目  次

はじめに
前史
明治維新と鉄道開業
大日本機関車乗務員会
全日本鉄道従業員組合
敗戦、労働組合の結成
戦後国鉄最初の労働組合結成は
全国に広がる労組結成の波
革新政党再建
9・15スト
2・1ゼネスト
革同結成
労働者農民党
定員法
レドパージ
日本国有鉄道、静岡地本成立
日本共産党の50年問題
平和四原則と国労新潟大会
闘う国労への突破口
革同会議へ
60年安保闘争へ
1964、昭和39年
EC闘争
EL、DL闘争
沼津独身寮の闘い
国鉄民青の組織化
平和運動、原水禁運動
国労の文化運動
分会を支えた多彩なサークル
幅広い統一戦線の先駆者
マル生反対、スト権奪還闘争
組合幹部、活動家のあるべき姿
職場集会とオルグ
静岡地本内での革同
特徴的な闘い
青年部中央委員、地方委員選挙
分割民営化攻撃の中
分割民営化による国労拠点潰し
県内労働運動の再編
勤務プロジェクトと労基署闘争
採用差別、出向、配属差別との闘い
採用差別和解
まとめ

鉄路のおもい>おまけ>沼津革同



2-1-5 戦後国鉄最初の労組結成はどこか

 沼津機関区従業員組合の発足は国鉄最初の労働組合発足と新聞にも大きく報道されたが、「国労20年史」などの正史によれば、国鉄最初の労働組合は11.19の釧路工機部であり、沼津機関区は11.28旭川工機部についで12.5大宮工機部と同日の国鉄で3番目の発足ということになる。
 新聞が国鉄最初と大きく報道したのは、国鉄の工機部は鉄道局直轄の大工場であり、一般的には国鉄現業、現場での労働組合の最初が沼津機関区従業員組合との見方をしたものと思われる。
 沼津機関区従業員組合の結成については、国労本部が作成した国労の正史である「国労20年史」には一切記載されていない。それは後述する「熱海事件」にからむ、それぞれの立場が反映されているものかと思われるが、東京地本作製の年表には、沼津機関区従業員組合結成の記載がないうえに12.11沼津車掌区組合結成との記載があり、この沼津車掌区組合の結成の資料の出どころも不明である。
 国労文化のNo453で国労結成50年記念号が出されている。この中で「創生期の国鉄労働組合、国労50年、あの時代(とき)あの闘い」と称した座談会が企画され、司会村上寛治(元朝日新聞記者)、有賀宗吉(元交通新聞)、鈴木市蔵(元本部副委員長)、岩井章(元本部企画部長)、子上昌幸(元本部調査部長)がそれぞの経験を語っている。
 そこに子上昌幸の略歴が載っているが、このなかに1945年10月復員後熱海駅復職、11月国鉄熱海駅労働組合結成、12月新橋管理部運輸労働組合青年部長選任と書かれている。
 11月に熱海駅の組合が結成されていたということになると、それが11月19日以前となると、国鉄最初の組合結成は熱海駅となってしまい、国労史を書き換えなければならないことになってしう。
 2011(平成23)2.22このことを確かめたくて子上昌幸宅を訪ねて聞いてみたた。
 「陸軍に二度目の招集をされ名古屋で終戦を迎えた。駐屯地の後処理を行い1945(昭和20)10熱海駅に復職し、直ちに労働組合を結成した。
 熱海駅は女性社員が多く男手が足りないので要員要求をし、11月には、その要求獲得のため遵法闘争行い伊東線の貨物列車を全て止めてしまった。
 新橋管理部はびっくりして人事担当者を熱海駅に派遣して熱海駅長室で団体交渉を行い、要求を全面的に受け入れてしまい増員され解決してしまった。
 沼津機関区の山口寅吉は9.15に何人かで労働組合結成の相談をした以降積極的に活動していたが、千名を超す沼津機関区の組合結成は難航していた、こんななかで熱海駅での動きを聞き、岩瀬敏彦、楠半兵衛に熱海駅の子上と接触を持つようにいわれ熱海駅に派遣され、熱海駅の動きにつて詳しく報告された。 10月には岳南労働組合協議会という労働組合の協議体が作られ、山口寅吉などの沼津機関区では、12.5の結成大会前にすでに労働組合として機能していて岳南、沼津から熱海などの富士山の南麓一帯で労働組合結成に向けて積極的に活動していた。
 熱海駅では闘争勝利のお礼も兼ねて、熱海駅労働組合主催で慰安会を11月に開催した。熱海のつるや旅館を借り切って家族や岳南労働組合協議会の役員などを招待して盛大に行われ、沼津機関区からも後に沼津機関区従業員組合の役員となる者など多数が招待された。
 このことによって熱海駅、子上昌幸と沼津機関区とは特別親密な関係となっていった。」
と語ってくれた。
 これはたいへんなことになってしまった。組合結成どころか列車まで止めてしまったことになると組合結成も列車を止めたことも熱海駅が戦後最初ということになる。
 今回、子上昌幸が話してくれた話とほぼ同じお内容が「戦後間もない国鉄労働組合をめぐる情勢と運動の実践を語る」という小冊子が三鷹事件を語る会、宮本二郎、土屋貢、舘野利功によって作成され、その中に終戦直後のことが記載されているので重複するが記載する。

戦後間もない頃の国労
 私が本部に上がった時は1948(昭和23)年で、まだ28才でした。
 しかし、本部では、民同諸君やまわりの人たちはなども、私に対しては新人だけれども割合に、比較的に一目おいてくれたと思われます。
 それは何故かというと、私が終戦の(昭和20)年、10月に熱海駅に復職し、仲間と労働組合を結成して、構内職場の要員要求をし、その要求を獲得するために10月末に遵法闘争やって、伊東線の貨物列車を全部止めちゃったんです。
 そうしたら、予想外に旅館組合を中心に大騒ぎになったんです。当時の陸運輸送というものは、鉄道による貨物輸送以外に何もない状態だったからです。だから旅館組合のほうでは、北海道や他の地方から送ってくるような食料その他必要な物は全部止まっちゃったのです。だから大騒ぎになったわけなんです。
 それで、当時の新橋管理部の人事関係者が飛んできて、すぐに駅長室で団体交渉をやって、当局は全面的に要求を受け入れて解決したんです。それで管理部から「熱海の駅のにこういう人間がいてね・・・」ということが、一部の人に評判になったようです。
 さらに11月には、その闘争をやったということから、労動組合が他方面の活動をする印象を残すため、熱海駅労働組合主催で、家族を含めて慰安会をやったんです。市内の「つるや」旅館を借り切って、当時では全国的にも珍しかった岳南労働組合協議会(終戦の年10月結成、岳南=沼津から熱海を含む富士山の南部一帯、静岡県東南部の地域)が出来たということなどもあり、その組合の幹部やいろんな仲間を招待して盛大にやったんです。
 そうしたら、当時、熱海には赤坂小梅さんをはじめとして、いろんあ芸能人が疎開していたのですが、そういう人たちもみんな出演んしてくれて盛大な慰安会になったのです。
 その頃、熱海の駅には、酒はいくらでもあったんです。私が兵隊からかえったときに気づいたら貴賓室に酒が積んであるあるんです。貴賓室というのは、皇族が乗り降りする際に利用する部屋で熱海駅には昔からそれがあったんです。
 その酒は、戦争中に旅館組合から届いたものでののです。何故かというと、昔は旅行代理店というのは地方にはなかったから、地方から30人、40人の団体というのは、みんな熱海駅案内所に宿を頼んでくるわけです。それを各旅館に割り当ててやるのです。そういうことが、ずーっと永年あったのです。そのため旅館では夜になると、みんな酒を持ってきたり、寿司をもってきたりしてくれたんです。そうしたことが続いていたのです。しかし、戦争中だったから、あまりそういうものを夜、大っぴらに飲むわけにもいかない。それが貴賓室に仕舞ってあったので、とにかく酒はたくさんありました。
 それで、その慰安会の費用はどうしたかというと、各旅館にほう奉願帳をまわしたんです。そうしたら、旅館がみんな奉願帳に貴重してよこして、それで盛大にやれたわけです。

とにかく終戦直後の時期に、旅館を借り切って料理をだして酒がいくらでもある・・・・・・、いろんな芸能人も来る・・・・・・、そんなことをやっていたものだから機関区の仲間をはじめとして、みんなビックリしちゃったんです。そんなこともあって、名前が知られていたこともあったと思います。

三鷹事件を語る会(2010)『戦後間もない国鉄労働組合をめぐる情勢と運動の実践を語る』

 裏付けをとるため、資料等をさがしていくなかで次々と新しい事が発見されている。
 法月乙秋(静岡出身民同右派、元国労中央執行委員、元沼津機関区長)が書いた「光を求めて、静岡支部発展の回顧」という文章のなかに、終戦直後の鉄道委員会について書いている部分がある。

「光を求めて、静岡支部発展の回顧」

 略
 当局は米国の職場委員会の形をその儘に活かしたいという意向があり、この間、当局としても、戦時中の独裁的強圧的な幹部の行状に対する罪滅ぼし的な誠意(それは恐怖にも似たものであったが)の片鱗がない訳でもなかったが、実質としては、大正九年頃の床次鉄道員総裁によって作られた現業委員会の焼き直しとして、国鉄大家族制の美風?に以って、労使間の紛争を防止する底のものであった。
 こんな内容が判ってくるにつれて、昭和7年頃の思想弾圧当時の空気を呼吸してきた先輩たちの間には、勿論この底の者には飽き足らない意向が強かったし、一方国鉄内部ではすでに大宮工機部、八王子機関区、旭川工機部がそれぞれ従業員組合を結成して、労働時間の短縮と待遇改善のニ要求をひっさげ、部外から政治的、思想的に利用されることを回避しながらも、活発な運動を展開していたことや、国内全般の状勢として12月13日現在で警視庁に15組合(組合員4万人)の届出があり、しかも、国会では年末頃に労働組合法が通過の見込みにあったので、これらの情勢に刺激されて、静岡でも具体的に労働組合の生まれんとする胎動が見受けられた。
 しかし、当面は鉄道委員会でもないよりましだろうという気持ちと、この委員会を組合結成の足がかかりにしようというところで、12月15日に鉄道委員会選挙をおこなった。

 とに角、選挙を終え、昭和21年1月に第一回鉄道委員会が開かれることになったが、それ以前に各職能別の労働組合が出来上がってしまい、鉄道委員会を直ちに、労働組合に発展させることに打合せができていたのである。
 第一回鉄道委員会は1月10日、11日と三河三谷で開催されはじめから余り;期待はかけていないとはいうものの、いざ開会してみると各委員ともせいいっぱいの努力を表情にあらわして意見を開陳した。

 議題に対する当局の回答を不満として、鉄道委員会を直ちに発展的に解散させ、各職能別労働組合一本のかたちをとって鉄道委員会の待遇改善その他の議題はその儘引き継ぐこととした。

法月乙秋『「光を求めて」静岡支部発展の回顧』

 国労正史では大宮工機部12.5、旭川工機部11.28であり、この文章からすると12.13から12.15の時点で八王子機関区も結成されていたということになる。
 この当時の新聞記事を調べていたら更に、次のような記事が見つかった。

国鉄での組合結成「朝日新聞」

国鉄に「労組」の烽火、職場単位に続々結成
 国鉄が嘗ての現業委員会を復活し、判任官も加えた選挙を実施して官制の鉄道委員会を組織したのに対して、全国鉄職員従業員を一丸とした労働組合を組織しようとの動きが工機部、機関区、車掌区、管理部および各駅に彷彿として起こり、大宮工機部の争議が外部からの働きかけ排して自主的に解決されたのを機会に急速に具体化しようとしている。
 大阪管理部、岡山機関区、高崎機関区、大宮工機部、仙台管理部ではすでに十月初旬来現場員の間で懇談が続けられをり現在までに職場単位で結成を了ったものは釧路、旭川、郡山、大宮、幡生、小倉各工機部、八王子機関区、岡山の機関;区を中心とした全岡山管理部等。
 いずれも本郷弓町の国鉄従業員組合準備会事務所に正式参加を通告してきており、その他東京付近、上野管理部、新橋管理部管下駅、札鉄管下各駅等の駅職員末端の動きが活発となってきている。
 同組合準備会では機関誌「汽笛」を発行し、増給、八時間労働、過剰職員の馘首反対、福利施設完備、学閥による昇進反対、大学に到るまでの官費教育機関設置を目標に職場組合の結成、従業員組合への参加を呼び掛けている。
 これに対し、国鉄当局では急速に鉄道委員会を整備する一方食糧増産本部を強化し全ての購買組合を充実させる等、下からの組合に消極的な反対態度を取っているが、国鉄始まって以来の労働組合結成は近いと見られる。

『朝日新聞全国版』1945.12.8付け

 このように、12月8日付けの朝日新聞全国版によれば、釧路、旭川、郡山、大宮、幡生、小倉工機部と八王子機関区と全岡山管理部などが12月8日以前に結成大会を終っていることになる。
 従来の本部等の資料に無い、幡生工機部、小倉工機部、八王子機関区、全岡山管理部が新たに加わることになる。しかし、本部資料にある苗穂工機部、五稜郭工機部については書かれていない、記事にもあるように、出書は本郷の国鉄労働組合準備会とあり、この準備会に申し出があった箇所だけが記事にある職場と解すればつじつまはあう。
 八王子機関区について調べたいと思っていたら元東京地本委員長阿部力から「国労八王子支部30年のあゆみ」をお借りする事ができた。
 本文最初に「労働組合の再出発」の項で1945(昭和20)9.20に最初の労働組合は国鉄中野電車区労働組合と記載されている。以下組合結成に関する部分を抜粋する。

労働組合の再出発

 敗戦後間もない昭和20年9月20日、いち早く労働組合再出発の産声を挙げたのは、国鉄中野電車区労働組合であった。
 組合づくりの中心的役割を果たしたのは、山本久一という国電の運転士であった。彼は、「8月15日総武線姉崎駅で天皇の放送を聞くや、心のなかで万歳を叫んだ。これからは、我われ労働者の天下だ」と確信した。
 その日は千葉で一泊し、翌16日中野電車区に帰るや一両日仕事を休んで、さっ;そく労働組合をつくる準備に奔走した。
 まず、仲間の電車乗務員に対し組合結成を呼び掛け。「われわれ労働者あっての社会ではないか、それが今まではまるで猫か犬畜生のように、おこられ、おこられしながらこき使われてきたが、これからは違う、いくらでも人間らしい生き方をしなくてはならない。それには団結しなくてはいけない、団結が必要だ」と。
 さいわい、戦前の乗務委員会の名簿があったし、気心もわかっていたので、「ほんの一日か二日でだいたい話がまとまった。それを根城にして次に検修職場のおもだった労働者の獲得にも成功した。
 それから「きれいなかっこうしている事務は別だ」という反対意見も一部にあったけれども「ホワイトカラーも労働者の仲間ではないか」という声が多数を占めたので、彼らにも呼びかけた。こうして七百数十名を結集する国鉄中野電車区労働組合が誕生した。(山本久一氏に聞く)

国労八王子支部(1977)『国労は八王子支部30年のあゆみ』

また、「国労八王子支部30年のあゆみ」には昭和28年度労働組合名簿東京都労働局編よりの組合一覧表があり、そこに設立年月が載っているので昭和21年度分まで記載する。

組合名       設立年月     組合員数 女性
中野電車区分会   1945(昭和20).9  333    1
中野車掌区分会   1945(昭和20).10  432        0
三鷹電車区分会      1945(昭和20).12   464        1
青梅駅連区分会      1946(昭和21).1    170        6
立川車掌区分会      1946(昭和21).1    101        0
立川駅連区分会      1946(昭和21).1    625       24
中野駅連区分会      1946(昭和21).1    614        2
拝島駅連区分会      1946(昭和21).1    226        0
八王子機関区分会    1946(昭和21).3    464        1
八王子駅連区分会    1946(昭和21).3    398       11
八王子車掌区分会    1946(昭和21).3     49        0
八王子電力区分会    1946(昭和21).3    240        2
八王子保線区分会    1946(昭和21).3    313        0
原町田保線区分会    1946(昭和21).4    187        0
変電区分会          1946(昭和21).7     99        0

本命であった八王子機関区分会は、この東京都労政局の表では1946(昭和21).3の結成となっているが、後半にある年表では1945(昭和20)11.15結成とあり朝日新聞12.8付記事取材の時点、同日の11.15に結成された国鉄労働組合準備会に八王子機関区が届け出てあったとすれば合致する。
また、この表では中野車掌区分会が1945(昭和20)10、三鷹電車区分会が1945(昭和20)12の結成となっている。
国労八王子支部30年のあゆみで山本久一は「心の国労八王子支部」として発刊を祝した言葉を寄せている。

心の国労八王子支部

 私は元中野電車区従業員でした。昭和20年8月15日終戦翌日より、労働運動を中野電車区に波立たせ、中野電車区従業員750名の労働組合を作りました。
 終戦の翌月9月20日中野電車区労働組合を結成し、10月21日東京鉄道管理局電車区協議会を作り、その間、管内の機関区、検車区、電力区、各駅連、管理部等を廻り、国鉄単一労働組合を田町電車区内に振る電車内に看板をかけた。
 その後は各管理部に支部が出来た。八王子支部は八王子駅構内に設立、中野電車区労働組合から山本久一、青年部から石塚君が委員として八王子支部に出向いた思いがあります。
 現八王子支部は組合員は5750名と聞くとき、設立後早や30周年を向かえた事は私ごとように誠にうれしい事です。
色いろと苦労を乗り越えた国労八王子支部の30周年記念を祝します。

国労八王子支部(1977)「発刊を祝して、山本久一」『国労は八王子支部30年のあゆみ』

終戦直後の国鉄での組合結成の状況を日付順で見てみると

1945(昭和20)
8.15 田町電車区の鈴木勝男は玉音放送を聞き「我われの時代が来た」と演説、公然と活動を開始した。
8.15 中野電車区運転士山本久一、総武線姉崎駅で玉音放送を聞く「万歳、これからは我われの労働者の天下だ」と確信し、翌日、帰区後直ちに組合結成の準備に入った
9.15 沼津機関区山口寅吉は職場で組合結成の準備について相談し、直ちに活動を始める
9.20 国鉄中野電車区労働組合結成
10.00日付け不明 熱海駅労働組合結成
10.10 国鉄中野車掌区労働組合結成
10.00日付け不明 子上昌幸、山口寅吉岳南労働組合協議会を結成、静岡県東部、神奈川県西部で労働組合結成へのオルグ活動を始めた
10.14 国鉄当局、鉄道委員会事務局を本省内に設置
10.21 東京鉄道局管内12電車区協議会結成
10末 熱海駅労働組合、要員要求で遵法闘争、伊東線貨物列車止まる
11.1 国鉄当局、鉄道委員会規定、選挙規定を決める12.17から選挙を指示
11.00日付け不明 熱海駅労働組合主催慰安会、つるや旅館を貸し切って盛大に開催
11.15 本省井上唯雄が「国鉄従業員組合準備会」を組織し機関誌「汽笛」を発行、全国に配布する
11.15 八王子機関区従業員組合結成
11.19 釧路工機部で組合結成、正史では国鉄最初の労働組合結成となっている11.25 大宮工機部、東京鉄道局に賃金5倍化などの要求提出
11.25 国鉄従業員組合準備会、宣言、綱領、当面の主張、規約草案を提起
11.26〜12.1 大宮工機部でサボタージュ
11.28 旭川工機部組合結成
11.28 郡山工機部職場大会
12.3から12.6 郡山工機部ストライキ、国鉄最初のストライキとなる?
12.5 沼津機関区従業員組合結成(山口寅吉委員長)
12.5 大宮工機部組合結成(斎藤鉄郎委員長)
12.6 郡山工機部、仙台工機部従業員組合結成
12.7 苗穂工機部組合結成
12.7 五稜郭工機部組合結成
12.8以前に 小倉工機部、幡生工機部、八王子機関区、全岡山管理部組合結  成
12.11 沼津車掌区従業員組合結成
12.13 国鉄当局、鉄道委員を中心に労働組合を組織化せよと指示
12.15〜12.17 国鉄当局、鉄道委員選挙
12.17 国鉄三鷹電車区労働組合結成
12.22 新橋管理部管内工電労働組合結成(鈴木清一代表)
12.00 新橋管理部運輸労働組合(長沢正成代表)結成日不明だがこの頃
12.00 新橋管理部部員労働組合(伊井弥四郎代表)結成日不明だがこの頃
12.24以前に、東京機関区、国府津機関区従業員組合結成、結成日不明
12.24 新橋管理部機関区組合結成(山口寅吉委員長)
12.27 鉄道委員に選出された者で新管に統一的な組合を作ろうと打合せる
12.28 当局、東京原宿で鉄道委員会発足を狙ったが労働者が解散させた
12.29 省電中央労働組合結成(鈴木勝男委員長)

1946(昭和21)
1.8  静岡管理部運転従事員組合結成
1.8  静岡管理部電気従事員組合結成
1.9  静岡管理部部員従事員組合結成
1.9  静岡管理部工務従事員組合結成
1.9  国鉄新橋管理部労働組合結成大会未結成
1.10   青梅駅連合区労働組合結成、続いて駅、区で労組結成
1.16  浜松工機部従業員組合結成 (武藤忠夫組合長)
1.17   国鉄八王子管理部労働組合結成
1.22  全国鉄単一組合準備会、全単準結成31組合
1.30  大井工機部労働組合結成
2.1  上野管理部労働組合結成
2.8  国鉄労働組合東京地方協議会結成
2.25  国鉄労組結成準備会 片山津
2.27  国鉄労働組合総連合会結成 片山津
3.7  沼津検車区労組結成
3.10  静岡管理部運輸従事員組合結成
4.1  国府津地区支部結成
4.15  国鉄東京地方労働組合結成
5.10  静岡支部結成

 このようになっており、多くの職場で自主的な労働組合を作ろうとの動きがあったが、全国的には、実際に職場レベルで組合が結成された職場は少なく、資料年表などにも職場単位で出てくるのは中野電車区、熱海駅、中野車掌区、三鷹電車区、八王子機関区、沼津機関区、沼津車掌区等だけである。
国労八王子支部30年史の中で、先進的といわれている東京近辺の電車区が1945(昭和20)10.21に東京鉄道局12電車区協議会を結成して、単一労組をめざす1945(昭和20)12.29結成の省電中央労組に移行していった旨記載されている。
職場単位での旗揚げの前に、この12電車区協議会の結成や、省電中央労組の結成がされ、この段階で当然、各職場単位で自動的に結成されたことになったと思われるが、地本、支部、分会などの資料に記録が残されている部分の今後の発掘に期待をしたい。
新管の機関区職場も山口寅吉の呼びかけですでに1945(昭和20)12.24新橋管内機関区組合を結成しているが、別記、新橋管理部機関区組合結成の呼び掛け文章の主催者欄には新鶴見機関区、高島機関区従業員組合準備会、品川機関区は委員会後援会となっているが沼津、国府津、東京はそれぞれ従業員組合となっており既に組合は結成されたことになっている。この新管機関区組合の結成は12.24なので、此の呼び掛け文が作られた時点では国府津機関区と東京機関区には従業員組合が結成されていたことになるが何日かは不明である
新橋支部60年史には「12.22に鈴木清一、藤川勇、矢野操が中心となって新橋管内工電労働組合が結成された。なお結成日がはっきりしていないが、おなじ頃に、岡部寛三、歌先藤作、小泉光治、長沢正成が中心になって新橋管理部運輸労働組合が結成された」としており、東京周辺では12.20前後から一斉に職場単位、職能別に組合が結成されたと思われる。
1946(昭和21)1.9山口寅吉主導の新橋管理部労働組合結成の失敗を乗り越えて、1946(昭和21)2.8国鉄労働組合東京地方協議会が結成された。この段階で東京鉄道局管内のすべての職場に対して、上から、しかも、最右翼的労働組合を当局の手で作ろうとする動きを抑え込んでの自主的な労働組合結成となった。
新橋支部60年史によると、この2.8の国鉄労働組合東京地方協議会の結成に参加したのは27組合として列記されているが27組合は、職能別単位や工機部などで、職場単位の労働組合は沼津機関区のみである。
新管機関区組合はすでに前年の12.24に結成されているので、この東京地方協議会にも沼津機関区は新橋管理部機関区組合として参加すべきであるところを、新管機関区組合の名前がなく、沼津機関区労働組合だけが職場単位で名前を出している点もふしぎである。
 国鉄当局は1945(昭和20)12.13関係者を集め、鉄道委員会をあきらめ鉄道委員中心の労働組合を作れと指示を出し、管理部単位の職能別組合を作り管理部単位の連合体に組織する方向で動いた。
 12.28この指示に従って組合結成大会を東京原宿道場(後の総連本部)で開こうとしたが、東京近郊の労働者は、これを実力で阻止し、参加しようとしていた滝東京鉄道局長、唐沢管理部長をつるしあげて解散させてしまった。
 名古屋鉄道局では1.10と1.11に第一回の鉄道委員会を三河三谷で下山定則局長が参加し開催されたが、下山局長などの回答を不満として鉄道委員会を直ちに発展的に解散させ各職能別労働組合一本でいくことを確認している。
 こうして、自覚的な職員が少なかった全国的にはほとんどの職場では、下級職制、駅長などを中心に労働組合が作られ、名古屋鉄道局静岡管理部のように、1946(昭和21)1.8〜1.9に一斉に運転、電気、管理部部員、工務が静岡管理部○○従業員組合などの名前で結成されている。運輸は遅れて3.10となっている。
 これら静岡県の国鉄職場の組合結成日の根拠は、日本労働組合名鑑(静岡)1946.4であり、そこに記載されている国鉄の組合は以下となっている。

   組合名                   代表者  結成日   組合員数   女性
@ 国鉄労組沼津機関区支部   山口寅吉  1945.12.5 1132名    17名
A 浜松工機部従業員組合    武藤忠夫  1946.1.16 2589名    66名
B 静岡管理部運転従業員組合 伊藤荒太郎 1946.1.8 2224名  80名
C 静岡管理部電気従業員組合 本多正秋  1946.1.8 1026名    29名
E 静岡管理部本部労働組合  佐藤 忍  1946.1.9  521名    93名
F 静岡管理部工務従業員組合 松本森一  1946.1.9 1724名    77名
G 沼津検車区労働組合    伊藤 恰  1946.3.7  181名
H 静岡管理部運輸従業員組合 高木金作  1946.3.10 3874名   584名

日本産業労働通信社関等総局(1946)『日本労働組合名艦』下巻

 また1946(昭和21)1.28現在の「静岡県地方労働組合一覧表」に記載されている国鉄関連組合は

@ 国鉄沼津機関区従業員組合   東鉄沼津駅機関区構内
A 国鉄静岡管理部電気従業員組合 静岡市
B 国鉄静岡機関区従業員組合   静岡市          準備会
C 国鉄静岡管理部運輸従業員組合 愛知県岡崎駅内 代表藤田岡崎駅長
D 国鉄名古屋鉄道局浜松工機部従業員組合 浜松市浜松工機部内
E 国鉄浜松機関区従業員組合   浜松市          準備会

静岡労働組合相談所『静岡県地方労働組合一覧表』

となっており、沼津機関区、電気、工機部には矛盾は無いが、静岡管理部運輸は3.10の発足となっているのに1.28現在の資料に載っていることはおかしい、また代表が岡崎駅長であり組合所在地も岡崎駅になっているので、これは静岡管理部ではなく名古屋管理部運輸従業員組合の間違いと思われる。
 尚、前出、法月乙秋文章では静岡管理部運輸従業員組合の結成は1.9となっている。
 静岡機関区、浜松機関区が準備会となっているのは、1.8静岡管理部運転従業員組合が結成され、そこで各機関区ごとに組合を作れと指示がされ準備会が発足していたと思われる。この静岡機関区、浜松機関区の結成パターンが全国的には一番多かったと推測される。
 東京地本作製の「国労東京50年のあゆみ」という年表では沼津車掌区1945昭和20).12.11組合結成となっているが、1946.4現在の日本労働組合年鑑の静岡、静岡地方労働組合一覧表にも沼津車掌区には記載されていない。
筆者の父はこの頃国鉄身延線の芝川駅長だったが、私が国労の役員になってから、酒席でよく「国労は我われが作った、当局から指示があって我われ駅長が先頭に立って作った」とよく話しを聞かされたが、これが全国のほぼ実態で、東京近辺ではいくつか特徴的な動きがあったにしても実際には、当局による根回しの方が早く、全国的には、自主的に労働者が職場から立ち上げ組合結成大会を行ったところは少ないようである。
尚、工機部は鉄道局直轄で管理部と同等の扱いであり、別格であり戦前からの歴史もある優秀な指導者がいたところではいち早く工機部単位の組合を立ち上げている。
 沼津機関区分会発行の「国労沼津機関区分会20年のあゆみ」によると組合発足時(昭和20年度)は委員長山口寅吉、副委員長神山伝吉、朝倉芳雄、書記長島田康久となっている。


2-1-6 新橋管理部労働組合結成大会失敗


 すでに単一の国鉄労働組合を指向していた省電中央労組を始め、鉄道委員が中心になっていた職場、中間的に職能別現場組織を作っていた職場も新橋管理部内一丸となって労働組合を作ることになり1946(昭和21)1.9 新橋管理部管内のすべての労働組合の結集体となるべき新橋管理部労働組合の結成大会が東京芝高輪国民学校で開催された。
 全国的に組合結成が相次いでいる中、新橋管理部40000人の労働者を総結集する組織の旗揚げは全国の注目を集めていた。
あわせて、この大会参加者の為に沼津、品川間に臨時列車運転の計画が立てられ新橋管理部と交渉の結果、一般乗客を乗せるとの条件付きで了承された。
 当時の新聞記事が「東京地本20年史」に載っているので掲載する。

新管労組結成に臨時列車「東京地本20年史」
 「単一労働組合の結成を目指す国鉄新橋管理部管内の組合大会出席のため沼津以東の従業員を乗せた臨時列車は9日午前8時30分沼津駅を出発した。
 国鉄労働組合のうち最も強力なものであるといわれている沼津だけに、機関区、保線区、電力区、駅、車掌区等従業員代表約500名が乗り込み、発車と同時に7両連結の座席はたちまち占領されてしまう。熱海、小田原、国府津と進むにつれて各駅から、50名、100名と乗り込み、一般乗客もまた思いがけない臨時列車に喜んでどっと詰めかけたため、たちまち列車は身動きもできないほどの超満員となってしまい、大船駅まで出迎えると八割は従業員、二割が乗客というところだ。
(途中略)
 品川駅では数百名の従業員が一斉に降りて高輪台の大会場へ、ここは正午開会、若い婦人の従業員も多数混じって約3500名が広い講堂を埋めてしまう。
 結成大会の議長には長沢正成(新宿駅助役)と山口寅吉(沼津機関区機関士)が就任し、七項目の要求と全管内の労働組合の統合を決議し、午後3時閉会となった」

国労新橋支部(2007)『国鉄労働組合新橋支部60年史』 

この大会では「越冬資金の支給、団体交渉権の確立、退職手当の増額、戦災者への援護、物資部の解散、学閥独占昇給反対、悪質幹部の退陣などの要求の採択とあわせ管内全労働組合の結合を決議した。
 しかし、省電の鈴木勝男、運輸の岡部寛蔵、新管の伊井弥四郎から山口寅吉に対して熱海でのできごとをきびしく追及され、工電の鈴木清一の仲介もむなしく山口寅吉の中央への進出は機会を失ってしまった。
 このため、役員、組織形態などについてはほとんど決められないまま、閉会となってしまった。
 結成大会の翌日、組合代表80名が運輸省で東京鉄道局長と会見した際、局長は要求に対し、国鉄の赤字財政を理由に「ひとまず先に閣議了解を得た3カ月ないし6カ月の特別賞与支給で忍んでくれ、根本的な改善策として当局側3名、組合側3名、外部3名による待遇改善審議会を加及的に開催審議する」と回答した。
 これに対し組合側は「特別賞与によって明日の芋はまず食える事を保証してもらったが、明後日の芋は食えぬかもしれぬ、特別賞与で2カ月やっていけという局長の話は承知できぬが、一か月やっていって食えないことになったら再び要求しよう。 待遇改善審議会には代表を出す」との返事をした。
 この回答受入に対し、省電中央労組などが反発し「そのような幹部と行動を共にすることはできない」として独自の道を歩むことになり、統一した組合としての機能を果たせなくなった。
 同じく当時の新聞記事が「東京地本20年史」に載っているので全文記載する。

新管労組での山口不信「東京地本20年史」

 この結成大会の際、新橋管理部従業員は一応組合として結束したかに見えるが、省電中央労組は大会の主導権を握った委員長山口寅吉氏らの幹部が国鉄当局に懐柔されているとみなして同大会に参加せず、独自に闘争を開始することを明らかにした。
 一方、新橋管内組合の中にも沼津機関区出身の山口氏が依然として委員長の地位のあるのを不当とし、新たに発足した「新管労組」の総意による委員長任命を主張するむきもあったが、当局との交渉が緊迫化しているのを理由にこの意見はそのまま持ち越された。
 10日正午山口委員長等「新管組合」代表者と滝東鉄局長との会見は、従業員の期待を裏切ってほとんど要求が容れられぬ結果となった。その上滝局長と山口委員長等が、新管大会の以前にすでに「熱海で密談」して回答について了解を遂げたという裏面が暴露されたので新管組合内の反幹部の気勢は益々熾烈となり、11日品川で反幹部派は代表者会議を開き「当局回答」の「全面拒否、要求貫徹、現幹部排撃」の申し合わせをした。
 この傾向は省電中央労組支持となり、省電各駅従業員の中にも同組合参加の動きがみられ同組合の活動が急速に活発化してきたものである。省電中央労組は新橋、上野、千葉、八王子管理部管内の省電乗務員を中心に約5000人の組合員を擁しその戦術は関心の的となっている。

国労東京地本(  )『東京地本20年史』

 

2-1-7 熱海事件


 新橋鉄道管理部管内の総結集を目指した芝高輪での大会は、管内の労働組合の統合を決議したにも関わらず、役員も組織形態も決められなかったのは、その中心的な役割を果たし、委員長に内定していた山口寅吉に対する、不信があった。そのため、この大会に結集するはずであった省電中央労組は参加しなかった。
 「国鉄当局に懐柔されている」など不信の原因になったのが「熱海での密談」「熱海事件」と呼ばれている出来事であった。
 国労新橋支部60年史では次のようにのべている。

熱海事件「国労新橋支部60年史」

熱海事件の発端となったのは、前年の12月24日に新橋管理部管内の7機関区による「新橋管内機関区労働組合」の結成大会が小田原で開かれた際に、越年資金、家族手当などの諸要求を決定し、要求が受け入れなければ1月10日に一斉にストライキを決行するという事を決定したことに起因している。
 ストが決定されると、沼津機関区にアメリカ第八軍第三鉄道輸送部ベック大正の使者と称する橋本と名乗る人物(のちに東京鉄道局の事務官であることが判明)が再三現れ「アメリカ軍はストに大きな関心をもっており、スト中止を望んでいる。組合があまり強いことを言っていると、アメリカ軍としてはレールその他色々な機器も傷んでいるので再建もできないのならアメリカから資材を取り寄せて整備する(アメリカで国鉄を占領する)と言っている」などとストを威圧するような発言をし、ベック大将との会談を勧めた。
 そこで委員長山口らは会うことになったが、すると橋本は「ベック大将と会った場合の話をあらかじめ決めておきたいので、打ち合わせのために主だったものを集めてもらいたい」という話をした。
 このようにして、1月6日に熱海の国鉄厚生寮に七機関区の幹部40数名が集められたが、参加者は正式な会合だと考えて、相手方が揃うのを待っていた。なかなか揃わないので待ちくたびれていると、相手方がやがて場所を変えようと言い出し、ローマ風呂で有名な大野屋旅館に移動した。
  橋本はこの大野屋で「ビールと豪勢な料理」でもてなし「ヤミ取引(買収)をしようとしたが、こうしたことに組合側から反発が出て、会合自体はうやむやのうちに終わったとされている。
  恐らく橋本事務官は、当時はめずらしかったビールを飲ませて気分のほぐれたところで話(ストライキ中止)をつけたかったのではないかと思われる。さてこの「熱海事件」の顛末について、国府津支部では「30年史」の作成にあたり、当事者である山口寅吉氏から説明をうけているが、山口氏は次のように述べている。
  「1946年1月9日、芝高輪国民学校における新橋管理部労働組合結成大会に出席し、省電の鈴木勝男、運輸の岡部寛三、新管の伊井弥四郎の各氏から熱海におけるビール事件の追求を受け、品川駅では「ダラ幹山口を追放せよ」のビラを見たが、当時の労働運動が戦後の解放感に酔いしれ大衆的な暴挙がまかり通る情勢であったが、幹部はヘッピリ腰であったことも事実で、連合国運のオエラ方に呼び出しを受けたとき、殺されるかも知れないと思った程であった。だから当時のビールが貴重品であっても、その味に酔い崩れるなんてものではない。ただ逃げ帰りたい気持ちであったのだ。だから、一寸の妥協もなかったのだ」
  また、この会議に参加した東京機関区分会の佐藤芳夫氏は「東京機関区分会30年の歩み」のなかで、その真相を次のように述べている。
  「この熱海の大野屋の事件で、酒と風呂はいただきましたが、組合運動とか当局の指示という様な事は何もありませんでした。また、組合の役員を買収して、何かやろうとしても出来るような時期はとっくに過ぎ去っていました。事実は、デマ宣伝文が当局に利用されて、組合の一部をゆすぶったに過ぎませんでした」
  したがってそこには事件らしいものは浮かび上がってこのいのだが、この大野屋旅館での出来事が「熱海事件」として流布され、結成にいたらなかった。このような結果に至った背景には、新橋管理部労組をめぐる主導権争いが大きな要素として考えられる。
  そして、その主導権争いは、当時進行していた国鉄内の労働組合の全国組織のあり方をめぐって、単一体にするか、連合体にするかの議論も背景にあったと伝えられている。つまり、全国の主要な部分を占める新橋管理部労組の主導権を握ることは、それだけそれぞれが主張する組織のあり方に近づけることができるということであった。
 なお要求については、組合結成大会のために臨時列車を運転させたくらいの力関係出会ったことから、もちろん国鉄当局が受け入れ、一人600円の越冬資金が支給され、1月10日のストライキも中止されたことはいうまでもない。

国労新橋支部(2007)『国鉄労働組合新橋支部60年史』

尚、内容が重複しているが、「国労運動史のなかの人々」のなかで著者の村上寛治が当事者である山口寅吉にインタビューしているので掲載する。

熱海事件「国労運動の中の人々」

 こうして、東海道線のストが伝えられや、沼津機関区にアメリカ第八軍第三鉄道輸送部ベック代将の使者と称する人物があらわれた。その男は橋本某といって、背が高く、ハデなダブルのオーバーコートを着ていた。そしと、さも重大そうに「将軍は東海道線のストに大きな関心をもっており、スト中止を望んでいる。山口委員長ら組合幹部にあって話をしたい」と告げた。
 その後も橋本某は、沼津機関区にやってきては、再三、将軍との会見をすすめた。機関区の人たちは、風態からして米軍関係者で、かなり重要な人物かもしれないと憶測していた。山口さんもその一人だった。 「会って話をすれば、有利な条件を引き出せるかもわからない」「会わなければ、悔いを残すことになる」と、会うことを承知した。
 すると橋本は、将軍と会った場合の話をあらかじめ決めておきたいので、打ち合わせのため主だった者を熱海の厚生寮に集めてもらいたいといった。その旨を七機関区の幹部に通知し、1946(昭和21)1.6、40名ほどが寮にあつまった。だから「私一人じゃなかったんだ。何か一人でヤミしたように言われているが・・・・・」と山口さんは、さも心外のようすで、そのほかにも何人かの名前をあげた。
-------寮に集まって、どうしたんですか。
 「ビールが出て、何本か飲んだのではなかたかなあ」(山口)
 「いや、酒の一杯も出ていない。われわれは正式の会合だと考えて、相手のそろうのを待っていた。ところが、なかなかそろわないで待ちくたびれていると、相手方が場所を変えようといいだし、大野屋(旅館)へ行くことになった」(富岡) 
 そうした情景を、富岡さんは「羊が誘導されるようだった」と歩きながら、ようすがおかしいと感じたのか、みんながガヤガヤいい始めた。「大野屋について、寒いし、風呂でもはいろうってんで、湯につかって出ると、広間にごちそうが“べったり”並んでいた。物資が極端に欠乏していた当時のことであり、お目にかかったことのない料理だった」ビールだってめずらしかったと、山口さんも、その時の豪華なもてなしを思い出しているようであった。
--------みんなよろこんで頂戴したわけですか。
 「いや、そうでもなかったね」(山口)
 「そういうこと(買収、ヤミ取引)になってはいけないと警戒していたので“よろこんで”というのではなかった」(富岡)
--------それじゃ、何も食べずに席を立ったんですか
 「いや、食べましたよ。蹴ってしまっては悪いような気がして」富岡さんは、そう言って橋本某の巧妙な仕掛けを語る。
 と言って、飲んで愉快になり打ちとけるという空気ではなく、逆に反発が表面に出るほどだった。そのため、会合はうやむやのうちに終わってしまった。
 富岡さんは、「橋本は、気分のほぐれたところで山口さんと話をつけたかったのでないか。沼津は東海道の拠点だし、山口さんに聞けば東鉄の機関士のことがわかるし」と推測する。
おそらく、そういうことだったのであろう。
 しかし「熱海事件」として流布されるにいたった背景には「新管労組」結成をめぐる指導権争いも関係していたといえそうだ
 山口さんは、うわさの出所を「共産系の今井君(品川機関区)だ」とみる。くわえて「国府津支部運動史」でも、新管労組問題で共産党系の鈴木勝男、伊井弥四郎が抗議したとして、指導権が“熱海事件”にからんでいたことをうかがわせている。
 その後、沼津機関区の調査で、橋本某は東鉄局の事務官であることがわかった。いうならば、当局の仕組んだスト破りのワナにあやうくのせられようとしたわだが、それにしても「ちょっとした助平根性が・・・・・・」といった山口さんの後悔には実感がこもっていた。

村上寛治(1981)『国労運動史の中の人々』

 また、1950(昭和25)11.25発行、発行者、子上昌幸、編集責任、加藤恒雄、編集担当、楠半兵衛の「国鉄労働組合 国府津支部運動慨史 自1945年至1950年」には次のように記載されている。

熱海事件「国府津支部運動慨史」
 同年12月5日、沼津機関区従業員組合が結成されて、国鉄従業員としての全国最初でもあったので、当時の新聞は、このニュースは大々的に採上げ、今日ある国鉄労組の前途を讃えたものであった。
 この沼津機関区従業員組合は、運転関係として発足し、この結成大会を以って新管内の機関区関係に参加要請はなされ、終に新管機関区組合が結成の運びとなり、12月24日、小田原市城内小学校講堂で大会が開催され、参集した組合員約500名で、司会者に国府津機関区、川口織造氏、議長に山口寅吉氏であった。
 その時の大会スローガンとして「労働組合法を早急に実施せよ」「越冬資金1500円支給」等であった。終戦直後でもあり、未だ「労働組合法」は開催中であった定例帝国議会で審議中であり、実施されたのは翌年の3月1日よりである。
 又「越冬資金1500円」をしきゅうせよと決定したのは、大会当日にもたれた代表者会議で可決されたものであり「500円」「いや1000円」「1500円にしろ」等意見が出され、勿論其の科学的根拠等なく、この位が良いであろう、結局多額を要求したのが得だ程度で可決されたものであった。而し論議する従業員は非常に真剣そのものであった。
 又この席上、この要求が貫徹されなければ1月10日を期して「ストライキ」を決行する事も可決された。
 無暴といえば無暴だが、当時としては、この決定が大きく世論を支配したことも事実だった。
 この「ストライキ」決定が国鉄当局をしてロウバイさせ、其の切り崩し策として計画されたあの「いわゆる熱海事件」である。
 この「熱海事件」というのは、当時の滝東鉄局長の配下であった「橋本事務官」が、中央執行委員長である沼津機関区の山口寅吉氏のもとに来り「連合軍ベッソン将軍の命として10日のストライキ中止を勧告する」というものであった。「尚、1月6日熱海厚生寮で組合の幹部諸氏とヒザを合わせて懇談したい」と申し込んで きた。当日熱海に参集した一部の組合役員が懇談後大野屋旅館に「橋本事務官所有のビールがあるから呑んでもらいたい」という、このさそいに応じて、酒を呑んだ事件で、折角結集し始めた組織が分裂する処となり、1月9日臨時列車迄運転して結成(品川高輪小学校)の運びとなった新管内全部を結集した「新管労組結成大会」も形式に終わってしまった。
 熱海事件に関係する山口寅吉氏等を抗議する電車区の鈴木勝夫氏、運輸の岡部寛造氏、新管部野伊井弥四郎氏等に伍して、仲介役をつとめた鈴木清一氏等特に記憶に残るものである。
 勿論「ストライキ」は行われず、越冬資金として「一人600円」が支給された。
 先述した当局のお膳立てした「鉄道委員会」は、師走の12月28日原宿道場で第一回の委員会が開催され、唐沢管理部長、滝東鉄局長等は今でいう「つるしあげ」をくい、万場一致「鉄道委員会」は返上解散されたのである。
 この様な従業員の闘志が、当局をして1月9日結成される「新管労働組合」の切り崩しとして根拠地沼津機関区に滝東鉄局長の内命を受け「ベッソン将軍の命である」と言葉たくみに「橋本事務官」をして策動させたり、且つ緊迫している運輸条件を無視して大会に出席する従業員専用の臨時列車を運転させる等・・・・;遼原の火の如く拡大しつつある労働運動への弾圧行為はこれまた顕著であった。

国労国府津支部(1950)『国府津支部運動慨史』

 このように「熱海事件」なるものは、1946(昭和21)1.10のストライキを宣言した東鉄内に絶大な影響力をもっていた山口寅吉を中心とする幹部に酒を飲ませて懐柔しようとした東鉄当局の策略にはまりかけたのが真相のようだ。
 何人かの証言によれば、大野屋にいって酒やビールを飲んだことは間違いないが、当局と何の約束もしなかったようだ。
 しかし、当時急激に勢力をのばしていた省電中央労組や共産党グループからみれば、酒の席についたこと自体が問題で、「ダラ幹を追放せよ」にあらわれているように許すことが出来なかったのだろうと想像できる。
 あわせて、東鉄、全国での主導権を採るためには、東鉄局で圧倒的な力をもっていた山口寅吉をはじめとする沼津勢を封じ込めるいいチャンスととらえたと思われる。このような考え方は、この後の新管内3支部分割にも表れ、新管内を新橋、横浜、国府津に分け、山口寅吉と沼津勢を国府津支部に閉じ込め、結果としてこの時点で山口寅吉の中央進出は封じ込められてしまった。