紀  伊  長  保  寺  多  宝  塔

紀伊長保寺多宝塔・紀伊長保寺

長保寺サイト
   長保寺に関する歴史、建築、文化財、紀州徳川家歴史、墓所など多くの論考・資料などが掲載されている。
   一般常識的な内容を凌駕する内容で、一見する価値あり。
   当ページの作成では、多くを参照もしくは転載をさせて頂きました。

長保寺多宝塔:国宝

紀伊長保寺多宝塔1:左図拡大図
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7;手前屋根は御霊屋・客殿
  同        8:手前向拝は本堂
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
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  同       15
  同       16
  同       17
  同       18
  同       19
  同       20
  同       21
  同       22;相輪
 

 

 

 

2001/1/5撮影:
長保寺本堂・多宝塔
長保寺多宝塔1
長保寺多宝塔2

 

多宝塔:延慶4年(1311)頃の建立とされる。康永3年(1344)の「長保寺御影堂勧進状写」には宝塔ありとの記載があると云う。
基本的に純和様の様式を保つ。但し須彌壇は唐様を採るようです。
屋根:本瓦葺、初重組物は出組(一手先)で、中央間には牡丹、菊、柘榴、竹の花に蝶を彫刻した蟇股を用いる。
上重は四手先、初重に比べ、軸部の逓減が大きく、軒の出も深く、優美な容姿を採る。
一辺:4.63m、高さ13.36m。本尊大日如来を安置。
長保寺多宝塔CAD
長保寺サイト
  長保寺国宝建造物CADデータ(WINDOWS用) :作成 (財)建築研究協会一級建築士事務所 より
    ○長保寺多宝塔CADデータ

・2007/03/07「日本建築史基礎資料集成 十二 塔婆U」:
正平12年(1357)に現在の多宝塔が建立された。
 ※心柱銘による。この銘文は近年(1998年かその少し前)確認(赤外線カメラ)された。
  「・・・・・・・(東面)・・・勧進盛人■■■正(平)12年丁酉10月3日・・・・・」
多宝塔については、永仁6年(1298)高野山文書「浜中南庄惣田数注進状写」に「同堂塔免」ともあり、
また、康永3年(1344)の「長保寺御影堂勧進状写」には宝塔ありとの記載があると云う(上述)ので、
正平12年以前にも多宝塔の存在が推定でき、長保寺には正平12年以前にも多宝塔が存在していたとも考えられる。
その後の沿革は不明。
昭和2年解体修理。
初重総間15尺2寸9分、中央間6尺1寸1分、両脇間4尺5寸9分、組物は出組、上重軸部径6尺4寸9分、組物は四手先
 長保寺多宝塔立面図

長保寺略歴

多宝塔のほかに本堂(鎌倉)・大門(南北朝)が国宝。鎮守堂(鎌倉)が重文指定。
長保2年(1000)一条天皇の勅願、性空上人によって創建と伝える。地方寺院に年号を冠した稀有の例とされる。
寛仁元年(1017)に伽藍が完成。
長保寺の史料初出:永仁6年(1298)高野山文書「浜中南庄惣田数注進状写」に「長保寺念仏免」とある。
仁治3年(1242)、西から東(現在地)へと移転(移転理由不明)、延慶4年(1311)本堂がさらに上壇へ移転。
天正13年(1585)兵火により、伽藍の一部が焼亡する。
寛文6年(1666)紀州初代徳川頼宣により、紀州徳川家の菩提寺と定められ、伽藍の整備が行なわれた。
以降明治維新まで、歴代藩主(8代将軍吉宗、14代将軍家茂を除く)などの廟所が営々と造営される。
この時、高野山善集院末より、日光山輪王寺宮末に転宗し、現在に至る。
近世の長保寺領:
寛文11年、海士郡上村、中村及びと有田郡山田村の3ヵ村で500石が寺領として、寛文12年、上村、中村で500石安堵される。別途浅野家より寄進の5石をあわせ、幕末まで505石の寺領であった。
 この505石の配分は次の通り。本坊陽照院200石、寺中五ヵ坊はそれぞれ20石、霊牌所墓地の年中諸用・役僧給料飯料など100石、紀伊東照宮雲蓋院の霊牌料80石、御斉会料12石、鐘つき役料8石、釈迦堂仏供燈明料5石。

紀伊國名所図會などに見る長保寺

(1)「紀伊国名所圖會」(後偏 二之巻 海部郡)に見る長保寺

   長保寺伽藍図: 下図拡大図

慶徳山長保寺:上村にあり
 本堂(方七間本尊釈迦如来額字世雄殿と書させたまへり)
     右多宝塔東護摩堂左横食堂左阿弥陀堂左鐘楼堂
 大門(金剛力士あり古色尋常ならず)
 本坊陽照
   子院(専光院 最勝院 本行院 地蔵院 福蔵院 普賢院
   吉祥寺 西福院 西南院 明王院 池之坊 明応院)
 以上十二坊普賢院以下の七院今廃寺となれり
 寺伝に云
 一條院の勅願所にして長保年中の草創なり故に寺号とす

長保寺多宝塔:上記多宝塔部分図

 開基は慈覚大師の門徒なり 其後応永年中に至りて真言宗に改め七堂伽藍子院十二箇寺ありしに衰乱の世子院半は廃絶し倫旨院宣の類も次第に粉失して一も遺るものなしといふ
 寛文六年更に天台宗に復さしめ給ひ修理を加へさせ給ひて萬世兆域の地となし給へり
 大門の額に慶徳山長保寺と書し裏に應永廿四年六月一日妙法院宮御筆とありとぞ然れば今の堂舎は應永再建の儘なるべし  
 棟字矮狭にして彫の飾少しといへども規制朴質にして古色餘あり実に靈場いふべし付物皆國君より御寄附の名品にして挙て数へかたし

(2)「紀伊続風土記」(巻之二十五 海部郡 浜中荘 上村)
   「国宝長保寺本堂修理工事報告書」和歌山県文化財保存会、長保寺、昭和47年、「第3節 長保寺の史料」 より転載
●長保寺慶徳山 境内周三十町許 禁殺生
   天台宗輪王寺宮末
 本堂 方七間本尊釈迦如来、 多宝塔 方二間半、 護摩堂 方二間半、 食堂 方四間、  阿弥陀堂 方三間、 鐘楼堂
 大門 金剛力士あり、  公家兆域 境内にあり
 本坊 陽照院、  子院 五箇寺   専光院 最勝院 本行院 福蔵院 地蔵院
 傳へ云當寺は 一条院の勅願所長保年中の草創にして慈覚大師の門徒の開基なり
應永年中に至りて眞言に改宗し七堂伽藍子院十二箇寺あり 其後衰乱の世七箇寺廃絶し(普賢院 明應院 吉祥院 西福院 西南院 明王院 池之坊なり)五箇寺は存すといへとも衰微に至り綸旨院宣の類も次第に紛失して一も遺れるものなしといふ
 寛文六年南龍公此地を経歴し給ひて数百年の久しきを歴て兵燹狼籍の患を免れ七堂古のまゝに傳はりしを感し給ひ且其地山巒環抱して外幽にして内敝に萬世兆域の地となすへきを察し給ひ則佛殿一宇を建立し眞言を改て天台宗に復せしめ給ふ
 寛文十一年 公薨し玉へる時御遺令ありて此地に葬り奉り佛殿を以て御位牌殿とし新に陽照院を造営して院室とし寺領五百石を寄進し給ふ
 夫より以来此地を以て公家の廟所と定め給ひ七堂は舊に仍て修繕を加へられ淨域の體悉備はれり
 大門の額慶徳山長保寺と書し裏に應永四年六月一日妙法院宮御筆とあり 然らば長保年間の堂舎破壊せしを以て應永年間諸堂共に再建せしなり 今の堂は即應永再建の堂舎にして今時の制に較れば棟字矮く彫刻の飾なく制度樸質にして古色餘あり実に靈場といふへし
 什物は法華経の寄合書其餘佛像佛其等寄附し給ふ物あけて数へかたし これより前慶長六年浅野家より釈迦堂へ五石の寄附あり今猶これに襲用ひらる 近年一位老公親筆の世雄といふ三字の額を賜ふ

(3)「長保寺記録抜書」 (陽照院蔵)
   「国宝長保寺本堂修理工事報告書」和歌山県文化財保存会、長保寺、昭和47年、「第3節 長保寺の史料」 より転載
                                       
( 前略)・・・
一、南龍院殿御在世、寺僧ヱ御尋之砌書上条々。
海士郡濱仲庄上村慶徳山長保寺者、一條院御建立也。
本尊者釋迦如来、七堂伽藍融勝仙人本家二品法親王沙弥性空法印大和尚位御住山被遊候。
但古之綸旨院宣薄墨之御判縁起其外寶物等、乱世乱失仕候。
一、長保寺宗門根本天台宗、其後法相宗、其後天台宗、其後應永之時ヨリ真言宗、去年ヨリ天台宗ニ帰入仕候。
一、南龍院様御在世之時、天台宗ト成、御新宅江御礼ニ参候由。
一、高野山善集院末寺之由、出入モ御在世ニ相済、善集院ヨリ摂承之由書状、文庫ニ納置者也。
一、本堂釋迦(定朝作)
一、普賢文殊(慈覚大師御作)
一、塔本尊大日(伝教大師御作)
一、西浄院阿弥陀(定朝作)
一、食堂文殊(運慶作)
一、護摩堂不動(智證大師御作)
一、八大童子(運慶作)
一、釈迦堂二天(傳教大師御作)
一、大門二王(運慶作)
     ●長保寺十二坊
一、普賢院(陽照院寺地内)
一、寶光院(同是ハ十二坊之外也)
一、專光院(    同       )
一、相應院(本行院寺内)
一、吉祥院(本行院寺地内)
一、小坊 (同近年宝増院ト改、其後本行院ト申候)
一、最勝院(最勝院寺地)
一、西福院(  同   )
一、西光院(同是ハ十二坊之外也)
一、西南院(今專光院寺地)
一、地蔵院(地蔵院寺地)
一、池之坊(  同   )
一、明王院(福蔵院寺地)
一、大坊 (近年福蔵院ト改申候)
一、僧都号、其次三人阿闍梨号、被成 御赦免候。則薄墨ノ御判綸旨院宣致頂戴墨箱ニ有之。
然間、縦無出世共、其老ニ罷成ラハ、番帳張文ニ可書也。大帳有之。

( 中略)

  於日光山書出シ候扣
    覺
一、紀伊國海士郡慶徳山陽照院
一、寺中 五ヶ坊  一、末寺 四ヶ寺
一、寺領五百五石  一、境内六町四方
一、寺領長保寺領之内高貳拾石相附   一、寺地長保寺境内
      長保寺寺中惣代
           地蔵院 印
 年号年日

( 中略)

   頼宜卿在世の御時 仰之趣并光貞卿御在世同断
中略
往古者十二坊御座候得共、漸五ヶ坊相残リ申也。
十二坊院号
一、普賢院 恵光院 相応院 吉祥院 小坊(本行院と改申候) 最勝院 西福院 西南院
  地蔵院 池之坊 明王院 大坊(福蔵院と改申候) 
  宝光院 西光院(右両院者十二坊之外ニ御座候)
( 後略)・・・・
    ※南龍院:紀州徳川初代頼宣

(4)元禄八乙亥年三月「長保寺堂社御改書留」                     陽照院
   「国宝長保寺本堂修理工事報告書」和歌山県文化財保存会、長保寺、昭和47年、「第3節 長保寺の史料」 より転載
一山号慶徳山寺号長保寺一条院勅願所長保年中之草創慈覚大師門弟開基之由并日光御門跡御書出ニも御載候へ共大師門弟之諱不相知應永之頃○寛文五巳年○眞言宗、同午年寺中天台改宗
一釈迦堂 一宇 多宝塔 一宇 阿弥陀堂 一宇  護摩堂 一宇 鐘楼堂 一宇 食  堂 一宇   右先御代○御修理所
一釈迦堂料五石 浅野幸長寄附状在之当御代御墨印之内ニも右段御書載被遊候
一南龍院様御仏殿并御寺寛文六丙午年御起立
一御供所御拝殿御唐門御宝蔵四足御門等当御代御起立
      代々日光御門跡陰宝當官大僧都法印 陽照院豪珍
一高弐百石 寺中五ヶ坊
一高弐拾石 先住快秀弟子当官権大僧都法印   地蔵院道海
一高弐拾石 一陰僧正憲海弟子当官権大僧都法印 木行院良圓
一高弐拾石 先住俊海弟子当官権大僧都法印 地蔵院蓮応
一高弐拾石 陽照院空盛弟子当官権大僧都法印  専光院天空
一高弐拾石 先住宗存弟子当官権大僧都法印   最勝院盛舜
 当御代長保寺御墨印高五百石之内也
 右五ヶ坊及破損候付元禄七戍年御修理被仰付候自今も御修理所也
一御寄附状并四至 示之御書出有之
一山林并寺内御免許御書出し有之
        以上
   元禄八乙亥三月
 右之書付六月廿六日寺社奉行丹羽弥四郎、芝田才右エ門両人へ相渡ス者也

(5)「當山諸堂絵図面」(明治16年2月御取調)
   「国宝長保寺本堂修理工事報告書」和歌山県文化財保存会、長保寺、昭和47年、「第3節 長保寺の史料」 より転載
  和歌山縣下紀伊國海部上村字寺口百四拾七番地   長保寺
一 本堂  正面七間妻七間壱尺貳寸 坪数五拾坪四歩 朱塗瓦葺
一 條院天皇勅願長保二庚子年草創其後仁治三壬寅年十一月自西移干東改造之大工長命律賢等云云
  現存ノ本堂及諸堂ハ距今五百七十三年延慶四辛亥年僧承禅印玄并衆徒等爲願主再建
  其後寛文七丁未年十一月徳川頼宣修営之以来御一新○徳川家ヨリ修覆仕来候
一 阿弥陀堂  但三間四面此坪数九坪白木造リ屋根瓦葺
  正面三間貳尺四寸妻○断 坪数拾壱坪五歩六厘 白木造屋根瓦葺 創立改造及再建并修繕共本堂ト 時
一 護摩堂 但二間四尺四面此坪数六坪九合七勺白木造屋根瓦葺
  貳間四尺五寸四面坪数七坪五歩六厘二五 白木造屋根瓦葺  
  草立改造并再建修繕等○上但近年及大破損候付去ル明治十年十月当住尭海等私財ヲ以修営之仕候
一 二重塔 但二門二尺七寸四面此坪数五坪四合朱塗屋根瓦葺 貳間四尺五寸坪数七坪五歩六厘二五
  創立改造及再建修繕共本堂ト○時
一 鐘楼 但一間二尺七寸四面此坪数二坪五勺朱塗屋根瓦葺 貳間三尺四面 坪数貳坪貳歩五厘 朱塗屋根瓦葺
  創立改造及再建修繕共本堂ト○時
一 仁王門 但桁行四間梁行二間此坪数八坪朱塗屋根瓦葺 正面四間壱尺貳寸妻貳間三尺 坪数拾坪五歩 朱塗屋根瓦葺
  創建○上現存ノ建物ハ距今四百九十六年嘉慶二戍辰年当寺住僧実然爲願主依
  後小松天皇勅宣再興之其後元和七辛酉年十月當山最勝院惠尊以勧進檀那助成寺僧等擲自己財宝修理之
  其後天和三癸亥年徳川光貞修營之以来御一新○徳川家ヨリ修繕仕来候
一 民有地第一種一千八百八拾坪 長保寺持
一 縣廳エ五里二拾丁
  ○境内六百八十八坪 民有地第一種長保寺持
一 寺仁ニ云當山諸堂ハ
一條院天皇ノ勅願ニシテ長保年中ノ草創慈覚大師門人等ノ開基ナリ宗旨ハ最初天台宗其後法相宗又天台ニ改メ應永年間ヨリ眞言宗トナリ寛文六年更ニ天台ニ復宗セシ旨去ル享保度ニ取調へタル長保寺記録書抜ニ記載有之候
一 當山寺数ハ往古十二ヶ寺アリシ処衰乱之世過半廢絶シテ現今本寺并支院合セテ六ヶ寺ヲ存ス
一 當山ノ諸堂建立ハ長保二年ヨリ寛仁元年ニ至リ十八カ年ニテ造畢云云又長保寺棟上再建歟
  延慶四年辛亥五月五日大願主僧承禅律師印玄并衆徒等僧浄明氏人等大工藤原有次ト去ル享保度ノ記録ニ記載有之候
一 大門ノ仁王ハ運慶ノ作ト云扁額ハ妙法院一品尭仁親王ノ真筆表面ハ慶徳山長保寺裏ニ應永廿四季六月一日トアリ
  右二月十三日呈出置候処五月十八日縣廳ヨリ田中正堅氏出張猶取調朱書之通訂正○月廿五日戸長役場被呈出候事
  當寺四百年己前ノ建坪取調書
   呈出候処聊誤謬ノ廉有之仍テ別紙訂正書正副二通呈出候間最前之分御取消被下候度此段及上申所也
  明治十六年五月廿五日
             海部郡上村     長保寺住職 瑞樹尭海
  和歌山縣令神山郡廉殿
             花  戸長連署

長 保 寺 伽 藍

本堂(釈迦堂)
「長保寺記録抜書」に収録されている「王代一覧抜書」などの諸記録により、延慶4年(1311)の建立とされる。
桁行5間、梁間5間(3間四面堂)、一重、入母屋造、向背1間、本瓦葺
基本的に和様建築であるが、内陣柱上には粽を、組物には笹繰、拳鼻など部分的に唐様の手法を混用する。

  □紀伊長保寺本堂1    同      2    同      3    同      4    同      5

 ○長保寺本堂CAD
長保寺サイト長保寺国宝建造物CADデータ(WINDOWS用) :作成 (財)建築研究協会一級建築士事務所 より
    ○長保寺本堂CADデータ

大  門
「紀州海郡浜中庄長保寺縁起」などにより、嘉慶2年(1388)の建立(再興)とされる。
扁額(表:「慶徳山長保寺」、裏:「妙法院宮御筆応永二十四年六月一日」の刻銘があると云う。)
3間11戸楼門、入母屋造、本瓦葺、1、3階とも3手先、2階には尾垂木と支輪を入れ、軒を深く出す。

  □紀伊長保寺大門1    同      2    同      3    同      4

  2001/1/5撮影:   長保 保寺大門

 ○長保寺大門CAD
長保寺サイト長保寺国宝建造物CADデータ(WINDOWS用) :作成 (財)建築研究協会一級建築士事務所 より
    ○長保寺大門CADデータ

鎮守堂
永仁3年(1295)の建築
一間社流造、桧皮葺、間口1.34m、奥行2.4m、三方に反高欄のついた縁が廻り、斗 (組物)は、和様、側面妻飾は、虹梁、大瓶束構え、正面には優れた蟇股を飾る。

  □紀伊長保寺鎮守堂

長保寺における近世の伽藍動向

長保寺サイト:以下は「長保寺の伽藍に関する二、三の考察」和歌山県立博物館、学芸委員。竹中康彦 論文
  (和歌山県立博物館研究紀要 第3号 1998 所収)を要約

長保寺十二箇坊

寛文年中、長保寺寺中は五ヶ院(地蔵院・福蔵院・最勝院・本行院・専光院)に整理されたとされる。
(寛文年中に長保寺は紀州徳川家菩提寺となる。)寛文12年(1672)には各々20石が安堵される。
寛文以前には、12ヶ坊があったとされる。
その12ヶ坊とは上述の「長保寺記録抜書」にある●長保寺十二坊 のとおりである。

「長保寺記録抜書」より以下再録
     ●長保寺十二坊
一、普賢院(陽照院寺地内)
一、寶光院(同是ハ十二坊之外也)
一、專光院(    同       )
一、相應院(本行院寺内)
一、吉祥院(本行院寺地内)
一、小坊 (同近年宝増院ト改、其後本行院ト申候)
一、最勝院(最勝院寺地)
一、西福院(  同   )
一、西光院(同是ハ十二坊之外也)
一、西南院(今專光院寺地)
一、地蔵院(地蔵院寺地)
一、池之坊(  同   )
一、明王院(福蔵院寺地)
一、大坊 (近年福蔵院ト改申候)
  ※宝光院・西光院については、12坊の外のようです。

近世・近代の長保寺境内絵図は以下が知られる。

1)「長保寺絵図面(廟所絵図)」(18世紀前半)
       ・・・・右に掲載図
2)「紀伊国名所図会後編」巻二
       ・・・・「紀伊国名所圖會」の項に掲載
3)「当山諸堂絵図面」明治16年
       ・・・・未見
※なお上記以外にも「長保寺境内絵図」(寛政年中)、
「長保寺小屋等之図」(嘉永6年(1853))なども存在する。

「長保寺絵図面(廟所絵図)」:下記拡大図:部分図

「長保寺絵図面(廟所絵図)」:全図

上図は長保寺サイト長保寺絵図面(廟所絵図)より転載
紙本著色、縦191.7 横214.2cm
深覚院(第4代藩主頼職)廟所までが描画されている。従って、本図が作成されたのは吉宗もしくは宗直の時代のことであると推測される。

○寛文年中の5ヶ坊の位置
福蔵院(現存)西に専光院、専光院西に道を挟んで最勝院がある。現在の下津町立歴史民俗資料館の位置には、本行院があった。地蔵院については、2)では鐘楼南の崖の下に描かれ、3)では境内の南東隅の宮(布施)川沿いに描かれている。1)では
両方の場所に建物が描かれており判断しにくいが、他の子院の描き方(建物の前面と裏面が土塀で区画される)を参考にすれば、2)が示す位置(鐘楼南の崖の下)に描かれている建物を地蔵院とするのが妥当であろう。
 ※ただし、3)が示す位置にも建物が描かれていることは、過去に地蔵院がもとはその場所に存したか、あるいはその場所に分散して二つの子院が併存していた事実を反映したものかも知れない。

近世以前の長保寺十二坊(十四院)の位置を想定を試みる。
上記●長保寺十二坊この記事を整理すると、次の6グループに纏めることが出来る。
 A:普賢院・宝光院・専光院     B:相応院・吉祥院・小坊(本行院)     C:最勝院・西福院・西光院
 D:西南院               E:地蔵院・池之坊               F:明王院・大坊(福蔵院)
1)「長保寺絵図面(廟所絵図)」をよく観察 すれば、子院は土塀や生垣で囲まれた敷地の中に描かれているが、その周囲にも生垣で区画され、灌木の生えた空閑地が見受けられる。おそらく、これが近世以前の子院の跡地であると思わ れ る。
つまり、A:は現在の庫裏・霊屋のある区画、B:は大門から本堂に向かう参道の東に接した区画、F:は参道のすぐ西に接した区画、C:は境内の南西隅の区画、D:はCとFの間の区画、そしてE:は本堂伽藍の南西の崖下あるいは境内南東隅の宮川沿いの区画に立地したであろうと推定(仮説)される。

寛文年間以前の寺中の記録:
慶長7年(1602)長保寺鎮守堂御正体の背銘に「泉光院」「明王院」「大坊」などがある。
元和7年(1621)恵尊逆修五輪石塔・恵尊供養地蔵石像に「最勝院」とある。
「長保寺大門并食堂鎮守八幡宮棟札〔写〕」に引用された「大門再営由来写」には、元和7年の現住のとして「池之坊快秀」「最勝院恵尊」「宝増院快円」「専光院快智」などの名が ある。
中世の高野山・金剛心院文書中に吉祥院の名がある。
なお、寛文6年に長保寺が天台宗に改宗するにあたり、紀伊東照宮雲蓋院憲海が善集院(高野山西院谷)と交渉している。つまり、この時点では金剛心院に代わって、善集院 (金剛心院の南西隣)との間に本末関係が存していたのであろう。


近世・近代における伽藍配置の変遷

江戸初頭、長保寺伽藍は紀州徳川家によって大幅な修繕と新築が行なわれる。
棟札によれば
寛文7年(1667)に御仏殿(紀州藩霊殿)が新築され、阿弥陀堂の修理がなされる
寛永6年(1629)・天和3年(1683)・宝永3年(1706)・享保2年(1717)の数度に渡り、八幡社(鎮守堂)の修理が行なわる
享保2年、護摩堂修理がなされる。
「長保寺大門并食堂鎮守堂棟札〔写〕」「諸堂棟札写」「(釈迦堂棟札写)」などの古文書によれば
寛文7年と享保2年、釈迦堂の修理がなされる
天和3年、大門と食堂の修理がなされる。

近世初頭の伽藍と現状との相違点は
イ:多宝塔の東に護摩堂がある ロ:本堂の西隣に渡り廊下で連絡した食堂がある ニ:本堂の南西に袴腰形式の鐘楼がある
に要約される。
・「多宝塔及仁王門営繕食堂再建願諸記」(明治17年、冊子)には「食堂再建願」という文書が収録。
「食堂再建願」では、 食堂は「慶応二年八月暴風ノ為ニ倒破セラレ取除御座候」とある。
・前掲の「当山諸堂絵図面」には、護摩堂について「但近年及大破損候付去ル明治十年十月当住尭海等私財ヲ以修営之仕候」とあり、末尾に付属する前掲の絵図によれば、護摩堂が現在地に移動していることが分かる。
 以上、幕末期に破損・倒壊した護摩堂・食堂については、まず明治10年に護摩堂が本堂西の食堂跡地に移転・再建され、遅れて食堂は明治17年中に鐘楼の東隣に移転・再建された と思われる。
 明治21年、暴風雨により、阿弥陀堂と鐘楼が倒壊、明治22年元場所に再建される。ただし、鐘楼は袴腰形式ではなく、鐘衝き堂の形式で再建される。
昭和36年第二室戸台風により、食堂・本行院が倒壊するも、今も再興されず
 ※護摩堂阿弥陀堂鐘楼:手前より護摩堂、阿弥陀堂、鐘楼 :食堂は退転し、護摩堂は食堂跡に再興されている。

長保寺所蔵古写真
  長保寺サイト長保寺所蔵古写真  より転載

長保寺多宝塔:明治末年頃 の写真と云う:多宝塔は昭和2年解体修理
長保寺多宝塔:昭和2年の修理以前 :初重にも垂下防止の支えがされていて、上記写真より一層腐朽が進んだようです。
長保寺多宝塔:大正14年 の徳川頼倫改葬儀の写真:多宝塔初重の垂下防止の支えが写っています。
長保寺本堂:昭和初期 の写真と云う:本堂は大正9年及び昭和47年に修理:おそらく大正9年の修理後と思われる。
長保寺大門:大正頃 の写真と云う:大門は明治43年に解体修理(記録不備で詳細不詳)されている、
      大正頃の写真と云うも、傷み具合から、おそらく明治43年修理以前と思われる。(下記の大正14年写真を参照)
長保寺大門:大正14年の徳川頼倫改葬儀の写真:
長保寺鎮守堂:昭和3年の修理以前 の写真:鎮守堂は明治6年、屋根を瓦葺に改める、昭和3年、修理桧皮葺に復する。
長保寺全景1:明治末年頃 の写真と云う:多宝塔下段の寄棟の建物(中央やや下右)が本行院と思われる。
長保寺全景2:明治末年頃の写真と云う
長保寺全景3:明治末年頃の写真と云う
長保寺寺中: 明治末年頃の写真と云う:中央左手眼から客殿・御霊屋、中央下が福蔵院、
       写真下段最右端が本行院(昭和36年倒壊)と思われます。
長保寺本行院:明治末年頃の写真と云う

2007/05/09追加:
「和歌山県絵はがき集 写真帖」より
 紀伊濱中長保寺多寳塔・絵はがき:昭和初年撮影と云う
 勅願所紀伊濱中長保寺全景・絵はがき:昭和初年撮影と云う


2006年以前作成:2007/05/09更新:ホームページ日本の塔婆