鉄路のおもい>おまけ>沼津革同
はじめに
国労、国鉄労働組合には学校という労働組合内部グループがある。セクト、派閥という人もいる、政党とのかかわりが大きいが必ずしも政党と直結しているだけではない微妙な関係がある。
外部の人から見れば、まとまりのない組織と見えるだろうが、設立いらい国労の活動運営に重要な役割を果たし、逆にいえば学校が存在しお互いの立場を尊重し共存していたからこそ常に競い合い、励ましあいながら前向きに運動に取り組めたともいえる。
共存が大切であって、いくつかの組合のように選挙で主導権を取れば役員は全て自派に総入れ替えにするという形を取らず、常に国労は連立を模索してその運営にあったってきた。
国労内最大派閥は、現在の社会民主党員協議会であり、旧社会党員協議会の流れをくんでいる。国労反共連盟から組織され、国労民主化同盟をへて社会党員協議となった。今でも民主化同盟の略称民同と呼ぶ人も多いが、現在は一般的には党員協といわれていて、ここで言う党とは社会民主党である。
かつて1970(昭和45)頃の国労青年部にはグループが八派あるといわれ、向坂、大田、革同、人力、解放、主体と変革、中核、革マルという俗称で呼ばれていた。現在でも少数ながら、これら党派に直結したグループ、派閥、学校が存在している。
もちろん、これらのいずれにも所属していない立派な活動家も多勢いて国労はこれらの仲間に支えられて存在している。
革同、革新同志会は1948(昭和23)に共産党と国鉄反共連盟の中間派、国鉄反共連盟に反発する共産党ではないもう一つの容共左派グループとしてとして発足したが、1957(昭和32)新しい情勢の変化を受け、「新たな発足にあたって」との考え方を発表して、革同会議と名称を変更して再出発した。
新しい情勢の変化とは、日本共産党と日本社会党の変化のことを指している。
国労内の日本共産党員は、定員法、レッドパージ、分裂を乗り越えて、第6回全国協議会を開催し極左暴力行為を自己批判して団結を回復した日本共産党に再結集すると同時に、その多くが新しく再出発した革同会議に加入した。
同時期に、左派、右派が統一、二年後に労農党との統一を果たした日本社会党へも革新同志会から少なくない仲間が合流した、国労内では、民同左派を形成していった。
この時点で、国労の主要な学校は、民同、革同、共産という三派構成から革同、共産が合体して、民同、革同の二派構成に変わったと言えるが、民同内は、左派、右派の対立は大きく、その後、鉄労、民社党に分裂していく。
この革同の沼津地域版が沼津革同ということになる。沼津革同という独立した組織ではなく、いつからとも、誰からともなく沼津革同と言い始め、皆なんとなくあたりまえに使ってきた、たんなる俗称である。
革同にはしっかりした規約はないが、地方組織もほぼ国労の地方組織に順じたかたちで組織化がされてきた。
国労沼津支部管内の革同の仲間を集め、沼津革同総会というものを毎年泊りがけで行い、現在も開催されている。沼津革同は毎月会費を集め、登録された人によって構成されている、互いを同志と呼び合っていた。
国労の地方本部ごとに会費を集約し、活動費、全国機関誌「革同情報」代金として本部革同に上げることになっているが全国的にはあいまいなところが多い。
国労沼津支部が2004(平成16)1.17国労富士身延支部と統合して東部支部を名乗るようになってからは、旧富士身延支部の仲間も含めて沼津革同との認識になっている。また、国労新幹線地本の三島地域の革同も、活動基盤が国鉄沼津寮や沼津、三島地域だったため沼津革同と行動を共にしてきており接点、共通点が多いため広義の沼津革同ともいえる。
1968(昭和43)筆者も鉄道ファンとして憧れの蒸気機関車の配属された沼津機関区へ就職して、目の前に存在した労働組合、国労沼津機関区分会の力に圧倒され、何の疑問もなく国労に入り青年部の役員になった。
この時代の世相を反映して当然の結果として、マルクス、レーニン主義に興味を持ち、二人の兄の影響もあり青年部の役員となると同時に日本民主青年同盟、民青に加盟し、ほぼ同時期日本共産党に入党し、目的と任務を自覚し国労の各級役員を務めてきた。
沼津地域での国鉄沼津機関区の無産運動には長い歴史があり、日本共産党が結成される前年の1921(大正10)の大日本機関車乗務員会沼津支部結成前から、沼津の無産運動家山口伝八、福島儀一が、沼津機関庫に優秀な分子を獲得したとする記録が残っており、その後のたびかさなる無産運動活動家に対する弾圧時に何度か沼津機関庫従業員が検挙されている。
戦後も、再建された日本共産党の責任者である徳田球一書記長が直接乗り込んで細胞を作り、作家田中英光沼津地区委員長の奮闘で16人ほどになったが、定員法、レッドパージで潰された。
所感派と国際派に分裂し火炎瓶闘争や交番襲撃などの過激行動に走った時期を克服し、分裂状態から再建された日本共産党に1955(昭和30)渡辺宏が入党し、沼津の国鉄にも細胞が再建され日本共産党の沼津市委員長に渡辺宏が選任されるまでの大きな影響力を持つに至ったが、これも、1964(昭和39)の4.17公労協ストに対する日本共産党の4.8声明、いかなる国の核実験問題で党中央と意見が対立、処分され、沼津の国鉄細胞は混乱壊滅状態に陥ってしまった。
志賀義雄、鈴木市蔵などが日本共産党から除名され、静岡県でも石井信雄地区委員長、渡辺宏沼津市委員長などが処分された。中央ではその後「日本のこえ」が結成されたが日本共産党は、反党分子、反党組織として厳しく非難した。
その中心人物である鈴木市蔵は、従来からの関係で国労沼津支部に毎年来ていた。
また、同じく時期に、二度目の除名をされ「日本のこえ」に合流し、その後の労働情報の樋口篤三も頻繁に沼津支部、沼津機関区分会に出入りしていたが、ほとんどの組合員は、共産党の都合に関係なくその実績を評価して温かく接していた。
その結果、日本共産党は、国労沼津支部、機関区分会はそれらの影響下にあると見なしていた。
筆者が入党した1970頃は、ほぼ民青の幹部だけの党組織となっており赤旗の配達も各種選挙もすべて民青でまわさざるをえない状況だったが、日本共産党静岡県東部地区委員会からは「日本のこえ」、鈴木市蔵と渡辺宏の関係、動きなどをよく聞かれた。
全国青年革同交流会でも、当時の本部革同幹部徳沢一、人見美喜男、島田俊男からも同じようなことを聞かれたことがあった。
民青は、国鉄沼津では1960年代中盤には100名を超えており、1970当時は70名以上を組織していた。
この頃、民青のなかで議論し、民青同盟員全員が革同に入ろうと決め、革同の幹部に申し出たが、当時の沼津機関区の革同は厳格で、筆者は入れてもらえたが、私達民青同盟員の全員を入れてはくれなかった。
その後、筆者は、国労分会、支部、地方本部の役員を経てJR東海会社、JR貨物東海支社、JR東海バスなどを担当する国労東海本部委員長を10年間務め2009(平成21).8.30退任したが、この間、東海革同幹事長だった。
沼津で役員をやっているうちはわからなかったが、静岡、東京などでの役員になって全国の革同の仲間と交流がもてるようになると、なにか沼津の革同と他の革同が違うような感じがして気になっていた。
年を重ねるにつれ、又、経験を積み歴史を知るにつれ、序々にその違いの全体像が見えてきた。
排除ではなくどう団結させるのか、どうすれば一緒に行動できるのか、なにを、どこを一致させるのか、統一を主張する以上相手の考え方、立場を認めたうえで対応する等、何よりも統一を優先させ団結を求めていく、一部の人達からはこのことに対し「グズグズの沼津革同」「階級性が無い」と言われてきたが、これは歴史と実践に裏打ちされた考え方、方針であることがようやくわかってきた。
そしてこの「グズグズ」の意味は日本共産党との関係、つまり日本共産党を離党、除名された活動家をどう見るかということだということもわかってきた。
立派な活動家であり職場での信頼が厚くても、日本共産党を除名、排除された者は反党分子であり、裏切り者であり、階級の敵である。
日本共産党からの見方であるが、そのことと地域、職場での必要性、重要性とは別問題で、日本共産党の都合と関係なく沼津革同は同志として重用し、日本共産党員と共に、離党した、させられた者も国労沼津支部、沼津革同の同志としてその重責に就いてもらった。
これは一見単純なことで当たり前のように見えるが日本共産党からみれば極めてゆゆしき問題であっただろうと想像できる。此のことが他の地域の革同との違いであることがわかった。
全国でどれだけ多くの有能な活動家が反党分子と烙印をおされ排除、隔離されてきたことか、なぜこのような状態を黙認して来たのかについては掘り下げて分析したいが、それは日本共産党の規約、組織性にあるという。
沼津革同と他の革同との違いの基本はここにあり、ここから行動、言動が規程されてきたが、それは議論されたわけでもなく、明文化されたことでもない、暗黙の了解の元で沼津革同内の日本共産党員も含め、一致した全員の考え方でだった。
沼津革同は、かつて、その多くのメンバーが労農党員となりその中枢を背負い日本共産党との統一行動を追及し、或る時には共産党と激論をたたかわせ、或る時は共産党の分裂に巻き込まれ、或る時は共産党を離党した、させられた仲間とともに闘ってきた歴史を背負っている。
もう一点は、どんなに困難な時期、反共攻撃を受けても、だまされても社民主要打撃論や社民敵論は取らなかったという点だ。
社民、共産党から見ると社会民主主義、あるいはその考え方の上に立っている政党、社会党、社会民主党、新社会党、党員などをこう呼んできた、歴史的にはこの最も共産党の近くに位置している皆さんや党に対し、打撃の対象、主要な敵と扱った時期がながく、今でも基本的のはその考え方が払拭され切れていない。
人民戦線、民主戦線、統一戦線などの相手は当然、この人たち、党であったはずなのにそのような態勢になっていない。
統一行動とは、この人たち、その党、関連団体との統一行動をいっているのであって、身内がいくつ集まってもなんら統一などとは言えない、という考え方を沼津革同ではしてきたし、私達はそれを叩き込まれ実践し体で感じ取ってきた。
沼津革同は日本共産党員だけ、あるいはその支持者だけの組織ではなく、日本共産党を離党した者も、社会党員、支持者もそれ以外の者も包括した、国労運動の強化発展を目指した階級的組織だといえる。
選挙戦では強力な国鉄共産党後援会を職場内に立ち上げ、その力を如何なく発揮し大きな実績を残してきた。
国労の社会党一党支持決議に反発した国労沼津支部では政党支持の自由を運動方針に掲げていた。
職場の現状は、共産党支持者も多かったが、社会党支持者も多かった。特に沼津機関区分会ではその歴史の過程のなかで社会党の有力幹部は少なかったが組合員のなかには共産党はいやだから社会党をと言う人も多くいた。
沼津革同は社会党支持者の便宜をはかりその力を発揮し政治意識を高めてもらうためと社会党一党支持の決定をしている国労静岡地方本部、国労本部との連携をはかるため沼津革同が革同の同志から社会党後援会長、事務局員を指名、地域の選対事務所に派遣をし、地域の中の社会党選対でも重要な役割を果たしてきた。
そして、なによりも革新勢力の統一を大切に考え社会党と共産党の接着剤の役割を自ら受けて立ち容共左派グループの大統一を目指して活動を続け、結果として静岡県の富士川以東の全ての市長を社共中心の革新統一市長に変えさせることに成功した。
政党支持の自由を掲げつつ、革新統一選挙では、国労沼津機関区分会地域会、国労沼津支部地域会がすべての校区の選対事務所業務を背負い国労組合員の文字どおりのフル動員体制で勝利に結び付けていった。
あわせて、沼津コンビナート闘争をはじめとした地域での闘いや、沼津市平和委員会の中軸を担い前面に立って奮闘してきた。
沼津革同はいつから本格的に革同としての組織化が進んだのか正確な記録は無い。
革同発足1948(昭和23)時の呼び掛け文章には沼津、沼津機関区出身者の名は無い。
しかし、いち早く労働組合を結成しその指導的役割を果たしてきた山口寅吉は革同発足以前、終戦の年1945(昭和20)の9月から、その後国労、革同の中心人物となる鈴木清一、子上昌幸などと連携を取りあい行動し、考え方もほぼ一致し同一歩調をとりながら活動を追及していた、と子上昌幸は語っている。
沼津革同の総会でのあいさつとして二つの沼津革同の出発点を匂わせた発言が記録として残っている。
一つは1972(昭和47)1.28長岡温泉住吉館で開催された沼津革同総会のあいさつで「沼津革同は1949(昭和24)ころから組織され現在100以上が結集している」と言うもの。
二つは1976(昭和51)2.21沼津革同総会で渡辺宏幹事長は「20年前(逆算すると1956(昭和31))沼津上土公会堂に15.6人が集まって相談した、その中心人物は長谷川弘俊、田村登、木村福太郎、渡辺宏だった。其の後、沼津機関区、沼津客貨車区に広めていった」と言っている。
外部の人だが労働情報の樋口篤三は「渡辺宏思想と志に生きた生涯」のなかで「沼津革同は、この1950(昭和25)に長谷川弘俊、田村登(機関区、沼津支部委員長を歴任、1962〜74年)と渡辺宏の三人で相談し結成された」と述べている。
運動的には沼津機関区従業員組合発足前から、革同的な運動を行ってきたといえるが、具体的には定員法、レッドパージで主要な活動家や共産党員が解雇された後の体制立て直しとともに革同としての具体的な組織化が行われたと思われる。
沼津日日新聞や静岡新聞などの定員法前後の記事では、役員の名前の後に括弧で、共産、革同、労農、統一左派、中立などの表記があるので、新聞記者に対しこのように答えていたか、新聞記者がこのような仕訳をしていたことになる。
沼津革同は、1948年避雷器闘争、1952年搭載備品不備遵法闘争、1956年最初の春闘、EC闘争、ELDL闘争など国労闘争史にとっての転換点になる重要な闘いを先導してきたにも関わらず、大会、各級会議での評価、総括が不十分で報告や記録が残されていないという弱点が随所に見受けられる。
総括が不十分でその活動経験が革同全国会議や国労機関会議に反映しきれていない、針小棒大な大演説が多い国労の中で、常に控えめな発言に終始し、その経験が他に訴えきれていないうえに記録も残されていない。
東鉄局時代、熱海事件によって中央進出を拒まれた山口寅吉の例にあるように、沼津機関区従業員組合の結成など、新聞に報道されながら国労本部正史には記載されていない。
沼津地域は1950(昭和25)国鉄機構改革により日本国有鉄道になり東京鉄道局新橋管理部から切り離されて静岡鉄道管理局に移管された。
新しくできた民同主導の国労静岡地本のなかでは圧倒的少数派であり、1964(昭和39)までは沼津支部長も革同が取れないでいた。
定員法、レッドパージ後の闘う国労の再建時に果たした沼津機関区分会の献身的な闘いも、元中央執行委員の子上昌幸の最近の発言などからようやく全体像が明らかになってきたのみで全国的には評価されていない。
今回、沼津という特定の地域での貴重な闘いの経験をしっかり残すことが必要だと考え、すでに出版されている国労○○地本、支部、分会○○年史のような国鉄労働組合の正史には載せられない、革同、日本共産党、民青、平和委員会、市民運動、住民運動などの沼津地域、静岡県東部地域での運動と国労のかかわりなどを「沼津革同」とのタイトルで記録することにした。
古い時代は諸先輩からの聞きとりや、発表されている資料や文献から沼津機関庫、沼津機関区や静岡県東部地域関連を抜粋しての再録が中心となっている。
筆者が、沼津機関区に就職した1968(昭和43)3.1以降は、自分の体験と独自に集めた資料から起こし、一部自分史的な部分もあるがご勘弁願いたい。
また、筆者の趣味でもある鉄道史研究から、労働運動上の大きな変化が起きていた時期、労働者がどのような状況下で働いていたのか、その基盤である沼津機関区や静岡県東部の鉄道そのものの状況などにつても何か所か記載した。
日本共産党、労働者農民党、日本社会党、社会民主党、新社会党、左翼諸党派、諸団体などに対する、見方、思いはあくまでも筆者個人の独断的で勝手な見方であって、それぞれの正式な党史、記録、見解などとは違う部分も多い。 社会主義、共産主義、日本共産党に対する見解、変革への希望は、沼津革同に所属した日本共産党員としての筆者の思いであり、すべて筆者の個人責任として頂きたい。
尚、文中敬称はすべて省略させてもらった。諸先輩に対し大変失礼かと思うが、お許し願いたい。