別時念仏を厳修する。高良山目代の厨氏が寺地伽藍を寄進する。号を「厨山聖光院安養寺」と称する由縁である。
安養寺南に接して永福寺がある。
 →九州諸国の擬塔婆形式納骨堂
筑後永福寺八角二重塔1
筑後永福寺八角二重塔2
擬八角二重塔形式納骨堂:地図に納骨堂と明示、地元民の納骨堂との説明あり。RC造。詳細不詳。久留米市御井町高良山下。
真宗大谷派。天文11年(1542)下弓削に創建、豊臣秀吉の九州平定に際し、陣中伺候して山号寺号を賜うと 云う。慶長6年(1601)田中吉政により府中(御井町)に移転、寺地を寄進されると云う。 文化2年(1805)焼失し、再建に取り掛かる。
 →九州諸国の擬塔婆形式納骨堂
筑後源正寺二重塔1
筑後源正寺二重塔2
擬二重塔形式納骨堂:納骨堂と推測。RC造。詳細不詳。久留米市御井町高良山下。
真宗大谷派。弘治5年(1555)創建。もとは府中(御井町)永福寺の西にあったが明治23年の火災で焼失、現在地(永福寺の南約200m)に移転と云う。 この移転場所は明治2年神仏分離で廃寺となった修験・高良山千手院極楽寺の跡地であったと云う。
 →九州諸国の擬塔婆形式納骨堂
2011/04/12 筑前神興廃寺心礎1
筑前神興廃寺心礎2
筑前神興廃寺心礎3
筑前神興廃寺心礎4
筑前神興廃寺心礎5
筑前神興廃寺心礎6
筑前神興廃寺心礎7
筑前神興廃寺心礎8
塔心礎(神興神社の手洗鉢として転用)を残す。大きさは2×1.5mで、中央に径約70cmの円穴を彫る。
実測すると、心礎の大きさはおよそ200×150×高さ70cm、中央に径56cm深さ11cmの円孔を穿ち、円孔周囲には幅約7cm(径70cm)の薄い柱座がある。薄いという意味は柱座の高さが1cm以下で明瞭さを欠くということで、よく観察しないと分からないという意味である。
 大正4年、延喜11年(911)の文字瓦が採取されたという。
平成13年発掘調査が行われ、その結果、創建は奈良末期で、平安末に廃寺となると推定され る。「筑前国続風土記拾遺」(江戸期)には「村の南六町許、山畠の内に石祠有。此処を古より神興といふ。宗像三神を祭る。(中略)今旧址を見るに、山谷の間に在て、其景致幽邃也。丘上方弐町計、平坦にして三方に山岡旋りて、南一方遥に開て、泉川東より西に流れたり。(中略)其余は粟田豆田となりたり。圃中に古瓦の破たる多し。其南に古瓦を拾ひ捨し処、塚の如く積めり。(中略)
兵乱に御社も回禄せしかば、仮に神体を東南の方高宮山の南半腹に社を建て祀りしか、また寛永十三年鳥巣村のうちに移せり。(此事は畝町の条にいへり。)かの鳥巣高宮に移せし後は、宮殿門楼の址空しく禾黍の田となりて、其址としも見へざりしが、近比民士一と云もの、夢の告有と称して、石壇樹の下に、小祠を営めり。其後旱年に村民等、此祠に雩するに、霊感ありとて、隣村民等力を戮て、報賽に石祠を建立す。側に手水塩を置り。是は南の圃にありしいにへの礎石なり。経六尺二寸、四尺六寸五分、高二尺七寸、正中に柱を彫入し穴あり。経一尺九寸、深三寸五分あり。この礎石をみて、上古の殿舎の宏大なりしことを知るべし。」とあると云う。
 現在の社のある南側の果樹園が瓦の出土地といい、ここは南面する微高地で伽藍建立の適地であろう、また「風土記拾遺」の云うように手水盤は確かに「南の圃にありしいにへの礎石」であり、しかも心礎であることは明確であろう。
筑前駕輿丁廃寺心礎1
筑前駕輿丁廃寺心礎2
筑前駕輿丁廃寺心礎3
筑前駕輿丁廃寺心礎4
筑前駕輿丁廃寺心礎5
筑前駕輿丁廃寺心礎6
心礎の概要は「現地説明板」では、大きさは209×103×43cmで、径56×16cmの円孔を穿つ。
「幻の塔を求めて西東」では一重円孔式。大きさは205×100×40cmで、径54×5/6cmの円穴を彫る、とある。
(但し、心礎は相当程度欠損しているものと推測される。
駕輿丁(かよいちょう)池は、筑前三大池の一つといわれ、元禄10年(1697)郡奉行川村茂右衛門によって築堤され、現在の形になったとされる。駕輿丁池の東側は、奈良〜平安期の寺院である駕輿丁廃寺の跡という。ここから塔心礎が出土し、その心礎は現在、 粕屋フォーラム(旧中央公民館)に移される。跡地は開発で消滅したと云う。なお伽藍配置などについては不明と云う。
2003/12/30X氏ご提供画像
 筑前駕輿丁廃寺心礎1       同          2      同          3
2011/04/18追加:
○「かすや歴史探訪【第11話】」 より
 駕輿丁廃寺心礎現況図:出土遺物などから判断すると、奈良後期に駕輿丁池北側に塔が存在していたと考えられる。
○資料名不詳であるが「八章 奈良平安時代に栄えた駕輿丁の文化」 より
昭和44年安松毅氏所有畑からこの心礎が発掘される。またこの周囲から沢山の瓦の破片も出土する。瓦の形式は鴻臚館系といわれ、筑前国分寺と同一種類の瓦と云われる。
筑前東長寺五重塔11
筑前東長寺五重塔12
筑前東長寺五重塔13
筑前東長寺五重塔14
筑前東長寺五重塔15
筑前東長寺五重塔16
筑前東長寺五重塔17
筑前東長寺五重塔18
筑前東長寺五重塔19
筑前東長寺五重塔20
筑前東長寺五重塔21
筑前東長寺五重塔22
木造五重塔、高さ26m、総檜造・総工費7億5000万円。山城醍醐寺五重塔をモデルとする。
落慶は2011年5月予定。松井建設の設計・施工。
仏舎利は伏鉢に安置する。
東長寺は大同元年(806)空海が帰朝した折に建立すると伝える。南岳山と号する。
近世には黒田家の菩提寺の一つとなる。二代忠之、三代光之、八代治高の巨大な五輪塔墓が並ぶ。
巨大な本堂、大仏殿などの伽藍があるが、六角堂を除いて古建築はない。
2010/12/25「x」氏撮影筑前東長寺五重塔

多宝塔形式(上重は八角円堂)の納骨堂も有する。
外観は八角多宝塔の形式を採る。おそらくRC造と思われる。
2011/04/12撮影:
筑前東長寺八角多宝塔1     筑前東長寺八角多宝塔2     筑前東長寺八角多宝塔3
 →九州諸国の擬塔婆形式納骨堂
筑前三宅廃寺心礎1
筑前三宅廃寺心礎2
筑前三宅廃寺心礎3
筑前三宅廃寺心礎4
筑前三宅廃寺心礎5
筑前三宅廃寺心礎6
筑前三宅廃寺心礎7
筑前三宅廃寺心礎8
心礎が現存(若八幡宮の手洗石に転用)する。 ※若宮八幡:福岡市南区三宅2、三宅小学校南に隣接
もとは西北の山裾にあったとされる。 ※福岡市南区南大橋1−22付近が廃寺跡
寺域は東西100mの規模と推定され、奈良前期の瓦、「寺」や「堂」と墨書した土器、黄銅製の匙と箸などが発掘調査で出土したと云う。
○「日本の木造塔跡」:心礎は1.33×1.49m(形状はほぼ三角形)で、径93cmの柱座を造り、中央に径62×1.5cmと径59×12/11cmの二重円孔を穿つ。なお放射状排水溝1本がある。心礎には享保年中に当神社に移した彫り込みがある 。
2011/02/07追加:
○「三宅廃寺(福岡市埋蔵文化財調査報告書第50集」福岡市教委、昭和54年 より
昭和52〜53年の発掘調査報告。
この廃寺は古くから知られ、「筑前国続風土記拾遺」には「(享保12年)三宅の西北部に古瓦が散布し、礎石を溝池の修理や若八幡などに寄進する」主旨の記述があると云う。
「福岡県史蹟名勝天然記念物調査報告書第8輯」(昭和8年)では若八幡境内の礎石・心礎を三宅廃寺からの搬入と認めるとの記載がある。
また古老の話によると、これ等の礎石の本来の所在地である字コクフには昭和初期まで畔に礎石らしき石が散在していたと云う。なおその礎石は門柱の下に残ることも判明する。
しかし、現状は宅地化が進み、往時の面影は全くない。発掘調査結果も瓦溜の出土をみただけで、伽藍遺構の発見には至らず。
さらに、平成14年度にも発掘調査が実施されるが、報告書によれば顕著な寺院遺構の発見はないと云う。
 筑前三宅廃寺心礎:若八幡に所在     三宅廃寺礎石:民家の門の礎に転用される。
 出土墨書とヘラ書文字     墨書とヘラ書文字トレース
2011/04/12撮影・実測:
実測値:表面に径約93cmの柱座を削平し、中央に径63cm深さ1cm弱・幅3cmの孔を彫り、更に径57cm深さ12cmの円孔を彫る。なお円孔の中央に小円孔があるが、彫りはごく浅くまた彫り方も乱暴で舎利孔などではありえない。後世の悪戯であろう。
筑前長円寺擬五重塔1
筑前長円寺擬五重塔2
筑前長円寺擬五重塔3
筑前長円寺擬五重塔4
筑前長円寺擬五重塔5
筑前長円寺擬五重塔6
筑前長円寺擬五重塔7
外観は縦半裁五重塔貼付納骨堂というべきものであろう。
通常では考えられない(伝統的ではない)意匠の建築である。納骨堂ビルの荘厳・装飾として 縦に半裁した五重塔を貼付した代物と云うべきものである。五重塔を冒涜するような意匠で、塔婆とは認めがたい代物であろう。
 ※縦に半裁とは正確に云えば、初重から4重までは前三分の一を残し、後の三分のニは切落し、ビルに貼付するということであろう。
平成3年完成。鉄筋コンクリート製。総高約28m。長円寺は真宗本願寺派。春日市に所在。
但しRC造とは云え、外観は忠実に和様の様式を造作している点は評価できる。
1999年撮影: 「X」氏ご提供画像
 筑前長円寺五重塔1     筑前長円寺五重塔2
 →九州諸国の擬塔婆形式納骨堂

佐賀本福寺五重塔11
佐賀本福寺五重塔12
佐賀本福寺五重塔13
佐賀本福寺五重塔14
佐賀本福寺五重塔15
佐賀本福寺五重塔16
佐賀本福寺五重塔17
佐賀本福寺五重塔18
佐賀本福寺五重塔19
佐賀本福寺五重塔20
佐賀本福寺五重塔21
佐賀本福寺五重塔22

平成6年(1994)建立。GRC(ガラス繊維強化セメント)造。高さ33m。中山身語正宗。 屋根銅板葺。
RC造ではあるが、古風な和様の様式を忠実に再現した造作となる。
横須賀聖徳寺・平賀本土寺・陸奥観音寺・土佐角茂谷五重塔と同工法。
なお五重塔前には礼堂(大堂である)を設ける。
光明念佛身語聖宗総本山、中山一ノ瀧と称する。山中に多くの堂宇が並ぶ。
一筋の尾根を越えた西に瀧光徳寺がある。
佐賀本福寺境内
佐賀本福寺本堂
佐賀瀧光徳寺五重塔11
佐賀瀧光徳寺五重塔12
佐賀瀧光徳寺五重塔13
佐賀瀧光徳寺五重塔14
佐賀瀧光徳寺五重塔15
佐賀瀧光徳寺五重塔16
佐賀瀧光徳寺五重塔17
佐賀瀧光徳寺五重塔18
佐賀瀧光徳寺五重塔19
佐賀瀧光徳寺五重塔20
佐賀瀧光徳寺五重塔21
昭和40年(1965)建立、高22m、鉄筋コンクリート。佐藤仁原氏(九州電力社長)の寄進と云う。
RCではあるが、造作は丁寧で、和様の意匠を忠実に表現する。塔に至る階段途中に拝殿を設ける。
 大本山瀧光徳寺発行「参拝のしおり」より:瀧光徳寺五重塔
瀧光徳寺は大正10年建立、中山身語正宗大本山、中山ニノ瀧と称する。山中の広大な境内に大建築が並び、おそらく数十棟の堂宇や数ヶ院の塔頭が並び、現在も新しい堂宇が建立されている 様子である。
一筋の尾根を越えた東に本福寺がある。
佐賀瀧光徳寺伽藍
佐賀瀧光徳寺本堂1     佐賀瀧光徳寺本堂2     佐賀瀧光徳寺本堂3
佐賀瀧光徳寺本堂4     佐賀瀧光徳寺本堂5
筑前正行寺三重塔1
筑前正行寺三重塔2
筑前正行寺三重塔3
筑前正行寺山門
筑前正行寺本堂
筑前正行寺三重塔4
筑前正行寺三重塔5
昭和55年(1980)建立。コンクリート製。法起寺塔婆がモデルか飛鳥期の意匠で造作される。
コンクリートは無彩色のまま。
正行寺は真宗本願寺派、松見山と号す。創建は文祿2年(1593)で天台宗であったと伝える。
寛永元年(1542)明順によって浄土真宗に改宗したと云う。
本堂、三重塔、山門、鐘楼など主要伽藍はコンクリートの打ち放ちで構成される。
 ※三重塔1〜3、山門、本堂は2011/04/12撮影、三重塔4、5は2011/04/13撮影
筑前般若寺跡塔跡1
筑前般若寺跡塔跡2
筑前般若寺跡心礎1
筑前般若寺跡心礎2
筑前般若寺跡心礎3
筑前般若寺跡心礎4
 →筑前般若寺跡

塔跡から東約100mの所に石造七重塔(鎌倉期・重文)が残る。
 筑前般若寺跡石造七重塔
2011/03/31 山城三聖寺愛染堂小宝塔 山城三聖寺・萬壽寺・東福寺
2011/02/22 山城神雄寺跡 山城神雄寺跡
2011/02/20 武蔵安楽寺 武蔵成木安楽寺
武蔵延命寺五重小塔21
武蔵延命寺五重小塔22
武蔵延命寺五重小塔23
武蔵延命寺五重小塔24
武蔵延命寺五重小塔25
再訪
武蔵宗建寺三重小塔11
武蔵宗建寺三重小塔12
武蔵宗建寺三重小塔13
武蔵宗建寺三重小塔14
武蔵宗建寺三重小塔15
武蔵宗建寺三重小塔16
武蔵宗建寺三重小塔17
平成元年建立(碑文による)と思われる。(文字が良く判読できない。)
銅板製:銅板を四角に貼り合せ、もしくは円柱は銅板を丸め、建築材(中は空洞)を作り、その建築材を溶接して塔を組立したものである。
初重一辺は2尺(59cm・実測)
青梅市:延命寺(五重小塔)の南東すぐにある。
宗建寺:仙桃山と号す、臨済宗。本尊毘沙門天。
愛宕山慰霊五重塔1
愛宕山慰霊五重塔2
愛宕山慰霊五重塔3
愛宕山慰霊五重塔4
愛宕山慰霊五重塔5
昭和31年建立。一辺約3m。高さ15m。愛宕神社に隣接するが、神社の塔ではなく、地元民が建てた戦没者慰霊の五重塔である。RC造、粗雑な造作で特に論ずるに足らない。
 ※旧氷川町が戦没者178人を合祀して成立すると云う。(ミニ靖国神社であり国家神道の亡霊であろう。)
この愛宕山山頂には、「戦没者奉 祠靖国の塔」との塔婆名称を持つRC造の仏塔、愛宕権現ではなく愛宕「神社」と称するRC造の社、大正2年山形有朋元帥書の「忠魂碑」、「題目碑」(もっとも昭和30年日本山妙法寺の建立であるが、この地に建立すると国家主義と結合した題目と錯覚する)が揃う。醜悪そのものの雰囲気である。
青梅寒山寺ニ層塔11
青梅寒山寺ニ層塔12
青梅寒山寺ニ層塔13
青梅寒山寺ニ層塔14
青梅寒山寺ニ層塔15
昭和5年に寺院建立、戦前の二重塔絵葉書があるので、ニ層塔は昭和5年頃建立された可能性が高いと推定される。
 図1     図2:寒山寺絵葉書:JIT(日本画像行脚)様ご提供
塔はRC造、正規の塔建築ではなく、簡略な 様式で建立される。また柱の建て方は垂直ではなく、角錐の角度で建てられる。(ニ層塔14の写真でこのことは良く分かる。)
初重正面は3間、側面2間、上重は方2間の変則な柱配置である。何れにしろRC造で、組物などは略した非正規の建築である。
明治18年、田口米舫(書家)が蘇州寒山寺を訪れた時、主僧の祖信師から釈迦仏木一体を託され帰国。その後日本各地を遍歴、昭和5年小澤太平氏(小澤酒造 ・澤之井醸造)の協力により、寒山寺の伽藍を建立する。当時小澤氏は青梅電気鉄道(現JR青梅線)社長でもあった。寒山寺は無住。
2010/04/12追加:2010/03/31「X」氏撮影画像
 武蔵寒山寺ニ層塔1     武蔵寒山寺ニ層塔2
JR沢井駅擬寒山寺塔1
JR沢井駅擬寒山寺塔2
JR沢井駅擬寒山寺塔3
青梅寒山寺附:
青梅寒山寺の最寄駅はJR青梅線沢井駅である。
当駅は橋上駅であり、跨線橋上には寒山寺を模したと思われる屋根及び相輪が架設される。
武蔵国分寺塔跡1-11
武蔵国分寺塔跡2-11
再訪 武蔵国分寺跡
武蔵国分寺塔模型1-11 武蔵国分寺跡の国分寺塔模型の項(後段)を参照
武蔵国分寺塔模型2-11 武蔵国分寺跡の国分寺塔模型の項(後段)を参照
武蔵金剛寺五重塔 武蔵金剛寺
武蔵雲龍寺五重塔1
武蔵雲龍寺五重塔2
武蔵雲龍寺五重塔3
武蔵雲龍寺五重塔4
武蔵雲龍寺五重塔5
武蔵雲龍寺五重塔6
昭和52年完成、高さ約40m。唐門の上に塔は建つ。主構造は鉄板で、細部はプラスチックで造作すると云う。初重には達磨大師坐像(坐高6m)、二重には口径5尺胴張6尺の大磬(だいけい)、三重には四天王像、四重には十大弟子、五重には仏舎利1粒を祀る(安置)と云う。五重まで昇降可能と思われる。
雲龍寺は天正8年(1580)八王子宿本郷村に創建される。明治31年足利正山住職により再興され、昭和38年現在地に移転。南大門、唐門、北大門、本堂・・・などの堂宇を有する。曹洞宗。天海山と号する。
五重塔を初めとする建築や境内や堂宇には塔初重の達磨大師を初めとする雑多なゲテモノが目に付くが、何を意味するのかは全く分からない。当寺は数多くの保育所、診療所、老人ホーム、墓苑などを営むと云われ、境内は正気の沙汰とは思えないが、案外計算高いか正気であるのかも知れない。
「x」氏ご提供画像:図1     図2     図3
武蔵永林寺 武蔵永林寺
武蔵大義寺ニ層堂1
武蔵大義寺ニ層堂2
武蔵大義寺ニ層堂3
武蔵大義寺ニ層堂4
武蔵大義寺ニ層堂5
武蔵大義寺ニ層堂6
昭和50年建立、かなりの大型二層塔と思われるも、詳細不詳。 本堂である平面方形の大型ニ層堂に相輪を載せたもので本来は塔としての機能はないものと思われる。
(夕刻のため閉門され、境内地には入らず。)
龍華山と号す、真言宗智山派。室町期の創建で、もとは大元寺と称するも,足利義稙より一字を貰い大義寺と改号すると伝える。
2011/02/19 武蔵安養院多宝塔11
武蔵安養院多宝塔12
武蔵安養院多宝塔13
武蔵安養院多宝塔14
武蔵安養院多宝塔15
武蔵安養院多宝塔16
武蔵安養院多宝塔17
武蔵安養院多宝塔18
武蔵安養院多宝塔19
武蔵安養院多宝塔20
武蔵安養院多宝塔21
武蔵安養院多宝塔22
2005年建立、和様を基本とする大型木造多宝塔建築である。
木造無彩色、屋根銅板葺。本尊:金剛界五仏。
その他の情報は不詳。
板橋区東新町
武王山最明寺と号する。真言宗豊山派。正嘉元年(1257)北条時頼(最明寺入道)の開山と伝える。
多宝塔の外、山門・本堂・大師堂・鐘楼・庫裏・書院?などを備える。
武蔵春清寺三重塔11
武蔵春清寺三重塔12
武蔵春清寺三重塔13
武蔵春清寺三重塔14

昭和建立(年代不明)。RC造、各重1間に造る。聊か粗雑な塔である。高さ約10m。
大原山と号する。曹洞宗。
寛永年中、幕臣である大原文左衛門春清によつて開創される。
元和元年(1615)柴田勝重(柴田勝家孫)菩提寺として開山する。
三重塔のほか本堂・観音堂・客殿・鐘楼・山門などがある。

武蔵東長寺多宝塔11
武蔵東長寺多宝塔12
武蔵東長寺多宝塔13
武蔵東長寺多宝塔14
武蔵東長寺塔本尊
平成13年建立、一辺約3.15m、RC造、細部の造作は省略する。塔本尊として多宝如来、釈迦如来の二仏を祀る。
新宿区四谷、曹洞宗。文禄3年(1594)雪庭春積和尚により開創。開基は土井家二代目孫兵衛と云う。雪庭和尚は徳川家康の帰依を受け、近世には隆盛する。
明治元年の火災、昭和20年の空襲にて焼失。
戦後順次復興し、現在では山門、本堂、観音堂、開山堂、羅漢堂、書院、食堂、庫裡、鐘楼、多宝塔などを具備し都会の喧騒の中を生きる。
武蔵戒行寺多宝塔11
武蔵戒行寺多宝塔12
武蔵戒行寺多宝塔13
武蔵戒行寺多宝塔14
武蔵戒行寺多宝塔15
武蔵戒行寺多宝塔16
建築年不明(2006年建立か)、木造塔であるが、かなり簡略に造る。やや小型塔である。
初重正面は擬似3間、側面は擬似2間に造り、組物は用いない。上重は亀腹を造り、平面は円形に造るも柱は、小型塔の関係かおそらく8本のみを建てる。組物も通常の多宝塔上重は4手先を用いるが本塔は変形の2手先を用いる。屋根銅板葺。本尊多宝仏 。
妙典山と号する。文禄4年(1595)麹町に創建、寛永11年(1634)現在地に移転。開山は玉泉院日養、開基は旗本士宮重作兵衛重次。身延山江戸惣末寺中の五箇寺の一つと云う。往時は圓立院など四寺中を有すると伝える。新宿区須賀町 。
武蔵真成院擬宝塔1
武蔵真成院擬宝塔2
武蔵真成院擬宝塔3
昭和46年に現在の寺院の姿になると云うので、おそらくこの擬宝塔は昭和46年頃の建立と推定される。本堂などの複合的な機能を持つビルの屋上に建つ。
RC製と思われる。おそらく宝塔に似せて建立された建物と推定されるも宝塔とは程遠い代物である。(詳細は不明)
真成院は高野山真言宗、金鶏山と号する。慶長3年(1598)清心法印により開山。 その後、江戸城外濠工事のため、替地として四谷に移転する。
昭和20年東京空襲により焼失、昭和46年現在の姿に再建される。
なお青森青龍寺(明治以降の五重塔のページの565)は真成院の布教拠点の1つと云う。
芝増上寺 芝増上寺五重塔跡、増上寺宝塔(大納骨堂)、増上寺伽藍の残像と現状 など
 芝増上寺
池上本門寺 池上本門寺宝塔・五重塔・池上常仙院三層堂・その他伽藍
再訪 池上本門寺
2011/02/12 法隆寺五重塔モデル11
法隆寺五重塔モデル12
法隆寺五重塔モデル13
法隆寺五重塔モデル14
法隆寺五重塔モデル15
法隆寺五重塔モデル16
法隆寺五重塔モデル17
法隆寺五重塔モデル18
法隆寺五重塔モデル19
法隆寺五重塔モデル20
法隆寺五重塔モデル21
法隆寺五重塔モデル22
法隆寺五重塔モデル23
法隆寺五重塔塔婆構造モデル
製作者:「KEN」さん
「京都伝統工芸大学校・第15回卒業終了製作展及び京の伝統工芸新人作品展」に展示
於 :京都伝統工芸館(烏丸三条上ル)
期間:2011/02/11〜2011/02/20
陶芸、木彫刻、仏像彫刻、蒔絵、木工芸、金属工芸、竹工芸、石工芸、和紙工芸
卒業終了作品約190点、伝統工芸新人作品約80点、特別展示など

本作品は展示に合わせ急遽完成させたものである。
本作品の制作過程は拙サイト:「Kenさん」の五重塔製作 に掲載をしている。

2011/01/13 山城真如堂三重塔21
山城真如堂三重塔22
山城真如堂三重塔23
山城真如堂三重塔24
山城真如堂三重塔25
山城真如堂三重塔26
山城真如堂三重塔27
山城真如堂三重塔28
山城真如堂三重塔29
山城真正極楽寺本堂
再訪
山城黒谷三重塔21
山城黒谷三重塔22
山城黒谷三重塔23
山城黒谷三重塔24
山城黒谷三重塔25
山城黒谷三重塔26
山城黒谷三重塔27
山城黒谷三重塔28
山城黒谷三重塔29
山城黒谷三重塔30
山城黒谷三重塔31
山城黒谷三重塔32
山城黒谷三重塔33
山城黒谷三重塔34
山城黒谷三重塔35
山城黒谷三重塔36
山城黒谷三重塔37
山城黒谷三重塔38
山城黒谷三重塔39
山城黒谷山門
再訪
2010/07/03
「O」氏撮影
陸奥勝行院三重塔11
陸奥勝行院三重塔12
陸奥勝行院三重塔13
陸奥勝行院三重塔14
陸奥勝行院三重塔15
陸奥勝行院三重塔16
陸奥勝行院三重塔17
陸奥勝行院三重塔18
陸奥勝行院三重塔19
陸奥勝行院三重塔20
陸奥勝行院三重塔21
陸奥勝行院三重塔22
陸奥勝行院三重塔23
平成元年完工。総高14m、木造白木。純和様を用いる。
現地案内板では、昭和63年竣工、高さ14m、柱間3m(一辺か)、本尊胎蔵界五仏、鎌倉後期の様式、小島建設(株)施行、山本亮治設計、飯山万平工匠(棟梁か)とある。
勝行院は三函山勝行院法海寺と号する。通称は「中の寺」。大同年中徳一の開創と伝える。真言宗。
楼門・本堂・釈迦堂などを具える。
福島県いわき市湯本
2010/12/25
「x」氏撮影
筑前東長寺五重塔 落成は2010年末の予定。松井建設の設計・施工。
高さ26メートル。総檜造りで総工費7億5000万円。山城醍醐寺五重塔をモデルとする。
仏舎利は伏鉢に安置する。
大同元年(806)空海が帰朝した折に東長寺を建立すると伝える。南岳山と号する。
近世には黒田家の菩提寺の一つとなる。
福岡市博多区御供所町
2011/01/05 中山法華経寺 再訪 中山法華経寺
武蔵法恩寺三重塔1
武蔵法恩寺三重塔2
武蔵法恩寺三重塔3
武蔵法恩寺三重塔4
武蔵法恩寺三重塔5
法恩寺山門
法恩寺本堂

昭和2年建立。寺側では昭和7年建立とする。一辺2.65m。RC造。 日蓮上人650年遠忌を記念して建立。一石一字の経石を収めたので「経石塔」と呼ぶ。初重は鐘楼。細部は省略・簡略な塔。平成22年大改修を行う。
長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城にあたり、丑寅の方(平河村・現在の江戸城平川門付近)に城内鎮護の祈願所として本住院を建立する。開山は本住院日住上人、開基は太田道灌。資高(道灌孫)、本住院を法恩寺と改称する。
徳川家康の江戸城拡張により、慶長10年神田柳原に移転、さらに谷中清水町に移転した後、元禄8年(1695)幕府の命で現在地に移転。当時は寺中20ヶ院、末寺11ヶ寺を擁する。
関東大震災と今次大戦で焼失。塔のみ戦災は免れる。昭和29年本堂再建。山号は平河山。
現在は○法恩寺門前に○寺中善行院、○寺中陽運院、○寺中千榮院、○寺中法泉院の4院を残す。
◎「江戸名所圖會」天保年間刊 より
  押上法恩寺:・・・花洛本圀寺の触頭江戸三ヶ寺の一員たり・・・

東京都慰霊堂三重塔1
東京都慰霊堂三重塔2
東京都慰霊堂三重塔3
東京都慰霊堂三重塔4
東京都慰霊堂三重塔5
東京都慰霊堂三重塔6
昭和5年建立。 一辺10m、高さ44.5m(基壇含む)、塔高は41m。RC造。塔としてはRCであることと各種の省略があり良質とは云えない。基壇部は納骨堂となる。
東京都慰霊堂は昭和5年に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂う)として創建される。昭和23年より今次大戦中の東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀し 、昭和26年に現在の姿となる。
本堂は伊東忠太設計による。講堂には祭壇がある。
2011/01/04 下総竜角寺心礎1
下総竜角寺心礎2
下総竜角寺心礎3
下総竜角寺心礎4
下総竜角寺心礎5
下総竜角寺心礎6
下総竜角寺心礎7
下総竜角寺塔跡
竜角寺金堂土壇・塔跡
下総竜角寺金堂土壇1
下総竜角寺金堂土壇2
下総竜角寺中門礎石
心礎(花崗岩製)の大きさは2.5m×1.8mで、外径約69cmの浅い円穴と内径66.6cm深さ12,1cmの 穴を穿つ。2段式である。但し、外側の円穴のおよそ半分は磨耗のためか、不明瞭になる。
基壇は一辺12mとされる。永和3年(1377)の修造記録には三重塔と記載があると云う。
竜角寺は奈良期の創建で、法起寺式伽藍とされ、塔跡(史蹟)と心礎が残る。また金堂土壇と礎石、中門礎石が完存する。現在の姿は金堂跡にあったと思われる近世の本堂も退転し、住職住居と小宇数棟が残るのみである。
○「竜角寺遺構配置図」(「日本古代地方寺院の成立」より転載)
○「日本の木造塔跡」:心礎、金堂跡、中門跡を残す。心礎は2.2×1.7mで、径63×11cmの穴を彫り、穴の廻りには幅2cm深さ3cmの繰り込みがあり、ここから排水溝が2本出る。中門跡は礎石が完存し、金堂跡は土壇のみを残す。
2007/12/24追加:
○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 下総竜角寺心礎:根巻き石があったと云う。
2008/08/12追加:
○「天武・持統朝の寺院経営」より
 下総竜角寺心礎実測図
下総飯沼観音 下総円福寺五重塔

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