おまけ


国鉄労働組合

沼津革同

社会労働運動

米軍、自衛隊基地


 1968年、昭和43年、憧れの国鉄、それも希望どおりの沼津機関区に就職ができ、明け、休みの日はほとんど鉄道写真を撮りまくり、北は留萌、網走から、南は鹿児島まで、蒸気機関車を求め飛び回っていました。
 
 沼津機関区は、明治19年開業以来東海道本線の箱根越えの基地として、また昭和9年の丹那隧道開通後は電機と蒸機の接続基地として、そして昭和25年からは湘南電車の西端基地として、東海道、首都圏への入口としての輸送基地としての重要な役割を果たしてきました。
 そのため、戦前から社会運動や労働運動の拠点となり、大正9年に国鉄で最初に結成された労働組合、大日本機関車乗務員会は、沼津支部の結成が全国展開への天王山となり弾圧され潰されるという歴史をもっています。
 また、戦後、国鉄での労働組合結成は、釧路工場、旭川工場、大宮工場に続いて4番目の1945年、昭和20年12月5日に
国鉄沼津機関区従業員組合として発足し、新聞は、国鉄で戦後最初の労働組合ができたと報じました。
 これは、工場は当時工機部といって、地方管理部に属する現業機関ではなく、各鉄道局の直属機関であったため、
現業機関では最初であったための報道だと思われます。

 その後も、首都圏の入口という立地条件や結束力の強さから国鉄労働組合の諸行動の先鞭を切り、仲裁裁定完全実施、
春闘、年末、合理化反対など各闘争では何度も拠点職場に指定され、
分会組合員は国鉄当局から過酷な処分を数多く受けていました。

 わたしが就職した職場が、その伝統の国労沼津機関区分会だったのです。

 1970年頃、沼津機関区にも全国的な大きなうねりが押し寄せていました。
職場での、自信のなさそうな管理者、自信と誇りに満ち溢れていた組合幹部など毎日見ているなかで、
私も当然のことのように例外に漏れず

優秀?で過激?な国労組合員、国労青年部員、役員に短時間に成長?していきました。

 世は高度経済成長の真っただ中、沼津では、四日市、君津を上回る大石油コンビナート建設を社会党、共産党、
自民党の一部と労働組合が共闘組織を作り計画撤回に追い込んだ
いわゆる革新陣営のエネルギーが町中にあふれていました。
 隣の、吉原では製紙工場による、大気汚染により、
吉原に近づくと夏でも列車の窓は閉めなければいられないほど臭く、
新設された田子の浦港は製紙カスのヘドロで埋まってしまい公害反対闘争が盛り上がっていました。
 あわせて、1970年の日米安全保障条約の改訂、沖縄返還、大学紛争、ベトナム戦争など社会変革の大きな波のなかで、
拠点であった沼津機関区の諸先輩に誘われ民青、日本民主青年同盟に加盟し世の中を変えてやろうと、
国労の組合活動とともに運動に自ら飛び込んでいきました。

 一方で鉄道ファンは第一次?のSLブームとなり爆発的に増え、
それまでの変わり者のグループから社会的にも認知され始めていました。
鉄道ファンを相手にした本は、鉄道ピクトリアル、鉄道模型趣味しかなく、
鉄道友の会の幹部が鉄道ファンを創刊してしばらくたった時代でした。

 私は、前述した、組合運動、民青活動にのめりこんだこともあり、
このような爆発的な鉄道ファンの広がりについていけなくなり、
1970年、昭和45年3月の北海道への撮影行を最後に鉄道写真を撮ることを辞めてしまいました。

 その後、カメラを職場に持ち込み、職場での組合運動や、各種集会、デモ行進、大会の記録、米海兵隊の沼津今沢基地、東富士基地や自衛隊などの写真を撮るようになりました。

 「おまけ」ではこれらの写真を掲載しました。
「国鉄労働組合」では春闘やマル生反対闘争など沼津地域の国労の闘いを写真で紹介する予定です。
「沼津革同」は国労革同の歴史、資料を記載します。
「社会労働運動」は、沼津の他の組合、地区労、革新陣営の運動の写真です。
準備できしだいアップします、今しばらくお待ちくださ。