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1 前史
1-1 鉄道開業
1-1-1 明治維新と鉄道開業
明治政府は1869(明治2)11.10廟議で鉄道建設を決議した。明治政府の鉄道建設は、中央集権体制、産業基盤の確立、国内市場の開拓、軍事目的であり、国民生活や利便性の向上などは副次的なものであった。
1872(明治5)10.14新橋、横浜間が開通した。鉄道建設は、開港場と都市を結ぶことから始まった為、新橋、横浜と神戸、大阪が先行した。
1883(明治16)8 碓井峠越えの信越線ルートによる東京、大阪連絡ルートが一旦決定されたが、難工事が予想されたため1886(明治19)7.19東海道ルートに計画が変更され、工事用の港として新たに沼津港と清水港が指定され準備に入った。
1886(明治19)12.1沼津港からの物資陸揚げ、建設工事の拠点として沼津機関庫が開設された。
この日が沼津機関庫、沼津機関区、国労沼津機関区分会の歴史の出発日となる。
沼津などの拠点から精力的に建設工事が進められ、1889(明治22)2.1には国府津、静岡間が開通し、営業運転が開始された。
鉄道の開通により、当初目的の軍事、政治面での大きな貢献と共に、時計の使用、規律の厳格、24時間制の採用など鉄道の開通により日本の社会構造に大変革をもたらし、すべての分野にわたり国民生活に多大な影響を与えた。
鉄道の開通を契機に、目的である近代産業が一気に成長し、その工場で働く労働者の数も急増した。
これらの労働者は低賃金、無権利、長時間労働のもとにおかれ、やがて自然発生的な抵抗となり、労働者の自覚、労働運動に結び付き、農民運動、社会主義、共産主義など無産運動の発展に大きく寄与していくこととなる。
1-1-2 日鉄ストと「日鉄矯正会」
1887(明治20)「労働組合期成会」が発足し、その中の積極的な活動をした労働者達が「鉄工組合」を組織したが、その根幹をなしていたのが日本鉄道の従業員であった。1898(明治31)2初旬、日本鉄道、現在の東北本線の機関方に「我党待遇改善期成会」という秘密文章がどこからともなく舞い込み職場に配布された。
我党待遇改善期成会
会社之我等を冷遇愚弄は、保線課一同は甲乙の別なく一人残らず増給、運輸の連中は日給者にあっては十銭二十銭、月給者年俸者にあっては二等若くは二等の上の増給者多く目覚ましい優遇なのに我等には微風だになし。
会社の眼中に我われ機関方なし。尚少し往時を顧みれば二十七、八年の日清戦争には軍事輸送の責任に当たる者は准軍人と見なし機関方、火夫、駅長、助役は予備役を免ぜられた如く、皆その責任は同等であったが、その賞与は駅長、助役は二十日あるいは五十日の賞金、勲章、褒章を貰い、反対に辛苦惨怛の任務に当たった我われには何物もない。
憤怒せないで居られようか。また某駅長は曰く、機関方は馬なり、我われ駅長の叱咤の下に業務を全うせねば可なりと。只一言駅員の監督に甘んじ疾風の如く運転し、遅れ時間を取戻す等其状恰も馬車馬の如し、真に憐笑の至り阿房の長上なりと、此言至る処あり諸君以て戯言となすか。
而して機関方にして平々拝々、恰も奴隷の如くせば可なるも、若しも一朝不平を称えんか人々の嫌う五区線に追はれ又縁の下の敵打目標の所為に困むは必せり。
一身を清くせんと不平を堪へ辞職せんか、亦容易に許可でず強て辞職を告ぐれば免職若しくは出世を妨害するの手段を採り始めて願意を許可する等自由権利を妨害するも甚だし。
大会社の一個人を困しむる手段極めり。
下尚有形上の運動は成し能はず。
心中同盟の好時節なり。
而して運動の手始めとして明治三十一年二月十五日迄機関方火夫一同臨時昇給の事を、此書翰御一覧の上必ず二銭郵券を奮発し課長宛に匿名を以って何百通を不限東西南北より上願すること。
待遇改名の件
機関方を機関手に、心得を機関手心得に、火夫を乗務機関生に、掃除夫を機関生とすること。
如何となれば機関方は運転技手なり機関手の方当然のことなり。既に甲武鉄道会社は此事行はるなり。之が機関手の候補たる火夫掃除夫の解明必要なり。
如何となれば責任重大なる運転技手なる機関方の候補者たる者は、相当教育あらざるべからず。相当教育者を採用せんとせば、之れが試験の程度を高め高尚なる人物を要するには勢い名を改むべきなり。一例を以ってせ施ば、海軍火夫、常に欠員に困む当局者見るところあり。名を改めて海軍機関係とす。
而して目下出願者多く常に満員なりと云う。もって名称を改むべきを止しトすべし。而して機関手心得以上は書記同等待遇は当然の事但し日給のことは暫らく当局に委す。
そして、この目的を達するために、右条件成就するまでは全線機関方心得以上は、心中にて確く同盟し、所謂以心伝心を以って固く相誓ひ、人知れず二銭の郵券を奮発し東西南北より社長副社長乃課長宛て不絶上訴して止ざる義務あるべし。
而して心中同盟なれば、之れが会長もなく幹事も書記もなし。又犬の愁なし。反心者の悲もなし。
少しく仮命は非なれども、彼の露国の虚無党の如く欧州の社会党の如くせん。
さらば二月十五日の可否を以って臨時増発の有無に不係、先づ運動の第一着手として、第333条の実行をすること、これを記するに当たり伝え聞く此条厳禁の二字を削除せりと。嗚呼実に会社は巧みなり。我われを馬の如く鞭たんとす。爰に至って愈々怒らざるを得ず。仮命厳禁の二文字を削除するも我われの手心厳守せば可なり。我われ規定に反して無理勉強せざれば運輸上遅れて、日々二、三時間は保険付きなり時間表は不必要なり。
赤松秀雄著「暗黒時代の鉄道労働運動史」1977年発行 叢文社刊より
この秘密文書が各駅に伝わると、長い間不平不満を抱いていた機関方たちは一斉に行動を起こし、嘆願書の郵送は大流行となって各職場に広まっていった。とくに積極的な機関方は秘密裏に会合を持ち、手分けをして文章を更に広範囲にわたって配布をしはじめた。
これらの動きを察知した会社側は2名を停職、更に首謀者10名を解雇した。この会社側の暴挙に抗議をし、2月24日から25日にわたり福島を中心に上野、宇都宮、黒磯、仙台、青森、尻内、一の関等の機関方が電報で連絡を取り合い400名が一斉に同盟罷業、ストライキに入り、郵便列車を除くすべての日本鉄道の列車が止まった。
ストライキの情報をつかんだ会社は狼狽して、課長の足立太郎を現地に送りこみ妥協策をねったが、争議団は文章や電報により更に団結を固め宣伝を強化し、会社側の攻撃を打ち砕いていった。
ますます闘争力を強め、要求が通らない内に一旦同盟罷業を解けば、再び同盟罷業は無理との判断から仲介者である足立太郎課長の申し出に沿い、各駅の代表者を選び陳情団を組織し上京させた。
陳情団は2月28日から3月6日まで数回にわたって会社の役員と会談交渉を行い、会社にその要求を承諾させた。
そのうえ、要求実行について保証がないとして、会社が約束を完全実施するまで陳情団は東京に留まり3月29日完全実施を確認してそれぞれ職場に帰った。
ストライキによる要求完全実現を勝ち取った労働者側の完全勝利だった。
ストライキの完全勝利後、「待遇期成同盟会」を解散して「日本鉄道矯正会」に移行することを決めた。
このストライキで石田六次郎と池田元八は解雇されたが他は全員復職し、石田、池田両名も六ヶ月後復職させ「日本鉄道矯正会」の団結力を内外に誇示した。
「日本鉄道矯正会」の特徴として、禁酒会に入会する者とキリスト教信者になるものが多かった。
組合員のうち禁酒会会員になった者が200名以上いた。当時の組合員は先覚者的意識が強く、酒を絶って身を清らかにし運動に携わっていたと思われる。
争議の指導者で解雇された10名のうち5名は熱心なキリスト教信者でもあった。また「我党待遇改期成大同盟会」という秘密文書の作者であり争議の中心人物である石田六次郎は、「矯正会」会員の有志を誘って1898(明治31)暮、禁酒会を起こし、またキリスト教を説き、周囲から冷笑を浴びせられながらも次第に同志を増加させていったことは、この時期の労働組合運動の特殊な状況をあらわす一つの事象ということができる。
2-1-3 社会主義運動、労働運動
すでに1886(明治19)6には、甲府市山田町雨宮生糸紡績工場で日本最初といわれているストライキが発生した。
我が国の近代的な労働組合として初めて「労働組合期成会」が組織されたのは1887(明治20)7であった。
「労働組合期成会」の活動と並行して「労働組合期成会」内で最も積極的に活動してきた労働者達の組織としての「鉄工組合」の結成が1897(明治30)高野房太郎、片山潜らを中心に呼び掛けられ、12月には「鉄工組合」が結成された。この組合には、砲兵工廠、甲武鉄道、日本鉄道大宮工場、国有鉄道新橋工場などが参加し組合員5000名にも達した。
1898(明治31) 片山潜らによって「社会主義研究会」が生まれ、やがてこの会は安部磯雄を会長とする「社会主義協会」となり社会主義運動を目指した。
こうした組織された労働者達の自主的な運動に対して体制側はその抑圧、弾圧にあらゆる手段を講じてきた。
1900(明治33)3月、山縣内閣は「治安警察法」を6月には「行政執行法」を発布し、芽をだしはじめた労働運動、社会主義運動などの無産運動を徹底的に弾圧してきた。
「鉄工組合」は衰退し、日本鉄道大宮工場支部も壊滅し、結束の固かった「矯正会」も1901(明治34)12やむなく解散となった。
この年、日本最初の無産政党「社会民主党」は結成即日禁止されてしまった。
治安警察法によって完全に封じ込められたかにみえた無産運動は、1904(明治37)に始まった日露戦争によってふたたび息を吹き返した。
日露戦争による増税、物価高騰は庶民の生活を直撃し、弾圧下にも関わらず労働者はたたかい、戦争終了後の1906(明治39)には、阪神電車、東京砲兵工廠、呉海軍工廠、大阪砲兵工廠などで争議が発生、1907(明治40)の足尾銅山、別子銅山、幌内炭鉱の争議は暴動化し軍隊が出動するまで大規模になった。
日露戦争に対する圧倒的な戦争熱に国中がかきたてられている中、平民社を中心に弾圧に抗しながら反戦運動も活発におこなわれ、戦争後の労働運動の高揚を背景に1906(明治39)日本社会党が組織され、西園寺内閣はこの結社届を受理し日本最初の合法無産政党が誕生した。
しかし、日本社会党はその1年後解散を命じられ、「赤旗事件」で数名の活動家が逮捕され、さらに幸徳秋水ら12名が死刑になるという「大逆事件」がおきこの事件を契機に社会主義運動は更に徹底的に禁止された。
1-1-4 国鉄大家族主義
日鉄ストや日露戦争後の不穏な動きや鉄道国有化法の施行を機に国鉄労働者の高まる不満、労働運動、社会主義への動きが強まる中、治安警察法による弾圧だけでは防ぎきれないとみた当局は、近代的な雇用関係と権力への絶対的服従を求め、国鉄職員にのみの特別な優遇体制を作りだした。 1907(明治40)表彰制度(効績賞など)、救済制度の制定、鉄道弘済会の設置。1909(明治42)家族乗車証の発行、消費組合のちの物資部の設置、福利厚生施設、保養所、クラブの設置、鉄道官舎の充実。1911(明治44)鉄道病院の開設。1913(大正2)家族慰安会の実施などをつぎつぎと打ちだし、他の官吏や、他の労働者と違うとの特別優遇措置を内外に明らかにし、無産運動からの誘いかけから目をそらす、飴の施策を打ち出してきた。
国鉄分割民営化までつづいた各種の優遇措置は、このような目的を持って施行され、国鉄労働者の心に特権意識を根付かせるために大きな効果があったことも事実だ。
1-1-5 静岡県東部のうごき
静岡県東部でも1899(明治32)小田原、熱海間の豆相人車者鉄道の車夫50人が、賃上げや支配人の排斥を要求して勝利したのをはじめ、1907(明治40)8.10吉原町の巡査25人全員が同盟罷業したとの記録がある。
1919(大正8)頃、沼津でも無産運動の火の手が上がった。火付け役は沼津市住吉町(当時の楊原村上香貫)に住む渡辺太郎であった。当時18歳の青年は中央指導者と直接連絡をとり、その影響や革命的文献などにより一通りの共産主義理論を身に着けていた。
渡辺太郎は、闘志をみなぎらせ、実践運動に没頭していった。工場や農村に深夜官憲の眼をかいくぐって、こっそりと宣伝ビラがもちこまれ、過激なポスターが一晩のうちに張り出され人々を驚かせた。
翌1920(大正9)階級的意識に芽生えた青年たちによって日本社会主義同盟静岡県支部が確立された。加盟した者は20名ほどで、知識人を主として工場労働者は少なかった。
渡辺太郎はこの日本社会主義同盟静岡県支部の支援を受け沼津機関庫や他の工場や農村の貧農部落などに働き掛け、間もなく一、二の熱心な協力者が現れた。
その一人が沼津市八幡町で医院を経営する山口伝八であった。山口伝八は民政党の院外団に席をおいていたが党内では異端者であった。思想的には社会主義を全面的に支持するという態度でなかったが、その後長年にわたって静岡県東部の無産運動に助力を与えてきたが、自由主義者に近かった。 山口伝八の名声は、駿東郡下に知れ渡り、大きな支持を得、駿東郡富岡村千福の貧農部落に150人の小作人組合の結成を実現させた。これが駿東郡下最初の農民組織だった。
もう一人は、当時山口伝八の医院に書生として住み込んでいた福島義一という青年である。
福島義一は沼津の狩野川永代橋の先に民家をかり、そこで労働者相手の夜学を開き、英語を教える一方、社会主義思想の普及に努めた。そのなかの一人に後に共産党赤旗編集局長になる松本一三もいた。
福島義一、渡辺太郎はひきつづき労働運動の分野にも力を入れ沼津機関庫を主目標に組織化の運動を続け、ついに三、四名の優秀分子の獲得に成功し、彼らが後述する大日本機関車乗務員会沼津支部の中心人物となっていく。
この間、中央からは山本宣治を呼んで沼津で講演会などを開催している。
1923(大正12)5.1沼津市市場町八幡神社拝殿においてメーデー記念講演会が開催された。東京との連絡を取りながら社会運動を進めていた渡辺太郎が山口伝八、福島儀一と準備を進めたもので、稲村隆一(当時学生、のちの社会党代議士)が講演した。もちろん無届集会であり、静岡県では初めてのメーデーであり100人前後が参加し、沼津機関庫からも参加者があった。
渡辺太郎は1923(大正12)日本絹糸争議(富士郡大宮町、現富士宮市)を指導し、富士紡績小山工場の労働争議や小作農の小作料減免闘争を指導した。
1925(大正14)2静岡県東部合同労働組合が結成され、日本労働組合評議会に加盟し活発な活動を開始した。
農民運動も活発化し裾野に駿東郡中部農事研究所なる農業組合が結成され、小作人や貧農を組織化していった。このころから御殿場の山崎剱二という二十二、三の青年が農民の会合に出入りするようになった。また、神奈川県小田原から内野竹千代という青年も時折駆けつけ情報を交換し合っていた。
山崎剱二はその後、藤原道子と結婚し、沼津へ進出、夫婦そろっての無産階級運動の指導者となっていく。
各種の無産運動団体の政治活動部門を担当する役割を担って1926(大正15)5.3労働者農民党が結成された。この労働者農民党の静岡県東部の受け皿として1926(大正15)11.14沼津において労働者農民党(労農党)駿豆支部の結成準備会がもたれ、結成大会は12.4沼津市千本浜国技館で開催された。
大会には沼津機関庫から多数が参加し、労働者を代表して準備委員を務めてきた沼津機関庫西川保はこの大会で書記(現在の執行委員)に選出されている。
西川保は、これより静岡県東部の労働運動の中心的存在となり、幅広く無産運動を行い、1930(昭和5)5.15事件で検挙されるまで活躍した。
労働農民党駿豆支部事務所は沼津市西条に設けられ、日本農民組合支部、静岡県東部合同労働組合、全日本無産青年同盟沼津班などの事務所も併設され静岡県東部の活動の拠点となった。
また、国内プロレタリアートの唯一の党を自任する日本共産党も1922(大正11)非合法的に結成されたが、静岡県東部、東静地方には非合法日本共産党に直結する者は当時みられなかった。