目  次

はじめに
前史
明治維新と鉄道開業
大日本機関車乗務員会
全日本鉄道従業員組合
敗戦、労働組合の結成
革新政党再建
9・15スト
2・1ゼネスト
革同結成
労働者農民党
定員法
レドパージ
日本国有鉄道、静岡地本成立
日本共産党の50年問題
平和四原則と国労新潟大会
闘う国労への突破口
革同会議へ
60年安保闘争へ
1964、昭和39年
EC闘争
EL、DL闘争
沼津独身寮の闘い
国鉄民青の組織化
平和運動、原水禁運動
国労の文化運動
分会を支えた多彩なサークル
幅広い統一戦線の先駆者
マル生反対、スト権奪還闘争
組合幹部、活動家のあるべき姿
職場集会とオルグ
静岡地本内での革同
特徴的な闘い
青年部中央委員、地方委員選挙
分割民営化攻撃の中
分割民営化による国労拠点潰し
県内労働運動の再編
勤務プロジェクトと労基署闘争
採用差別、出向、配属差別との闘い
採用差別和解
まとめ

鉄路のおもい>おまけ>沼津革同



2-2 革新政党再建


2-2-1 革新政党の再建


 GHQはポツダム宣言に基づいて日本の軍隊を解体し、軍需工場の操業停止を命じ「日本の民主化」に着手した。
 9月10日に「形式的には直接軍政を行わず、占領政策は日本政府を通じて間接的に行う」との「日本管理方針」を発表した。
 10月4日には「政治的、民事的、宗教的自由に関する制限撤廃(治安維持法、治安警察法、国防保安法などの弾圧諸法、特高警察の廃止、政治犯の即時釈放など)」を日本政府に指令した。
 また「日本の民主化に関するマッカーサーの見解」を出し、憲法の改正、男女同権、労働組合の奨励、教育の自由化、専制政治からの解放、経済の民主化など「人権確保のための五大改革」、いわゆる五大民主化指令を実行にうつした。
 この民主化指令が日本国民にはじめて社会主義運動や労働組合活動の自由を保障し、広範な労働者、国民がこれらの運動に公然と関わる法的基礎を与えることになった。
 労働組合の結成と並行して、
11月2日    日本社会党結成     書記長 片山 哲
11月9日    日本自由党結成 

11月16日    日本進歩党結成
12月1日    日本共産党第4回大会で再建 書記長 徳田球一
12月18日    日本協同党結成
と次々と政党が結成され、なかでも日本社会党の結成と日本共産党の再建は今後の労働運動の伸長に大きな影響をおよぼした。


3-2-2 沼津地域での政党、労働組合の結成


 沼津では戦前からの無産運動活動家、厚木嘉一らによって共産党が再建され、直ちに活発な活動が開始された。
 社会党は河口為三郎(戦前東電従業員組合所属)、加藤登、山崎道子などによって運動が始められた。
 労働組合では国鉄沼津機関区、関東配電沼津支店、芝浦工機沼津製作所従業員組合、国産電機従業員組合、大川螺子製作所労働組合などがいち早く結成された。
 1946(昭和21)4.10には改正された衆議院選挙法に基づいた戦後第一回衆議院選挙が行われ、静岡県全県一区定数14名に82人が立候補し、社会党の山崎道子が19万票を獲得してトップ当選をはたした。
 日本自由党は1945(昭和20)11に結成されたが、沼津支部は結成が遅れ1946(昭和22)6.14の結成となったが、戦前、戦中からの保守政界内での対立が激しく支部長が決まらないままの発足となったが、半年後の12.14に不二屋食品株式会社取締役諏訪部健二郎が就任した。
 日本民主党は1947(昭和22)3に結党され、沼津支部は6.13に結成され、支部長には静岡繊維株式会社社長の風間三千三が推挙された。
 1946(昭和21)5.1 メーデーが復活し、メーデー終了後、労働組合駿豆地区協議会沼津班が結成された。
 1946(昭和21)1月に日本共産党の野坂参三が中国より帰国し、民主人民戦線の結成を呼び掛けた。これを受けて世論の盛り上がりのなかでのメーデー後、社会党と共産党の協調が求められ民主戦線結成に向けての努力が続けられた。 復活したメーデーについて静岡新聞は次のように報道している。


沼津、三島での復活メーデー「静岡新聞」
【沼津発】沼津、三島両市合同のメーデーは一日春雨煙る駿豆地区に繰り広げられ、国鉄従組国府津支部の一千名を筆頭に、ニ十七団体三千五百名、若い女性も一千名を突破する盛況であったが、沼津駅前広場中央に掲げられた赤旗の下,司会者駿豆一般労組の作道良吉氏の挨拶があり、次いで社大婦人代議士山崎道子女史がモンペ姿で起ち、若者よ奮起せよと中間に別れ「甲種勤労所得の廃止」「差別的待遇の改善」等十三種のスローガンを掲げ、メーデー歌を高唱しつつ働くもののあげた団結の力を示して、東海道を東に三島に行進した。

【三島発】省電沼津駅前広場に参集、気勢をあげた駿豆地区労働組合協議会並びに沼津労働組合員男女約五千名は、十一時半から三島市に向け四列縦隊の堂々たる行進を起こした、同地方デモ行進は十一年振りの復活であり、三島大社前千貫樋に達する二千米に及ぶ長蛇の行進は、最後の集合地三島大社境内に氾濫する盛会であった。

『静岡新聞』1946.5.2付け

 5.1のメーデーに参加した労働組合で労働組合駿豆地区協議会沼津班を5.1に発足させているが、沼津班が懇談会を行ったとの新聞記事があるので掲載する。

労働組合駿豆地区協議会沼津班懇談会

労働通信
労組駿豆地区
沼津班懇談会
 労働組合駿豆地区協議会沼津班では未組織工場の組織化を図るべく過般芝浦工機会議室に懇談会を開催 国鉄、関東配電、市立病院、東京麻糸、大川螺子、富士製作、富士家食品、税務署、駿豆産業、芝浦工機等十組合代表20余名出席の上
一、沼津班事務所を芝浦工機内に設置し、今後未組織工場に運動の重点をおき極力組織の拡大強化を図ること
ニ、班常任委員として国鉄、芝浦、大川螺子等を選任する
等の諸案件を決議した。

『東静民報』1946.6.2付け

 静岡県労働組合協議会が1946(昭和21)3.2静岡県庁で結成大会が開催され山口寅吉は、厚木嘉一とともに沼津地区から委員に選出された。日本労働総同盟が結成され総同盟静岡県連合会が1946(昭和21)5.26設立された。
 全日本産別労働組合(産別会議)が結成され、沼津地域では国鉄三組合(機関区分会、沼津駅分会、検車区分会)、芝浦、関東配電、国産電機、大川螺子が産別会議に結集した。
 1946(昭和21)11.9 駿豆地区労働組合会議、議長山口寅吉国労沼津機関区分会が結成された。

駿豆地区労組会議の結成「静岡新聞」

◇沼津、駿東、田方一市ニ郡下の70労組が一丸となり強力な労組戦線結成を目指す駿豆地区労組会議の結成大会は、9日10時より沼津機関区会議室に各組合代表が参集、活発な討論の結果、協議委員に山口寅吉(国鉄沼津機関区)外40名を推薦、更に左記議事を協議し実践に移す事になった。
▽労働戦線統一に関する件
▽団体協約締結促進の件
▽勤労所得税及び賃金封鎖支払撤廃に関する件
▽労調法反対に関する件
▽地方選挙に関する件

『静岡新聞』1946.11.11付け

 1946(昭和21)12.17 吉田内閣打倒国民大会が沼津市第四国民学校で開催され沼津民主連盟準備会が結成され、1947(昭和22)1.20 全官公労協同闘争委員会が結成され2.1ストへの大きなうねりとなっていく。

吉田内閣打倒市民大会決定
          演説会やデモ行進等
                  熱烈的倒閣国民大会
                         17日の大々的催しを決定す
 既報、吉田内閣の施策に反対する全国数百万の勤労者が主体となって来る17日全国的な倒閣国民大会を開催することになり、当地方としてはさきに結成を見た駿豆地区労働組合会議が主体となって駿豆地区を沼津、北駿、賀茂、田方、伊豆の五班に分け各班毎に17日を期して演説会デモ行進等盛大な倒閣国民大会を挙行することになったが、右の決定に基き沼津班の倒閣国民大会準備会は14日午前10時から各労組代表、社共両党代表、農民漁民組合代表、戦災引揚者代表、市民有志約50名が沼津機関区ニ階講堂に参集して開催され、昨日駿豆地区労組協議会第4回常任協議委員会に於いて決定をみた倒閣国民大会開催に関する原案につき種々検討を加へ細目を次ぎの如く決定した。
決議文を手交
デモ行進のコース
倒閣国民大会沼津班準備委員会は先づ駿豆地区労協副議長の関川氏〈関東配電沼津支部〉から13日の駿豆地区労協常任協議委員会において決定をみた沼津班における倒閣国民大会開催に就いての原案を報告した後、駿豆地区労協議長山口氏(沼津機関区)が議長となって原案を審議した結果次の如く決定を見た。
◇大会役員----駿豆地区労協常任協議委員の国鉄、電産〈関東配電〉、全逓(郵便局)、全日通、大川螺子、東京麻糸、東亜化工の7組合代表者及び市民代表、漁民代表、社会党代表、共産党代表の12名
◇司会者------国鉄労組代表(山口寅吉氏)
◇進行役------大川螺子労組代表
◇大会名称----生活権獲得、吉田内閣打倒国民大会沼津地区大会
◇会場--------駅前広場
◇宣伝文要旨--日本再建の途は産業の復興にあたるにもかかわらず産業復興の原動力たる勤労者の生活を確保し得ない吉田内閣を打倒し全勤労者大衆を基盤とする民主政府の樹立を図るものである。

『沼津日日新聞』1946.12.15付け

沼津民主連盟連盟結成準備会の発足
  社共わだかまり一掃

       民主戦線を結成準備各界代表13名を委員として強力な民主連盟結成にと進む

 生活権獲得吉田内閣打倒国民大会は17日午後一時沼津市第四国民学校において解散したが、倒閣並びに民主政府樹立運動を単んなるデモや決議文のみに終わらせず更に強力且つ永続的運動を起こすべきであるとの意見から、同日午後二時から市役所会議室において沼津民主連盟結成準備会を開催する事になり。各労働組合代表、社共両党、市民中小商工業者の各代表が出席して種々協議したが、午前の倒閣国民大会にをいて社会党代表沼津支部長加藤登氏が言明した「共産党その他あらゆる民主勢力を結集して吉田内閣を打倒し勤労大衆を基盤とする真に民主的政府を樹立する」ために、去る7月飢餓突破市民大会以来の社共両党のわだかまりをこの際一切水に流し、勤労大衆の生活権獲得を目指して強力な民主戦線を結成することになり、各代表13名を民主連盟結成準備委員に挙げて4時すぎ散会した。準備委員は次の通り。
社会党代表        加藤 登氏
共産党代表        広瀬善四郎氏
市民代表         吉本米吉氏
労組代表
全逓            加藤愛次郎氏
国鉄                           山口寅吉氏
大川螺子                     大島久次郎氏
電産                           関川慶造氏
東亜化工板                 木村公平氏
東京麻糸                     久松六郎氏
合同労組                     田中英光氏
全日通                        杉山満夫氏
工沼製作所                 土屋あつし氏
国産電気                    持田貞義氏

『沼津日日新聞』1946.12.20付け

吉田内閣打倒国民大会沼津地区大会

        愛国の熱論に沸立つ
               昨日の倒閣国民大会
                   朝来の密雲も晴れて小春の暖かさ
                                  勤労大衆1500名余が参集する
 吉田内閣打倒国民大会沼津地区大会は28日午後1時から沼津駅前広場において開催された。
 この日朝来の密雲もすっかりぬぐいされ春を思わせる暖かい日差しに包まれた会場には国鉄、全逓、財務などの全官公共闘委員会参加の十労組を初め駿豆地区労組会議所属の電産、日通、大川螺子、不二家食品など20余の労組傘下の労働者1500名が参集し、会は先づ司会者関川慶造氏(電産)の挨拶によって始まり議長に山口寅吉(国鉄)、副議長に加藤愛次郎(全逓)の両氏をそれぞれ選任して後議事に入るや先づ河口為三郎氏(電産)から「今日の電力危機をもたらしたのは無能なる吉田内閣の責任である」と断じ民主人民政府の即時樹立を容貌する旨力説すれば、次いで起った勝亦敏和氏(国鉄)は石炭の面から同じ内閣打倒を叫び、更に松下和十郎(全逓)松沢正雄(勤労署)の両氏からそれぞれの職場のスト態勢について説明がある等して、最後に左の如き大会決議文が起草委員熊倉弘ニ氏(税務署)によって朗読され、之を万場異議なく可決せしめて大会の議事を終了した。
 議事終了とする頃この日午前十時から沼津松竹映画劇場において開催中の日本農民組合沼駿連合会結成大会の席上から日本農民組合の福島義一(富士)、鈴木吾;一(愛鷹)両氏が駆け付け議事終了をまって鈴木氏より「同じ立場にある労働組合と農民組合は手をたづさえて断乎吉田内閣打倒に邁進しよう」と激励の挨拶があり、最後に関谷文雄氏(共産党)からも同様激励の演説があって二時半大会を終了、次いで国鉄を先頭に「メーデー歌」「アカハタの歌」を高唱しつつスクラム組んで市内をデモ行進し、本通り魚町を経て御成橋を第四国民学校に至って三時過ぎ解散した。

『沼津日日新聞』1947.1.29付け

メーデー以来続けられた民主戦線結成の動きは、社会党、共産党間の思惑の違いから協議が中断されていたが、年末になって労働戦線の統一の動きに推されて再び民主戦線統一に動きだし、沼津市内でも社共が参加する民主連盟準備会結成までこぎつけた。
こうした状況の中、沼津でも、1946(昭和21)12.7と1947(昭和22)1.28の二回にわたる大規模な集会、デモが開催され2・1ゼネストに向け労働者、市民は吉田内閣打倒を求めて大きく昂揚していった。

2-2-3 徳田球一沼津機関区


 徳球こと徳田球一は、労働者にはすごい人気があった。
 1945(昭和20)10.10 獄中18年の出獄後、ただちに党再建、そして労働者のなかに飛び込んで行った。
 当時、沼津機関区は、東海道の要衝であり拠点であった。12月には徳球はそこに乗り込んで大講堂でぶちまくる。
 天皇制打倒と戦争犯罪人の告発、そして革命についての燃えたぎるアジテーション、終わるや皆と車座になって一緒に焼酎を呑み、いつまでも膝をつきあわせて燃えたぎり合う。
 青年達は忽ちひきよせられ、ただちに機関区細胞が出来上がった(その後の一二年のことは田中英光の『N機関区』に詳しい)。
 いらい、国労の同分会はついに民同も「鬼の動労」も歯がたたず、国労が圧倒的な多数派となり、レッドパージ後もずっと後まで革同の拠点であった。

樋口篤三(2002)『めしと魂と相互扶助』第三書館