筑 後 高 良 山

筑後高良山高隆寺(御井寺)/高良山玉垂宮

概 要

高良山高隆寺は高良山玉垂宮を支配し、九州では英彦山、阿蘇山と並ぶ天台の大寺であった。
 (高隆寺本坊が高良山蓮台院御井寺と号す。)
※高良大社とか高良神社とかの呼称は明治の神仏分離後の国家神道丸出しのさもしい呼称にしかすぎない。少なくも玉垂宮と呼ぶのが正しい歴史への接し方であろう。

 塔については以下が見られるも、詳細は不明。
奈良期に高隆寺が創建され、宝塔院が建立と云うも、宝塔院の実態は不明。
 ※宝塔院は和銅5年(712)の創建と伝えられる。
17世仁照は大日塔建立(「高隆寺縁起」か?)
「高良山諸堂記」では大日堂(大日塔の標記ではない?)、宝塔院の存在が知れる。
「高良山今時図」(寛政頃<1790年頃>55世傳雄著)では大日堂・三重塔の存在が記載される。<未見>
下掲載の「高良玉垂宮参詣曼荼羅」では大日塔<多宝塔と思われる>が描かれる。塔の詳細は不明。
下掲載の「筑後高良山略図」では三重塔が描かれる。三重塔の詳細は全く不明。

高良山高隆寺概要

「高良山物語」、倉富了一、昭和9年 より要約
 ▲高良玉垂宮の創建:
高良玉垂宮に仏教が入り、高隆寺(隆慶の開山)が創建される。その間の事情は以下のように説かれる。
美濃理麿(武内宿禰の裔と称する)の三男保依が出家して隆慶と号し、後の座主家の基を開く。(大祝旧記)
 ※その時代は「高良玉垂宮縁起」の奥付に「白鳳十三歳葵酉」とあったと云わる故、この頃と推定される。
「高良山寺院記」:「白鳳六十年丁丑四月廿二日、阿曇多知尼少女に託して隆慶に告げて曰く、汝須らく三宝に帰依し浄業を修すべし、勝地幾(ちかき)にあり」
「高隆寺縁起」:「白鳳十三年二月八日、国書生清原真人道理聴進を視、名神御厨預り物部公岡麿、祝部物部公有憲、勾当阿曇公吉禰麿、神部公常仁、弓削郷戸主草公、同月十四日早朝、国宰の夢の示現に依って、力を合わせ林中の荊棘をかり払い、石岩を引きて平らにし、仏殿を草創し、便ち、五間四面の精舎一宇、五間七間の雑舎一宇を造作し、弥勒像一駆、毘沙門天像一駆を造り奉り、堂の母屋に安置し奉り、大明神像一駆を造り奉り、南の母屋に安置し奉り、庇一間是れ則ち太神宮寺法名高隆寺なり」
 ▲この後、古代・中世を通じ、高隆寺は隆盛する。
隆慶はその後、奥の院に毘沙門堂、北谷に正覚寺を建立、弥陀三尊を安ず。其の後上洛、帰山の後、観音寺(北麓御堂島)、三昧堂、薬師堂、寶塔院、千手堂等を建立する。
隆慶遷化の後、巨石比丘が其の墓側に妙音寺を建立。
 ※妙音寺は養老五年(721)隆慶の寂後、弟子巨石比丘がその墓側に建立する。妙音寺跡に三区画からなる歴代座主の墓地が現存する。
3世慶賀、鐘楼・門廓を建立、明静院(座主に次ぐ院)を建て隠居する。
5世仁勢は中院、6世照鏡は毘沙門堂(今長谷及西麓国分)・正福寺(天長年中?)、7世堂叡は六地蔵(浄満寺)、8世宗照は虚空蔵(観行院)、9世與覚は富住寺、不動堂を建立と伝える。
貞観15年(873)本地堂を社壇のうちに建立、釈迦・弥陀・観音の三像を安置する。
 ※玉垂宮中宮玉垂命本地は勢至菩薩観音或は十一面観音、左宮八幡大菩薩本地は釈迦牟佛、右官住吉大明神本地は阿弥陀如来と云う。
10世惣覚は惣持院、11世宜圓は護摩堂、12世叡竿は講堂を建立、法華・金光明・仁王の三会を創始する。
13世聖慶は満願寺、14世安邏は東光寺、15世観春は薬師堂、16世観隆は正貴院・医王院、17世仁照は大日塔、18世永春は中谷薬師堂、20世良憲は阿志岐薬師堂、24世尊覚は如意輪堂、25世良覚は弘長寺を建立する。
 「高良山諸堂記」(この史料の時期は不明※おそらく中世・最盛期の山容と思われる。)には次の堂舎名が挙げられる。
本地堂、大日堂、鐘楼、同行堂、北院、辻堂、千手堂、医王院、百塔薬師堂、北谷薬師堂、算所観音堂、毘沙門堂、高隆寺の鐘楼、寶蔵寺、高隆寺、弥勒寺、寶塔院、不動堂、富住寺、中院、勢至堂、弘長寺、観音寺、勤行院、先三昧堂、正体院、正覚寺、真諦院、惣持院、浄福寺、地蔵堂、東光寺、虚空蔵堂、妙見堂、道場、蓮花寺、不動堂、極楽寺、妙音寺、岩瀬薬師
 「御井寺記録」には「毛利秀包が秀吉朱印の旨に任せ一千石を寄附した頃は三十一坊あり、田中吉政は慶長六年(紀元1601年)十二院に限定した」とある、幕末頃は「座主本坊、衆徒明静院、延壽院、文殊院、圓明院、経蔵院、普門院、惣持院、真如院,一音院、徳壽院、千如坊、極楽寺の大小堂、山上山下に散在してその高隆なる実に鎮西無比の法窟たり」とあると云う。
 ▲近世の景観は以下とされる。
「高良玉垂宮略記」の口絵「高良山今時図」(寛政頃<1790年頃>55世傳雄著)では:
御手洗池の反り橋左に高牟礼神社(現高樹神社)、少し登って延壽院・普門院、右側に本壽院などがあり、九丁目なる現宮司邸の門が本坊門、其奥に本坊(蓮台院・座主坊・御井寺)護摩堂等の甍聳え、其の上に高く築き回された塀の中に三代将軍の霊屋・寶蔵・御供所等がある。門前参道に沿うて谷川の流れを越した右上に真如院、其の上段(十二丁目)が「行きたほれ観音」と云う観音堂、更に上段に文殊院、(十三町目標石から)左に深く入りこんで命静院,其の奥に円妙院、参道を殆ど上り詰めて左折する曲がり角,一間茶屋、(今は竹薮)の横に不動堂、それより立ち並ぶ石灯籠の間を北へ行けば「高良玉垂宮」の額ある木の鳥居、今と変わらぬ百五十余の石段を登れば玉垂宮の本社に達する。社殿は現時と変わりないが、左側西より番所・本地堂(現社務所の処)寶蔵・神輿庫が連なり、是等と社殿の間に東西二株の枝振り面白い古松があって各々垣を廻らしてある。社後は左より豊姫社・山王社・八幡社・風浪社・間真根子社・留守殿と右へ並び、神殿の南広場に井戸、其の右方の山上に鐘楼。其の西に大日堂・経塚・三重塔等皆高所に建てられ、社の西南方二軒茶屋、其の西北に神楽殿、拝殿前の敷石を挟んで狛犬一対は現の如く、手水鉢は其の南東、今の手水鉢の位置と見るところには高さ数間の蓮華型大水盤から瀧なす水が流れ落ちて居る。尚全景を通じて三々五々参者の群れが見える、是実に今から百四十年前の景観である。
序に其れ等建造物に於いての来歴を略記すれば、神殿拝殿は萬治3年(1660)の造立で工匠の棟梁は当時名工と云われた平三郎である。神門は安永6年(1777)七代藩主頼憧の新建、山下の石の大鳥居は明暦元年(1655)二代藩主忠頼 の寄進である。
 ▲神仏分離・近代
慶応4年、神仏分離令、59世亮俊は退院帰国。
明治元年5月、特使亮憲は三門跡の令旨を携えて下向し、二箇条の訴状を当時の知藩事・舊藩主頼咸に提出、蓮台院復興を嘆願。
 ※甘井亮憲僧正は比叡山真蔵院住職で、御井寺を兼務
同年6月「蓮台院の復興に就いては追って沙汰する」旨の口達をうけて亮憲は帰国する。
明治2年2月、後を継ぐ亮恩に十口の月俸を与えて正福寺(国分町日渡、天長年中6世座主照鏡開基)に移住、明静院住持霊徹には五口を給し、国分寺(三井郡宮陣村、高良山常楽坊の配下、幕末頃は僅かに一草堂を残す、同寺門前の仁王像は命静院から移す)に移転させる。
其他も他国の者は帰国させ地方の者は還俗させ、全山一帯僧影を止めず、本坊初め多くの寺堂も愈々廃業せられる。
明治2年7月頼咸は久留米城を知藩事の官府となし、自は高良山本坊に居を移し、日々舊久留米城なる知政府に出勤して政務を執る。
明治3年、正福寺亮恩に宛て、以下の申達書を発する。(御井寺再興の達)
 「元御井寺蓮台寺の儀は、朝廷より仰せ出され候御趣意に付き両部の差別御取調中、往時亮俊不都合の儀是有り、其儘廃寺に相成り候処、舊来格別の寺院柄の儀に付き語詮議遂げられ、其寺号御井寺と改られ、十人扶持寄附、寺格中士族に準ぜられ候事」
 ※文中、亮俊不都合とは、亮俊が佐幕派でありその行為を採ったことを云うと思われる。
明治3年12月、頼咸は所謂良山御殿を引き払って上京する。
明治4年3月、所謂良山御殿は井田巡察使参謀・巡察使陸軍少将四條隆嗣(久留米藩難事件の為出張)の本営となる。
明治4年6月、高良玉垂宮は高良神社と改称、国幣中社となる。所謂良山御殿は宮司邸として其の跡を襲用する。
明治8年、御井寺は本山より亮憲再び下向して住持を兼ねる。
明治11年4月、地方聴の許を得、高良山下寶蔵寺跡の丘上に蓮台院御井寺が新築再興される。(現在に至る)
大正4年11月、国幣大社に昇格、以降国家神道の道を歩む。

「御井町史」、久留米市立御井小学校父母教師会編、昭和61年 の要約

 ▲高良玉垂宮参詣曼荼羅(高良宮蔵)
高良玉垂宮参詣曼荼羅1:多宝塔・本地堂部分図:左図拡大図
高良玉垂宮参詣曼荼羅2:玉垂宮本殿附近部分図:多宝塔は大日塔と称する。
高良玉垂宮参詣曼荼羅3:カラー版:図版が小さく、詳細識別は不能

高良玉垂宮参詣曼荼羅:横212.5cm、縦238.3cm、極彩色、軸装、高良大社所蔵。
製作時期は明確でない。天文23年(1554)以降、慶長8年(1603)、寛永12年(1635)と、三回の修理、銘写しが伝えられるも、これについては異論もある。蝋色漆塗りの箱の蓋の裏には、金泥で元禄元年(1688)10月、久留米藩主、有馬頼元が命じて、修理改装をさせたとある。
構図は西の方角から高良山を見上げる。最上部は回廊で囲まれた高良神社の社殿、最下部は山麓の門前町府中・大鳥居までで、高良山の全景を描く。左上、旗がたなびいているのは高隆寺、また神籠石も描かれる。

2010/10/06追加:「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より
高良玉垂宮参詣曼荼羅は高良社縁起とも称し2幅から成る。
1幅は神功皇后の三韓征伐を描く。2幅は「高良社社寺大観之図」と称する。
 高良社社寺大観之図:第2幅である。上掲の「高良玉垂宮参詣曼荼羅」のほぼ全図である。
図左上に比較的大きく描かれるのが高隆寺である。法量:237×207cm。

 ▲古代
古代の遺物として、山腹の数ヶ所(杉ノ城趾、永勝寺、下宮社、高隆寺跡)から奈良期の「布目瓦」が出土と云う。また、これらの地域からは平安期の瓦も出ており、奈良期後期から神宮寺である高隆寺に、伽藍が造営されたことが明確であり、平安期から中世にかけては、高良山は神社というより高隆寺が隆盛を極めていた様が窺える。
 ▲高良社の創建について、
社伝の類(「高良玉垂宮縁起」)では、仲哀天皇8年、高良社創建とする。
一方、高隆寺については、「高隆寺縁起」では、白鳳12年に堂宇を作り、高隆寺(太神宮寺)と称すると云う。
高良神社の初見は、「延喜式」(平安初期)で、「筑後国四座大二座小二座」とあり、「三井郡に高良玉垂命神社、豊比盗_社、伊勢天照御祖神社の三社、御原郡に、御勢大霊石神社一座」とある。
「久留米市史・第一巻」では、高良山の創建は8世紀初期以前、高隆寺の創建は、天平勝宝年間(8世紀半ば)以後とする。
高隆寺については、高良山から奈良後期の瓦が出ることから、その存在は推定できる。
高良社は、上宮から発生したのか、下宮が先であったのかも明らかではなく、考古学史料も、8世紀以前に溯るものは発見されていない。
具体的史料の初見は昭和49-51年の社殿解体修理で発見された、室町期の「双雀亀鈕文鏡」といわれ、室町期に上宮があったことは確実とされるのみである。
 ▲祭神
高良社の主祭神・高良玉垂命の内容については実態が不明で、諸説があり、現在は武内宿禰を祭神としている。
祭神が不明確なのは、資料の少ないこと、また高良山は中央との結びつきをほとんど持たない地方神であることなどで、祭神が変わった可能性が高いことなどが考えられる。しかも中世になると八幡神、住吉大神との結びつきを持つが、これは玉垂神が本来船霊であったために、水の神である両神と容易にむすびついたものとも考えられる。
所詮、神社の祭神などはこの程度のもので、中には式内社そのものの廃絶も多くあったと思われる。
さらに明治維新の神仏分離・復古神道が、祭神や「神社」を捏造・付会し、混乱にさらに輪をかけたというのが実態であろう。
 ▲古代・中世
多くの史料が語るように、古代・中世では、高良山は、神杜よりも、神宮寺(高隆寺)が隆盛する。
時代は降り、戦国期には高良山も武装し、戦乱に加担し、その過程で、高隆寺は焼亡。衰微する。
48代座主玄逸に至っては、遂にこれまで世襲してきた座主の血脈も完全に途絶る。
以後高良山座主は東叡山より任命されてくるようになる。
 ※座主の世襲は48世で断絶し、49代からは比叡山より任命されるようになる。
50代座主として赴任した寂源(京都賀茂神社の神官の出)は、荒廃していた高良山の復興に尽力する。極楽寺を再興(極楽寺跡の碑がある)して即心を住持とする、開祖隆慶上人の墓所、妙音寺廟を修復する、などの事蹟がある。
以降、高良山は歴代藩主の庇護を受け、明治維新まで、寺勢を維持する。
 ▲神仏分離・近代
近世、御井寺は東叡山支配であり、座主本坊・蓮台院を初め12院があり、山内に徳川家霊廟も建立されていた。
慶応4年5月、久留米藩では国学者矢野一貞などを神祗改正調役に任命、社院局を設置、領内主要寺社に対してその沿革、現況などの詳しい報告を提出させる。
慶応4年6月23日、徳川家霊廟の祭祀と御供料百石の廃止が決定される。(「新有馬文庫御記録」)

明治2年2月21日、高良山59世座主厨亮俊への還俗令と退職命令が出され、座主は廃止、亮俊は離山する。
同時に御井寺関係の諸寺院の廃寺、山中の寺院はことごとく毀廃、高良玉垂宮は「高良神社」と改号し国幣中社に列する。
初代宮司は木村重任である。
57世座主亮恩は国分町の末寺正福寺に、明静院31世霊徹は宮ノ陣町の国分寺に移され、共に僅かな扶持米を給される。
 (筑前現存国分寺本堂には高良山明静院元三大師像が遷座すると云う。)
明治2年3月11日、本地堂(高良山社殿附近)安置の三体の本地仏は、社院局から引き上げを受けて、愛宕神社の地蔵同様、福聚寺へ預けられる。(その後同寺に下げ渡される。)
明治2年5月1日、旧御井寺蓮台院を「高良山陣屋と唱うべし」との触書が出され、陣屋預り兼山中取締役が任命される。
明治2年8月12日、藩主頼咸が帰国、直ちにこれに入館する。無住の子院などを利用し、警護のため七ヶ陣屋が設けらる。
明治3年2月1日、正福寺の亮恩に宛て、以下の申達書が藩から下達される。
 「元御井寺蓮台院の儀は朝廷より仰せ出され候御趣意に付両部の差別御取調中住持亮俊不都合の儀これあり其儘廃寺に相成候処
 旧来格別の寺院柄の儀に付御詮議遂げられ其寺号御井寺と改られ十人扶持寄附寺格中士族に準ぜられ候事」
  ※御井寺は今の宮司跡を受け継いで使用していた。
明治3年5月、旧明静院を東御殿と名づける。山中への一般の出入りは厳しく制限される。
 ※南谷の上を通る表参道の中腹に、今も蓮台院(御井寺)の山門が残存する、有馬候頼咸が廃藩置県で城を出た時、蓮台院に住する。中には飛雲閣という二階建ての家屋が今も倒壊寸前で残る。
明治5年9月、修験道禁止令が下達、千手院極楽寺が完全に消滅したと推察される。
 (同寺の秋葉社、弁天社、粟島社、役行者祠などが高良下宮社(祗園神社)に移される。)
明治8年本山より甘井亮憲が下向し、御井寺住持を兼ねる。
明治11年3月地方庁の許可を得て、高良山下宝蔵寺跡の丘上に、現在の蓮台院御井寺を新築再興する。
さらに国家神道の隆盛な頃は以下の惨状と伝える。(以下は原文のまま)
「明治三十年(一八九七)歩兵第四十八連隊が福岡から久留米、国分村へ移され、高良山に軍靴の音高く響くようになるのである。軍は高良神社をみずからの守護神としてまつりあげた。宿駅の制度が廃止されてからはさびれる一方であった御井町も、軍需景気で再び活気づいた。」
大正4年「高良神社」は国幣大社に昇格。
「昭和十五年(一九四〇)本坂下まで自動車道の建設をすすめ、それから数年間に渡って、百万を越す人々が、武運長久を祈願しに山に登るようになった。高良山には戦勝を願う旗が林立し、空前の賑わいを見せたのである。しかし、つかの間の賑わいは昭和二十年八月十五日、日本の敗戦と共に、空しく消えてしまった。その後、山は荒れ、杉の大木も今は跡かたもない。」

 ▲「三、古文書にみる府中」の章
ここに「筑後高良山略図」の掲載がある。
 筑後高良山略図:図の右上に三重塔があるも、詳細は全く不明。 少々画像が小さく詳細な識別は不能。
 ※但し、作者・著作年など全く不明

2013/07/09追加:
「高良山神社の神佛分離」伊東尾四郎氏報(「明治維神佛分離資料」所収)
高良山は神領1000石、その内訳は以下の通り。
 580石 座主    15石 大祝    50石 大宮司   116石 明静院   21石 円光坊   20石 知泉坊   20石 南照坊
  20石 普門院   19石常楽坊   18石 円鏡坊    16石 千如坊   15石 智成坊   14石 理性坊   13石 延壽坊
神仏混淆の状況は例の菱屋平七の「筑紫紀行」享和2年(1802)で窺われる。
 池中島の佳景えもいはず面白し、薬師堂、地蔵堂、勢比石、御馬蹄石、観音堂、虚空蔵、大神宮・・・、
 九丁目には善光寺如来分身の御像、12丁目には如意輪観音(行きたほれ観音と称す)・・、13丁目に元三大師堂、
 14丁目地蔵不動・・・右の五重塔を過ぎれば、赤き木の鳥集あり、・・・それより磴を145段登れば本社なり、・・・
 かくて8丁下れば御神廟なり、末社全て5社、鐘楼、大日堂などあり、・・・
 社僧を座主と称して、位は権僧正、寺領は地方にて1000石なりといへり。
高良神社には神仏分離に関する史料は少ない。
詳しいことは一向に分からぬが、立派な厨子が焼かれた、明静院の仁王が破壊され穴に埋められた(一説には今陣村の寺に運び今ある)、一軒茶屋の不動の手が折られ今の三井寺の前に据えられる、33体の観音木造は人々が持ち去った、仏像はフゴに入れて持ち去ったがその後は知らぬなどが知られるだけである。
厨幾太郎氏の父は慶応4年から明治4年までの三井寺興廃記を書き残しそこには関連の文書が列記してある。
 慶応4年の「被仰出書」(慶応4年4月10日の所謂神仏分離の達)
  (達の写しの記載あり)
 明治2年2月久留米藩は座主蓮臺院亮峻に不都合の行為ありとして、退院を命じ、御井寺を廃する。
  (これに関する文書3通の記載あり)
 明治2年5月本山である比叡山真蔵院亮憲が下向し状況を視察し、久留米藩に寛大なる処置を願う嘆願書を提出する。
  (明治2年6月江州比叡山真蔵院亮憲の嘆願書の記載あり)
  (同年9月の梶井宮院家行全、青蓮院宮院家亮惇、妙法院宮院家完洞の連署した嘆願書の記載あり)
  (同年同月の座主隠居速成院無所得院僧正の嘆願書の記載あり)
 以上に対し、明治3年2月久留米藩は御井寺末寺正福寺をして御井寺と称せしめ、10人扶持を寄進する処置を下す。
  (明治3年2月の久留米藩知政所から元御井寺末寺正福寺への文書の記載あり)
 しかしこの処置は姑息な処置であり、3年10月には蓮臺院法類の比叡山大仙院、観泉坊、行泉院から、
 4年正月と4月には速成院僧正から、同年大仙院、観泉坊から嘆願書が提出される。
 しかし間もなく藩も廃止され、嘆願が成就せすと云う結果となる。

2010/03/25追加:
「福岡県名所図録図会」明治31年 より
 国幣中社高良神社:明治の神仏分離により、無慚にも荒廃堕落した神社の様が良く表されている。

2010/03/25追加:
BUNKAZAI +++久留米市教育委員会+++ のページに「御井校区遺跡一覧表」がある。
以下にそのリストを転載(一部はカット)する。これによれば、塔跡(多宝塔大日、三重塔)、堂宇、坊舎などの跡地が残るとされる。
写真は2011/04/13撮影(高良山現況の項の写真と同一の写真を使用)

遺跡名 遺跡の時代 遺跡の概要
. 東光寺遺跡 弥生、鎌倉 長保年中(999〜1004)頃に建てられた東光寺の推定地。
. 朝妻遺跡 歴  史 高良山頓宮の跡、土師器や青磁が出土。
. 高良山大宮司邸跡 中  世 大宮司の屋敷跡推定地、柱穴や陶磁器などを発見。
. 高良山大祝邸跡 平安〜江戸 池と推定される遺構や、江戸時代の表門跡を発見。
. 高良山下宮社遺跡 歴史(平安) 土壇と推定される遺構があり、瓦が出土。
. 磐井城跡 室町(戦国) 高良山大祝の城で大友宗麟の陣所としても使用される。
. 宗崎大宮司邸跡 江  戸 天文年中(1532〜1555)以後の高良山大宮司の屋敷跡。
. 宗崎遺跡 江  戸 高良山座主丹波氏の屋敷跡。陶磁器などが多数出土。
座主館(日三井寺)跡 歴  史 旧御井寺、座主麟圭館と伝承される。
高隆寺跡 歴  史 白鳳2年(673)創建の伝承がある高良大社神宮寺の跡。
. 戒壇・毘沙門堂跡 鎌倉〜室町 室町時代の石造宝塔が残る。
先三昧堂・惣持院跡 歴  史 先三昧堂は和銅元年(708)創建、惣持院は高良山十二院の一つ。
. 字神籠石遺跡 室  町 土師器・瓦器・瓦などが出土。
蜜柑屋敷 歴  史 懐良親王の陣所と伝承される場所、土師器片が轍布。
一音院跡. 江  戸 高良山十二院の一つ。由緒は不明。石垣や門跡が残る。 高良山一音院跡
徳寿院跡 江  戸 高良山十二院の一つ。由緒は不明。
延寿院跡 江  戸 安永年中(1772〜1781)創建とされ、高良山十二院の一つ。
普門院今長谷観音堂跡 鎌倉〜江戸 普門院は十二院の一つ。観音堂は宝亀年中(770〜780)創建。
御井寺(座主院)跡 歴  史 高良山本坊として重要な寺院、門や建物の一部が残る。
 高良山本坊山門本坊山門内側横・石垣石階本坊山門内側・石垣石階上
 山門内・石垣石階上・石垣本坊山門内・石畳本坊石畳奥・石階
 本坊内宮司居宅1本坊内宮司居宅2高良山本坊裏門1高良山本坊裏門2
 高良山本坊裏門3裏門から宮司宅への路
10 宝蔵・竹楼跡 江  戸 座主の別荘があり、竹楼と呼ばれていた。
11 明静院(高厳寺)跡<江戸>
宝亀年中(770〜780)創建とされ、座主院に次ぐ有力な子院と云う。(命静院)
明治2年2月明静院住持霊徹は宮陣村国分寺に退去させられる。
その時高良山明静院石造仁王像、元三大師、大聖歓喜天も遷座すると云う。
○2012/04/22追加:「久留米市郷土の文化財」より
明治3年高良山明静院の本堂を安武八幡社拝殿として移築と伝える。
入母屋造妻入、屋根本瓦葺。正面3間側面4間半、高良山坊舎のおそらく唯一の遺構であろう。向拝・柱間などには格式を持たす意味であろうか、江戸期風な彫刻を設える。
箱棟には、天台宗の寺院によく見られる「輪宝紋」をつけ、東側に龍、西側に麒麟が力強く表現され、上部両端には大きな鯱を置く。内部の格天井には、有馬藩絵師三谷主郷が中心となって描いた154枚の墨絵や彩色画が残る。
○2012/05/20撮影:
 明静院本堂遺構1     明静院本堂遺構2:左図拡大図
 明静院本堂遺構3     明静院本堂遺構4     明静院本堂遺構5
 明静院本堂遺構6     明静院本堂遺構7     明静院本堂遺構8
※安武八幡神社拝殿(伝明静院本堂):久留米市安武町安武本637
寛正年中(1460)天満宮を勧請、天満宮と称する。天文16年(1547)安武安房守宇佐八幡宮を勧請し、八幡宮と称する。明治3年明静院本堂を移建。大正初年に1村1社の命により、付近の天神、祇園、諏訪などの社を合祀する。
12 経蔵院跡 鎌倉〜江戸 由緒は不明、十二院の一つとされ、土師器・瓦器などが出土。
13 弥勒寺跡 歴  史 朱鳥5年(690)創建と伝える、高良山八ヶ寺の一つ。
14 廻り堂跡 歴  史 高良山七堂の一つで、江戸時代には五重の石塔があった。
15 講堂跡 歴  史 天暦5年(951)の創建と伝えられる。
16 奉納所跡 歴史(室町) 五輪塔の下部と見られる石室が残る。
17 大日堂跡 歴  史 永承4年(1049)の創建と伝えられる。
18 三重塔跡 歴  史 江戸時代の縁起絵巻に見られるが、由緒は不明。
19 宝塔院跡 歴  史 和銅5年(712)の創建と伝えられる、高良山八ヶ寺の一つ。 高良山宝塔院跡
20 円明院跡 歴  史 高良山十二院の一つ、由緒は不明。
21 不動院跡 歴  史 仁寿年中(851〜854)の創建とされる、高良山七堂の一つ。
22 中院跡 歴  史 天長年中(824〜834)の創建とされ、土師器片が散布。 高良山中院跡
23 文殊院跡 歴  史 高良山十二院の一つ。由緒は不明。瓦陶磁器などが撒布。
24 勢至堂(本地院)跡 歴  史 霊亀元年(715)創建とされ、徳川家光を祀る廟もあった。 高良山勢至堂跡
25 観音寺・真如院跡 歴  史 真如院は高良山十二院の一つ。共に由緒は不明。 高良山観音寺跡
26 妙音寺跡(丹波家墓地) 歴史(室町) 開山堂の付属寺院で、中世の座主丹波家の墓塔が残る。
27 開山堂跡(近世座主墓地) 歴史(江戸) 高良山仏教の開祖隆慶上人の墓と、近世歴代座主の墓塔が残る。
28 冨住(留住)寺 歴  史 仁寿年中(851〜854)創建とされる、高良山八ヶ寺の一つ。
29 (再興)極楽寺跡 江  戸 元禄年中(1688〜1704)に再興された極楽寺の跡。
30 極楽寺住職墓 江  戸 高良山の中興に力を尽くした、即心上人などの墓が残る。
31 千手堂青(聖)天堂跡 歴  史 千手堂は698年の創建とされるが、青天堂は由緒不明。

高良山玉垂宮現況:2011/04/22追加、2011/04/13撮影

2011/05/05追加:
○高良山遺跡略図

高良山遺跡略図:左図拡大図
本図は
「国史跡 高良山神籠石」地図
(「歴史散歩bQ0」久留米市教委、平成16年)を取り込み、その地図上に、
「史跡高良山神籠石指定地区内の寺院等分布図」
(「御井校区の文化財マップ」久留米市教委、平成10年)にある寺院等の位置を転載 したものである。
以上の意味で本図は2図の合成図である。
 ※図中の遺跡名の前にある番号はすぐ上に掲載の「御井校区遺跡一覧表」のbノ対応するものである。

○高良山26ヶ寺概要図:中世高良山は26ヶ寺、360坊と称されるが、その26ヶ寺の配置概要図である。
 高良山26ヶ寺概要図
※当図は2011/04/13山内で坊跡の標識(木製)を設置していると云う業者(久留米市からの委託事業と推定される)が所持し、その業者が作成したと云う手書図を撮影したものである。
26ヶ寺の寺院名称とその想定される大まかな位置が分かる図ではある。
但し、4.在中院、17.浄福寺、18.地藏堂、22.蓮花寺、25.妙音寺、26.岩滝ノ薬師は位置の表示がない。
○高良山現況
 高 良 下 宮:高良山下府中(御井町)にある。
 高良山一の鳥居:重文、明暦元年(1655)久留米藩主有馬忠頼の寄進、石造。扁額は玉垂宮とある。
 再興御井寺:明治11年高良山下寶蔵寺跡の丘上に蓮台院御井寺が新築再興される。天台宗。
 御手洗橋・放生池
※放生池・高牟礼神社(現高樹神社)から少し登って、本坊に至るまでに、延壽院・普門院、右側に本壽院などがあったと云い、坊舎跡と思われる平坦地・石垣などが残るも、詳らかならず。
 高良山坊舎跡1(推定)     高良山一音院跡
 高良山坊舎跡2(推定):中の茶屋 付近の石垣及び平坦地であるが、坊舎跡かどうかは不明。
 高良山坊舎跡4(推定)
○高良山本坊((蓮台院御井寺・座主坊)遺構:明治の廃寺の後も官舎などで使用されたため雄大な遺構を比較的良く残す。
 ※延宝3年(1675)大水害で神宮寺は壊滅、座主寂源僧正が久留米藩主有馬頼元の援助によりここに座主坊を造営する。
護摩堂・書院・客殿などを具備するも、明治2年廃寺、久留米藩知事有馬頼咸の住居、筑後中教院・高良社社務所となり、その後は高良社宮司官舎として使われる。現在は本坊門・裏門・飛雲閣など延宝再興堂宇 と石垣・石畳などの遺構も良く残す。
 高良山本坊山門     本坊山門内側横・石垣石階     本坊山門内側・石垣石階上     山門内・石垣石階上・石垣
 本坊山門内・石畳     本坊石畳奥・石階     本坊内宮司居宅1:これが飛雲閣かどうかは不明      本坊内宮司居宅2
 高良山本坊裏門1     高良山本坊裏門2     高良山本坊裏門3     裏門から宮司宅への路
○高良山現況2
 高良山観音寺跡     高良山勢至堂跡     高良山中院跡     高良山宝塔院跡
 下向坂石段下石燈籠:玉垂宮と刻む1対のうちの1基、元禄14年年紀。
○高良山本社
 高良山本社中門1     高良山本社中門2     高良山本社中門3     高良山本社中門4:安永6年(1777)建立
 高良山本社本殿11     高良山本社本殿12     高良山本社本殿13     高良山本社本殿14     高良山本社本殿15
 高良山本社本殿16     高良山本社本殿17     高良山本社本殿18     高良山本社本殿19     高良山本社本殿20
 高良山本社本殿21     高良山本社本殿22
 高良山本社南側景観:多宝塔及び三重塔があった方面を撮影した写真であるが、塔はもとより仏堂を偲ぶものは地上には何もない。
  2011/05/29追加:
  ※三重塔及ぶ大日堂については、標識(木製)の設置はないと云う。つまり跡地は詳らかでないと云うことである。
   現地の発掘調査などは未実施であり、今のところ、確たる遺構や遺物の発見があった訳ではないとも云う。


2008/05/08作成:2013/07/09更新:ホームページ日本の塔婆