旧藤田男爵邸・藤田美術館・太閤園/高野山光台寺多宝塔・大和東大寺塔礎石

旧藤田男爵邸・藤田美術館・太閤園/高野山光台寺多宝塔・大和東大寺塔礎石

旧高野山光台院多宝塔

旧藤田男爵邸・藤田美術館 に所在
桃山時代建立(あるいは鎌倉期の建立とする説もある)。
 ※唐様がかなり取り入れられ、鎌倉期とするのは無理のように思われる。
大正5年、藤田男爵が高野山光台院の塔を買入れ、当地に移建する。
昭和20年の空襲にも多宝塔は焼け残る。
一辺2.48m、総高10.2m。新材が多い。屋根は銅葺で緑青の緑が印象的である。
2022/12/06追加:
高野山光臺院の寺誌によると、この多宝塔は延宝7年(1679)から元禄4年(1691)の間の創建と記され、だとすれば、建築様式の特徴と合致する。移築時に桧皮葺の屋根を銅板葺に変更する。軒は、上・下重とも扇垂木を用いる。

2000/10/09撮影画像
 旧光台寺多宝塔
2003/9/21撮影
 旧光台院多宝塔1     旧光台院多宝塔2     旧光台院多宝塔3
 旧光台院多宝塔4:左図拡大図
 旧光台院多宝塔5     旧光台院多宝塔6
2006/09/30撮影:
 旧光台院多宝塔11     旧光台院多宝塔12     旧光台院多宝塔13
 旧光台院多宝塔14     旧光台院多宝塔15     旧光台院多宝塔16
 旧光台院多宝塔17     旧光台院多宝塔18
2012/02/01撮影:
 旧光台院多宝塔21     旧光台院多宝塔22     旧光台院多宝塔23
 旧光台院多宝塔24     旧光台院多宝塔25     旧光台院多宝塔26

 旧光台院多宝塔27     旧光台院多宝塔28     旧光台院多宝塔29
 旧光台院多宝塔30     旧光台院多宝塔31     旧光台院多宝塔32
 旧光台院多宝塔33     旧光台院多宝塔34     旧光台院多宝塔35

上述のように、旧光台院多宝塔は藤田男爵が購入し、大正5年に大阪藤田邸に移建する。
現地高野山光台院には、塔の移建に際し、藤田男爵が大正5年頃同型に再建・寄進した塔が残る。
  → 高野山光台院多宝塔

2015/02/20追加:
「日本歴史地名大系 和歌山県の地名」平凡社 より
高野山光台院:
 多宝塔は道助親王(後鳥羽天皇皇子)の供養塔として元禄年中(1688-1704)に建立されたと伝える。
2022/06/24撮影:
 旧光臺院多宝塔41     旧光臺院多宝塔42     旧光臺院多宝塔43     旧光臺院多宝塔44
 旧光臺院多宝塔45     旧光臺院多宝塔46     旧光臺院多宝塔47     旧光臺院多宝塔48
 旧光臺院多宝塔49
 旧光臺院多宝塔下重11    旧光臺院多宝塔下重12    旧光臺院多宝塔下重13    旧光臺院多宝塔下重14
 旧光臺院多宝塔下重15    旧光臺院多宝塔下重16    旧光臺院多宝塔下重17    旧光臺院多宝塔下重18
 旧光臺院多宝塔下重19    旧光臺院多宝塔下重20    旧光臺院多宝塔下重21    旧光臺院多宝塔下重22
 旧光臺院多宝塔下重23    旧光臺院多宝塔下重24    旧光臺院多宝塔下重25    旧光臺院多宝塔下重26
 旧光臺院多宝塔下重27
 旧光臺院多宝塔上重11    旧光臺院多宝塔上重12    旧光臺院多宝塔上重13    旧光臺院多宝塔上重14
 旧光臺院多宝塔上重15    旧光臺院多宝塔上重16    旧光臺院多宝塔上重17    旧光臺院多宝塔上重18
 旧光臺院多宝塔上重19    旧光臺院多宝塔上重20    旧光臺院多宝塔上重21
 旧光臺院多宝塔相輪1     旧光臺院多宝塔相輪2     旧光臺院多宝塔相輪3

◆旧光臺院多宝塔修理
○「ART TALK_06 | 文化的建造物の意義」 より
トーク:
 鳴海祥博:文化財建造物保存修理技術者
 有馬茂:有限会社匠弘堂(京都)専務取締役、宮大工2代目棟梁
 松尾浩樹:大成建設株式会社設計本部専門設計部伝統・保存・木質建築推進室長。法然寺五重塔などを手がける。
 藤田清:藤田傳三郎からの5代目にあたる藤田家五男、藤田美術館館長

多宝塔は傷みが目立ってきたため、美術館リニューアルと同時に、修理を行うこととする。
光臺院多宝塔:
多宝塔は真言宗に独特の建物で、真言密教の中心となる仏様、大日如来を象徴するのが多宝塔だと言われる。
また墓所としても作られ、多分これは墓所としての多宝塔だったのではないか。
多宝塔の古材の実際:
当時の移築については、高野山でバラバラにして、こちらでまた組み上げたという。
その際に新しい部材でかなり改造されたという話を聞いていたが、ほとんどの部材が古いものであった。
移築も丁寧にされていた。改造されたところとしては柱の足元が30pほど切られていた。あと、屋根が銅板に変わった可能性がある。高野山であれば檜皮葺きですが、都市部への移築ということもあり、火災の危険を考えて変えたのかもしれない。
 多宝塔上重細部
多宝塔の移築:
今回のリニューアルに伴い、庭園とのバランスや見栄えも考慮に入れ、よりよい場所に配置することを検討する。
全体的に傷んでいるところはあるが、中心にある心柱も劣化は見られずしっかりとした作りでもあり、修理するほどではないという微妙なところで悩むが、建物の価値を維持するためにもあまり手を入れない方がいいと判断したました。
移築は、建物をそのままの状態で移動する曳家という手法を選択する。多宝塔をジャッキアップし、建ったままの状態で15mほど移動する。
 多宝塔曳屋工事
銅板葺き:
そうですね。屋根に関しては、銅板があちこち切れていて雨が漏る状態であった。ただ、葺き方が非常に丁寧で、外したら再現するのは難しいだろうと感じる。
そこで今回、20数年前に一緒に仕事をした際、丁寧で優秀な仕事をされていた板金職人を探し出し、なんとか銅板の屋根の修理をやっていただくことができた。
 多宝塔上重屋根
飾り金具・錠前:
特に飾り金具や錠前は、きれいにしてみるととんでもなく素晴らしいものであった。銅製の飾り金具の桐紋釘隠しや唄金物はそれぞれ16カ所ありましたが、一つずつサンプルとして、梅酢を使った超音波洗浄を行う。どちらも緑青の下から文様が表れ、金色に光る。ただ、時間を積み重ねてできた緑青をそのまま残すため、他は水洗い程度にとどめている。
 多宝塔錠前洗浄・文様:錆び付いていた舟錠も綺麗に文様が現れた。
 多宝塔唄金物:唄金物 左は緑青を残した。右は梅酢洗い漆箔復元。
 多宝塔桐紋釘隠し:洗浄を行い、文様があらわれた桐紋釘隠し。なお長押の隅/上部は「矧木(はぎき)」で修理されている。


推定大和東大寺東塔もしくは西塔心礎あるいは推定東大寺塔礎石

 藤田美術館前庭(高野山光台院多宝塔の南に位置する)に東大寺東塔心礎と称する礎石がある。
しかしながら、この礎石についての伝承・伝来には諸説があり、さらに形状や大きさなどについて東大寺の心礎とするには疑問がある。
即ち、この礎石が東大寺の東西何れかの塔心礎であるとの確証はなく、むしろ塔心礎でなく塔脇柱礎石であるのが相応しいのかも知れない。
あるいは東大寺とは別の寺院の礎石・心礎である可能性なども考えられ、何れとも決することが難しいのが現状であろう。

○「日本の木造塔跡」:
大きさは3.8×2.4m、柱座径130cm、出枘径33・高さ5cmという。
超大型の心礎ではあるが、残欠として残る推定東大寺東塔心礎よりはひと回り小さく、また大安寺西塔の柱座径147cmよ りも小さいので、東大寺心礎とは思われない。それ故、この礎石は別の塔の心礎であるかまたは東大寺東塔の側柱礎であるかであろう。
○2006/06/10追加:撮影時期不詳「X」氏ご提供画像
 藤田美術館心礎1     藤田美術館心礎2      藤田美術館心礎3
○2006/09/30撮影
 藤田美術館心礎21     藤田美術館心礎22     藤田美術館心礎23
「X」氏ご提供画像も合せ見ると、礎石は円形柱座に出枘を造り出すが、おそらくこの庭園に据えられた時に、円形柱座の1/5乃至1/6程度が切り取られ、竹樋の水受けとして加工されたと思われる。
当然ながら、この礎石の形式では心礎であるとは断定は出来ず、巨大な堂塔(東大寺の主要堂塔)の礎石なかんづく塔の脇柱礎である可能性(「日本の木造塔跡」) が大きいと思われる。
  藤田美術館礎石: 上記以外にも美術館庭園には幾つかの礎石と思われる石があるが、これも同形の礎石であろう。
○「幻の塔を求めて西東」:
大きさは380×240×80cmで、東大寺西塔心礎とする。
 ※西塔心礎とする根拠は不明であるが、「東塔心礎は幾つかの残欠となって石碑の台石の部材として転用されている」(「日本の木造塔跡」)という認識があり、かつ藤田美術館の礎石は東大寺から搬入されたという伝承?記録?など があり、もしこの礎石が心礎であれば、それは東大寺西塔心礎であろうと云う見解とも思われる。
蓋し、この見解(東大寺西塔心礎)も一つの有力な見方ではあろうが、むしろ東大寺塔側柱礎とするのが妥当ではないだろうか。
  参照: →旧藤田男爵邸
○2012/02/01撮影:

礎石の背面(写真手前)は後世に削平されているように見える。

藤田美術館伝東大寺礎石31
藤田美術館伝東大寺礎石32
藤田美術館伝東大寺礎石33
藤田美術館伝東大寺礎石34
藤田美術館伝東大寺礎石35
藤田美術館伝東大寺礎石36:左図拡大図


2012/02/02記述修正:
1)大阪旧藤田男爵邸(現太閤園)東大寺伽藍石
 ※この伽藍石は依水園の2/5残欠に見合う3/5残欠との見解もあるが、3/5残欠には該当しないと思われる。
  形状および大きさから判断して、東大寺東西塔いずれかの側柱礎石の可能性が高いと思われる。

  旧藤田邸(現太閤園)所在の東大寺塔関係の礎石は次のページに掲載の故、参照を乞う。
    → 大和東大寺西塔心礎

2)大阪旧藤田男爵邸(現藤田美術館)伝東大寺東塔あるいは西塔心礎あるいは東大寺塔礎石
 ※大きさから判断して、東大寺塔の心礎ではなく、東大寺塔側柱礎の可能性が高いと思われる。
2022/06/24撮影:
 藤田美術館伝東大寺礎石41    藤田美術館伝東大寺礎石42    藤田美術館伝東大寺礎石43
 藤田美術館伝東大寺礎石44    藤田美術館伝東大寺礎石45    藤田美術館伝東大寺礎石46
 藤田美術館伝東大寺礎石47    藤田美術館伝東大寺礎石48    藤田美術館伝東大寺礎石49
 藤田美術館伝東大寺礎石50    藤田美術館伝東大寺礎石51
次は由来不明の礎石である。(多分東大寺とは鵜関係)
 藤田美術館不明礎石1     藤田美術館不明礎石2     藤田美術館不明礎石3
推定笠塔婆塔身:情報がなく、由来など全く不明、笠塔婆塔身であるかどうかも確証はない。(多分東大寺とは鵜関係)
 推定笠塔婆塔身1     推定笠塔婆塔身2


藤田男爵概要

藤田伝三郎は長州(奇兵隊)出身、後に藤田財閥をなし、関西経済界の重鎮となる。
明治42年伝三郎は網島町大長寺を買収して網島御殿(あかがね御殿)と呼ばれる大邸宅を営む。その邸宅跡は現在の大阪市長公館、藤田邸跡公園(大阪市長公邸と藤田美術館の間とその北部大川までの広大な敷地がある)、藤田美術館、太閤園に相当する。
一方では、伝三郎は膨大な資財を投入し美術品の蒐集(これは日本美術の海外流出防止目的とも云われる)にも力を注ぎ、後に「藤田コレクション」といわれるコレクションを蒐集する。
昭和20年藤田邸は空襲により焼失するも、美術品を収めた蔵は罹災を免れる。
昭和28年蔵は改装され、藤田美術館が設立される。ここには国宝9点、重要文化財45点を含む約5000点が収納されると云われる。
なお現在、大阪本邸以外の東京別邸は椿山荘、箱根別邸は箱根小涌園、京都別邸はホテルフジタ京都とし、太閤園を含め藤田観光が経営する。
 ※椿山荘には安芸竹林寺三重塔が移建され現存する。また大和唐招提寺東塔心礎も存在したが、近年破砕され消滅する。
 ※大長寺:享保5年(1720)に浄瑠璃「心中天の網島」のモデルとなった天満紙屋治兵衛と曾根崎遊女小春の心中事件の現場となる。
  買収後、大長寺は藤田邸北側に移転し、現存する。
2022/12/06追加;
◆旧藤田男爵邸
明治19年藤田伝三郎、日本郵船会社大阪支店長屋敷を買取り、翌20年頃荒廃した大長寺敷地を取得。
その後、「網島御殿」や「あかがね御殿」などと称される旧本邸、新本館、西邸、次男徳次郎の為の東邸を竣工される。
大正5年長男平太郎、高野山光臺院から檜皮葺の多宝塔を移築、光臺院には全く同型のものを新築して寄進。移築多宝塔は銅板葺に改める。
明治45年男爵藤田伝三郎が死去、家長・男爵・財閥総帥と敷地の大半、そして本邸は長男の平太郎が相続し、東邸は次男の徳次郎、西邸は三男の彦三郎がそれぞれ相続する。
昭和18年西邸は大阪市の所有となり、市立実業会館として使用される。
昭和20年第3回大阪大空襲により表門・東邸・鉄筋コンクリート造りの蔵・多宝塔などいくつかの建物を残して他はほとんどが焼失する。
戦後・昭和29年本邸跡などの中央部はRC造の蔵を本館とし、多宝塔を擁する藤田美術館として藤田家の至宝を一般公開、2022年本館であった蔵が取り壊され、新たな本館が建築され、新生藤田美術館として再開される。
昭和34年東邸を中心とする東部は、藤田観光が結婚式等を行うことができる太閤園として開業する。
同34年焼失した市立実業会館は大阪市迎賓館(後に大阪市長公館)を建築整備する。2014年にはレストラン・ブライダル施設「ザ・ガーデンオリエンタル大阪」として開業する。
2004年表門を含めて長らく放置されていた日本庭園を中心とする北西部は藤田邸跡公園として新たに開園する。
2022年新生藤田美術館が開業し、美術館と藤田邸跡公園との間の塀は取り払われ、旧光臺院多宝塔や大和山田寺礎石・東大寺礎石などの見学が自由となる。
◆浄土宗大長寺
 慶長10年(1605)毛利輝元の一族である佐々木高久が外祖父の毛利定春の冥福を祈って建立される。
享保5年(1720)妻子ある紙屋治兵衛と遊女の小春が網島の同寺で心中する事件が起こる。その小春・治兵衛の比翼塚がある。
(近松門左衛門の浄瑠璃「心中天網島」のモデル)
明治42年藤田伝三郎により、大長寺のあった土地は邸宅用地として買収され、藤田家の寄進により、同寺は現在地(大阪市都島区中野町)に移転、その際比翼塚も移築される。
 旧藤田邸表門     旧大長寺山門:写真撮影忘れ・GoogieStreetViewより


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