★概 要
高良山高隆寺は高良山玉垂宮を支配し、九州では英彦山、阿蘇山と並ぶ天台の大寺であった。
(高隆寺本坊が高良山蓮台院御井寺と号す ※但し、御井寺の勃興そのものがはっきりしないというのが定説のようである)
※高良大社とか高良神社とかの呼称は明治維新の神仏判然の処置による呼称であり、後の国家神道丸出しのさもしい呼称にしかすぎない。
世人は国家という権力が国家神道を利用し、世人をいかにして洗脳してきたか、知るべしであろう。 少なくも、神を敬う心のある世人は玉垂宮と呼称して敬うのが正しい歴史への接し方であろう。但し、神を敬う心のない世人はこの限りにあらず。
◆塔については以下が散見されるも、詳細は不明。
奈良期に高隆寺が創建され、宝塔院が建立と云うも、宝塔院の実態は不明。
※宝塔院は和銅5年(712)の創建と伝えられる。
17世仁照は大日塔建立(「高隆寺縁起」か?)
「高良山諸堂記」では大日堂(大日塔の表記ではない?)、宝塔院の存在が知れる。 下掲載の「高良玉垂宮参詣曼荼羅」では大日塔<多宝塔と思われる>が描かれる。塔の詳細は不明。
※2025/07/08:●「高良山の仏教美術」九州歴史資料館、2025 の要約中:絹本着色高良社縁起(社頭図)・・・容量大を掲載
「高良山今時図」(寛政頃<1790年頃>55世傳雄著)では大日堂・三重塔の存在が記載される。<未見>
※2025/07/08:●「高良山の仏教美術」九州歴史資料館、2025 の要約中:高良山今時図(本宮下山内)及び高良山今時図(本宮)を掲載
下掲載の「筑後高良山略図」では三重塔が描かれる。三重塔の詳細は全く不明。
※2025/07/08:●「高良山の仏教美術」九州歴史資料館、2025 の要約中:筑後高良山略図を掲載
★高良山高隆寺概要
●「高良山物語」、倉富了一、昭和9年 の要約
▲高良玉垂宮の創建:
高良玉垂宮に仏教が入り、高隆寺(隆慶の開山)が創建される。その間の事情は以下のように説かれる。
美濃理麿(武内宿禰の裔と称する)の三男保依が出家して隆慶と号し、後の座主家の基を開く。(大祝旧記)
※その時代は「高良玉垂宮縁起」の奥付に「白鳳十三歳葵酉」とあったと云わる故、この頃と推定される。
「高良山寺院記」:「白鳳六十年丁丑四月廿二日、阿曇多知尼少女に託して隆慶に告げて曰く、汝須らく三宝に帰依し浄業を修すべし、勝地幾(ちかき)にあり」
「高隆寺縁起」:「白鳳十三年二月八日、国書生清原真人道理聴進を視、名神御厨預り物部公岡麿、祝部物部公有憲、勾当阿曇公吉禰麿、神部公常仁、弓削郷戸主草公、同月十四日早朝、国宰の夢の示現に依って、力を合わせ林中の荊棘をかり払い、石岩を引きて平らにし、仏殿を草創し、便ち、五間四面の精舎一宇、五間七間の雑舎一宇を造作し、弥勒像一駆、毘沙門天像一駆を造り奉り、堂の母屋に安置し奉り、大明神像一駆を造り奉り、南の母屋に安置し奉り、庇一間是れ則ち太神宮寺法名高隆寺なり」
▲この後、古代・中世を通じ、高隆寺は隆盛する。
隆慶はその後、奥の院に毘沙門堂、北谷に正覚寺を建立、弥陀三尊を安ず。其の後上洛、帰山の後、観音寺(北麓御堂島)、三昧堂、薬師堂、寶塔院、千手堂等を建立する。
隆慶遷化の後、巨石比丘が其の墓側に妙音寺を建立。
※妙音寺は養老五年(721)隆慶の寂後、弟子巨石比丘がその墓側に建立する。妙音寺跡に三区画からなる歴代座主の墓地が現存する。
3世慶賀、鐘楼・門廓を建立、明静院(座主に次ぐ院)を建て隠居する。
5世仁勢は中院、6世照鏡は毘沙門堂(今長谷及西麓国分)・正福寺(天長年中?)、7世堂叡は六地蔵(浄満寺)、8世宗照は虚空蔵(観行院)、9世與覚は富住寺、不動堂を建立と伝える。
貞観15年(873)本地堂を社壇のうちに建立、釈迦・弥陀・観音の三像を安置する。
※玉垂宮中宮玉垂命本地は勢至菩薩観音或は十一面観音、左宮八幡大菩薩本地は釈迦牟佛、右官住吉大明神本地は阿弥陀如来と云う。
10世惣覚は惣持院、11世宜圓は護摩堂、12世叡竿は講堂を建立、法華・金光明・仁王の三会を創始する。
13世聖慶は満願寺、14世安邏は東光寺、15世観春は薬師堂、16世観隆は正貴院・医王院、17世仁照は大日塔、18世永春は中谷薬師堂、20世良憲は阿志岐薬師堂、24世尊覚は如意輪堂、25世良覚は弘長寺を建立する。
「高良山諸堂記」(この史料の時期は不明※おそらく中世・最盛期の山容と思われる。)には次の堂舎名が挙げられる。
本地堂、大日堂、鐘楼、同行堂、北院、辻堂、千手堂、医王院、百塔薬師堂、北谷薬師堂、算所観音堂、毘沙門堂、高隆寺の鐘楼、寶蔵寺、高隆寺、弥勒寺、寶塔院、不動堂、富住寺、中院、勢至堂、弘長寺、観音寺、勤行院、先三昧堂、正体院、正覚寺、真諦院、惣持院、浄福寺、地蔵堂、東光寺、虚空蔵堂、妙見堂、道場、蓮花寺、不動堂、極楽寺、妙音寺、岩瀬薬師
「御井寺記録」には「毛利秀包が秀吉朱印の旨に任せ一千石を寄附した頃は三十一坊あり、田中吉政は慶長六年(紀元1601年)十二院に限定した」とある、幕末頃は「座主本坊、衆徒明静院、延壽院、文殊院、圓明院、経蔵院、普門院、惣持院、真如院,一音院、徳壽院、千如坊、極楽寺の大小堂、山上山下に散在してその高隆なる実に鎮西無比の法窟たり」とあると云う。
▲近世の景観は以下とされる。
「高良玉垂宮略記」の口絵「高良山今時図」(寛政頃<1790年頃>55世傳雄著)では:
御手洗池の反り橋左に高牟礼神社(現高樹神社)、少し登って延壽院・普門院、右側に本壽院などがあり、九丁目なる現宮司邸の門が本坊門、其奥に本坊(蓮台院・座主坊・御井寺)護摩堂等の甍聳え、其の上に高く築き回された塀の中に三代将軍の霊屋・寶蔵・御供所等がある。門前参道に沿うて谷川の流れを越した右上に真如院、其の上段(十二丁目)が「行きたほれ観音」と云う観音堂、更に上段に文殊院、(十三町目標石から)左に深く入りこんで命静院,其の奥に円妙院、参道を殆ど上り詰めて左折する曲がり角,一間茶屋、(今は竹薮)の横に不動堂、それより立ち並ぶ石灯籠の間を北へ行けば「高良玉垂宮」の額ある木の鳥居、今と変わらぬ百五十余の石段を登れば玉垂宮の本社に達する。社殿は現時と変わりないが、左側西より番所・本地堂(現社務所の処)寶蔵・神輿庫が連なり、是等と社殿の間に東西二株の枝振り面白い古松があって各々垣を廻らしてある。社後は左より豊姫社・山王社・八幡社・風浪社・間真根子社・留守殿と右へ並び、神殿の南広場に井戸、其の右方の山上に鐘楼。其の西に大日堂・経塚・三重塔等皆高所に建てられ、社の西南方二軒茶屋、其の西北に神楽殿、拝殿前の敷石を挟んで狛犬一対は現の如く、手水鉢は其の南東、今の手水鉢の位置と見るところには高さ数間の蓮華型大水盤から瀧なす水が流れ落ちて居る。尚全景を通じて三々五々参者の群れが見える、是実に今から百四十年前の景観である。
序に其れ等建造物に於いての来歴を略記すれば、神殿拝殿は萬治3年(1660)の造立で工匠の棟梁は当時名工と云われた平三郎である。神門は安永6年(1777)七代藩主頼憧の新建、山下の石の大鳥居は明暦元年(1655)二代藩主忠頼
の寄進である。
▲神仏分離・近代
慶応4年、神仏分離令、59世亮俊は退院帰国。
明治元年5月、特使亮憲は三門跡の令旨を携えて下向し、二箇条の訴状を当時の知藩事・舊藩主頼咸に提出、蓮台院復興を嘆願。
※甘井亮憲僧正は比叡山真蔵院住職で、御井寺を兼務
同年6月「蓮台院の復興に就いては追って沙汰する」旨の口達をうけて亮憲は帰国する。
明治2年2月、後を継ぐ亮恩に十口の月俸を与えて正福寺(国分町日渡、天長年中6世座主照鏡開基)に移住、明静院住持霊徹には五口を給し、国分寺(三井郡宮陣村、高良山常楽坊の配下、幕末頃は僅かに一草堂を残す、同寺門前の仁王像は命静院から移す)に移転させる。
其他も他国の者は帰国させ地方の者は還俗させ、全山一帯僧影を止めず、本坊初め多くの寺堂も愈々廃業せられる。
明治2年7月頼咸は久留米城を知藩事の官府となし、自は高良山本坊に居を移し、日々舊久留米城なる知政府に出勤して政務を執る。
明治3年、正福寺亮恩に宛て、以下の申達書を発する。(御井寺再興の達)
「元御井寺蓮台寺の儀は、朝廷より仰せ出され候御趣意に付き両部の差別御取調中、往時亮俊不都合の儀是有り、其儘廃寺に相成り候処、舊来格別の寺院柄の儀に付き語詮議遂げられ、其寺号御井寺と改られ、十人扶持寄附、寺格中士族に準ぜられ候事」
※文中、亮俊不都合とは、亮俊が佐幕派でありその行為を採ったことを云うと思われる。
明治3年12月、頼咸は所謂良山御殿を引き払って上京する。
明治4年3月、所謂良山御殿は井田巡察使参謀・巡察使陸軍少将四條隆嗣(久留米藩難事件の為出張)の本営となる。
明治4年6月、高良玉垂宮は高良神社と改称、国幣中社となる。所謂良山御殿は宮司邸として其の跡を襲用する。
明治8年、御井寺は本山より亮憲再び下向して住持を兼ねる。
明治11年4月、地方聴の許を得、高良山下寶蔵寺跡の丘上に蓮台院御井寺が新築再興される。(現在に至る)
大正4年11月、国幣大社に昇格、以降も国家神道の道を歩む。
●「御井町史」久留米市立御井小学校父母教師会編、昭和61年 の要約
▲高良玉垂宮参詣曼荼羅(高良宮蔵)
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高良玉垂宮参詣曼荼羅1:多宝塔・本地堂部分図:左図拡大図
高良玉垂宮参詣曼荼羅2:玉垂宮本殿附近部分図:多宝塔は大日塔と称する。
高良玉垂宮参詣曼荼羅3:カラー版:図版が小さく、詳細識別は不能高良玉垂宮参詣曼荼羅:横212.5cm、縦238.3cm、極彩色、軸装、高良大社所蔵。
製作時期は明確でない。天文23年(1554)以降、慶長8年(1603)、寛永12年(1635)と、三回の修理、銘写しが伝えられるも、これについては異論もある。蝋色漆塗りの箱の蓋の裏には、金泥で元禄元年(1688)10月、久留米藩主、有馬頼元が命じて、修理改装をさせたとある。
構図は西の方角から高良山を見上げる。最上部は回廊で囲まれた高良神社の社殿、最下部は山麓の門前町府中・大鳥居までで、高良山の全景を描く。左上、旗がたなびいているのは高隆寺、また神籠石も描かれる。 |
2010/10/06追加:「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より
高良玉垂宮参詣曼荼羅は高良社縁起とも称し2幅から成る。
1幅は神功皇后の三韓征伐を描く。2幅は「高良社社寺大観之図」と称する。
高良社社寺大観之図:第2幅である。上掲の「高良玉垂宮参詣曼荼羅」のほぼ全図である。
図左上に比較的大きく描かれるのが高隆寺である。法量:237×207cm。 2025/07/08追加: 絹本着色高良社縁起(社頭図):下掲載の「高良山の仏教美術」に掲載。 |
▲古代
古代の遺物として、山腹の数ヶ所(杉ノ城趾、永勝寺、下宮社、高隆寺跡)から奈良期の「布目瓦」が出土と云う。また、これらの地域からは平安期の瓦も出ており、奈良期後期から神宮寺である高隆寺に、伽藍が造営されたことが明確であり、平安期から中世にかけては、高良山は神社というより高隆寺が隆盛を極めていた様が窺える。
▲高良社の創建について、
社伝の類(「高良玉垂宮縁起」)では、仲哀天皇8年、高良社創建とする。
一方、高隆寺については、「高隆寺縁起」では、白鳳12年に堂宇を作り、高隆寺(太神宮寺)と称すると云う。
高良神社の初見は、「延喜式」(平安初期)で、「筑後国四座大二座小二座」とあり、「三井郡に高良玉垂命神社、豊比盗_社、伊勢天照御祖神社の三社、御原郡に、御勢大霊石神社一座」とある。
「久留米市史・第一巻」では、高良山の創建は8世紀初期以前、高隆寺の創建は、天平勝宝年間(8世紀半ば)以後とする。
高隆寺については、高良山から奈良後期の瓦が出ることから、その存在は推定できる。
高良社は、上宮から発生したのか、下宮が先であったのかも明らかではなく、考古学史料も、8世紀以前に溯るものは発見されていない。
具体的史料の初見は昭和49-51年の社殿解体修理で発見された、室町期の「双雀亀鈕文鏡」といわれ、室町期に上宮があったことは確実とされるのみである。
▲祭神
高良社の主祭神・高良玉垂命の内容については実態が不明で、諸説があり、現在は武内宿禰を祭神としている。
祭神が不明確なのは、資料の少ないこと、また高良山は中央との結びつきをほとんど持たない地方神であることなどで、祭神が変わった可能性が高いことなどが考えられる。しかも中世になると八幡神、住吉大神との結びつきを持つが、これは玉垂神が本来船霊であったために、水の神である両神と容易にむすびついたものとも考えられる。
所詮、神社の祭神などはこの程度のもので、中には式内社そのものの廃絶も多くあったと思われる。
さらに明治維新の神仏分離・復古神道が、祭神や「神社」を捏造・付会し、混乱にさらに輪をかけたというのが実態であろう。
▲古代・中世
多くの史料が語るように、古代・中世では、高良山は、神杜よりも、神宮寺(高隆寺)が隆盛する。
時代は降り、戦国期には高良山も武装し、戦乱に加担し、その過程で、高隆寺は焼亡。衰微する。
48代座主玄逸に至っては、遂にこれまで世襲してきた座主の血脈も完全に途絶る。
以後高良山座主は東叡山より任命されてくるようになる。
※座主の世襲は48世で断絶し、49代からは比叡山より任命されるようになる。
50代座主として赴任した寂源(京都賀茂神社の神官の出)は、荒廃していた高良山の復興に尽力する。極楽寺を再興(極楽寺跡の碑がある)して即心を住持とする、開祖隆慶上人の墓所、妙音寺廟を修復する、などの事蹟がある。
以降、高良山は歴代藩主の庇護を受け、明治維新まで、寺勢を維持する。
▲神仏分離・近代
近世、御井寺は東叡山支配であり、座主本坊・蓮台院を初め12院があり、山内に徳川家霊廟も建立されていた。
慶応4年5月、久留米藩では国学者矢野一貞などを神祗改正調役に任命、社院局を設置、領内主要寺社に対してその沿革、現況などの詳しい報告を提出させる。
慶応4年6月23日、徳川家霊廟の祭祀と御供料百石の廃止が決定される。(「新有馬文庫御記録」)
明治2年2月21日、高良山59世座主厨亮俊への還俗令と退職命令が出され、座主は廃止、亮俊は離山する。
同時に御井寺関係の諸寺院の廃寺、山中の寺院はことごとく毀廃、高良玉垂宮は「高良神社」と改号し国幣中社に列する。
初代宮司は木村重任である。
57世座主亮恩は国分町の末寺正福寺に、明静院31世霊徹は宮ノ陣町の国分寺に移され、共に僅かな扶持米を給される。
(筑後現存国分寺本堂には高良山明静院元三大師像が遷座すると云う。)
明治2年3月11日、本地堂(高良山社殿附近)安置の三体の本地仏は、社院局から引き上げを受けて、愛宕神社の地蔵同様、福聚寺へ預けられる。(その後同寺に下げ渡される。)
明治2年5月1日、旧御井寺蓮台院を「高良山陣屋と唱うべし」との触書が出され、陣屋預り兼山中取締役が任命される。
明治2年8月12日、藩主頼咸が帰国、直ちにこれに入館する。無住の子院などを利用し、警護のため七ヶ陣屋が設けらる。
明治3年2月1日、正福寺の亮恩に宛て、以下の申達書が藩から下達される。
「元御井寺蓮台院の儀は朝廷より仰せ出され候御趣意に付両部の差別御取調中住持亮俊不都合の儀これあり其儘廃寺に相成候処
旧来格別の寺院柄の儀に付御詮議遂げられ其寺号御井寺と改られ十人扶持寄附寺格中士族に準ぜられ候事」
※御井寺は今の宮司跡を受け継いで使用していた。
明治3年5月、旧明静院を東御殿と名づける。山中への一般の出入りは厳しく制限される。
※南谷の上を通る表参道の中腹に、今も蓮台院(御井寺)の山門が残存する、有馬候頼咸が廃藩置県で城を出た時、蓮台院に住する。中には飛雲閣という二階建ての家屋が今も倒壊寸前で残る。
明治5年9月、修験道禁止令が下達、千手院極楽寺が完全に消滅したと推察される。
(同寺の秋葉社、弁天社、粟島社、役行者祠などが高良下宮社(祗園神社)に移される。)
明治8年本山より甘井亮憲が下向し、御井寺住持を兼ねる。
明治11年3月地方庁の許可を得て、高良山下宝蔵寺跡の丘上に、現在の蓮台院御井寺を新築再興する。
さらに国家神道の隆盛な頃は以下の惨状と伝える。(以下は原文のまま)
「明治三十年(一八九七)歩兵第四十八連隊が福岡から久留米、国分村へ移され、高良山に軍靴の音高く響くようになるのである。軍は高良神社をみずからの守護神としてまつりあげた。宿駅の制度が廃止されてからはさびれる一方であった御井町も、軍需景気で再び活気づいた。」
大正4年「高良神社」は国幣大社に昇格。
「昭和十五年(一九四〇)本坂下まで自動車道の建設をすすめ、それから数年間に渡って、百万を越す人々が、武運長久を祈願しに山に登るようになった。高良山には戦勝を願う旗が林立し、空前の賑わいを見せたのである。しかし、つかの間の賑わいは昭和二十年八月十五日、日本の敗戦と共に、空しく消えてしまった。その後、山は荒れ、杉の大木も今は跡かたもない。」
▲「三、古文書にみる府中」の章
ここに「筑後高良山略図」の掲載がある。
○筑後高良山略図:図の右上に三重塔があるも、詳細は全く不明。
少々画像が小さく詳細な識別は不能。
※なお、作者・著作年など全く不明 2025/07/08追加: 筑後高良山略図:下掲載の「高良山の仏教美術」に掲載。
2013/07/09追加:
「高良山神社の神佛分離」伊東尾四郎氏報(「明治維神佛分離資料」所収)
高良山は神領1000石、その内訳は以下の通り。
580石 座主 15石 大祝 50石 大宮司 116石 明静院 21石 円光坊 20石 知泉坊 20石 南照坊
20石 普門院 19石常楽坊 18石 円鏡坊 16石 千如坊 15石 智成坊 14石 理性坊 13石 延壽坊
神仏混淆の状況は例の菱屋平七の「筑紫紀行」享和2年(1802)で窺われる。
池中島の佳景えもいはず面白し、薬師堂、地蔵堂、勢比石、御馬蹄石、観音堂、虚空蔵、大神宮・・・、
九丁目には善光寺如来分身の御像、12丁目には如意輪観音(行きたほれ観音と称す)・・、13丁目に元三大師堂、
14丁目地蔵不動・・・右の五重塔を過ぎれば、赤き木の鳥集あり、・・・それより磴を145段登れば本社なり、・・・
かくて8丁下れば御神廟なり、末社全て5社、鐘楼、大日堂などあり、・・・
社僧を座主と称して、位は権僧正、寺領は地方にて1000石なりといへり。
高良神社には神仏分離に関する史料は少ない。
詳しいことは一向に分からぬが、立派な厨子が焼かれた、明静院の仁王が破壊され穴に埋められた(一説には今陣村の寺に運び今ある)、一軒茶屋の不動の手が折られ今の三井寺の前に据えられる、33体の観音木造は人々が持ち去った、仏像はフゴに入れて持ち去ったがその後は知らぬなどが知られるだけである。
厨幾太郎氏の父は慶応4年から明治4年までの三井寺興廃記を書き残しそこには関連の文書が列記してある。
慶応4年の「被仰出書」(慶応4年4月10日の所謂神仏分離の達)
(達の写しの記載あり)
明治2年2月久留米藩は座主蓮臺院亮峻に不都合の行為ありとして、退院を命じ、御井寺を廃する。
(これに関する文書3通の記載あり)
明治2年5月本山である比叡山真蔵院亮憲が下向し状況を視察し、久留米藩に寛大なる処置を願う嘆願書を提出する。
(明治2年6月江州比叡山真蔵院亮憲の嘆願書の記載あり)
(同年9月の梶井宮院家行全、青蓮院宮院家亮惇、妙法院宮院家完洞の連署した嘆願書の記載あり)
(同年同月の座主隠居速成院無所得院僧正の嘆願書の記載あり)
以上に対し、明治3年2月久留米藩は御井寺末寺正福寺をして御井寺と称せしめ、10人扶持を寄進する処置を下す。
(明治3年2月の久留米藩知政所から元御井寺末寺正福寺への文書の記載あり)
しかしこの処置は姑息な処置であり、3年10月には蓮臺院法類の比叡山大仙院、観泉坊、行泉院から、
4年正月と4月には速成院僧正から、同年大仙院、観泉坊から嘆願書が提出される。
しかし間もなく藩も廃止され、嘆願は成就せすと云う結果となる。
2010/03/25追加:
「福岡県名所図録図会」明治31年 より
国幣中社高良神社:明治の神仏分離により、無慚にも荒廃堕落した神社の様が良く表されている。
●「高良山の仏教美術」九州歴史資料館、2025 の要約
○「企画展 高良山の仏教美術 山麓寺院調査から見えてくる山の姿」九州歴史資料館、2025 より
本書は2025/01/22〜2025/03/23の会期で、九州歴史資料館を主催・会場にして行われた第71回企画展の展示解説図録である。
高良山の仏教美術の2025年時点での概括として纏められているので、本ページに逐次、引用をするものである。
○論考「高良山の仏教美術 山麓寺院調査から見えてくる山の姿」國生知子(上記「企画展 高良山の仏教美術 山麓寺院調査から見えてくる山の姿」2025 所収)
はじめに
高良山は標高321.3mで、標高は高くはないが、この山には神功皇后の三韓侵略を勝利に導いたとされる高良神(高良玉垂命)を主祭神とする高良社が祀られる。
明治維新前は高良社・高良玉垂命神社・高良玉垂宮と呼ばれていた。
山には早くから神宮寺が成立し、最盛期には26個寺360坊があったという。
ところが、明治維新の神仏判然の処置で神宮寺祖域は廃絶、山には仏教的要素はほぼ潰滅し残らない。
しかしながら、僅かに、仏像類などが宮ノ陣の国分寺、合川町の福聚寺、山を下りた御井寺の伝来し、近年はそれらの研究が進展しつつあるという段階である。
※神功皇后は仲哀の皇后、應神の母という。いわゆる神功皇后の三韓討伐とは「記紀」にでてくる「物語」であり、勿論史実ではない。
以上は当たり前のことであるが、戦後80年の今日でも、「記紀」にでてくる「物語」を史実と声高に叫ぶ「ゾンビ」が俳諧し、時代の雰囲気も「物語」と決別できていない状況であるので、敢えて記す。
※高良紳(高良玉垂命)は「記紀」には出てこない。
※高良神がでてくるのは「高良社の縁起類」と思われる。寛永19年(1642)の「高良玉垂宮縁起」【重文】については下の第1章「高良玉垂宮縁起」1巻を参照、他の縁起類については触れられていない。寛永19年という年紀に注目すれば、これはせいぜい高良社が近世初頭の復興期の時代のもので、高良紳の物語はいつの時代に創作されたのであろうか、興味のあるところである。
※縁起類については、石清水八幡宮記録38・諸縁起に「高良縁起」がある(未見)ようで、これは寛永年中のものより古いかも知れないが、これも、八幡神を高良社に勧請した後の縁起であろうと思われる。
1.高良玉垂宮と神宮寺
縁起類によれば、山に神社が創建されたのは、仁徳あるいは履中の時代という。
また、天武2年(673)高良神は発心し託宣、神意を受けた僧隆慶(641-7)が精舎・僧房を建立し、弥勒・毘沙門・高良伸の像を安置すると云う。
これが、古代高良山の神宮寺である高隆寺であり、隆慶が初代座主となる。
※縁起類については下の掲載の第1章「高良玉垂宮縁起」1巻 を参照、高良神も神宮寺も後世の創作・権威付の類であろう。
考古学の知見では、山には西側斜面に広域的に高良山神籠石【史跡】が築かれている。
これは飛鳥期、この地がいわゆる「辺境の地」であったことを示すものであろう。 古代山城高良山神籠石の現況 : <久留米市教委パネル高良山神籠石をめぐる2014-0611-1014.pdf より>
高良山神籠石地図 : <久留米市教委高良山神籠石地図2014-0611-1157.pdf より>
また、山内の複数個所からは平安前期(9世紀)と推定される古瓦が採集されている。これは、平安前期には山内に寺院が広く展開されていたことを示すものであろう。
※下に掲載の第1章軒丸瓦(伝吉見岳出土)を参照。
さらに、記録の上では、延暦14年(795)に高良神は從五位下に除せられ、その後順調に位階が昇進し、寛平9年(897)には正一位に昇階する。
その後、高良山は急速に力を伸長させ、縁起類によれば、弘仁元年(810)講堂改築、延喜4年(904)高隆寺延喜の改書、長保5年(1003)国司による法華会の斎行などの事績を伝える。
そのほか、保延3年(1137)高隆寺湯屋大釜の鳴動、文治4年(1188)後白河院のための醍醐寺座主の大般若経600巻などの寄進などが知られる。
そして、この頃高良山は後白河院を本家とする長講堂領となり、醍醐寺三宝院が領家であった。
また鎌倉期にはモンゴル襲来があり、高良山で大般若経転読が執行されるという。
しかし、神宮寺たる高隆寺は中世頃には衰退する。おそらくは南北朝期の戦乱で荒廃したものと推定される。
替わって勃興したのが御井寺である。座主坊を月光院といい、後に蓮台と改称し、神宮寺としての地位を継承したものと思われる。
戦国期にも高良山は戦乱の渦中のあった。大友氏・竜造寺氏・島津氏・豊臣氏などの各勢力の攻防のなかで、座主や大宮司は武装勢力として戦闘に関与し、なかでも、45世座主麟圭は小早川氏に謀殺され、座主一族は背振山に逃れる事態となる。天正から文禄の間であるが、高良山は無住となり、寺社は破壊され多くの寺宝を紛失という。
その後、麟圭の息・尊能が座主となり、尊能は今までの妻帯・世襲を改め、清僧となり、山は天台宗となる。
折しも、この頃久留米に入封した有馬氏は高良山を手厚く保護し、高良山は本格的に復興を果たす。
49世秀賀からは座主職は江戸東叡山(三山管領宮・輪王寺宮・東叡山/比叡山/日光山座主)によって任命されることとなり、幕末までその体制は続く。
2.絵図に見る山の宗教空間
古代から続く高良山の山内寺院は26ヶ寺360坊(典拠は不明)と伝える。
中世に荒廃した山内の姿を記した「太宰管内志」(江戸後期、伊藤常足)には次のようにある。 「僅残其容」十四堂舎
本地堂、大日堂、鐘楼、常行堂、北院、辻堂(今長谷)、千手堂、医王院、百塔薬師堂、
北谷薬師堂、算所観音堂、毘沙門堂、高隆寺鐘楼、宝蔵寺 「僅遺其趾」二六ヶ寺院
高隆寺、弥勒寺、宝塔院、不動堂、富住寺、中院、勢至堂、弘長堂、観音寺、観行院、先三昧堂、新三昧堂、
正体院、正覚寺、真諦院、惣持院、浄福寺、地蔵堂、東光寺、虚空蔵堂、妙見堂、道場、蓮華寺、不動堂、極楽寺、妙音寺、岩滝薬師
ここに上られた寺院の多くは「絹本着色高良社縁起(社頭図)」に記載される。
近世に入ると、これらの山内寺院は12院に整理される。
即ち、御井寺蓮台院(座主坊)、経蔵院、円明院、明静院、文殊院、真如院、極楽寺、普門院、惣持院、徳寿院、延寿院、一音院である。
これらは「高良山今時図」や「筑後高良山略図」にも描画される。
なお、近世初頭、高良山は豊臣秀吉によって神領1000石を安堵される。その配当は「太宰管内志」所収の文禄5年(1596)毛利秀包書状によれば、座主770石、明静院200石、大祝15石、大宮司15石とされ、寛文10年(1670)「久留米藩寺院開基」では座主坊583石、明静院116石、大宮司50石、大祝17石、その他の院坊は20石前後とされる。
また絵図によれば、徳川氏御霊屋、地蔵堂、観音堂、不動堂など、高牟礼(高樹社)、愛宕社、石塔、社家、茶屋などが描かれる。
※徳川氏御霊屋:東照権現・東照宮中に記載。
3.山内寺院と安置佛 第3章山内寺院と安置仏に記載 4.山周辺の古佛
第4章山周辺の古仏に記載
第1章 高良玉垂宮と神宮寺
(イ)「高良玉垂宮縁起」1巻:高良社蔵 長文の縁起であり、大きくは3つに分かれる。
前段は「高良玉垂宮縁起」(神宮皇后の三韓出兵に於ける高良神の縦横無尽の活躍と臣下の道を説く)、中段は「大菩薩託宣状」(高良伸の発心・帰依・神宮寺/高隆寺の建立)、後段は「高良玉垂宮本地垂迹」(祭神は中央高良神・左八幡神・右住吉神であり、本地はそれぞれ勢菩薩あるいは十一面観音、釈迦如来/八幡神、阿弥陀如来あるいは虚空蔵菩薩/住吉神と説く)の構成である。
巻末には寛永壬牛(1642)の年紀と寄進:有馬忠郷(久留米藩2代忠頼の初名)などが記される。 高良玉垂宮縁起 高良玉垂宮本地垂迹
(ロ)軒丸瓦(伝吉見岳出土):高良社蔵
現在古代の神宮寺の姿を伝える具体的遺物はないが、唯一そのよすがを伝えるものが古瓦である。
本品は単弁7葉蓮華紋の軒丸瓦で、平安期のものと推定される。裏面の墨書から吉見岳出土と知れる。
この瓦の同范瓦は北谷高隆寺址や山麓の西行山瓦釜址・筑後国府址、筑後国分寺址などから出土する。 軒丸瓦(伝吉見岳出土)
第2章 絵図に見る山の宗教空間
(ハ)絹本着色高良社縁起(社頭図):高良社蔵 本縁起は2幅組で、社頭図と縁起物語図(神功皇后の三韓出兵を描く)からなる。241×212cm、桃山期の作。 ◎絹本着色高良社縁起(社頭図):下図拡大図:容量は多少大であることに注意!

社頭図:山麓の一の鳥居の外は門前町、山内の最上部は高良玉垂宮の上宮で、社殿は現在の権現造ではなく、拝殿と本殿が廊下で結合される証式で描かれる。
現在の有馬家による復興である権現造の前の形式と推定される。 そして本殿の周囲には本地堂・大日塔・講堂などの堂宇が描かれる。
本殿の向かって左下は高隆寺、その谷を隔てた所には御井寺が描かれる。実際は高隆寺は中世に荒廃していたと考えられるので、2寺が並び立つことはなかったので、盛時を偲ぶ絵柄であろう。
(ニ)高良山今時図(高良玉垂宮略縁起のうち):九州歴史博物館蔵
寛政元年(1789)55世座主・伝雄の「高良玉垂宮略縁起」に含まれる2枚の絵図である。
高良山今時図(本宮下山内)は左下が一の鳥居、御手洗橋を渡り、高牟礼(高樹社)があり、本寿院・延寿院などの坊舎が並び、本坊(蓮台院)が現れる。本坊門(唯一山内に現存)・護摩堂などが描かれる。
徳川氏御霊屋(霊廟)を過ぎ、文殊院・明静院を過ぎ、上宮石階下に至る景観が描かれる。
高良山今時図(本宮)は権現造の本殿が描かれる。
向かって左に本地堂、右には大日堂(大日塔は既に退転か)、さらに三重塔(非存在ろ思われるが、意味が不明)、丘上に鐘楼が描かれる。
高良山今時図(本宮下山内) 高良山今時図(本宮)
(ホ)筑後高良山略図:久留米市中央図書館蔵
本図は天保7年(1836)刊行の原図(九大教授・檜垣元吉蔵蔵という)を複写印刷したものという。
御手洗橋の先には新清水の観音堂(55世座主伝雄の弟子自徳が再建、清水の舞台造であったという)・桃青霊社が描かれる。
本坊・徳川氏霊廟が大きく描かれ、その先には明静院の仁王像(宮の陣国分寺に遷座現存)が門前に安置されている。 筑後高良山略図
明静院部分図:中央が明静院であるが、その門前に仁王像が描かれる。この仁王像は宮の陣国分寺に現存する。
第3章 山内寺院と安置仏
(へ)上宮と本地堂 上宮のある本殿には中央高良紳、左八幡神、右に住吉紳を祀る。
本殿はいわゆる権現造(【重文】本殿・幣殿・拝殿が一体となる)で、萬治2年(1659)から寛文元年(1661)にかけて造営され、久留米藩3代有馬頼利の寄進による。
本地堂は貞観15年(873)の創建という、本地仏として十一面観音(高良紳)、阿弥陀如来(八幡紳)、釈迦如来(住吉紳)を安置す。
※本地堂本地仏は明治2年臨済宗福聚寺へ移坐する。 その変遷は次のようである。
明治2年臨済宗福聚寺、天台宗高良山本地堂本地仏(秘仏)を厳重に預かる。
明治15年福聚寺に本地堂再建、翌16年本地仏が本堂から本地堂へ移坐、遷座の大法要執行。
本地堂には福聚寺開山古月禅材の稔侍仏十一面観音を前に、本地三尊像を奥に安置する。
現在は、本地堂は近年改築され観音堂と称す。但し、扁額や天井絵、板戸などは当初のまま保存されているという。 福聚寺観音堂内部 高良山本地堂扁額
本地仏については、福聚寺に現存し、下掲の「(チ)玉垂宮本地仏:福聚寺蔵」の項に写真を掲載する。
(ト)板地着色高良太公図:宮の陣国分寺蔵 墨書銘から寛永4年(1627)に「玉垂宮例請御正体」として制作されたものと分かる。
玉垂宮の例講は(幕末の記録であるが)毎月27日の斎行され、本社から御正体(御影)を運び出し、山内寺院に奉安し、法会を執行し、その後本社に奉還させる月並み行事であった。正月は座主坊(御井寺)、2月は明静院、3月以降は山内寺院の臈次(僧侶の経験年数)順に受け持ち、12月は目代である厨家が担当という。
板地着色高良太公図
(チ)玉垂宮本地仏:福聚寺蔵
玉垂宮本地三尊立像:向かって左から木造阿弥陀如来立像(八幡神本地)、中央十一面観音立像(高良伸本地)、釈迦如来立像(住吉神本地)、いずれも室町期の作と推定。 木造十一面観音立像:像高101.5cm
玉垂宮本地三尊立像:向かって左から木造阿弥陀如来立像・中尊・木造釈迦如来立像
本地中尊・木造十一面観音立像 本地中尊・木造十一面観音立像
(リ)旧座主坊護摩堂五大明王像:御井寺蔵
かつて御井寺蓮台院には護摩堂があり、五大明王像が安置されていた。現在の再興された御井寺にはその五大明王像と推定される像が存在する。
現存する5躯の内の3躯(不動明王・降三世明王・大威徳明王)は完存し、2躯(軍荼利明王・金剛夜叉明王)は頭部のみとなる。
5躯の内、不動明王を除く4躯は江戸期の作と推定されるが、不動明王はこれらよりはるかに古い様相を見せる。 木造軍荼利明王像頭部 木造金剛夜叉明王像頭部 ヌ)木造阿弥陀如来立像:御井寺蔵 鎌倉期から南北朝期の作と推定される。像高80.7cm
本像の由来つまり元の安置場所は特定されていない。 しかし、御井寺に伝わる像であり、山内のいずれかの安置仏であった可能性は高いと思われる。
木造阿弥陀如来立像
(ル)木造僧形座像:御井寺蔵
御井寺本堂にニ躯一対の僧形座像である。寺では天台大師と伝教大師像と伝える。いずれも江戸中期と推定される。 伝木造伝教大師座像:像高60.6cm、伝教大師と伝えるも、独鈷を採る姿は弘法大師というべきか。近世高良山12院については醍醐寺三宝院末の修験もはいり、単純に天台宗とは割り切れない要素もあり、荒唐無稽な話ではないとも思われる。
伝木造天台大師座像:だたし、上記像が弘法大師とすれば、天台大師と弘法大師との組み合わせとなり、奇異であり、像主については慎重な検討を要する。
いずれにしても、御井寺の像であり、高良山由来の像であることには間違いない。 (ヲ)木造慈恵大師座像:宮の陣国分寺蔵
本堂に安置(秘仏)、像高19.3cm。鎌倉〜南北朝期の作と推定。慈恵大師は良源、元三大師。
おそらく明静院から遷されたものであろう。 木造慈恵大師座像
(ワ)木造慈恵大師座像:宮の陣国分寺蔵
本堂の厨子中に安置(秘仏)、像高39.8cm、江戸中期(寛文年中?)のものと推定。
胎内墨書:奉造立 筑後州明静院本尊慈恵大 とある。(明静院本尊と判明)年紀は決失し判読できず。 明静院本尊木造慈恵大師座像
(カ)木造鬼大師座像:宮の陣国分寺蔵 元三大師の異形の一つである鬼大師である。像高20.0cm。
彫刻では武蔵深大寺・山城廬山寺・近江坂本西教寺・豊後文殊仙寺など数か寺で見られる程度の珍しい像である。
国分寺にはこの像の由来を示す「彫降魔大師尊像記」(写真の掲載もあるがそれは割愛する)なる記録も伝来する。本記録より宝永5年(1705)造立と知れる。
木造鬼大師座像
(ヨ)元三大師秘密具本尊:宮の陣国分寺蔵 法量3幅とも100cm内外×40cm内外、軸装。明和元年(1764)制作。
箱蓋墨書:秘密具本尊 高良山 左宝蓮 明和3年申年9月3日
元三大師秘密具本尊 中宝珠 高良山53世座主権僧正寂信 右宝輪 元三大師秘密具本尊
(タ)地蔵来迎図板碑:宮の陣国分寺蔵
総高100cm、自然石の表面に地蔵菩薩を線刻する。 表面には次の印刻がある。 沙門長弁敬白
地 蔵 菩 薩 の 線 刻 正平二十ニ未丁九月日 彫手春助 ※正平22年は1367年
この板碑は明治初年の神仏分離の処置により、高良山愛宕祠(愛宕山大権現)の奥の院から国分寺に移されたものであることは「筑後将士軍談」「太宰府管内志」等の記事から、その通りなのであろう。なお「青山堂筆記」では、はじめ山麓の祗園山古墳に建てられていたものを、元文年中(1736-41)愛宕山に移したという。
なお、現在は国分寺本堂内の祀られるという。 地蔵来迎図板碑拓本
※地蔵来迎図板碑は本堂内の安置とのことで、未見であった。
今般「久留米市中川氏」より写真のご提供があったので掲載させて頂く。 ◎地蔵来迎図板碑:久留米市中川氏ご提供
(レ)愛宕山大権現像:福聚寺蔵
大権現像は厨子入で、木造将軍地蔵騎馬像(像高30cm)、木造天狗座像(像高11cm)、木造役行者座像(像高21cm)の3躯である。
下に記すように明暦2年(1656)の造立であり、おそらく愛宕社勧請の時に造立されたのであろう。
愛宕神の本地佛は将軍地蔵で、山城・丹波愛宕山の開山伝承に登場する天狗と役行者を従えた三尊一具として愛宕山大権現を表す。
厨子底面の墨書:明暦弐年(1656)の年紀と京の大仏師の名がある。
同じく底面の朱漆書:宝暦3年の年紀と筑後州高良山愛宕社などと記す。
※高良山愛宕社については、下に記す●高良山神宮寺及び仏教関連の遺跡>愛宕山青天寺(pツの62)を参照 厨子入愛宕山大権現像 厨子入愛宕山大権現騎馬像:横面
眷属木造天狗座像 眷属木造役行者座像
(ソ)木造不動明王立像:福聚寺蔵 鎌倉期(13世紀)造立と推定、像高83cm
福聚寺観音堂に安置される。福聚寺には千手院(極楽寺か)本尊という不動明王が千手院廃寺の後、本山(どこか不明)に預けられたが、明治4年に福聚寺にもたらされたという記録があり、この不動明王が千手院本像と考えられる。
木造不動明王立像
(コラム1)高良山の石造物 ◆宮の陣国分寺(高良山明静院)石造仁王像: 現在宮の陣国分寺門前に安置される。阿形像の像高は183cm、吽形像のそれは182cm。
両像とも背面に印刻があり、それによれば、文化5年(1808)石工の「秦幸市則高」と「秦育次則連」制作であり、「当院廿八世現住/法印恵光代」ともあり、廿八世法印恵光とは当時の明静院住職であることが分かる。
神仏分離の処置によって「破壊され穴の埋められた」とも「谷底に落とされた」とも伝えるが、国分寺の記録では、明治16年国分寺僧侶が保護を発意し、数年の後に谷底から引き上げ、修復して国分寺門前に安置したという。
国分寺は、何度か触れたように、明治の神仏判然の処置で明静院31世速成院霊徹が明静院廃寺後に身を寄せた寺院である。彼は明静院から多くの什宝を国分寺にもたらした僧侶である。この仁王像を国分寺に迎えたのは彼の後を継いだ国分寺住持・霊乗であった。
明静院部分図:(ホ)筑後高良山略図の部分図である。
中央に描かれるのが明静院であるが、その門前に仁王像が描かれる。この仁王像は宮の陣国分寺に現存する。
○GooogleMap より 国分寺仁王像 国分寺吽形仁王尊 国分寺阿形仁王尊
◆伝高良山愛宕社石造天狗坐像:現御井寺門脇安置 像高120cm、銘には文化12年(1814)と刻む。
高良山のどの場所にあったかは不明であるが、高良山愛宕大権現社にあったと伝える。 高良山愛宕社石造天狗座像:★霊山⛰高良山の天狗サマ より
第4章 山周辺の古仏
(ツ)木造毘沙門天立像:宮の陣国分寺蔵 平安期(12世紀)の造立と推定、像高23cm、
来歴は不詳であるが、平安期に遡ると考えられ、この地方での珍しい古仏である。 高良山から移坐した可能性があるかも知れない。
木造毘沙門天立像
(ネ)木造菩薩形座像:御井寺蔵 鎌倉期(13世紀)と推定、像高14cm。詳しい来歴は不詳。
いずれかの人物の念持佛であった可能性がある。 木造菩薩形座像
(ナ)木造不動明王座像:宮の陣国分寺蔵
台座背後に墨書があり、元亀3年(1572)の年紀がある。像高31cm。 国分寺に入った経緯等は不明である。 木造不動明王座像
第5章 山の神仏分離と仏像の保護
(ラ)御井寺興廃記:久留米市教育委員会蔵 慶應4年〜明治6年の藩の通達や寺院からの歎願が時系列で記される。
明治2年御井寺蓮台院廃寺となり、59代座主亮俊は還俗退去が命ぜられる。
天台宗は驚愕し、比叡山眞蔵院亮憲を山の派遣、亮憲は御井寺存続の嘆願書を潘に提出、同様の嘆願書が明静院霊徹や前の座主や天台宗三門跡からも提出される。
明治3年、歎願を受け、潘は御井寺末寺国分町正幅寺を御井寺と改め、亮俊に十人扶持を認める。
しかし、亮俊は維新前、幕府守護の祈祷などを修し、これがネックとなり、御井寺の真の意味での再興は裁可はされなかった。
明治8年眞蔵院亮憲が御井寺住職に任じられ、明治11年高良山麓に御井寺の再興が認可される。 (ム)官辺帳・官辺記録:福聚寺蔵
臨済宗福聚寺の記録帳である。この中には神仏分離に関する記録もある。
高良山本地堂本地仏は、明治2年社院局からから福聚寺へ本地仏を預ける通知がなされ、福聚寺では預書を提出する。
高良山愛宕大権現将軍地蔵尊は、引き受け手がないので、福聚寺に引き取りの要請があり、それを(明治2年に)引き受けたことが記される。
●高良山神宮寺及び仏教関連の遺跡
2010/03/25追加:
BUNKAZAI +++久留米市教育委員会+++ のページに「御井校区遺跡一覧表」がある。
以下にそのリストを転載(一部はカット)する。これによれば、塔跡(多宝塔大日、三重塔)、堂宇、坊舎などの跡地が残るとされる。
写真は2011/04/13撮影(高良山現況の項の写真と同一の写真を使用) 2025/07/07追加: 上記の「BUNKAZAI
+++久留米市教育委員会+++」は現在ではリンク切れとなり、参照ができない状態である。
そこで、再度久留米市のサイトを参照すると、次のように、同一趣旨のマップがあることが判明する。
サイト「久留米市」>校区文化財マップ>御井校区文化財マップ> に同じと思われるマップ【御井校区文化財マップオモテ2(高良山中の寺院跡分布図)】があるので、こちらに切り替えをする。
この場合、bフ数値が違っているので、青数字が表記の図のbニ対応する。(黒数字は以前の図のbナある)
※今般切り替えをしたマップ(下に掲載)は、次項に掲載の「2011/05/05追加:○高良山遺跡略図」とごく一部を除き、同じものである。
◎高良山中の寺院跡分布図

高良山中の寺院跡分布図:上図拡大図
|
遺跡名 |
遺跡の時代 |
遺跡の概要 |
. |
東光寺遺跡 |
弥生、鎌倉 |
長保年中(999〜1004)頃に建てられた東光寺の推定地。 |
. |
朝妻遺跡 |
歴 史 |
高良山頓宮の跡、土師器や青磁が出土。 |
. |
高良山大宮司邸跡 |
中 世 |
大宮司の屋敷跡推定地、柱穴や陶磁器などを発見。 |
. |
高良山大祝邸跡 |
平安〜江戸 |
池と推定される遺構や、江戸時代の表門跡を発見。 |
. |
高良山下宮社遺跡 |
歴史(平安) |
土壇と推定される遺構があり、瓦が出土。 |
. |
磐井城跡 |
室町(戦国) |
高良山大祝の城で大友宗麟の陣所としても使用される。 |
. |
宗崎大宮司邸跡 |
江 戸 |
天文年中(1532〜1555)以後の高良山大宮司の屋敷跡。 |
. |
宗崎遺跡 |
江 戸 |
高良山座主丹波氏の屋敷跡。陶磁器などが多数出土。 |
1 |
座主館(日三井寺)跡 |
歴 史 |
旧御井寺、座主麟圭館と伝承される。 |
2 |
高隆寺跡 |
歴 史 |
白鳳2年(673)創建の伝承がある高良大社神宮寺の跡。 |
. |
戒壇・毘沙門堂跡 |
鎌倉〜室町 |
室町時代の石造宝塔が残る。 |
3 32 |
先三昧堂・惣持院跡 |
歴 史 |
先三昧堂は和銅元年(708)創建、惣持院は高良山十二院の一つ。 |
33 |
字神籠石遺跡 |
室 町 |
土師器・瓦器・瓦などが出土。 |
4 34 |
蜜柑屋敷 |
歴 史 |
懐良親王の陣所と伝承される場所、土師器片が轍布。 |
5 35 |
一音院跡. |
江 戸 |
高良山十二院の一つ。由緒は不明。石垣や門跡が残る。 高良山一音院跡 |
6 36 |
徳寿院跡 |
江 戸 |
高良山十二院の一つ。由緒は不明。 |
7 37 |
延寿院跡 |
江 戸 |
安永年中(1772〜1781)創建とされ、高良山十二院の一つ。 |
8 38 |
普門院今長谷観音堂跡 |
鎌倉〜江戸 |
普門院は十二院の一つ。観音堂は宝亀年中(770〜780)創建。 |
9 39 |
●御井寺(座主坊・蓮台院)跡 |
歴 史 |
高良山本坊として重要な寺院、門や建物の一部が残る。
高良山本坊山門、本坊山門内側横・石垣石階、本坊山門内側・石垣石階上
山門内・石垣石階上・石垣、本坊山門内・石畳、本坊石畳奥・石階、
本坊内宮司居宅1、本坊内宮司居宅2、高良山本坊裏門1、
高良山本坊裏門2、高良山本坊裏門3、裏門から宮司宅への路 |
2025/07/07追加: ○「企画展 高良山の仏教美術 山麓寺院調査から見えてくる山の姿」九州歴史資料館、2025 より
古代からの神宮寺であった高隆寺は中世に退転し、座主の地位は御井寺に引き継がれる。しかし、御井寺の創建についてははっきりとは分からないという。記録からは遅くとも43世座主・良胤(文明16年/1484〜天文10年/1541の時には御井寺の所属であったという。
豊臣秀吉より寄進された1000石のうち770石が座主坊への配当であり、幕末まで圧倒的な力を持ち、山内を幕末迄掌握する。
明治初年廃寺となり、その後潘知事の拠所となり高良山屋敷・高良山御殿いわれ、さらにその後は宮司の邸宅となる。
現在は当時の本坊門と裏門のみが現存する。 なお、明治11年山麓に御井寺が再興され、御井寺の法灯や遺物を継ぐ。 |
10
40 |
宝蔵・竹楼跡 |
江 戸 |
座主の別荘があり、竹楼と呼ばれていた。 |
11 41 |
●明静院(高厳寺)跡<江戸>
 |
宝亀年中(770〜780)創建とされ、座主院に次ぐ有力な子院と云う。(命静院)
明治2年2月明静院住持霊徹は宮陣村国分寺に退去させられる。
その時高良山明静院石造仁王像、元三大師、大聖歓喜天も遷座すると云う。
○2012/04/22追加:「久留米市郷土の文化財」より
明治3年高良山明静院の本堂を安武八幡社拝殿として移築と伝える。
入母屋造妻入、屋根本瓦葺。正面3間側面4間半、高良山坊舎のおそらく唯一の遺構であろう。向拝・柱間などには格式を持たす意味であろうか、江戸期風な彫刻を設える。
箱棟には、天台宗の寺院によく見られる「輪宝紋」をつけ、東側に龍、西側に麒麟が力強く表現され、上部両端には大きな鯱を置く。内部の格天井には、有馬藩絵師三谷主郷が中心となって描いた154枚の墨絵や彩色画が残る。
○2012/05/20撮影:
明静院本堂遺構1 明静院本堂遺構2:左図拡大図
明静院本堂遺構3 明静院本堂遺構4 明静院本堂遺構5
明静院本堂遺構6 明静院本堂遺構7 明静院本堂遺構8
※安武八幡神社拝殿(伝明静院本堂):久留米市安武町安武本637
寛正年中(1460)天満宮を勧請、天満宮と称する。天文16年(1547)安武安房守宇佐八幡宮を勧請し、八幡宮と称する。明治3年明静院本堂を移建。大正初年に1村1社の命により、付近の天神、祇園、諏訪などの社を合祀する。 |
2025/07/07追加: ○「企画展 高良山の仏教美術 山麓寺院調査から見えてくる山の姿」九州歴史資料館、2025 より
高良山3世座主・隆宝が隠居所として創建したというが、あきらかではない。天文20年(1551)の神領検地帳にその名が見え、これが最古の記録である。近世の紳領1000石の内200石の配当があり、座主坊に次ぐ院であった。
この明静院は元三大師(慈恵大師)の信仰と深い繋がりがあったことが各種記から知られる。
明治の神仏判然の処置で明静院住持が退去したのが国分寺であったいう由縁で、今回の宮の陣国分寺調査では元三大師の像や画が集中して確認される。
なお、安武八幡社拝殿として移築された本堂の正面木階の擬宝珠勾欄には文久2年(1862)の年紀が刻まれるという。 |
12 42 |
経蔵院跡 |
鎌倉〜江戸 |
由緒は不明、十二院の一つとされ、土師器・瓦器などが出土。 |
13 43 |
弥勒寺跡 |
歴 史 |
朱鳥5年(690)創建と伝える、高良山八ヶ寺の一つ。 |
14 44 |
廻り堂跡 |
歴 史 |
高良山七堂の一つで、江戸時代には五重の石塔があった。 |
15 45 |
講堂跡 |
歴 史 |
天暦5年(951)の創建と伝えられる。 |
16 47 |
奉納所跡 |
歴史(室町) |
五輪塔の下部と見られる石室が残る。 |
17 48 |
大日堂跡 |
歴 史 |
永承4年(1049)の創建と伝えられる。 |
18 49 |
三重塔跡 |
歴 史 |
江戸時代の縁起絵巻に見られるが、由緒は不明。 |
19 50 |
宝塔院跡 |
歴 史 |
和銅5年(712)の創建と伝えられる、高良山八ヶ寺の一つ。 高良山宝塔院跡 |
20 51 |
円明院跡 |
歴 史 |
高良山十二院の一つ、由緒は不明。 |
21 52 |
不動院跡 |
歴 史 |
仁寿年中(851〜854)の創建とされる、高良山七堂の一つ。 |
22 53 |
中院跡 |
歴 史 |
天長年中(824〜834)の創建とされ、土師器片が散布。 高良山中院跡 |
23 54 |
文殊院跡 |
歴 史 |
高良山十二院の一つ。由緒は不明。瓦陶磁器などが撒布。 |
24 55 |
勢至堂(本地院)跡 |
歴 史 |
霊亀元年(715)創建とされ、徳川家光を祀る廟もあった。 高良山勢至堂跡 |
25 56 |
観音寺・真如院跡 |
歴 史 |
真如院は高良山十二院の一つ。共に由緒は不明。 高良山観音寺跡 |
26 57 |
妙音寺跡(丹波家墓地) |
歴史(室町) |
開山堂の付属寺院で、中世の座主丹波家の墓塔が残る。 |
27 58 |
開山堂跡(近世座主墓地) |
歴史(江戸) |
高良山仏教の開祖隆慶上人の墓と、近世歴代座主の墓塔が残る。 |
28 59 |
冨住(留住)寺 |
歴 史 |
仁寿年中(851〜854)創建とされる、高良山八ヶ寺の一つ。 |
29 60 |
(再興)極楽寺跡 |
江 戸 |
元禄年中(1688〜1704)に再興された極楽寺の跡。 |
2025/07/07追加: ○「企画展 高良山の仏教美術 山麓寺院調査から見えてくる山の姿」九州歴史資料館、2025 より
本寺については、必ずしもその性格がはっきり把握されている訳ではない。
中世の成立とされる「高良記(高良玉垂宮神秘書)」にその存在は確認され、「高良山諸堂記」には「僅遺其趾」の26ヶ寺の一つにあげられる。
絵図である「絹本着色高良社縁起(社頭図)」には北谷の南尾根上に極楽寺が描かれる。
さらには「筑後高良山略図」でも愛宕社を過ぎた先に極楽寺が確認できる。
しかし、一方では、近世には府中町に極楽寺が存在し、多くの記録でも、府中に極楽寺があるとされる。
極楽寺(千手院と号する)は近世、醍醐寺三宝院末であり、筑前筑後の山伏の袈裟頭を務めていた。後に天台宗と改められるも、全山が天台化した中で、ただ1ヶ寺だけ、真言の修験の法灯を継いでいた特異な寺院であった。当山派修験の開祖聖宝の画像や不動明王・役行者像などを安置していたのは、当山派修験であったことの証左であろうか。
あるいは、府中の極楽寺は高良山極楽寺の里坊のような存在であったのかもしれない。
なお、千手院本尊は不動明王であり、この本尊は山内の千手院が廃寺となり、その後、明治4年に福聚寺に遷されたといい、その不動明王は現在福聚寺観音堂に安置の不動明王立像の可能性が高いという。 |
30 61 |
極楽寺住職墓 |
江 戸 |
高良山の中興に力を尽くした、即心上人などの墓が残る。 |
31 62 |
千手堂青(聖)天堂跡 |
歴 史 |
千手堂は698年の創建とされるが、青天堂は由緒不明。 |
2025/07/07追加: ○「企画展 高良山の仏教美術 山麓寺院調査から見えてくる山の姿」九州歴史資料館、2025 より
高良山の西側に伸びる尾根の先端が礫山であるが、ここに愛宕山大権現が鎮座する。
萬治3年(1660)49世秀賀が久留米藩主の武運長久を祈願し、山外の隈山に勧請、寛文10年(1670)に現在地へ遷座、延宝8年(1680)建物が移築再興される。
この愛宕山の神宮寺が青天寺である。但し寺院としての活動実績は殆ど不明である。しかしながら、愛宕山大権現の本地仏(木造将軍地蔵騎馬像などの三尊)は現在福聚寺に遷され現存し、さらに現在御井寺の門前にある「石造天狗座像」もこの地にあった像であるといわれる。
高良山愛宕社石造天狗座像:★霊山⛰高良山の天狗サマ より |
63 |
虚空蔵堂 |
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医王院跡 |
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新三昧堂跡 |
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注)46は欠番:46は杉ノ城日遺跡とある
2025/07/09追加: ○「高良山の仏教美術」 より
★寛政-天保期高良山山内寺院配置図

寛政-天保期高良山山内寺院配置図:上図拡大図
★高良山玉垂宮現況:2011/04/13撮影
2011/05/05追加:
○高良山遺跡略図
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高良山遺跡略図:左図拡大図
本図は
「国史跡 高良山神籠石」地図(「歴史散歩bQ0」久留米市教委、平成16年)を取り込み、その地図上に、
「史跡高良山神籠石指定地区内の寺院等分布図」(「御井校区の文化財マップ」久留米市教委、平成10年)にある寺院等の位置を転載
したものである。
以上の意味で本図は2図の合成図である。
※図中の遺跡名の前にある番号はすぐ上に掲載の「御井校区遺跡一覧表」のbノ対応するものである。 |
○高良山26ヶ寺概要図:中世高良山は26ヶ寺、360坊と称されるが、その26ヶ寺の配置概要図である。
高良山26ヶ寺概要図
※上図は2011/04/13、山内で坊跡の標識(木製)を設置していると云う業者が所持していた図面である。
※業者は久留米市から委託され、作業中だったと思われる ※この図面は、その業者が作成したと云う。 ※本写真は業者所有の手書図を撮影されてもらったものである。
26ヶ寺の寺院名称とその想定される大まかな位置が分かる図ではある。
但し、4.在中院、17.浄福寺、18.地藏堂、22.蓮花寺、25.妙音寺、26.岩滝ノ薬師は位置の表示がない。
※次は業者の談:
三重塔及ぶ大日堂については、標識(木製)の設置はないと云う。つまり跡地は詳らかでないと云うことである。
現地の発掘調査などは未実施であり、今のところ、確たる遺構や遺物の発見があった訳ではないとも云う。
○高良山現況
高 良 下 宮:高良山下府中(御井町)にある。
高良山一の鳥居:重文、明暦元年(1655)久留米藩主有馬忠頼の寄進、石造。扁額は玉垂宮とある。
再興御井寺:明治11年高良山下寶蔵寺跡の丘上に蓮台院御井寺が新築再興される。天台宗。
御手洗橋・放生池
※放生池・高牟礼神社(現高樹神社)から少し登って、本坊に至るまでに、延壽院・普門院、右側に本壽院などがあったと云い、坊舎跡と思われる平坦地・石垣などが残るも、詳らかならず。
高良山坊舎跡1(推定) 高良山一音院跡
高良山坊舎跡2(推定):中の茶屋
付近の石垣及び平坦地であるが、坊舎跡かどうかは不明。
高良山坊舎跡4(推定)
○高良山本坊((蓮台院御井寺・座主坊)遺構:明治の廃寺の後も官舎などで使用されたため雄大な遺構を比較的良く残す。
※延宝3年(1675)大水害で神宮寺は壊滅、座主寂源僧正が久留米藩主有馬頼元の援助によりここに座主坊を造営する。
護摩堂・書院・客殿などを具備するも、明治2年廃寺、久留米藩知事有馬頼咸の住居、筑後中教院・高良社社務所となり、その後は高良社宮司官舎として使われる。現在は本坊門・裏門・飛雲閣など延宝再興堂宇
と石垣・石畳などの遺構も良く残す。
高良山本坊山門 本坊山門内側横・石垣石階 本坊山門内側・石垣石階上 山門内・石垣石階上・石垣
本坊山門内・石畳 本坊石畳奥・石階 本坊内宮司居宅1:これが飛雲閣かどうかは不明
本坊内宮司居宅2
高良山本坊裏門1 高良山本坊裏門2 高良山本坊裏門3 裏門から宮司宅への路
○高良山現況2
高良山観音寺跡 高良山勢至堂跡 高良山中院跡 高良山宝塔院跡
下向坂石段下石燈籠:玉垂宮と刻む1対のうちの1基、元禄14年年紀。
○高良山本社
高良山本社中門1 高良山本社中門2 高良山本社中門3 高良山本社中門4:安永6年(1777)建立
高良山本社本殿11 高良山本社本殿12 高良山本社本殿13 高良山本社本殿14 高良山本社本殿15
高良山本社本殿16 高良山本社本殿17 高良山本社本殿18 高良山本社本殿19 高良山本社本殿20
高良山本社本殿21 高良山本社本殿22
高良山本社南側景観:多宝塔及び三重塔があった方面を撮影した写真であるが、塔はもとより仏堂を偲ぶものは地上には何もない。
2008/05/08作成:2025/07/09更新:ホームページ、日本の塔婆
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