最近訪問した塔婆・ご提供画像(2006/07/29〜2006/11/23)

過去の訪問塔婆履歴

2006/11/23 神仏分離関係 山城・久世郡近辺の神仏習合ならびに神仏分離」中の「山城久世神社」「山城平井神社」(再訪)
山城平川廃寺 再訪
山城久世廃寺 再訪
2006/10/29
「X」氏ご提供画像
越中伝真興寺塔跡1
  同        2
「X」氏情報:
四天柱礎石3個、側柱礎石6個の他、すぐ傍らに位置が特定できない礎石が数個残存する。
実見していないため詳細不詳ですが、
写真塔跡1:上方3個、左辺2個(上左隅礎石を含む)、下方2個の礎石が脇柱礎(ほぼ自然石)と推定され、これ等脇柱礎の中の自然石3個が四天柱礎石と思われます。
写真塔跡2:上方3個、右辺2個(上右隅礎石を含む)、下方2個の礎石が脇柱礎と推定され、これ等脇柱礎の中の自然石3個が四天柱礎石と思われます。それ以外に原位置を動いている礎石と推定される石も散見されます。またおそらく縁束石とも思われる礎石も残存するように思われます。
2006/10/22 河内法照寺ニ重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
詳細は全く不詳。鉄筋コンクリート製。「日本塔総鑑」に記載あり。狭い境内地に建ち、また訪問日は何かの法要があった日で本堂の外まで、多くの信者で埋まり、法要中のこともあり、塔に近づくことは憚られました。平面はかなりの大型塔ですが、組物などの造作もなく、またニ層堂に相輪を載せた形式で、本来の塔のプロポーションではありません。かなり雑な大造りのRC建築です。
東大阪市東豊浦町。
法華宗真門流(本 隆 寺派) の拠点の寺院のようで、多くの信者が参集するようです。
大和宝山寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
再訪。生駒聖天。
昭和32年完成、総高46尺5寸(14.1m)、一辺14尺1寸(4.27m)、塔本尊愛染明王。
大きな塔ではありませんが、伝統工法・伝統様による木造塔です。

朝日塔:明治22年建立、青銅製?。
宝山寺朝日塔

真言律宗。役行者の創建と伝説する。延宝6年(1678)、宝山湛海の中興開山。
大変な流行仏のようで、今一番隆盛な時なのかも分かりません。
宝山寺本堂・聖天拝殿

2006/10/18 但馬万場廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
「X」氏情報:心礎は万場集落の天満宮傍らで隣接する万場スキー場の駐車場付近にある。
「幻の塔を求めて西東」:二重円孔式、85×94×100cm、径60×35cmと20×11cmの円孔を持つ、白鳳、環状溝あり。
しかし、心礎の形式は一重円孔式というべきで、径60cmの柱座を持ち、その外周は浅く環状溝を彫る。環状溝の状況から、心礎の周囲はかなり割られているようで、本来はもうひと回り大きい心礎であったと思われる。心礎は万場天神社鳥居の脇に置かれている。さらにその横には「仏堂」が現存し 、本来は天神社の本質として、祭神は菅原道真で、神仏習合の形態であったと思われる。
心礎のあった寺院についての詳細は全く不明です。
但馬長楽寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同     大仏殿
平成4年1992建立、総高68m(あるいは70m)、鉄筋コンクリート。
天平年中行基の開基という。天文9年堂塔・六坊を山津波により流失。その後再興。
寛文10年・明治45年に焼失。昭和61年から相互不動産・多田清により大仏殿建立に着手。
(村岡)多田清の妻方の菩提寺とも云う。
但馬井土廃寺 現地で聞き取り・探索するも、今回は時間の関係で発見できず、断念。
土地の住人と思しき人も知らない人が多いようです。唯一「父親が布目瓦を思われる瓦を拾ってきていた」こと「但し場所は知らない」「近所のかっての郵便局長(土地のことに詳しい)は知っているだろう」とのことでしたが、不在。井土の北部とのことで北部を探索するも、発見できず。
但馬温泉寺石標 夕刻で、多宝塔再訪は断念。
温泉寺石標は「妙見山日光院第51世祐親」建立とある。 【但馬妙見三重塔
温泉寺縁起図(部分図):但馬温泉寺蔵、海北友竹(友松の孫)画、江戸中期
高野山真言宗 別格本山 温泉寺のページより転載。
2006/10/08 美濃日吉神社三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
  同         9
  同        10
  同        11
  同        12
  同        13
  同        14
  同        15
  同        16
  同       社殿
再訪。
塔は永正(1504-20)年中に建立。屋根檜皮葺き、総高24.7m(露盤まで17.76m)。 一辺3.95m。初重屋根方10、5m・二重方10,2、三重9.02m。相輪は鉄製。唐様の木鼻を用いる。
斎藤利綱が永正年間再建し、天正13年(1585)稲葉一徹が修造したという。
(棟札は天台宗神護寺善学院に残存するという。)
当社の創設については諸説あるようですが、いずれにしろ最澄・円仁がかかわっていると伝えられる。中世延暦寺領(平野庄)経営の一環として、延暦寺により造営されたようです。 近世は徳川家・尾張家の崇拝が厚く、代々修理が重ねられる。本殿は、寛永7年(1630)尾張家の寄進による。
未調査ですが、明治の神仏分離で、多くの仏教系の建築・什宝などが廃棄させられたと推測されますが、それでもなお三重塔および多くの仏像等が残存するのは、 幸甚というべきか。
本殿に至る参道の両脇に社僧8坊があったようです。現在、8坊は全て廃絶していますが、その跡は町によって石碑が建てられ、その跡を偲ぶことができます。
神戸日吉神社坊舎配置
美濃日吉神社社務所:中之坊跡が社務所になっています。
美濃日吉神社蓮華院跡碑:8坊跡全てに、同形の石碑が建てられています。
仏像については以下等が残存するようです。
十一面観音菩薩坐像(重文、木造、藤原)、十一面観音菩薩坐像(重文、木造、藤原)、地蔵菩薩坐像(重文、木造、藤原)、狛犬(重文、 石造 天正五年(1577) )及び多数の仏像を残すようです。(但し重文指定の仏像を含め、仏像は甚だしく破損しているようです。)
なお、詳細は不詳ですが、神戸に現存する以下の天台寺院が日吉神社に関わるようです。
神護寺善学院:最澄の創建と伝える。
密厳寺勧学院:最澄の創建と伝える。
美濃大隆寺心礎 A1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同       B1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同     軒丸瓦
  同    軒丸瓦2
  同     軒平瓦

伽藍配置は双塔式とされ、現状、心礎は2箇所(小衣斐の西濃ゴム<西濃イノアック>工場敷地内 (A)及び大野町民俗資料館(B))に分かれて置かれている。
小衣斐の工場敷地が寺地という。小衣斐の工場敷地に整備されて心礎はある。
その説明板には「この地に天台宗放光山大隆寺があり、伝教大師の創建と伝えられる。金堂本堂講堂宝塔会殿方秀院を備えていた。但し出土遺物からは白鳳期の創建と思われる。この附近一帯は古瓦が散乱し、二重八弁の蓮華紋瓦・重弧紋のある唐草瓦が出土する。天正15年(1546)斉藤道三の相羽城攻撃で焼失した。塔の真木(心柱)は焼け残り、2年もそのまま の状態であったと伝える。(美濃史より)
心礎は190×200cmの大きさで、径40×20cmの円孔を持つ」
・「幻の塔を求めて西東」:心礎1は186×153×74cm(復元寸法)、径40×18cmの円穴を持つ。一重円孔式、かなり損傷。白鳳。
心礎2は175×111×45cm(復元寸法)、径33×12.5cmの円孔を穿つ。一重円孔式。
・「日本の木造塔跡」:現在大きい心礎は工場正面に縦てて飾ってある。1.88×1.57m、で径40×19cmの円孔がある。小さい方は1.3×1.2mで、径33×10cmの円孔がある。鎌倉末期の「九条家攝籙渡荘目録」には法成寺末とある。
・「岐阜県史 通史編 原始」岐阜県編集、1972 より
「かっては水田中に塔心礎及び礎石が露出しており、・・・昭和43年この礎石群一帯が何等の調査・保護処置をとられることなく、工場建設用地となり、・・・地中深く掘削され、・・・大隆寺跡は完全に破壊されたと考えられる。・・・誠に文化財行政のいたらなかった点を心してほしい・・・」「現在心礎は・・工場敷地に築山の一部として縦てておかれている」
「小川榮一氏の調査によれば、塔心礎は186×153×74cmの大きさで、径40×18cmの円孔を穿つ。この心礎の西側には約20m離れ120×96×45cmの大きさで、径33×13.5cmの円孔がある礎石があった。これ等の礎石は地表面にほとんど露出していた。これらが元々原位置を保っていたかどうかは不明であるが、双塔式伽藍であった可能性が高い。他の堂宇については全く不明である。」「本寺跡から出土する瓦類は全て白鳳期のものである。」「昭和43年の工場建設で多くの遺物が出土したと聞くが、現時は軒丸瓦・土器類数点が遺存するのみである。」「文献的には大衣斐西覚寺文書に天文15年兵火のため大隆寺が焼失とあり、また康安2年(1362)大隆寺領を大興寺に寄進とある。(大興寺文書)但し、考古学的にはこの廃寺と大隆寺が同一である可能性は極めて低いと思われる。」
 美濃大隆寺心礎B:工場敷地にある心礎Bは以前は縦て置かれていた。「大野町の文化財」
瓦類写真:大野町民族資料館蔵(民族資料館は通常は閉館されていて、大野町公民館に展示)

美濃禅蔵寺三重塔跡1
  同         2
  同         3
  同         4
  同 土岐一族墓所
三重塔跡(多宝塔とも)と伝える一部石垣積みの平坦地を残す。
現在の本堂すぐ南に小さい舌状の山裾があり、その東面半部と北面とに石垣(坂本積みという)を築き、平坦面を造る。現在は小祠があるだけで、礎石などの塔の遺構を見出すことは困難です。また三重塔跡という根拠の資料については現在のところ入手できてはいません。
禅宗と思われますが、相当な大寺であったとすると、何らかの塔が建立されても不思議ではありません。(但し禅宗ということから多宝塔ではないと思われます。)
当寺は延文元年(1356)土岐頼忠(美濃5代目守護)により建立される。開山は覚源禅師平心處齋。創建当時は多くの塔頭を有したと伝える。(現在はほぼ廃道と化した旧参道の脇には石積みの平坦地を残す。)
なお当寺には頼忠(応永4年・1397没)など土岐一族の墓(宝篋印塔)10基を残す。
跡1及び跡2:塔跡石積、跡3及び跡4:塔跡の平面ですが、塔遺物は何もありません。
美濃円興寺跡 詳しくは「美濃円興寺跡」のページを参照ください。
美濃国分寺跡

現在は史跡公園として整備されている。  図  1  図  2
 美濃国分寺七重塔模型(大垣市歴史民俗資料館)
2008/08/30追加:柴田常恵写真資料:大正9年撮影
 美濃国分寺心礎1  美濃国分寺心礎2  美濃国分寺塔土壇  美濃国分寺境内ニ存スル同寺阯ヨリ発見ノ石製品
→2006/10/08「岐阜県史」、「美濃国分寺ものがたり」
美濃国分寺附近水田地割図:「岐阜県史」より、区画整理事業前地割図
美濃国分寺塔土壇:「岐阜県史」より
大正5年より水田区画整理事業が実施される。
整備前美濃国分寺跡:「美濃国分寺ものがたり」大垣市教育委員会、昭和57年
美濃国分寺伽藍配置図:同上
美濃国分寺塼積基壇1    同         2    同         3:同上
→2006/10/08
「各地の国分寺 史蹟の整備とその現状」大垣市歴史民俗資料館、昭和58年 などより
・伽藍配置は、南から南門、中門と塼積基壇建物 が南北中心線上に配置され、廻廊は中門から塼積基壇(金堂)に取り付く。芯芯間で廻廊東西幅は120.6m、南北92m、廻廊幅6m。
 美濃国分寺模型:大垣市歴史民俗資料館
※従来は塼積基壇建物が講堂、塔の西の建物が金堂と推定されたが、塔西建物は創建当初の建物ではなく、平安期のものとされ、塼積基壇建物の規模・威容から金堂と推定される。
・中門遺構は遺存状態が悪く全貌は不明。
・塔跡は良好に遺存。地覆石は川原石を並べる。基壇化粧は欠失するも、塼が多数出土し、塼積基壇と推定される。塔基壇は一辺19.2m、高さ1.2m、塔柱間は中央間・脇間とも3.6m。
基壇上には心礎を含め9個の礎石が原位置で残存。
心礎は2.1×1.9mの大きさで、径61×12cmの円形出枘を持つ。
  美濃国分寺心礎1    同      2    同      3    同      4
    同      5    同      6    同      7    同      8
   同 塔復元基壇   同 発掘中塔跡
   同 七重塔模型:大垣市歴史民俗資料館
・金堂は塼積基壇建物、基壇大きさは37.1×22.65m、高さ1.17m、建物規模は7間×4間と判明。礎石の一部が残存。
  美濃国分寺金堂復元基壇1    同            2
・廻廊東西に僧坊跡がある。塼積基壇後方に礎石建物1棟を検出、但しこの建物の時期・性格は不明。廻廊北西地点に鐘楼を検出、遺跡の残存状況は比較的良好のようです。
・廻廊内建物は25.4×16.4mの大きさで、削平が著しく僅かに雨落溝のみを検出、瓦類は平安期のものが出土する。
  美濃国分寺廻廊内建物復元土壇
・土製露盤伏鉢:径54、高さ22.5cm、柱穴径8.5cm。
  美濃国分寺土製露盤伏鉢:大垣市歴史民俗資料館 (以前から出土していたようです。)
・現国分寺は伽藍後方の丘の麓に再興され、近年隆盛のようです。次の本尊を安置する。
  現美濃国分寺
・薬師如来坐像(本尊・平安前期・重文)欅の一本彫りと云う。像高3m超。
  美濃国分寺薬師如来

美濃宮処寺跡 詳しくは「亡失・移転心礎」の「美濃宮処寺」の項を参照ください。
2006/10/03
「久保田」氏ご提供
谷中天王寺所蔵塔模型 伝来・時代・材質(木造・金属)・大きさ・造作方法など詳細不詳。従ってこの模型の評価は 現状では不可です。本堂内に安置のようです。勿論感応寺塔婆の模型ではありません。谷中天王寺参照。
越後乙宝寺三重塔 .
2006/06/30 大阪金剛寺九角如意塔 昭和42年建立。一辺3.5m。差渡し約7.5m。鉄筋コンクリート製。平面は九角(変形と思われる。)一応三重塔の型を採り、九輪まがい(三輪しかない)のものを立てる。また二重目屋根は三重目屋根より小さいデザインを採る。写真で見るかぎり、細部は伝統時な層塔に忠実である部分が多いと思われるも、その平面・全体デザイン・相輪の珍妙さを考慮してその他構造物(塔もどき)に分類すべきであろう。また戦後のRCC製であること(建立目的は不明)なども考慮すれば、特に価値ある建築でもないであろう。
金剛寺は念法真教総本山と称する。念法真教は大正14年立教された天台系の新興宗教のようです。教義は不明ですが、政治的には古典的なあるいは復古的な国家主義と思われます。
※信者以外の境内立ち入りは不可(守衛所)、境内にはかなりの高い建築があり、また周囲には高い場所もなく、如意塔自体を周囲から窺うことは困難です。ただし相輪および三重目屋根を垣間見ることは可能です。
旧高野山光台院多宝塔
藤田美術館蔵心礎
旧光台院多宝塔:「高野山」の「光台院多宝塔」の項を参照ください。
藤田美術館蔵心礎:「亡失・移転心礎」の「大阪藤田美術館」の項を参照ください。
2006/09/18 大本山妙蓮寺 妙蓮寺三重宝塔図を拝す。「大本山妙蓮寺」のページを参照ください。
大本山妙顕寺 「大本山妙顕寺」のページを参照ください。
本山本法寺 2006/7〜2007/3まで、多宝塔・経蔵・鐘楼の修理保存工事予定
「本山本法寺」のページを参照ください。
山城三明院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
再訪。
昭和37年建立。山城金胎寺多宝塔をモデルにしたようです。
一辺4.16m。昭和の建築とはいえ、純和様の本格木造塔で、昭和復古調の塔として後世に伝えられるべ塔であろう。
小丘陵の急斜面が境内であり、そのため、塔建築の用地確保が難しく、高いコンクリートの土台を造り、その上に塔を建造する。近くからは、大変写真の撮りにくい塔婆です。
延壽山と号する。案内には以下のように記する。「明治39年、佐竹信光師により、山形県下の山中にあった醍醐派修験寺院を当地に遷したものである。」と。 本尊:弘法大師。
「昭和の木造五重塔(7)」吉田実、史迹と美術、65(2)によると
多宝塔は滋賀県佐藤幸治氏(競輪業界)の寄進による。宮大工安田政一の設計施工。但し安田氏は京都教育委員会大森健二氏の指導を受ける。
一方参議院議員大野木秀次氏から三重塔寄進の申出があり、同じ宮大工安田氏に施工依頼をし(設計は滋賀大沼義則氏・指導は大森氏)昭和36年から木取り、部品可工が開始された。境内の地割未確定、寄進者の逝去、3世佐竹周海師の急逝などの事情で建立は中止され、加工部材は安田工務店倉庫に保存された。昭和45年鏑射寺の三重塔建立の計画があり、大森氏の周旋で安田工務店の仕掛中部材を購入し、不足の上層部部材は追加加工することで、昭和45年に着手、昭和47年落慶となった。不幸にして安田棟梁は仕掛中部材輸送中の交通事故で半身不随となる。その後の工事の棟梁は人見立一棟梁が勤める。
人見棟梁は完成後、安田工務店を退職し、讃岐志度寺五重塔工事に着手する。
京都博物館所蔵心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
▲一重円孔式、313×225×69cm、径76×3/4cmの円孔、白鳳。出所不明、昭和7年賀茂川河畔から出土。▲(▲・・・▲部は「幻の塔を求めて西東」より)
はたして京都国立博物館が所蔵しているのかどうかは不明です。
2006/06/10追加:
京都国立博物館西の庭に「礎石」の展示があるようです。この展示の礎石が上記「幻の塔を求めて西東」に記載の心礎であるか否かは、以下の理由で、不明です。
1)展示品の寸法が不明、2)写真で見る限り、ニ重円孔式に見える。3)写真で見る限り、石自体が心礎にしてはやや「いびつ」と思われる。
2003/10/05「X」氏撮影画像
 京都国立博物館推定心礎1  京都国立博物館推定心礎2  京都国立博物館推定心礎3
2006/09/22追加:
屋外展示・西の庭に「礎石」として展示がある。但し「礎石」とのみ表示があるだけで、由来・伝来などは全く表示がありません。(他に心礎ではない礎石が2点展示されているが、各々「礎石:本館敷地西南隅出土、当館蔵 」、礎石:奈良市佐紀町出土、奈良時代、当館蔵」と解説があります。)
大きさはほぼ、「幻の塔を求めて西東」に合致する。但し、ニ重円孔式で、記事とは一致しない。
実見する限り、この礎石は形状から、心礎であることはほぼ間違いないと思われる。しかしながら、伝承などが全く不明のため、京博展示心礎とするほかはない。
写真5に写っているメジャーは長さ1mです。
2006/09/02 安房那古寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
宝暦11年(1761)住僧憲長が伊勢屋甚右衛門(那古の商人)らと万人講を組織、勧進して建立と伝える。合計398両余の資金を集めたと記録される。宝暦6年、江戸回向院に於いて、本尊千手観音のs再興費用調達のための出開帳を行う。一辺3.94m。屋根銅板葺き。
心柱墨書銘では、願主は伊勢屋甚右衛門、大工は府中上野庄右衛門、那古加藤清兵衛などと記録されているようです。
初重両脇間腰長押上には獅子の彫刻(8面)を嵌める。
初重は二手先で、先端に象鼻を付け、上重は四手先、先端の尾垂木には龍鼻を付ける。蟇股には動植物の彫刻を施す。また支輪には 菱格子の彫刻を施し、台輪下には切目文様の板を嵌める。
以上のように江戸坂東風の装飾で飾られ、かなり華やかな塔です。
 那古寺多宝塔(明治初頭);現在ではこの場所からの多宝塔撮影は、近年植えられたと思われる桜が邪魔をして、無理です。多宝塔全体撮影は正面の一地点のみ可能。(現在本堂解体修理中)
心柱は初重の梁上から建てる。内部は四天柱の前2本は無く、後2本の柱に火燈窓をつけた来迎壁を設け、須弥檀を置き、壇上には木造宝塔を安置する。宝塔は方形板葺き、軸部は球形で四面を火燈形に刳り抜き、内部に大日如来を安置すると云う。
 那古寺多宝塔安置宝塔:南房総データベースより転載
 補陀洛山と号する。養老元年(717)行基開基と伝える。本尊十一面観音(那古観音)。現在は真言宗智山派。源頼朝がこのご本尊に帰依して七堂伽藍を建立
中世には里見一族との関係を深め、寺勢を伸張した。近世初頭には鶴谷八幡宮(平安期初頭、安房国総社として、国府の地に創建、鎌倉期に八幡宮となり現在の場所に移座と云われる)の別当を兼ねる。(僧形八幡大画像を有するという。)
元禄16年(1703)大震災により堂塔全壊、幕府は岡本兵衛を奉行とし、宝暦9年(1759)現在地に移して再建する。
安房石堂寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
  同     本堂1
  同     本堂2
  同     本堂3
  同    薬師堂1
  同    薬師堂2
  同    山王社
天文14年(1545)建立。元禄9年(1696)に朱塗り、安政4年(1775)欄間取り付け。1990年修理で左記を元に戻し、屋根もこけら葺きに戻す。一辺4.17m。基本的に和様を用いる。
内部には四天柱があり、須弥壇上に木造千手観音坐像(重文)を安置する。
修理前は両脇間の腰長押の上下に彫刻欄間(16面・寛政3年頃作)が嵌められていたようですが、現在は外されて(客殿安置とされる)板を嵌めている。また屋根銅板葺きが檜皮葺きに改められているようです。
和同元年(708)大和の僧恵命・東照が阿育王塔を護持して、この地に草庵を結ぶ。
神亀3年(726)行基が堂宇を整備する。近江阿育王山石塔寺、上野白雲山石塔寺(妙義大権現)とともに三石塔寺と称する。
仁寿元年(851)慈覚大師円仁が来錫、伽藍を造営、以来天台宗を奉じる。
文明18年(1486)全山を焼失、順次再興に務め、現在の姿になる。
本堂(重文):厨子銘の永正10年(1513)建立と云われる、3間×4間の寄棟造銅板葺き一間向拝付き、妻入り、ほぼ唐様を用いる。本堂厨子(重文):永正10年(1513)建立、唐様・天竺様折衷という。
薬師堂(重文):天正3年(1575)建立、全山焼失後の仮本堂と伝える。昭和46年に石堂寺の境内に移築。元は境外仏堂として、約800m北方にあったようです。3×3間、寄棟造茅葺き、ほぼ唐様を用いる。
※解体工事の折発見された墨書により天正3年(1575)に石堂寺の境外仏堂として、石堂原に建立されたことが判明したようです。
山王堂:室町末〜桃山期の建立と推定、現在は覆屋の中にある。
その他鐘楼・仁王門などを有する。旧尾形家住居(重文・享保13年<1728>))が移設されている。
小湊誕生寺宝塔1 詳しくは安房小湊誕生寺宝塔のページを参照ください、
小湊妙蓮寺 詳しくは安房小湊妙蓮寺篋塔のページを参照ください、
2006/09/01 成田山新勝寺 再訪
詳しくは「成田山新勝寺」のページを参照ください。
下総大慈恩寺 詳しくは「下総大慈恩寺利生塔」のページを参照ください。
上総観音教寺三重塔1
  同         2
  同         3
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  同        10
  同      仁王門
  同       本堂
芝山仁王尊。三重塔は天保7年(1836)完成。
寛政9年(1797)42世秀暁代に再建の発願、文化11年(1814)44世龍淵代に素建、天保7年48世湛定代に九輪完成という。一辺4.61m、初重4.6m、ニ重9,05m、三重18.28m、総高24.98m。初重ニ重の軒は平行垂木、三重は扇木垂木を用いる。屋根銅板葺き。扇木垂木を除きほぼ和様えを用いる。尾垂、枇杷板、支輪など全面に坂東近世風彫刻を多用する。
嘉吉2年(1442)千葉胤直、塔建立、弘治元年(1555)兵火により焼失。
「千葉氏とその時代」、千葉氏フォーラム実行委員会、平成13年:
宝塔棟札(銅鍛造)が現存する。「奉造立宝塔一基」、嘉吉2年(1442)在銘、大旦那千葉胤直。但し塔の形式(三重か五重か)は記録がないので不明とする。(竜腹寺にも千葉胤直寄進の五重塔棟札<銅製>が残存する。)
仁王門:明治初頭の建立で門というより堂の建築です。本堂は享保6年建立。
「寺伝と御利益集成」芝山仁王尊観音教寺、平成12年
 「上総芝山観世音仁王神縁起」ほか:享和元年(1801)三層塔の材を鳩(あつ)むに・・・
 「仁王神霊験録」中 起き松の不思議:文化2年の春山王の社を移して三層の塔を建る地を営みはかる・・・ (仁王尊三重塔の絵)
 「起き松の辞」嘉永7年、隋巣羽人 誌す・・「起き松の縁起外袋」 (仁王尊三重塔の絵)
上総国分寺塔土壇
  同     塔跡
  同     心礎1
  同     心礎2
  同     心礎3
  同   金堂土壇
  同    仁王門
  同    薬師堂

上総国分寺塔模型1
  同        2
  同        3
  同        4
伽藍配置:南門・中門・金堂がほぼ中軸線上に一直線に並ぶが、講堂は中軸線から南南西にぶれているようです。
塔は回廊内の東に一基・寺域は不確定ながら、最大東西500m・南北600mを測るようです。
塔跡には塔土壇および心礎を残す。心礎は出枘式で、現在出枘・心礎表面はかなり荒れている。
「幻の塔を求めて西東」:心礎は出枘式、170×170cm、径33×15cmの出枘を持つ。
金堂土壇が薬師堂南西すぐに残存する。
現在上総国分寺には仁王門及び薬師堂を残す。薬師堂:3×3間1間の向拝付設、
入母屋造り茅葺き称徳5年(1715)頃の建立(墨書銘)とされる。
2006/08/14追加:「柴田常恵写真資料」より
大正もしくは昭和初頭撮影か?
上総国分寺心礎  上総国分寺塔跡1  上総国分寺塔跡2  上総国分寺塔跡3
 上総国分寺塔跡4  
上総国分寺T   上総国分寺2   上総国分寺3
この写真によると、心礎は台円錐状に加工されていたようです。またかなりの塔礎石も残すようです。
上総国分寺塔模型:市原市役所ロビーに展示
上総大寺廃寺阿弥陀堂
  同      露盤1
  同      露盤2
  同      露盤3
  同      露盤4
「日本古代地方寺院の成立」;「上総国望陀郡大寺村沿革」には「大古、99の大堂ありしが、天正17年・・・該寺院に放火し悉く灰燼に帰す・・・」とあり、その後再興され「善徳寺」と称したが、明治維新の神仏分離で廃寺となる。現在は熊野神社が寺跡に現存する。石製露盤や礎石が存在し、塔の存在が推測される。
寺跡には阿弥陀堂(小宇)が再興(写真)されている。その裏に石製露盤が置かれ、さらにその後に熊野神社( 村の鎮守程度のもので、神仏分離の対象となるような代物には見えない)がある。
石製露盤はおよそ125×125cmで、径約4cmの心柱孔を穿つ。孔の周囲は5cm内外の幅で高さも同程度の縁を造りだす。露盤周辺の厚さは見える範囲で約20cmを測る。(おそらく20数cmと思われる。)
石製露盤の傍らに同一石質と思われる礎石と推定される石が1個残存する。
※露盤1写真左にあるのが礎石と思われます。
上総九九坊廃寺塔土壇1
  同      塔土壇2
上総九十九坊廃寺心礎1
  同        心礎2
  同       礎石1
  同       礎石2
現在、明瞭な塔土壇及び土壇上に心礎および4個の側柱礎(いずれも凝灰質砂岩)が残存する。
出土瓦から白鳳期の創建とされる。心礎には径約50cm、深さ27〜14cmの穴が穿たれている。
「日本の木造塔跡」:塔土壇は12×10×1.2m。心礎は153×93cmで、径52/47×22/9cmの孔がある。側柱礎は4個残り、内2個は原位置と思われ、塔一辺は5.4mと推定される。側柱礎は全部径7.9cmの枘孔がある。
「日本古代地方寺院の成立」;昭和8年の発掘調査で塔跡、講堂跡と推定される基壇が発見される。
法隆寺式伽藍配置と推定。
九十九坊廃寺塔基壇平面・断面図」(「日本古代地方寺院の成立」より転載)
2006/08/13追加:「柴田常恵写真資料」より
 大正もしくは昭和初頭撮影か:  九十九坊廃寺心礎
2006/08/25追加:
「楽石雑筆にみる君津地方の遺跡調査」
  光江 章(財団法人 君津郡市文化財センター)、酒巻 忠史(木更津市教育委員会)より。
九十九坊廃寺伽藍配置図:塔跡、推定講堂跡、中門跡などが確認されているようです。
九十九坊廃寺伽藍想定図:昭和9年 段階での認識図と覆われます。
九十九坊廃寺塔基壇; 塔土壇を東側から撮影。左側の人物が持つスタッフは2m (推定)。
九十九坊廃寺塔基壇2;現状 (近年のものと思われます。)
九十九坊廃寺塔基壇3: 塔土壇を南側から撮影。
九十九坊廃寺塔発掘調査: 「君津市九十九坊廃寺址確認調査報告書」千葉県教育委員会、1985年より
九十九坊廃寺心礎1:同上の報告書より
九十九坊廃寺心礎2:大場磐雄撮影
九十九坊廃寺心礎3:半分埋まった状態 であり、発掘途中の心礎写真。
九十九坊廃寺礎石1: 附近の民家にある「犬石」。「犬石」、「牛石」とか云われる礎石が多く存在した(する)ようです。
九十九坊廃寺礎石2:塔の基壇のすぐ近くに ある。礎石上にカメラのキャップ置く。かなりの数が残存していたようです。
  ※「楽石雑筆」:大場磐雄の著述。大場磐雄は昭和8年九十九坊廃寺を調査。
「楽石雑筆」巻10「九十九坊廃寺調査」
「・・・畑中に存する土壇に赴きて附近を見るに古瓦片散乱せり。土壇の西端に巨石の存在を認め・・・土壇の北方20間ほど隔てて一巨石あり。俗に犬石といひ、もと畑地に存せしを掘り起してここにおけり。
(花崗岩の自然石、100×90×42cm位)蓋し礎石の一なるべし。その傍らに小祠ありて地蔵堂となし・・近年犬石を掘りたる時地蔵尊出現し・・・附近の民家に牛石と称する石を存せりと・・・
それより北は股林にして近年の植林にかかる・・聞くところによれば植林の際、巨石を存し又古瓦類も出土す。蓋し一遺跡ありしなるべし。
塔土壇西端の巨石は一部を欠損・・孔は径20cmくらい・・・さらにその中央を発掘・・・約3,40cmにして巨石の存在を知り・・更に掘り広げしに?孔の存在を認め・・・心礎というべし。(195×67cmの大きさで、穴は舟底形にくりて径52深さ20cm位)土壇は高さ約1.2mほど、ほぼ方形にして一辺約10m一辺約12m・・・。」
○大場磐雄略歴:
 大正11年 國學院大學文学部国史学科卒業
 大正14年 内務省神社局考証課嘱託
 昭和04年 國學院大學付属神道部講師
 昭和13年〜戦前 神宮徴古館嘱託、神祇院考証課嘱託
 昭和24年 國學院大學教授、昭和50年 逝去
2006/08/31 相模最乗寺多宝塔1
  同        2
  同        3
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  同       14
  同       15
大雄山と号する。道了尊。曹洞宗。
多宝塔は文久3年(1863)建立、江戸音羽住・高橋清五郎の奉献、本尊多宝如来、一辺約5m、高さ19.6mで大型塔に属する。 一辺2間4尺(4.8m)7坪半。
※「日本の塔総観」では文化2年(1805)の建立とする。
開山:了庵慧明。了庵慧明は相模国大住郡糟谷の庄の出身、当地の地頭であった。おそらく無常感から、建長寺にて出家、さらに能登総持寺の峨山禅師に師事する。丹波永沢寺通幻禅師の法弟となる。その後 、通幻禅師の後席 として、永沢寺、近江總寧寺、越前龍泉寺、能登妙高庵寺の住持、さらに大本山總持寺に住す。
その後、出身地に帰り、応永元年(1394)山中に大雄山最乗寺を建立する。
道了とは、修験者であり、大和金峰山、大峰山、熊野三山にて修行、三井寺園城寺勧学の座にあった時、大雄山開創の折に、了庵の基に参じ、土木の業に力量を発揮、大伽藍の建設に尽力す。 いずれにしろ、道了とは、全く時代は違いますが、役小角のような不思議な法力を持つ半ば伝説上の人物と思われます。
寺院は、関東大震災で堂宇の大部を失うも、現在では、基本的には禅宗様を用いる数多くの大堂・諸堂宇が再興され、山中に大伽藍を有する。その盛んな様は、関東新義真言の流行仏とはまた違った雰囲気の流行仏の様相を呈する。
相模浄発願寺三重塔1
  同         2
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平成12年竣工、今も(たまたま)基壇廻りの工事中です。
総高26.63m、屋根高19.43m、相輪7.2m。
木曽桧を主材とした伝統様の本格的な木造塔です。
三重塔は塚越慈徳住職が全国への托鉢と寄付を募り、完成させたという。
慶長13年、弾誓上人(尾張の出身)により開山。江戸期には蛍珠院(尾張徳川網誠室・後奈良天皇皇孫・中興の開墓)の墓石、佐竹氏、藤堂氏などの大名の墓石もあるという。往時は東叡山寛永寺学頭淩雲院の末寺として、木食修行の中心であったと云う。
昭和13年の台風による山津波で、伽藍は全て破壊されたようです。跡地は「奥の院」として、復元整備されているようです。石仏・石塔・石段などが修復されているようです。
現在地(元地より約10町下)へは昭和42年に移転再興されたという。
 浄発願寺閻魔堂跡(元地)
 浄発願寺山門跡(元地)
2006/08/23
「X」氏ご提供画像
出雲来美廃寺 詳しくは出雲来美廃寺のページを参照ください。
2006/08/15 紀伊長保寺 再訪
詳しくは「紀伊長保寺多宝塔」のページを参照ください。
2006/07/29
 
安芸厳島五重塔 再訪。
詳しくは「安芸厳島五重塔・多宝塔」のページを参照ください。
安芸厳島多宝塔

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