◇板倉宝福寺には江戸末期まで、三重塔が存在したと思われる。
(資料的に裏付けがとれないが、「板倉町史」では以下のように記す。
明和5年(1768)観音堂より出火、阿弥陀堂・太子堂・観音堂・三重塔を焼失。寛政5年(1793)祐誠の代に三重塔再興。
文久元年(1861)再び伽藍を焼失。 ※この火災で三重塔は焼失と思われる。)
◇三重塔跡は、寺域そのものが大きく変貌し、今では全く分からない。伝承も全くない状態である。
(明治以降宝福寺は急速に衰微し、塔跡は整地されたものと思われる。
更に戦後昭和20、30年代の板倉高校校地拡張で、遺構は壊滅と推測される。)
◇舎利収納石櫃・舎利容器・舎利
(昭和33年この三重塔に係ると思われる舎利収納石櫃・舎利容器・舎利が掘り出される。
この遺物は一度は現本堂下に埋納されるも、再び掘り出され、現在は宝福寺収蔵庫に保管される。)
★板倉寳福寺概要
参考文献:「板倉町史 通史上巻・下巻」板倉町史編纂委員会・昭和60年
「板倉町史 近世資料集 別巻6」板倉町史編纂委員会・昭和56年 ◇板倉寳福寺縁起
○上野国板倉大同縁起(文永9年<1272>)
創建は厩戸太子とする。
田村麿東夷追討之時、当寺に祈願する。
・・・平城天王、大同丙戌年、・・・、再興伽藍并建塔即本導安如意輪観自在菩薩・・・・
○板倉大同縁起(文永9年<1272>)
豊聴太子の建立とする。
田村麿東夷追討之時、祈祷する。
・・・平城帝、大同元丙戌、・・・伽藍を再興すると云う。
○上州館林伊豆山(後又号大同山)観音院宝福寺縁起(弘化3年<1845>)
・・・聖徳太子・・此寺を創らる。
・・・山号を伊豆山といふ、村名を板倉と改め伊豆権現を鎮守と志、
・・・・其後 桓武天皇 ・・田村将軍・・・此寺を再興ある。
・・・其後 平城天皇 大同元年・・又此寺を再興す。四天王化して土木乃労を助く。其像を造て太子堂に納む。今にあり。
太子堂ハ太子太子御自作乃御自像。
三重の塔は、本地如意輪観音也。阿弥陀堂と併て、三ツ堂といふ。
・・・・・・・
其後 親鸞聖人、越後より常陸へ越給ふ時、此寺に詣給ふ。
其時 湖水大蛇有りて人を害す。依て御弟子性信御房を残し、御自作の像を付属ましまして、常陸へ越給ふ。旅立に御影と号して今にあり。
・・・・
性信御房の自像 又 玉日宮(親鸞聖人室)の像・・・今にあり。
・・・・
後小松院の時、山号を大同山と改む。
・・・・
常憲院様(徳川綱吉)当所御在城乃時、寛文11年(1671)出火ありしに、・・・同12年御建立に依て・・・
◇宝福寺三重塔図
:「板倉村古絵図」延享2年(1745) 「板倉村古絵図」:▼宝福寺周辺分図:下図拡大図
(「板倉町史」から転載) |
(「板倉町史」から転載) |
「板倉村古絵図」
:▼宝福寺境内部分図
:左図拡大図
描かれる堂宇は
北側には南面する本堂、
手前西には三重塔、東に庚申堂・観音堂・鐘楼、南には山門が描かれているのであろうか。
北方には雷電社が描かれる。 |
◇板倉宝福寺三重塔(大同山宝福寺修理銘文)
○大同山宝福寺修理銘文
卍 奉塔破損建立当城御武運守護所
右意趣者大旦那
松平式部太夫忠次 (寛永13年<1637>)
※近世以前からの塔婆の存在が推測される。
※松平式部太夫忠次:榊原忠次のこと、元和元年(1615)館林榊原家10万石を相続、
寛永20年(1643)陸奥白河14万石に転封、慶安2年(1649)播磨姫路15万石に転封。墓所は播磨増位山随願寺にある。
○奉修造 如意宝塔 武運長久 鎮護国家所
・・・・・・
大施主 松平宰相上三位源氏綱吉公
・・・・・・・ (寛文12年<1672>)
※近世初期には徳川綱吉の修造を見る。 ◇板倉宝福寺沿革
:「板倉町史 下巻」による
本尊:阿弥陀如来立像、観音堂本尊:如意輪観音、太子堂本尊:聖徳太子立像・性信上人坐像。
什宝:上記の縁起、性信上人縁起、玉日宮縁起など。
創建時の様子は上記縁起以外に資料はなく、詳しいことは不明である。
古くは天台宗と推測されるが、現在は真言宗豊山派に属する。
建保2年(1214)親鸞の関東入国の第1歩を留めたのが当寺であったと云われる。(このことは文献の検証でほぼ確かなこととされる。)
一方、この頃には鎌倉幕府との関係もあったとされ、伊豆山権現の支配下に入り、伊豆山権現を勧請し、山号を伊豆山と改めると伝える。
江戸期には館林藩主徳川綱吉により改修を受ける。
明和5年(1768)観音堂より出火、阿弥陀堂・太子堂・観音堂・三重塔を焼失。
寛政5年(1793)祐誠の代に三重塔再興。
文久元年(1861)再び伽藍を焼失。
現在は無住(実相寺住職が兼務)と云う。
板倉実相寺:2011/09/17撮影、真言宗豊山派 2023/03/26追加:
◆親鸞旧跡としての宝福寺
親鸞は流罪は解かれた後、信濃から関東へと下向、関東への第一歩は上野国佐貫(現在の群馬県邑楽郡板倉町)宝福寺とされる。
板倉宝福寺は聖徳太子の開基と云う。その後、大同元年(806)に本堂を建立、
建保2年(1214)親鸞は第一高弟性信に導かれ、宝福寺に止宿、この地が関東布教の最初の土地とされる。
また、親鸞が自力本願から他力本願へ回心の転機となった地とも云われる。
寛永14年(1637)館林城主榊原松平式部太夫忠次により宝福寺観音堂が再建される。
しかし、現状は、火災により現在のほとんどの建造物が明治以降の再建であり、昭和27年には県立板倉高校を誘致し、境内地を提供、狭隘な境内となり過去の遺構も失われる。 ★板倉宝福寺伽藍
2006/03/11追加:
○「群馬県埋蔵文化財調査事業団」サイト より
往時は本堂、庚申堂、観音堂、鐘楼などがあり、西側は林、さらにその西側は低地であった。
(※往時とは少なくとも近代初期までの状況を示したものと思われる。)
しかし現在、境内の大半は県立板倉高校の敷地となり、縮小された本堂、鐘楼と観音堂・太子堂があるのみである。
現在は無住(実相寺が兼務)と云う。真言宗豊山派。
昭和33年(1958)仏舎利が三重塔下より青銅製の花瓶状容器に入れられて出土したが、現在は本堂床下に再埋納してある。
(※「波動 Vol,5」では、石櫃及び舎利容器の出土した時の様子は昭和33年「町だより 第47号」に観音堂下から発掘と
記載されると云う。しかし同著では「(出土は)三重塔付近とも云う」とも指摘する。)
宝福寺は性信が親鸞の委任を受けて初期浄土真宗の布教に努めた地(佐貫庄)であり、親鸞が建暦元年(1211)、恵信尼とともに常陸国へ行く途中に滞留した寺ともされる。
2011/09/26追加:
○「宝福寺遺跡」坂本彰(「板倉町の遺跡と遺物」[板倉町史:別巻 9]外山和夫・宮田裕紀枝編、1989 所収) より
当論考の主たるテーマは出土した「蔵骨器」に関するものであるが、前段で戦後の宝福寺境内の変遷が分かる資料及び記述がある。
・宝福寺旧境内域
(「宝福寺遺跡」より転載) |
板倉宝福寺は近世から今次大戦直後まで、広い境内を有したものと推定される。
(左図の緑の区画が旧境内域で、上掲の「板倉村古絵図」:宝福寺境内部分図の境内域と基本的に同じ境域を近代まで引継ぐと思われる。)
しかし、戦後の昭和27年、33年に板倉高校の拡張などで、境内は縮小され、堂宇は造替されていくと云う。
(左図の赤の区画が現在の宝福寺境内で、この程度に縮小される。)
▼宝福寺旧境内域:左図拡大図:一部加筆
元来、板倉高校〃地は宝福寺境内地であり、現校舎の東端付近に旧本堂、体育館の東半には北から庚申堂・観音堂・鐘楼が並び、これらの北西には南北の雑木・杉林であった。本堂西側の林中には塚があり、その西北には径10m深さ3mほどの池跡があった。
参考:板倉宝福寺空撮:Google写真
、現状の宝福寺周辺
なお、本図には三重塔跡の表示がないが、これは三重塔があった場所は特定できていない(遺構は未確認)との理由によるものと思われる。
※遺構の出土も現在までなく、平成元年もしくは昭和末期の聞き取りでも有力な情報はなかったとのことである。(群馬県板倉町教委見解)
おそらく、幕末の塔焼失後、塔の遺構は整理され遺構は消滅、今次大戦前ならば多少の記憶は残っていた可能性はあるも、平成を向える頃にはすっかり人々の記憶から消え去ったものと思われる。 |
・板倉宝福寺旧観
|
(写真は「宝福寺遺跡」より転載)
▼昭和27年宝福寺遺跡遠望:左図拡大図:
(但し、写真は「波動 Vol.5」の表紙写真から転載)
左から側面4間・入母屋造・銅板葺?の旧本堂、左端に3間四方方形造の庚申堂
(推定)、入母屋造の観音堂(推定)が写る。
上掲の「板倉村古絵図」:宝福寺境内部分図では観音堂などの西側に三重塔が描かれるので、三重塔はこの写真の観音堂手前付近にあったのであろうか。
▼昭和27年宝福寺旧状:左図と同様な堂宇の並びがあり、写真中央付近が蔵骨器2個が出土した小塚であろうか。
▼昭和27年拡張工事の様子:写真の窪地は本堂西の池跡なのであろうか。 |
板倉高校履歴:
昭和26年群馬県館林高等学校伊奈良分校として設立。
昭和27年第1次拡張工事、昭和33年に第2次拡張工事を実施。
なお、昭和27年の拡張工事中に池跡を埋めるため塚を崩している途中に2つの蔵骨器(2個以上出土の形跡もある)が出土する。
また塚の土には多くの経石が混ざっていたと云う。
さらに、この地からは、同時に中世(康元元年<1256>〜長享元年<1487>)の板碑27基の出土も見ると云う。
※蔵骨器については本論文「宝福寺遺跡」坂本彰 を参照。
※経石については「宝福寺遺跡出土の経石」三国寿宏(「板倉町の遺跡と遺物」[板倉町史:別巻 9]外山和夫・宮田裕紀枝編、1989 所収)
を参照。
※蔵骨器及び経石のカラー写真は「板倉町の文化財」板倉町教育委員会文化財保護係編、1994 に掲載がある。
★板倉宝福寺舎利容器及び収納石櫃
2011/09/26追加:
○「宝福寺遺跡の石櫃と花瓶形舎利容器が掘り出されるまで」宮田裕紀枝(「波動 Vol.5」板倉町、2001 所収) より
昭和33年(板倉高校第2次拡張)石櫃と花瓶形舎利容器が発掘される。
・出土の状況は昭和33年「町だより 第47号」では「・・・館林高校板倉分校の校庭拡張の作業中、・・・・真鍮の容器に入っている縦69cm巾30cmのミカゲ石造の四角形のものを発掘した。・・・”つぼ”が発掘された観音堂は・・・・・」とする。
この記事では観音堂下より出土とされるが、三重塔付近とも云われている。
※三重塔付近と云われる具体的な根拠は明確には述べられてはいない。
その後、石櫃は板倉高校に展示された後、檀家の人々によって現本堂下に埋納され、平成9年再び本堂したより掘り出される。
現在は性信上人像を納めた保存庫に安置される。
・石櫃
|
(写真は「波動 Vol.5」より転載)
▼板倉宝福寺出土石櫃:左図拡大図石櫃は花崗岩製で、身と蓋とに別けられ、複雑で精巧な造作が成される。
身の大きさは一辺34.85cm、高さが39.7cmで、内部の刳り込みは口径15cm底径13cm高さは25cmを測る。
この刳り込みに花瓶形舎利容器が納められる訳であるが、利容器の最大径は11.8cmであり、綿密な設計が成されたものと思われる。
なお蓋をして直接眼に触れない部分は鑿跡を明瞭に残し、その他の外部は丁寧に研磨される。
※石櫃及び舎利容器は本堂下から掘り出されると云うも、下に掲載の舎利容器銘文に記されるように、この舎利容器は寳福寺三重如意輪塔柱礎の中に納め置かれたことは明らかであろう。
しかるに、昭和33年に舎利容器が本堂下から出土ということであれば、三重塔の柱礎の中に埋納された舎利容器は幕末(文久元年<1861>)の三重塔退転の後、三重塔跡から石櫃と舎利容器が掘り出され、本堂下に再埋納されたということなどが考えられるであろう。
▼宝福寺出土石櫃実測図 |
○「宝福寺遺跡出土の銅製花瓶形舎利容器について」薄井和男(「波動 Vol.5」板倉町、2001 所収)
・花瓶形舎利容器
○胴部には陰刻銘がある。
「唐鑑真大和尚/請来舎利三顆/盛干瓶中以奉/納諸於大同山/寳福寺三重如/意輪塔柱礎之/中者也
寛政六年甲寅/三月吉日 当山住持/法印為證識」
※以上の銘文により、寛政年中の三重塔再興では、この舎利容器は寳福寺三重如意輪塔柱礎の中に納め置かれたことは明らかである。
さらに、その舎利は日本に律宗を伝えた唐鑑真大和尚の請来のものとあり、律宗もしくは真言律宗に見られる顕著な舎利信仰の具体的表れを強く示唆するものであろう。
○また底部にも陰刻銘がある。
「東部靈雲寺會場苾芻睿道寄附」・・・・・花瓶形舎利容器底部(「波動 Vol.5」より転載)
薄井氏の解説によれば、會場とは意味が少々不分別であるが、霊雲寺に於いて(会場として)、僧睿道の寄進によるものと解釈されると云う。
※苾芻とは(梵)bhiksuの音写、比丘・僧侶を意味する。
東部(湯島)霊雲寺は元禄4年(1691)、浄厳律師により創建される。浄厳は高野山で得度、後に河内教興寺、河内延命寺などを再興する。
浄厳は柳沢吉保の帰依を受け、徳川綱吉から現寺地を得て、霊雲寺を開創し、元禄6年(1693)多摩郡上図師村に100石の朱印を得る。
さらに元禄7年湯島霊雲寺は関八州の真言律宗の総本寺とされる。
御府内寺社備考では、塔頭7院、末寺46ヶ寺(主に武蔵及び北関東に分布)を有するとある。
昭和22年真言宗霊雲寺派を公称して真言律宗から独立するとあるから、本質的に真言律宗を奉ずる。
以上、湯島霊雲寺は浄厳開基・徳川綱吉の庇護のよって隆盛し、一方板倉宝福寺も綱吉の庇護によって堂塔の再興を果たすと云う寺歴から、
湯島霊雲寺と板倉宝福寺とは、綱吉や幕府を通じて何らかの繫がりがあったものと容易に推測できる。
つまりその繫がりによって、湯島霊雲寺僧が板倉三重塔に埋納する舎利容器を寄附したと云うことであり、しかもなぜ舎利を塔に埋納したのかということは真言律の舎利を重視する信仰に基づくものであろうと推測できる。
※薄井氏解説
「律宗は鎌倉期、西大寺叡尊によって律復興がなされ、以降真言律は隆盛を向える。同宗における舎利信仰は熱烈なものがある。」
→大和西大寺:鎌倉期釈迦信仰に回帰し、仏舎利信仰が重視された結果、多くの優れた仏舎利宝塔を今に伝える。
なおこの容器の中には紙片に包まれた舎利3顆と籾・香木などが奉安されていたと云う。
板倉宝福寺出土舎利:右は舎利、中央右は籾、香木など
:(「波動 Vol.5」より転載)
2011/09/28追加:2011/09/17撮影:
※塔に埋納された舎利容器が現在に伝わる例は古代・中世を含めても10指余を数えるのみである。
■ 参考:舎利容器一覧表 ■
近世では、塔に舎利を奉安し、かつ現在具体的に遺物として舎利容器などが残ると知られている例は谷中感応寺(天王寺)と板倉宝福寺の2例しかない。
このうち、谷中感応寺は五重塔であり、寛政元年(1789)の再興時も旧軌に基づき心柱を心礎から立ち上げる様式でもあり、舎利(容器)を心礎舎利孔に奉安することは「古式」に倣
うということで理解することは可能である。
一方、板倉宝福寺塔婆は三重であり、三重塔の近世の作例では心柱が初重から建つことはまず無く、従って心礎の設置はなかったものと推測される。
しかるに、板倉宝福寺からは舎利容器が発掘されたと云う。
これは如何に解釈すべきであろうか。
(上記の薄井氏解説のように)板倉宝福寺と関東真言律宗(湯島霊雲寺)との間には徳川家を介在とする何等かの繫がりがあり、寛政年中の板倉三重塔再興に当っては、真言律宗の舎利信仰が強く反映したものと推測される。(舎利容器底部銘文)
再興板倉三重塔の構造は全く不明であるが、近世の例と同じく、心柱は初重の梁の上から建つ構造であったと推定される。
従って、塔基壇上には心柱を受ける心礎の設置は不必要であったものと断定可能であろう。
さらに、「三重の塔は、本地如意輪観音也」(縁起)とあり、左記の縁起の記載から見て、初重中央には須彌壇が設置されたものと推定される。
おそらくは、塔再興にあたり、真言律宗の舎利信仰の強い「要請」を受け、初重中央の心礎が置かれるであろう位置に、心礎の代替として石櫃が埋納され、その心礎に見立てた石櫃に舎利容器を奉安したものではないであろうか。
以上にように解釈されるのである。
なお、胴部の陰刻銘「納諸於大同山/寳福寺三重如/意輪塔柱礎之/中者也」を文字通り解釈すると、心礎が据えられ、その中に舎利容器が埋納されたと解釈されるが、近世の三重塔で心柱を基壇心礎の上から建てる例は皆無であり、やはり板倉宝福寺三重塔の心柱も初重梁上に建てられたと見るべきであろう。
心柱が初重の梁上に建ち、地上には心礎の据付がないからこそ、地上の心礎に代わるものとして石櫃が造作され、あたかも心礎の中に舎利容器を奉安するかの様に石櫃に舎利容器を安置したと云うことであろう。
もし仮に、心礎に舎利容器を安置するのであれば、出土したかなりの大きさの石櫃は不必要ということになる。
即ち、石櫃の中に舎利容器が安置された状態で出土ということであれば、これは心礎の据え付けが無かったことの証明ではないだろうか。
なお、一般論で云えば、舎利は心柱や相輪の宝珠などに奉安されることも多々あり、板倉寳福寺三重塔に於いてもその方法の選択肢もあったであろうが、なぜその方法を採らなかったのかは不明である。
▼板倉宝福寺石櫃内部:
(「波動 Vol.5」より転載):この写真を見た時の直感は「ここに写る舎利孔は心礎に穿たれた舎利孔そのものに見える」というものであった。
※舎利容器収納石櫃6、舎利容器収納石櫃7(何れも上掲)も同様である。
円孔形式の舎利孔を持つ心礎と比べて見よう。
例えば、
大和宝輪寺心礎:(大和法輪寺心礎11、大和法輪寺心礎12):これは心礎舎利孔に舎利容器を安置した図柄であるが、
上掲の板倉宝福寺石櫃内部に舎利容器を安置した場合を想像すれば、その図柄は全く同じものになると断言できる。
※法輪寺心礎写真は「蓋」を被せていない状態である。現在はこの心礎上には再興三重塔が建ち、心礎を見ることはできない。
★板倉宝福寺の現況 2011/09/28追加:2011/09/17撮影:
大銅山宝福寺門柱:近年のもの、東西の通りに接し、南北の参道が旧本堂に至る参道であった。中央は板倉高校体育館
板倉宝福寺:正面本堂、右は鐘楼と観音堂、左は収蔵庫
板倉宝福寺本堂1 板倉宝福寺本堂2 板倉宝福寺本堂3
旧本堂を引屋(?)にて移建するも、屋根は入母屋造から宝形造に変更、床下は切詰、椽は撤去する大改造が行われたと云う。
おそらく幕末もしくは明治初頭の建築で粽や木鼻に顕著に見られるように唐様の様式を用いる。
正面3間、側面4間、正面の1間が側面に比して極端に広い間を採る珍しい建築である。
観音堂及び太子堂 板倉宝福寺観音堂 宝福寺聖徳太子堂
板倉宝福寺鐘楼:旧鐘楼を移建したものと思われるも、厳重な石積2重基壇である意味は不明。
板倉宝福寺収蔵庫:昭和47年建立、宝福寺舎利・舎利容器・石櫃、木造性信上人坐像(性信上人御影、延文6年1361銘・・・優れた肖像彫刻である)、太子堂本尊聖徳太子像、観音堂本尊観音菩薩、その他10数躯の仏像を収蔵する。
参考:
★板倉雷電社
板倉宝福寺北数町に北関東に多く分布する雷電社の代表格の社がある。
社伝では推古天皇6年(598)聖徳太子の創建とする。また古代には坂上田村麻呂の社殿造営があったと伝える。
中世末期の社が現存するので、中世には一定の信仰を集めていたことは確実であろう。
延宝2年(1674)館林藩徳川綱吉が本社社殿を再建(但し現在の社殿は天保6年の造営)、隆盛に向かうと云う。
神職の談:菅原道真の天神や賀茂別雷神社などとの直接の関係はない。素朴な雷崇拝・農耕神崇拝が当社の起源であろう。
現在では雷電神社は約300社を数え、当社がその総本社の地位として崇められる。
北関東は雷の多い地域と云われ、雷の慰撫・五穀豊穣などの願いがこの信仰圏を造り出したのであろう。
また、雷電社の総本社の地位を任ずるだけあり、鳥居前には鯰料理を出す店などがあり、小さい門前町の構えが残る。
2011/09/17撮影:
板倉雷電社の現況
○本殿;二間社権現造、天保6年(1835)造営、彫刻・彩色を多用する。
板倉雷電社拝殿1 板倉雷電社拝殿2 板倉雷電社拝殿3 板倉雷電社拝殿4
板倉雷電社本社11 板倉雷電社本社12 板倉雷電社本社13 板倉雷電社本社14 板倉雷電社本社15
板倉雷電社本社16 板倉雷電社本社17 板倉雷電社本社18 板倉雷電社本社19 板倉雷電社本社20
板倉雷電社本社21 板倉雷電社本社22 板倉雷電社本社23 板倉雷電社本社24 板倉雷電社本社25
○末社八幡社稲荷社:重文、二間社入母屋造、屋根檜皮葺銅板覆。天文16年(1547)篠崎三河守いより造営、享保19年(1734)改修。
正面二間社は類例が少なく全国に7例しかないと云う。向かって右は八幡大菩薩、左は稲荷明神を祀る。
昭和34年の修理で切妻造の屋根を造営時の入母屋造向拝流造に復元する。
末社八幡宮稲荷社1 末社八幡宮稲荷社2 末社八幡宮稲荷社3 末社八幡宮稲荷社4
末社八幡宮稲荷社5 末社八幡宮稲荷社6 末社八幡宮稲荷社7
○奥宮:慶応4年(1868)造営。白木の彫刻を多用する。
板倉雷電社奥社1 板倉雷電社奥社2
※雷電社は約300社を数える(雷電社神職談)と云う。
「現代・神社の信仰分布」岡田莊司・加藤直弥、文部科学省21世紀COEプログラム國學院大學「神道と日本文化の国学的研究発信の拠点研究」、2007 では以下の祭神数と集計される。
雷電神社61社(栃木19、埼玉17、群馬11など主として関東に分布)
雷神社83社(福島19、茨城13、栃木12など主として関東・東北に分布)
雷電神社・雷神社を合せると144社となる。
この144社と云う数字は末社や小祠は含まないから、雷電社神職の云う300と云う数字はあながち誇張ではないであろう。
厳密に云えば、雷神社の数字には別系統の祭神の数字が少し含まれると思われるも、逆に、元は雷電社であったが、明治の国家神道による「神社合祀令」などで、元の祭神の分からない社名に改竄されたケースも考えられ、厳格な数字は求めようがない。
後者の例は上野伊勢崎上植木の上樹神社がある。地元民に上樹神社の旧社名を訊くも、誰も知らず。江戸末期か明治期の造営と思われる彫刻を多用した社殿の前の狛犬の台石に「右三巴」の紋があり、これから推測すれば、元々は雷電社であった可能性が高いと思われる。
http://www.sunfield.ne.jp/~s-hirata/jinja/jinja.htmlでは「もとは雷電神社と呼ばれ
るも、明治41年に無格の神社9社を合祀した際に
上樹神社と改称する。主祭神:大雷命」とある。
▽上植木雷電宮(現上樹神社)
要するに、小祠や合祀されて末社とされる雷電社も多くあろうから、約300の雷電社があるというのは妥当性があると思われる。
▽参考:祭神種類ランク/関東における神社分布の特異性の項
2006年以前作成:2023/03/26更新:ホームページ、日本の塔婆
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