目  次

はじめに
前史
明治維新と鉄道開業
大日本機関車乗務員会
全日本鉄道従業員組合
敗戦、労働組合の結成
革新政党再建
9・15ストの
2・1ゼネスト
革同結成
労働者農民党
定員法
レドパージ
日本国有鉄道、静岡地本成立
日本共産党の50年問題
平和四原則と国労新潟大会
闘う国労への突破口
革同会議へ
60年安保闘争へ
1964、昭和39年
EC闘争
EL、DL闘争
沼津独身寮の闘い
国鉄民青の組織化
平和運動、原水禁運動
国労の文化運動
分会を支えた多彩なサークル
幅広い統一戦線の先駆者
マル生反対、スト権奪還闘争
組合幹部、活動家のあるべき姿
職場集会とオルグ
静岡地本内での革同
特徴的な闘い
青年部中央委員、地方委員選挙
分割民営化攻撃の中
分割民営化による国労拠点潰し
県内労働運動の再編
勤務プロジェクトと労基署闘争
採用差別、出向、配属差別との闘い
採用差別和解
まとめ

鉄路のおもい>おまけ>沼津革同

3 闘いの高揚


3-1 9・15スト


3-1-1産別会議と総同盟


 産別会議、全日本産業別労働組合会議は、1946(昭和21)8.19 総同盟の結成より3日遅れて結成大会が開かれた。
 この時点ですでに21組合1,559,619名を組織し、全組織労働者の約43%が加入し、代議員1204名が一堂に会して熱心な討議を行った。
 労働者の統一への強い要望があったにもかかわらず二つの中央組織ができたのは戦前の労働運動指導者や政党の思惑からであり、決して好ましい状況でのスタートとは言えない。
 初代議長は新聞労組の聴濤克己に決定し、直ちに、海員と国鉄の大量首切りに立ち向かった。海員組合は9.10ゼネスト、国労も9.15にゼネストを配置しての闘いに入った。
 青年婦人の活動は高揚し、産別会議の猛烈な組織活動の結果9.4には産別会議、総同盟、都労連、交通同盟、国鉄総連、海員組合のあいだで馘首反対共闘委員会が発足し、地方では農民組合まで加わった国鉄防衛隊が作られた。
 共闘の目的は、一切の妥協と分裂を排し、弾圧をはねのけてゼネストに突入させ完全勝利をおさめることにあった。
 この目的達成の為、産別会議は連日、皆と港、駅に大衆動員をかけ組合員を激励し分裂派を押さえこんだ。
 会員のゼネストを恐れた政府は斡旋に乗り出し、ゼネスト反対の小泉委員長は9.9正式調印したが、中闘は否決してゼネストに突入し、11日間ストライキを打ち抜き完全勝利を得た。
 国労も、完全勝利をして9.15ストを回避した。国労が完全勝利した闘いは歴史的にもこの9・15馘首反対闘争闘争だけであった。
 産別会議発足当時の沼津地域の加盟組合は、国鉄三組合(機関区分会、沼津駅分会、検車区分会)、芝浦、関東配電、国産電機、大川螺子となっている。 一方、日本労働総同盟(戦前の総同盟)の後身として、1946(昭和21)8.16に日本労働組合総同盟が結成される。結成当時の勢力は、組合員数が約86万人。
 総同盟は、当初から労使協調路線をとり、共産党色の強い全日本産業別労働組合会議(産別会議)と対立した。
 しかし、1947(昭和22)の二・一ゼネスト後、産別会議などと共に全国労働組合連絡協議会(全労連)を組織したが、GHQが占領政策を転換して反共産主義色を強めると、総同盟と産別会議の対立が再び激化し、1948(昭和23)に全労連を脱退する。
 1950(昭和25)組織内の高野実など主流左派が主導となって日本労働組合総評議会(総評)の結成に参加、これに反発した右派と分裂する。このため、総同盟は右派色をさらに強めることとなった。
 1954(昭和29)総評からの脱退組と共に全日本労働組合会議全労会議)を組織、さらに紆余曲折を経て全日本労働総同盟(同盟)を結成する。

3-1-2 9.15ストライキ

 1946(昭和21)7.24 加賀山職員局長が原宿の国鉄総連合本部を訪れ、「過剰人員が12万9000名にのぼるから第一次分として7万5000名を整理したい」と申し入れた。
 国鉄総連合は絶対反対の立場に立って交渉に入ったが、なんら解決への糸口は見えなかった。8月14日開催された中央委員会では、この首切り反対闘争をストライキで闘うと団体交渉に重点を置くべきだとの意見が対立したが「最悪の場合はゼネストに入る」ことが決議されたが、名古屋地連をはじめとした西日本は本部の共産党化を指摘して執行部不信任が出された。
 1946(昭和21)9.5〜9.6 宇治山田で臨時の全国大会が開催され首切り問題が議論された。
 名古屋、大阪、門司の西日本三地連が「国鉄はあくまで国民の公器であり、世論の支持の見通しがないストライキは認めることができない」と意見が対立し、本省傍聴者の石井あや子の発言をめぐって、議長中村正雄が降壇、つづいて名古屋、大阪、門司、四国、広島が退場引き揚げてしまい流会となった。
 臨時大会が流会になったきっかけは議事運営を巡る些細なことであったが、実際にはゼネストを決行するか、回避するかという決定的な問題での意見対立が底流をなし、妥協の余地が無くなっていたことが原因であった。結果として統一と団結をはかるための臨時大会が逆に東と西に分裂してしまった。
 9.10 国鉄総連は残留委員により中央執行委員会を開催し、東京、新潟、仙台、札幌の四地連を基盤に闘争体制をとることに決めた。
 9.11 中央闘争委員会は9.15午前零時を期して24時間ストを断行する指令を全国に発した。 
 静岡管理部労組では、直ちに臨時委員会を開催し、退場について絶対多数で認め「ストライキ反対、総連合会脱退、西日本と連携する」を決議したが、東鉄のストライキは妨害しない、沼津以東がストライキに入った場合の上り列車の運行について、富士地区を中心に議論がなされ「その時々に連絡し、上り列車はなるべく、西で抑止しよう」という結論になった。
 国府津支部は8月25日、闘争指令として通信管理第一段階に入るよう各分会に指令を発した。
 通信管理とは、電話、電報など当局の業務命令より組合指示を優先させるという事。
 構内にはビラをはりめぐらし、機関車、客車にも「馘首絶対反対」「9.15ゼネスト決行」「吉田内閣打倒」を大書し、当時の新聞は「走るプラカード」と写真入りで報道した。
 9月10日、国府津支部は拡大闘争委員会を開いて「ストライキ」の可否を論議した。青年部、婦人部は支部単独スト突入を主張し、12日に支部臨時大会を開いて態度を決定する事になった。ところが、12日には総連合指令が来て、12日の臨時大会は中止し各分会にスト指令を出した。そして12日には総連合の指示で「9月15日零時よりゼネストのやむなきに至りました。誠に申し訳御座居ませんが当日の列車の利用をお取りやめ下さい」というポスターをいっせいにはりだした。
 沼津機関区分会に9.15スト前後の貴重な資料が保管してあったので一部を記載する
 9.15ストについて町内会長、隣組班長、青年会長に説明をしたいので集めてくれという沼津市秘書課長宛ての要請書。

沼津市秘書課長宛ての要請書

昭和21年9月13日
       沼津機関区労働組合
            山口寅吉

沼津市役所
村松秘書課長殿



 9月15日決行の国鉄ゼネストに付き左記の方々の御参集を煩わし懇談致したく思いますから市役所会議室に召集方等に御配慮煩わしたい。


日 時     9月14日  9時
場 所      市役所会議室

招集範囲 町内会長、隣組班長、青年会長

 以上

 9.15ストについて沼津地域の交通運輸関連会社への通告文

交通運輸会社へのスト通告文


通告
 吾ガ国鉄総連合ハ ゼネストヲ決意 馘首反対ノタメ大臣ト交渉中ニシテ万一交渉決裂ノ場合ハ断乎15日零時ヲ期シ ゼネスト入ル計画ナリ
 吾ガ沼津地区モ之ニ呼応同一行動ヲ取ルノ決意アリ 依ッテ貴会社ニ直接間接関係アルモノ券ノ発売ニ関シテハ万遺憾ナキヲ期セラレ度シ

右通知ス

昭和21年9月12日
国鉄沼津地区闘争本部
 委員長 山口寅吉

会社御中


  9月13日付けの静岡新聞に国労9.15ゼネスト沼津機関区についての記事があるので全文掲載する。

沼津駅強硬、汽車入れぬ「静岡新聞」

【沼津発】東京で開かれた闘争委員会に出席した国鉄沼津地区労組委員長山口寅吉氏(沼津機関区)は12日未明帰沼、即刻全組合員に経過報告を行い9月15日に決行する一日ストに参加する。
 なお山口氏は名鉄局がストに反対し列車運行を行うとしても、東鉄管内は原までであるからいかなる事情にあっても沼津構内へ列車を入れぬと同日静岡管理部長に通告した。

『静岡新聞』1946.9.13付け

 こうして準備万全のなか9.13 午前10時より最終交渉が始まり、妥協点に達し、午後1時半からの交渉で職員局長が次の協定案と了解事項を読み上げた。

協定案 

了解事項案
 交渉委員の伊井弥四郎は「取り消した、取り消した」と協定書を振りかざしながら廊下に飛び出していったと言われている。
 国鉄総連はこの内容で中央闘争委員会を開催し承認を取り午後4時調印する事になっていた。
 しかし、拡大中央闘争委員会で採決しようとした直前、会議室に産別会議議長聴濤克己や共闘団体の組合員50名ほどがなだれ込んできて「共闘委員会を無視して単独で妥結することは不当である。共闘代表を加えて新たに交渉に入るべく、協定は白紙に戻せ」と言い出した。
 鈴木清一委員長は「うちの組合を買いかぶらないでくれ、この組合はずうたいはでかいが中味はだめなんだ、がんもどきみたいな組合で。上っ面は硬ばっているが中はぐちゃぐちゃなんだ、向こうが首切りを撤回したのだから、ここは国鉄総連のいう通りやらせてもらいたい」と申し出を拒否して採決して17対6の多数で可決した。
 その時、運輸大臣が国会で「本協定によって既定規定の解雇を実行できる」と発言したとの情報が入ったため会議場内は混乱し、共闘にも発言を許した結果、協定案を白紙に返す、事実の釈明を求めること、絶対に解雇しないという言明を得ることが決定された。
 このころになると原宿道場の真ん中でやっている中央闘争委員会を大勢が取囲み後ろの人は机や台の上に登って、人の谷底で会議をしているような格好になった。これが後に言う「スリバチ会議」と言われるものである。
 国鉄当局との交渉は13日午後8時から始まったが、運輸大臣は「産別会議や共闘の各組合と同席では交渉に応ずることはできない」また「調印を前提としない交渉は無意味」だと主張して応じなかった。
 翌14日午前8時より交渉は再開され、委員長は「交渉に入る前に申し上げたいが、この交渉が11時までにまとまらない場合はゼネストに入る」と宣言し、運輸大臣の国会発言をただし、運輸大臣に「絶対そのようなことは言った覚えはないデマだ」と否定させた。
 そして協定第一項の真意は「馘首しない」ということであることをここに確認する。協定書第三項の経営合理化は馘首を前提としない、という確認書に署名したうえで、運輸大臣平塚常次郎と鈴木清一委員長が署名捺印した。

 国鉄総連は直ちに「闘争指令第27号、クビキリトリケシタ、ゼネストヤメヨ、ソウギイッサイウチキリ、9ジ40フン」という指令電報を発した。
 しかし、この間、中止指令が出る前の13日、19時ラジオ放送は突如として「国鉄総連合に凱歌上がる。国鉄当局馘首案を撤回す」と放送した。
 また14日付け読売新聞を「デマ記事記載」として、世論に対する影響を考慮し正当防衛として、東海道線各支部はこれを816列車で一括東京に返送した。
 14日、国鉄当局は各現場長に交渉妥結の業務命令を出したが、総連本部からは中止の指令が出ず、15日零時ぎりぎりになってようやく中止となった。
 田中英光の小説「少女」はこの9.15ストの沼津機関区分会の様子を見事に再現している。ぜひ興味のある方は一読願いたい。
 この当時の模様について、沼津地区闘争委員長山口寅吉の日誌は次のように記している

山口寅吉日誌

「交渉は妥結したとの電話ありたるも、支部からの派遣員来たれざれば信用できず。零時のニュースは交渉成立セリと放送す。支部からは中止確実なりとの電話あり。ポスターをはがし、旅客に知らせるよう各分会に伝う」

やがて、本部・本省間の協定内容が明らかになり、山口の日記はさらに続いて「万歳と拍手の中、感激に満ちた涙の出そうなよろこびを感ず。沼津機関区の旗竿に我等の労働旗「赤旗」を掲げて何日ぞ。我われの決意が、我われの団結が、ついに頑迷なる反動政府、当局を折れさしめたのである。組織の力、これこそ我われの最大の武器である」 

国労静岡地方本部(1971)『20年史』


 また、沼津機関区分会20年のあゆみには次のように記載されている。

9.15スト「沼津機関区分会20年のあゆみ」


 9.15ストを巡る9月3日の総連合宇治山田臨時大会は、東西に分裂、東日本はスト決行、西日本は汽車を動かすと表明、星加要氏派を中心として名鉄、大鉄、門鉄など代議員は退場した。

東西の境界は、沼津―原間であり、このままストに突入するならば、沼津駅は上下の列車が止まり、折からの食糧事情のため、暴動が発生するものと予想され、上り列車が進入できぬよう、本線レールを取り外すことを分会執行部は決意した。
 9月13日には東鉄局運転部、管内各現場の運行担当者(注7)は、湯河原に集まり、ストダイヤを完成した。
 14日「馘首撤回」のデマ記事に抗議、816列車でまとめて本社に返送した。
 11時30分、当局は馘首案撤回、首切りは阻止された。
(注7) このころは各現場長茂組合員で、当直助役、指導助役などダイヤにたずさわる者は勿論組合員で組合の方針に基づきストダイヤを引いた。

国労沼津機関区分会(1965)『国鉄沼津機関区分会20年のあゆみ「光栄ある伝統とその斗い」』

国府津支部運動慨史で通信管理やビラ貼りなどについて詳しく記載されている。

9.15ストに向けた宣伝「国府津支部運動慨史」

 支部は25日を期し通信管理第一段階に入った。同日「闘争指令」として。「局長、管理部長等、当局側より度々闘争を弱化せる如き電文あるも労組発信以外の指令は絶対に遵守する要なし。尚右電文今後ありたる場合は、直ちに支部(国交1617番)へ連絡相成度、また之により動揺し反動なる言をはく幹部の監視を厳重にせられ防止の事」を各分会に発している。
 国府津地区支部の闘争体系を示せば次の如くである。
指令部 神成 野沢 真野
作戦部 山室 木内
連絡部 秋山 小川
活動部 楠  子上
 この体系に基づいて支部は勢力的な闘争に立ちあがった。青年部、婦人部を主体として各地域に突撃隊を編成し、職場内は申すに及ばず、街頭、列車内、ホームの放送、映画館内の幕間の宣伝、回覧板での全隣組まで啓蒙徹底等、ありとあらゆる面で連日行われた。
 当時突撃隊員には、大塩、加藤、大村、内田、勝亦敏、瀬戸、鈴木実、早川、斉藤新、岩瀬、長谷川の諸氏あり、特に婦人部の活躍めざましかった。
 構内、ホーム、庁舎にはビラが所せまきに張りめぐらされ、機関車、客車にも大字をもって「馘首絶対反対」「9.15ゼネスト決行」「内閣打倒」を記し、当時の新聞は「走るプラカード」と写真入りで報道したものであった。

 また、国府津支部運動慨史は総連合と国鉄当局の交渉のなりゆきと支部、現場の状況を以下生々しく記録されているので記載する。

スト前夜まで「国府津支部運動慨史」

 9月10日、支部は拡大闘争委員会を招集「ゼネスト」の可否を論じた。支部二階は立錐の余地もなくつめかけた組合員で充満し、青年部、婦人部は「スト決行」を強行に主張。しかし、支部単独スト突入には一部には反対論もたいとうしていた。
 「12日の支部臨時大会に於いて態度を決定する。闘争委員は職場に帰り組合員の総意をもって当日参集する」と拡大闘争委員会は結論した。
 大会代議員には青年部婦人部で獲得せよ、青年婦人だけでも「スト突入する」等々、腕章を巻いた突撃隊員の意気ものすごく、活動部担当の楠、子上両氏の頬はいやが上にも紅潮せざるを得なかった。
 9月10日22時総連合指令
 「総連合は9月15日零時を期してゼネスト決行を決定す」
 この指令は国府津支部8000名組合員の闘志を盛り返させた。
 「良かった良かった」「総連がストを指令した」「12日の臨時大会は開催せずにすんだ」情熱にもえ突入を歓喜した。
 9月11日東労委員長より 、10時30分
 「直ちに戦闘態勢に着け、本部決定(総連指令)後報逐次指令す」
 国府津地区支部委員長より
 「総連は9月15日ゼネスト決行を決議す。ゼネスト決行に伴い12日の支部臨時大会は取りやめ、万全の手配を乞う」
 各分会、地区闘争委員長宛指令は発せられ、8月分労務加配米の配給は何分の沙汰あるまで待て、と、15日の食糧対策の万全も確立されていった。
 しかし、宇治山田で分裂した西日本は「ゼネスト」決行には賛成しなかった。この「ゼネスト」態勢は東日本のみによるものである。
 この西日本の組合員に対し、友誼団体はアジビラを散布し激励している。
 「諸君の兄弟である東日本の組合員はあらゆる圧迫を排して15日ゼネストを宣言した。それなのに諸君は西日本地連の一部ダラカン共にだまされて、東日本の兄弟の闘争を見送って立ち上らずにいる。諸君だって食うや食わずの給料しか貰っておらず税金は取られる、勤務は長い、そして一方的な首切りだ。諸君はそれでも黙っているのか。「未だ交渉の余地あり」とダラカン共は言う。だまされてはいけない。我われは全面的に応援する。諸君は総連合を支持し速やかに「ゼネスト」に入らんことを切望す。
労働者農民の支持あらん事忘れずに。

9月12日総連合より
「現在までのポスターは直ちに撤去の事。次のポスターに変えよ。「9月15日零時より「ゼネスト」の已むなきに至りました。誠に申し訳御座いませんが是非とも当日は列車の利用をお取りやめ下さい」

支部指令
「15日のゼネスト担当食糧は8月分加配米を充当する。細部の点に関しては配給所担当の支部運用委員は連絡の事」
 この9.15ストの勝利を受けて神成国府津支部委員長は「声明書」を発表した。

「声明書」
 「吾々の馘首反対闘争は、内部分裂の危機を克服一応勝利に帰した。これは組合員の団結と友誼団体の絶大なる支援の賜であり、深く感謝に堪えない。
 しかし、現在共同闘争委員会を持ちなお闘っている労働者兄弟諸君に対し深く責任を感じている。
 われわれは今後とも共同闘争を継続することを確認すると共に、内部戦線を統一して必ずや近く今回の支援に応ずることを誓う」として各友誼団体に感謝した。
 また、国鉄総連は「闘い終わって全組合員に告ぐ」との訴えの最後に「吾々は、首がつながったと言って際限もなくこのまま日を送ってはならない。吾々の仕事は民衆のためのものである。吾々は社会野ため、民衆のためにその責任を尽くて奉仕してこそ、すべての権利が主張できるのだということを絶対に忘れてならない。
 諸君、日本の再建は今日以後、諸君労働者の肩にかかってきたのだ。吾々の敵を打ち倒し民族共栄の世界を創るべく建設競争をはじめようではないか」

国労国府津支部(1950)『国府津支部運動慨史』

と全組合員に呼びかけた。9.15ストの勝利を受けての「沼津地方連合会ニュース」No1を転載する

沼津地方連合会ニュース

 第1号 昭和21年9月21日

馘首反対ニ関スル闘争モ第勝利ニ其ノ棹尾ヲ飾リ此処ニ一応「鉾」ヲ納メタルモ此レ勝利ノ原因ハ我等ノ固キ団結ニ基因スル事ハ論ズル迄モナイガ尚此ノ外ニ見逃ス事ノ出来得ヌ事ハ自覚セル全日本大半ノ勤労者ノ支援及ビ之等勤労者が共同闘争ニ迄立チ上ガッタ事デアリ其ノ威力ニ政府当局モ屈伏シ遂ニ我等ノ全面的勝利ニ立チ至ッタノデアル。
 漸クシテ今回ノ闘争ハ将来ヘノ幾多ノ示唆ト好キ教訓ヲ与エテクレタ。
 之ニ関シ15日国府津支部ニ於イテハ各地区闘争責任者会議ヲ開催其結果従来ノ闘争地区ヲ国府津地区支部カラ連合会ニ呼称シ従来ノ儘存続シ外郭団体其他共密接ニ連繋シ次期闘争に万全ヲナス事に決定シタ。

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沼津地方連合会第一回代表者会議を16日開催 決定事項左ノ通リ
@ 9月20日ヨリ9月26日マデ(1週間)清掃週間実施の件
 目的 A 駅分会ニ於テハ特ニ待合室ホームノ清掃ヲナシ旅客ヘノサービスヲ計リ以テ今回ノ闘争ニ対シテノ支援ヲ深謝スルト同時ニ交通道徳ノ昂揚ヲ計ル
 駅以外ノ分会ハ各職場ノ清掃ト整理整頓ヲナシ職場ノ明朗ト併セテ能率増進ヲ計ル
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A 連合会ニ常時10名以上ノ行動隊常置ノ件
(支部決定 連合会承認ス)
行動隊長ハ原則トシテ各分会ヨリ1名以上選出シ毎日連合会長ノ指示ニ依リ宣伝啓蒙及外郭団体トノ連絡ニ当ル事ニ決定ス
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B 連合会委員は各分会長トシ連合会長ハ委員ノ互選トナス事ニ決定
互選の結果連合会長ニ当分沼津機関区山口寅吉氏ニ決定
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C 今回ノ馘首対象ガ女子職員及青少年ニ有ルニモ拘ラズ之等ノ人達ノ動キガ非常ニ低調デアリ其ノ奮起ス促スベク沼津保線区勤務塩川満子氏ハ敢然立リ寝食ヲ忘レテ活発ナル運動ニ従事シタ結果遂ニ12日早朝沼津駅ホームニ於イテ倒レ未ダ病床ニアル。
此ノ塩川氏ハ今期闘争中ノ美談トシテ推奨ニ値スルモノトシテ当連合会ハ感謝状ト金300円ノ見舞金ヲ贈呈スル事ニ決定セル
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D 沼津地区闘争委員会トシテ過般新属分会ヨリ闘争資金ヲ集メタガ此ノ資金ハ当連合会ニ移管スル事ニ決定(決算報告ハ第2号ニュースニテ報告)会計事務は沼津駅分会扱
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E 15日ノ国鉄ゼネストニ呼応共同闘争ニ立上ッタ大川螺子労組ハ14日ストライキニ入リシ處会社側ハ組合幹部ニ氏ノ責任ノ追及ヲナシニ名ノ馘首ヲ発表シタ当連合会行動隊は早急之レガ取消要求ニ大川螺子組合ヲ応援シ遂ニ19日15時30分会社ヲシテ14日以前ノ白紙ニ還元スル旨会社側に公表セシメタ。
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F 三島電業社労組モ会社ト争議中ナリシモ20日全要求ヲ貫徹シ争議モ終了セリ。21日当連合会行動隊ノ応援ヲ深謝スル旨電業社労組10数名本部来訪セリ。
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以上

大川螺子労組の闘い

再争議で勝つ、国鉄と共同闘争の大川螺子
【沼津発】沼津市大川螺子製作所では去る16日国鉄争議に際し同所労組が共同闘争を声明したとの理由により同所労組理事長大島久次郎、常任委員中島秀夫両君に対し馘首を通知したので、200名の組合員は馘首反対を叫んで直ちに争議に入ったが、17日会社側は不穏な空気を察知し馘首を撤回、一先づおさまった処18日又も大島君のみ馘首を通告したので再び争議に入り、組合では争議前提出してある労働協約の即時締結と、馘首絶対反対の要求を会社側につきつけ交渉に入ったが、19日夕刻に至り馘首を撤回すと共に労働協約締結については20日より改めて交渉にはいった。

『静岡新聞』1946.9.21付け

遂に労働協調印

大川螺子争議解決
【沼津発】既報=沼津の大川螺子製作所の馘首反対争議は19日会社側の馘首撤回により一応解決し、引き続き20日は労働協約即時締結の要求を掲げて交渉に入り、徹宵折衝のねばり戦術で会社側は遂に21日午前一時労働協約に調印することを承諾、午後4時より調印を行ったがその内容は18項目に及びその主なるものは
▽賃金最低400円、平均1000円以上は更に協議する
▽一日実労7時間
▽週休とは別に一年間に14日間有給休暇を認む
▽婦人の生理休暇3日、産前35日、産後42日
▽経営協議会の設置

『静岡新聞』1946.9.22付け

 産別会議は海員、国鉄闘争に続いて十月闘争を提起し全国的な運動を展開していたが、沼津の大川螺子は産別会議所属で全日本機器労働組合静岡支部大川螺子製作所分会として共産党員である大島久次郎を中心に活発に活動し、沼津機関区分会とも完全共闘体制にあった。
 会社側は国鉄闘争支援を理由に2名を解雇し、この解雇に抗議し200名の組合員が立ち上がり、新聞にあるように、解雇撤回、労働協約締結という成果を勝ち取り、今後、沼津、東部地域での指導的役割を果たすことになっていく。

 3-1-3 沼津機関区での政党支持調査


 産別会議が呼びかけている意識調査に答えて国労沼津機関区分会でも1200名の従業員を対象に調査がおこなわれた結果についての静岡新聞報道を掲載する。

政党支持、組合運動方針に関する調査

愛されぬ共産党、足並み揃わぬ労組
国鉄沼津労組の世論調査
【沼津発】国鉄労組沼津機関区分会はこの程1200余名の機関区従業員を対象に
一、現在の支持する政党
ニ、当機関区分会の実践する運動方針の賛否
三、技量向上に関する意見
四、能率向上を阻害する原因
 の四項目に係わる質問書を配布してその回収を求めたところ、次の如き極めて興味深い結果が表面に現れた。
◇第一問の政党に対しては流石は労組だけに社会党支持が圧倒的に多く青年層160;104票、未成年層27票の合計336票、次は自由党の104票、これは青年層27 票、未成年層77票で若い人たちの間にも保守の根強い支持の存在が見受けられる。
 第三位は協同党の76票、共産党が74票で第四位となったのは愛される共産の欠陥が云々されている、然も共産党指示は未成年者に多く、74票中64票が彼等の支持だった。
 第五位は進歩党の□2票で同じ保守党の自由党に比して余りにも少ない支持者であった。なおそのた52票があった。
◇第二問の労組運動に関しては現在の運動を是とするもの511票、非とするもの160;33票、態度保留組が164票、この結論は組合運動の趣旨不徹底によるものと思われる。
◇第三問の技量問題では現状維持を主張するもの121票、何らかの対策を講ずべしと主張するものもの478票で、技術の向上を希望するものが絶対的多数を占め、仕事に対する熱意の有様が伺はれた。
◇第四問の能率向上阻害の件に就いては時局柄食糧不足を原因の一つとして訴えるものが第一位で471票、補修資材の不足を原因とするもの442票、結局能率増進には食糧資材を同時に解決すべきである事を職場は訴えていると見て差し支えない。
 特に注目される事は労働運動方針の不合理性を唱えている46票のある事で、表面一致協力の如く見られる国鉄労組中にも幾多の不平分子のある事を物語ったものといへる。

 『静岡新聞』1946.11.6付け

 大変興味深い興味深い記事なので掲載したが、1946(昭和21)11.6付けということは、9・15ストに勝利して2・1ゼネストに向けて地域の体制作りを行っている時期である。
 最後の「特に注目される事は労働運動方針の不合理性を唱えている46票のある事で、表面一致協力の如く見られる国鉄労組中にも幾多の不平分子のある事を物語ったものといえる。」との見解には意図が感じられる。
 まず46票という数字がどこから出て来たのか、不明だ、そのうえ、1200名中46票ほどがどうなのか「静岡新聞」はこの時点で、国労沼津機関区分会は完璧だと思っていたのかと言いたくなり「沼津日日新聞」などに比べ明らかに異なった意図を持っての報道と感じる。

3-1-4 沼津機関区生活実態調査


 沼津機関区での生活実態調査の結果が静岡新聞に載っているので全文を掲載する

沼津機関区員の生活実態報告

只乗りで買い出し、筍ももうつきた
沼津機関区員の生活

 悪性インフレに脅かされる勤労階層の生活は所謂タケノコのままで衣類調度を剥いで漸く呼吸を続けている。
 この中にあって県下随一の大世帯である鉄道従業員の生活ぶりはどうか。
 政府が経済白書を出せば巷にも経済白書はある筈。以下はロハで買い出しのできるのは結構な身分だと言われる、鉄道員の生活実体沼津機関区員1066名(内未成年331名)を対象に調査した報告書である。
 区員一名の収入は月平均1506円58銭で税金を差し引いた実際手取り高は1366円48銭となっている。扶養家族は全部で1713名このうち職業をもつものは461名で結局区員一名に対し扶養家族は3名7部強となっている。
 区員中に反歩以上の田畑を耕作している者は326名で、非農家は740名である。 この反歩以上を耕作している農家出身者は深刻化す生活の脅威は比較的軽く一応自己の最低生活を確保し、鉄道員中のブルジョアといわれている。
 しかし、非農家の生活状況は到底俸給位では間に合わず、何よりも悪性インフ&レと深刻なる食糧不足に苦しい生活設計を樹てているが、タケノコ生活もニ年に及び悪世相に終わりを告げ、これ以上は皮もはげない有様で、結局食糧品以外の一切の配給物を農村に持ちこんで食糧と交換するもの、お手のものの只乗り列車で遠く米産地に出掛け高い米麦を買い出し一部を自家で消費、他を転売し、その&利益をもって栄養副食品を購入刷るなど、半闇屋に堕落する者が続出している。
 こうした食糧事情は区内でも相当問題化し最近では農家出身者への夜食過配米を非農家に融通するなどの非常手段を講じ、お互いが手を携えて生活危機突破に努力している。
 しかし諸物価は丸公の大幅引き上げに準じて高騰し、区員中には今後の生活を継続するには更に俸給の引上げが必要と血を吐くような叫びをあげているので爆発点に達するのも近いであろう。

『静岡新聞』1947.8.5付け

 と危機的状況に陥っている沼津機関区員の生活実態を解説している。国鉄職員を「只乗り闇屋」などと皮肉たっぷりに解説している静岡新聞でも、不満が爆発点に達していることを認めざるを得ない状況になっていることを報じている。

3-1-5 沼津機関区分会復興運動


 沼津機関区分会は、1946(昭和21)9.15ストの勝利を受けた国鉄総連や、国府津支部委員長の訴えに答え、まず自らの職場である沼津機関区を「機関区内に於ける気風を振興し明朗なる職場となすに在り」を目的とする「復興運動」を10月中に行うよう全組合員、全職員に提起した。沼津機関区分会が組合員に通知した復興運動計画書を掲載する。

復興運動計画書

一.目的 機関区構内ニ於ケル気風ヲ振興シ明朗ナル職場トナスニ在リ
 一.期間 10月中
期間ヲ三区分シテ次の通リトス
第一期間 (1日〜10日)職場詰所構内ノ整理清掃期間
第二期間 (11日〜20日)義務完遂期間
第三期間 (21日〜31日)道義ノ昂揚期間
10月1日 箒、雑巾、バケツ、塵取等ヲ各職場ヘ完備スルコト(労働組合ガ行ウコト)
10月2日 電燈設備整備(電球ソケットヲ組合が獲得シタ後行ウコト)
10月3日 職場、詰所ノ破壊箇所の整備
10月4日 各職場、詰所ノ大掃除
10月5日 構内大掃除
10月6日 構内大掃除
 (イ)予備乗務員、清掃手、庫内手、清掃班ガ行ウ
 (ロ)作業区分ハ清掃班ガ行ウ
10月7日 講堂ノ大掃除
  清掃班、予備乗務員、庫内手清掃ガ行ウ
10月8日  旧庫内手食堂ノ整備乗務員ガ行ウ
10月9日  旧庫内手食堂ノ整備乗務員ガ行ウ
10月10日 休憩室ノ清掃
   予備乗務員、清掃班ガ行ウ
「註」
一.本期間中ハ成可ク慰休ヲ遠慮スルコト
一.指名札用紙ハ労働組合本部デ作成スル
一.作業ニ不平ヲ鳴ラシ怠惰ナル者ハ気付キ次第労組本部ヘ報告ノコト
一.4日ノ大掃除ハ都合悪ケレバ適当ナル日ニ行ウコト 
一.各職場ノ委員ハ本期間中ノ作業ヲ責任ヲ以テ完遂セラレ度

第二期間予定表
(イ) 本期間中ハ左記項目ノ実行ヲスル事
日勤者
出勤時間ノ厳守
点呼ハ厳正ニ行ウ(後部ニ並ンダリ騒イダリセヌ事)
機器、道具ノ取扱ヒヲ丁寧ニスル事
与エラレタ仕事ニハ精勤スル事
作業中ノ雑談、談笑等ヲ禁止ス
構内待合セ中ノ機関車ヘ用事ナイ立入ルベカラヅ
定刻以前ニ許可ナク退庁シ入浴スルベカラヅ
他カラ要求サレタ仕事ハ完全ニ行ウ事

乗務員
運転報告ハ帰区後直グ提出ノ事
出勤時間ノ厳守、遅延ノ場合ハ通告ノコト
予備員ハ行動ヲ明確ニスルコト
無断欠勤セスコト
便乗帰区ノ際ハ許可ウク列車ヲ変更シ途中下車スルベカラズ
機器ノ取扱ハ丁寧ニスルコト、特に「窓ガラス」「暖房スイッチ」に注意ノコト
機関車状態ノ確認悪イ所アレバ関係者ヘ申シ出ルコト
備品状態ノ確認
服務規律ノ厳守

第三期間予定表
10月31日マデニ不用パスヲ返納スル事
服装ヲ正シクスル事
乗務員ハ無帽又ハピケ帽デ乗務シ、下駄等デ運転スル事禁ズ、帽子、靴ナキ者ハ申シ出ラレ度シ車内ニ於ケル態度ヲ正シクスル事
列車乗務ノ際ハ正常通路ヲ歩行スル事
パスノ不正使用絶対禁止
休憩室ニ於ケル悪戯禁止
定所以外ニ於ケル用便禁止
一般掲示ノ用件ハ即時実行
職場ニ於ケル□歌、高笑ヲ禁ズ
盗難防止
浴場ニ土足デ上ラヌ事、疾病者ハ入浴スルベカラズ
其ノ他良心的ナ行動ヲスル事

一.本期間中、監督ノ位置ニアル者ハ誠意ヲ以テ部下ヲ監督スル事
一.本期間中、実行項目ニ違反シ又ハ不誠意者ハ本運動ガ組合運動デアル建前上組合員ニシテ組合運動ヲ阻害スル者トシテ適当ナ処分ヲスル
一.本期間中、態度不良ノ者ハ制裁ヲ受ケル事ガアル
一.情状ノ酌量ハ一切行ハズ方針デアルカラ遵守出来ヌ事項ハ予メ通告スル事
一.本期間中、各員ノ行動ニ依リ悪質者ラノ冠詞ガツケラレルカモ知レヌ

 この復興運動は、荒廃した職場環境と労働者自らの行動、日常生活を労働者として正していこうと指導したもので、当時の国労沼津機関区分会の指導者の目指す労働者像がはっきりと示され、階級的立場に立った労働者教育の基本をなしている。
 沼津地方連合会ニュースにもあるように、9.15ストを支援、支えてくれた勤労者や国鉄利用者に対し、駅待合室やホームを清掃しサービスを向上させることによって支援への深謝としている。また交通道徳の高揚を目指して労働組合が自らの時間を割いて活動していることは驚愕に値する。
 また、国労沼津機関区分会の労働学校開講の新聞記事があるので全文掲載する。

労働学校開設

 国鉄労働組合沼津機関区分会ではこの程同分会内に労働学校を開講、講義は当分の内毎週ニ回(水、木、午後5時より)
一、日本歴史----立教大学教授信夫清三郎▽明治維新史▽日本資本主義発達史
ニ、労働問題----日本産業労働調査局横山不二夫、同猛田豊▽労働組合論▽日本労働運動の特徴▽団体協約及び経営協議会▽日本労働運動の動向▽生産管理論
三、労働者の経済学----元帝京大学講師木部達ニ▽経済学入門▽国鉄資本の特徴▽インフレ論▽食糧問題

『東静民報』1946.7.21付け

 沼津機関区分会は、9.15ストライキの二か月前から労働講座を独自に開催した。静岡県東部では、三島庶民大学という庶民による自己教育運動が展開されたが、職場の労働者を対象にした現場での労働講座としては異常に早い先見性をもった取り組みと評価されている。
 現在まで続く、「職場、地域、家庭からの自覚的で規律ある行動による内外からの信頼があってこその階級運動、労働運動」ときびしく諸先輩に言われてきた沼津革同の原点はすでにこの時期から確立されていたとみられる。