美濃円興寺多宝塔跡
★円興寺多宝塔跡 明らかに礎石として認識できるのは次の図のA〜fの7個程度と思われる。
※円興寺多宝塔跡礎石概略図
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「X」氏ご提供画像
円興寺多宝塔跡1:手前礎石はFf
同
多宝塔跡2:礎石はFf2006/10/08撮影:礎石A〜Fの礎石
礎石はおそらく火災等でかなり破損し、状態は悪い。右図の礎石が辛うじて原位置を留めると思われる。
円興寺多宝塔礎石A
同 B
同 C
同 D
同 E
同 F
円興寺多宝塔跡1:東から撮影
同 2:西から撮影
同 3:礎石BCD(手前より)
同 4:礎石ABCD( 同 )
同 5:礎石AE(物差は1m)
同 6:礎石Ff (手前より)
現存する礎石は脇柱礎と思われる。
芯芯間で。中央間は約4.8尺、両脇間は約4尺、一辺は12.5尺(3.8m)内外でzろう。
但し、礎石F・f は多少動いている可能性はあるとも思われる。 |
★円興寺概要・その他の伽藍跡
現況:伽藍跡は整備され、容易にその跡を訪ねることが可能である。
※ちなみに
河内神感寺跡の伽藍跡は全くのブッシュと化し、特に多宝塔跡などブッシュの中を彷徨するばかりで、
通称の装備では踏み込むことも困難である。
近江大吉寺跡は円興寺よりかなり高山(700m超)で、手入れが困難と思われ、原野山林に帰りつつある。
讃岐中寺跡:もかなりの山中(四国山地)である。近年発掘調査が行われ、まだ跡地は整備され保存される。
常陸権現山廃寺(未見)あるいは紀伊日光社跡もかなりの困難さが伴うと推測される。
平地伽藍ではないが、見学する難易度という観点からは、尾張大山廃寺(史蹟)、大和龍門寺などに似ていると思われる。 篠尾山と号し、延暦9年(790)伝教大師の創建とする。本尊は木造聖観音立像(平安初期・重文) 。
その後大いに栄え、円興寺山中に多くの堂宇を構え、また坊舎36院末寺125寺を有したという。
また源頼朝寄進の寺領5000石(俵)を領有したともいう。
天正2年(1574)織田信長によって堂塔悉く焼かれたと伝える。(この時多宝塔は焼亡と伝える。)
慶長元年(1596)田之堂(山中)に本堂・5坊を再建、承応元年(1652)雷火で再び焼失、万治元年(1658)現在地に移転再建。
山頂近くに仁王門、金堂、多宝塔、講堂、坊舎、鐘楼、御堂跡が残存、礎石なども残存する。
※円興寺跡伽藍配置推定図
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