目  次

はじめに
前史
明治維新と鉄道開業
大日本機関車乗務員会
全日本鉄道従業員組合
敗戦、労働組合の結成
戦後国鉄最初の労働組合結成は
全国に広がる労組結成の波
革新政党再建
9・15スト
2・1ゼネスト
革同結成
労働者農民党
定員法
レドパージ
日本国有鉄道、静岡地本成立
日本共産党の50年問題
平和四原則と国労新潟大会
闘う国労への突破口
革同会議へ
60年安保闘争へ
1964、昭和39年
EC闘争
EL、DL闘争
沼津独身寮の闘い
国鉄民青の組織化
平和運動、原水禁運動
国労の文化運動
分会を支えた多彩なサークル
幅広い統一戦線の先駆者
マル生反対、スト権奪還闘争
組合幹部、活動家のあるべき姿
職場集会とオルグ
静岡地本内での革同
特徴的な闘い
青年部中央委員、地方委員選挙
分割民営化攻撃の中
分割民営化による国労拠点潰し
県内労働運動の再編
勤務プロジェクトと労基署闘争
採用差別、出向、配属差別との闘い
採用差別和解
まとめ

鉄路のおもい>おまけ>沼津革同


2 敗戦、労働組合の結成

2-1 労働組合結成


2-1-1 国鉄当局の組合結成への動き


 1945(昭和20)8.15 太平洋戦争は日本のポツダム宣言受諾によって無条件降伏で終わった。
 この日より数日間は、生産工場、官公庁、軍隊すべてが完全機能停止したが、国鉄のみは逞しく汽笛を鳴らしダイヤどおり走っていた。
 広島、長崎をはじめとした全国主要都市は、米軍の戦略爆撃と称する一般市民に対する無差別爆撃により焦土と化したが、その中を国鉄の列車が不死身の如く走る姿は虚脱状態に陥っていた国民におおきな励ましと希望をあたえた。 当局は1941(昭和16)に産業報国会の一環として作った「国鉄奉公会」を解散し、従来の「現業委員会」の焼き直しである「鉄道委員会」を発足させた。 「鉄道委員会」は「鉄道従業員の上下の意志疎通を行い、現場職員の生活の安定、福利向上及び能率の増進を図ること」を第一目的とし「新日本の新しい勤労者組織として、鉄道に関する限り世界的なものまで育成してゆくこと」を目的とした。
 1945(昭和20)10.14その事務局を本省に設置し、11.1には鉄道委員会規定及び選挙規定を決め12.17からは鉄道委員選出の選挙が各職場、職域で開始されるはこびとなった。
 しかし、12.6国会に提出された労働組合法案では、団体交渉権やスト権があり、「鉄道委員会」では要件を満たさないことや、なによりも上からの官制押し付けの御用組合はもうこりごりだとの声が職場に強く、戦前の闘争や弾圧などの経験を経た活動家のいる職場では自主的な組合作りに動き、このような当局の動きに強く反発していた。
 進められていた鉄道委員の選挙準備も、自主的組合の結成を目指した所では鉄道委員の選挙にしても組合結成の指導的役割を果たしている者を鉄道委員に選んで鉄道委員会を内部から解散させようという動きも少なくなかった。
 国鉄当局もこのような動きを察知し、12.13本省庶務課長を中心に、各鉄道局指導課長、工務部、管理部、地方施設部の庶務課長を集め、「鉄道委員会を解消し、鉄道委員を中心に労働組合の結成を指導せよ」と指示をした。
 国鉄当局の指示を受けた各指導課長はこの指示に従って各職場で工作を始めた。当局が目指す労働組合は各管理部単位に運輸、運転、工務、電気、管理などの職能別に組織し管理部ごとの連合体を鉄道局に作り、その連合体とするもので職能別組合連合体構想であった。
 当局による管理者への説明会で「この組合組織は、たとえ世論で官製といわれても労働組合法の施行までに是非作りたい。この組織は勤労局、局指導課、管理部庶務課の内面的指導でやっていく。そして国鉄労働組合は日本最右翼の組合とならなければならない」と明確にその意図をのべ、この意図に沿って作られた組合は国労のほとんどを占め、其の後の国鉄労働組合の運営、方針にも大きな影響をあたえたことは否定できない。

2-1-2 職場からの自主的組合結成の動き

 戦前、大日本機関車乗務員会、全日本鉄道従業員組合、無産運動に関わったり、3.15、4.17で弾圧された人達が居た職場では労働組合の結成に向けて活発に動き出した。
 田町電車区の鈴木勝夫は1945(昭和20)8.15玉音放送を聞き「我われの時代が来た」と職場で演説を行い、活動家を結集させ公然と活動を開始したのが最も早かったといわれている。
 1945(昭和20)11.15本省の井上唯と野本政治らは「国鉄従業員組合準備会」を組織しガリ版刷りの機関紙「汽笛」を約千部刷り全国の国鉄労働者に御用組合反対、自主的組合の結成を呼び掛け、11.25には準備委員会を開き、宣言、綱領、当面の主張、規約草案などをまとめ全国に訴えた。
 11.19には戦後国鉄最初の労働組合が釧路工機部に結成された。
 大宮工機部の労働者は明治の鉄工組合以来の伝統を以っていち早く行動に出た。
 11.25斉藤鉄郎など代表者が東京鉄道局に賃金五倍をはじめとする要求を行い、要求が通らない場合は一斉ストライキに入ると宣言した。ストライキには入らなかったが11.26からサボタージュに入り、ほぼ要求は受け入れられ、12.5組合が結成された。
 大宮工機部の決起を聞いた郡山工機部の労働者は11.28職場大会を開き、大宮工機部を支えようと、組合結成の嘆願書と要求を決め、11.30工機部長に提出した。12.3交渉が対立、騒然とした状態で決裂し午前4時から抗議ストライキに入った。国鉄最初のストライキとなった。ストライキは12.6中止され同時に仙台工機部従業員組合が結成された。
 11.28には旭川工機部、12.7苗穂工機部、五稜郭工機部と全国の工機部での組合結成が先行した。


2-1-3 沼津機関区従業員組合結成

 1945(昭和20)9.15沼津機関区の東隅にあった乗務員休憩室、旧安眠所に山口寅吉と何人かの人が集まって労働組合の結成について話し合った。
 山口寅吉は横川機関庫に就職し、大日本乗務員会結成時から労働運動に関わってきた。横川機関庫で現業委員に選出されが、機関車応急措置競技会を拒否し、共済組合の不正を暴露したため沼津機関庫へ配置転換させられた。
 沼津機関庫に転勤してからも現業委員や連合委員(現業委員の管理部ごとの委員会、沼津の場合は東京鉄道局新橋管理部)になり、東鉄では相当の有名人だった。
 職場では親分はだで面倒見のいい性格で多くの人に親しまれていたが、戦争末期の荒廃した職場を何とかしようと作った中年層の「誠心会」の会長になり、青年層が作った「白菊会」(会長植松恒男)と共に機関区の整備や、秩序維持に力を入れていたので、一部の人たちからは白い目で見られていた。
 沼津空襲で家を焼け出され、終戦の時は大腸カタルで仕事を休んでいた。
 山口寅吉や沼津機関区従業員組合について「国労運動の中の人々」村上寛治著で次のように記載されている。

「国労運動の中の人々」
 1916(大正5)年、横川機関区に勤務する事になったのが、山口寅吉さんの鉄道生活のはじまり。ここで現業委員になっているので、長期間務めたことになる.だから、碓井トンネルの「13キロあまりは、かよいなれた道」だった。
 労働者の問題に関心をもつようになったのは。1919(大正8)年の大日本機関車乗務員会の結成からだった。
 沼津機関区に変わってからも、現業委員、連合委員をしていた。したがって、東鉄管内の機関士仲間ではなかなかの顔だったようである。
 事実、戦後の組合組織化の段階では、遠く、平、白河、長野あたりから、有志が山口さんを訪ねている。 そして、戦時中は沼津機関区の乗務員を集め「誠心会」という組織を作り、自ら隊長になっていた。目立った存在だったといえよう。
------誠心隊というのは、どういう組織なんですか。
 山口さんは、やや自嘲的に答えた。戦時中、沼津機関区の構内には石炭ガラの山ができて、炭水夫だけでは取り除けなかった。だから、身動きできない状態になり、下手をすると機関車も動けなくなる。そこで、乗務員の有志(80人余り)が誠心隊を作って石炭ガラの搬出をした。
 「終戦の時は大腸カタルになって休んでいたため、機関区に出勤したのは9月20日ころ、職場は荒れ放題だった。」
 山口さんは、荒れた職場を何とかしなければと考えたようだ。同じ職場の富岡さんの場合は、国鉄がこんなでは国の再建などあり得ない「一刻も早く働けるようにならなければ・・・・」と思ったそうだ。
 おそらく、多くの国鉄労働者の心情は、満足に働けるようにしてほしいということであったにちがいない。
 そんな状況のもとで、山口さんは「誠心隊」を労働組合に転換し労働者の生活を守ろう、安易な考えといってしまえばそれまでだが、ともかく組合をつくることにした。むろん「誠心隊」に参加していた乗務員が中心になって。

村上寛治(1981)『国労運動史の中の人々』

「沼津市史」、「国府津支部運動慨史」は、組合結成への動きについてつぎように記載されている。

沼津機関区労働組合結成
 沼津における労働組合の結成準備は、国鉄沼津機関区から始まる。「沼津機関区百年史」によれば「昭和20年9月15日、戦時中横川機関区から転勤してきた山口寅吉らによって、労働組合結成について論議され、同年12月5日、国鉄沼津機関区労働くみあが結成された」
 独立した組織であった同組合は、三か月後の昭和21年2月、国鉄労働組合総連合会結成にともない、国府津地区支部傘下の沼津機関区分会に改編される(分会長山口寅吉)。
 後の共産党市議、岩瀬敏彦も分会設立期のメンバーであった(書記部副部長)。
 関東配電沼津支店でも、河口為三郎らにより、国鉄に僅かに遅れて組織化が進んだ。関東配電従業員組合沼津支部700名は、昭和21年1月16日、早くも給料値上げ(即時5倍へ引上げ)等を掲げたストライキに入った。
 このほか、芝浦工機沼津製作所従業員組合は1月14日に772名の組合員で誕生(「東芝機械沼津労働組合30年史」)、国産電機従業員組合は2月に、大川螺子製作所労働組合は3月1日に結成された。
 沼津市吏員組合は、1月7日に結成されているが、当初は職制に沿った産業報国会を再編した形態の組織だったと思われる(史料編現代196〜200ページ)

沼津市(2009)『沼津市史』通史編現代 

「国府津支部運動慨史」
 「同年(昭和20年)11月には、沼津機関区山口寅吉氏を主流とした一つの動き、本省の井上唯雄氏、大宮工機部の斉藤鉄郎氏、省線電車従業員としての鈴木勝男氏の活躍は、東京近辺という条件もあって、特に顕著であった」と書いているように、山口さんらの活動は目立ったものの一つであったようだ。
 けれども、沼津機関区内の組織化は、必ずしも順調ではなかった。当時、民主化、労働者の開放闘争の火の手が野火のように燃え広がっていたのと比べ、ここでは何か一つ噴出するものがなかったからだった。
 沼津機関区1200人のなかで、組合結成に応じたのは、わずか167人である。
 「参加者が少ないのは、第一に「誠心隊」に対する反感だった。第二は、当局から睨まれる、弾圧されるかもわからない。第三に労働組合にたいする知識の不足があったと思う」と山口さんはいう。
 だが、そうした労働組合への戸惑いも、やがて一変することとなる。すなわち、12月5日、機関区の講習室に167人が集まって「沼津機関区従業員組合」結成大会を開いたところ、新橋管理部から祝辞が寄せられたからである。(翌1946年の総連合結成大会には、鉄道局長官の佐藤栄作が祝辞をもって姿をみせている)
 「これで、組合を警戒した人々もどっと加入してきて、小田原大会のころには、ほとんど全員が組合にはいっていた」

「国労運動史の中の人々」村上寛治1981.(昭和56)12.15発行

田中栄光の小説「N機関区」の書き出しに次のように記載されている。

小説「N機関区」
 このN機関区には2000人あまりの組合員がいた。ここは東海道線で電気区と蒸気区の境目にあたるところであり、日本の電気機関車の大半がここの機関庫に入るといわれる、日本でも有数の大機関区だった、そうしてこの機関区に労働組合ができたのは1945年10月はじめのことで、鉄道としても日本としてもかなり早い結成式をあげたものだった。この組合ができた当時の話を私はしばしば創立以来続けて、この組合長をしている山本虎三からきかせてもらった。
 山本虎三は年のころ四十二、三の男ざかりで、二十何年かのながいあいだ機関士の古参として努めてきて、ふつうならとっくに助役になれたひとだったが、もともと上役に楯をついても下の者を可愛がる気性のところに持ってきて、十何か前、例の4.16にちょっと関係があったりしたものだから戦争中づっと平機関士をやらされていた。
 その戦争の末期、これはやはり日本人全体の戦争と思いこむようになっていた山本は、若い機関士たち十何名かと輸送挺身決死隊を作り、B29の爆弾や機銃掃射などを受けながら、石炭の積み込みに懸命だったこともある。そうして終戦直前にN市が爆撃を受けた時、山本の家は罹災した。おまけに彼はそのすぐあと赤痢かチブスにかかったので8月から9月にかけて、ずっと鉄道を休んでしまった。
 その病床で彼は敗戦のニュースをききはやくも労働組合のことを考えていたそうだ。そうして、10月はじめに出勤できるようになると、一種の虚脱状態に陥っている職場で、彼はすぐ労働組合の趣旨をとき同志をつのってみたが、はじめには一人として彼の言葉に耳をかたむける者がなかった。
 こうしたことを虎さんはときどき一種の感慨をこめいくらか自慢話のようにして私に話して聞かせた。
 この薄い髪の毛のちぢれ、顎のしゃくれた精悍な美男子の虎さんは、その人に好かれる容貌の故にも、その若い者を可愛がる気性の故にも、さらにその一通り社会主義理論をマスターしている頭の良さの故にも、多くの組合員からまず絶対的な支持を受けていた。

田中英光(1964)「N機関区」『田中英光全集』芳賀出版 

 山本虎三のモデルが山口寅吉、小説なので幾分事実と違うことがあるが、大変参考になる。

 こうして組合結成の準備に入ったが、思うようには賛同者が増えなかった。戦争が終わったとはいえ、特に戦前、果敢に闘った沼津機関区の労働者や無産運動活動家に対する弾圧、当局の締め付けを目の当たりに見てきた。一人の検挙者がでればそのまわりの者が40人位は、特高警察の事情聴取を受け、拷問にあってい、多くの者は躊躇していた。
 沼津機関区での旗揚げが遅れた理由に付いて、子上昌幸は、筆者が2011(平成23)2.22お宅を訪ねた時、次のように語っていた。
「沼津機関区の山口寅さんは、実際には9月くらいから積極的に動いていた。
 10月に熱海駅で組合を作ったら、すぐに岩瀬、楠に子上というやつはどんなやつか調べてこいと命令して派遣してよこした。また岳南労働組合協議会というものを作って地域の人達にも盛んにオルグしていた。ただ、沼津機関区はそう簡単にはいかなかったようだ。なぜかといえば機関士というのはプライドが高い、機関士は、判任官などもいて職制のようなものだった。そのなかで沼津機関区では優秀な指導員である長倉豊太郎さんや、神山伝吉さん、石飛浅次郎さんのような人たちが積極的に組合に参加し、指導者になっていった。時間がかかったが、ここが他の区との違いで沼津機関区の層の厚さを発足前から追求していた。
 だから、山口寅さんは、最後まで共産党に入らなかった。こういう職制のような指導員までもまとめ上げるには共産党員でない方がいいという考えだったんだと思うが、そのかわり、楠半兵衛や岩瀬敏彦などの若手の入党には積極的にかかわったようだった。なにしろ千人以上もいたのだから結成までには時間も掛り、相当の苦労もしたようだ。」
 1200名を超す人数に膨れ上がった沼津機関区の従業員のうちわずか167人の賛同で1945(昭和20)12.5沼津機関区の講習室で結成大会を行ったが、新橋管理部から祝辞が寄せられたことを聞いて、組合を警戒していた人も一気に加入し、その年の年末には、ほぼ全員が沼津機関区従業員組合に加入した。

2-1-4 新管機関区労働組合結成

 沼津機関区従業員組合が発足し、日増しに組合員が増え、ほぼ全員が加入した中1945(昭和20)12.24新橋管理部管内の東京、品川、久里浜、高島、国府津、伊東、沼津の7機関区の代表者500人が小田原市城内小学校に集まり「新管機関区労働組合」を結成させた。
 組合結成の呼び掛け文があるので記載しする。

新管機関区労組呼び掛け文
 鉄道従業員諸君
 吾々は戦時中も亦終戦後も益々重大なる任務を持ち其の大任を果たし偉大なる貢献を社会にも国家にもなして居る。
 然るに現在の俸給や給料では到底生活していけぬどころか来る日も来る日も貯金を引き下げ衣類や家財を売りてかろうじて今日まで生活してきたが、吾々は最早貯金も無くこのまま推移する時は餓死より他に道はない。12月に入り物価手当及び家族手当と賞与を僅かばかり増加してくれたが此の程の増加では現在の物価に比し如何することは出来ぬ、このどん底生活を当局知っているだろうか。若し知っていても何等かの打つ手を構え時得ないとすれば余りの無気力と其の無能さにあきれてしまうばかりだ。
 此々当局の何の手を待って居れば我々のみではなく家族迄も餓死せしめねばならぬ「家宝は寝て居てはこない」此処までに於て我々は我々が手で生活権の確保と向上を計るよう組合を結成した。
 従事員諸君
 今期89帝国議会でも労働組合法は可決し労働者及び勤労者が其の労働条件の維持改善を計るため組合結成を当然の権利として容認されたのだ。
 今こそ我々には天下公認の強大な武器を与えられた。
 我々は正々堂々と組合を造り我々の社会的経済的地位の向上を計り得らるる時代となったのだ。
 諸君等各々自己の価値に目覚むる事が目覚めである此の目覚めを悟らざれば新しい日本は造り得ずほんとうに我国は滅亡の悲運を招くのみだ。
 従業員諸君
 若し己々が自己の価値を正しく判定すれば自ら生活の待遇改善が叫ばれてくる此の叫びを形に表しかくして我々生活の防衛に或は攻撃する手段が労働組合である。
 此処に於いて現在の吾々の生活情勢  以下不明
 諸君らの駅区の中で5人でも10人でもよい直に話し合って組合を結成し加入申し込まれたれ我れ等は其の日の一日も早からん事を希望して止まぬ。
 そうして大同団結して事に当たり豊かな生活が出来得る様にすすもうではないか。
                              国鉄労働組合
追伸
 組合結成に付て御相談あれば何時にても都合して委員を派遣し手引き致します。
 事務所は当分の間沼津機関区内従業員組合で行います。

 さて新橋管理部内の前機関区は先に各々従業員組合を結成し全機関区一致して当局に当たる事になり国鉄労働組合を結成すべく来る24日小田原市に於いて発会式を挙行す。
 駅並びに区員諸君奮って御参加を願う。
   日 時  12月24日  14時より
   場 所  小田原市第一国民学校講堂
   主 催  沼津機関区従業員組合
         国府津機関区従業員組合
         東京機関区従業員組合
         品川機関区委員後援会
         新鶴見機関区従業員組合準備会
         高嶋機関区従業員組合準備会

 との内容で各区に訴えられた。
 大会は沼津機関区の呼びかけで集められ山口寅吉が議長をつとめ、委員長に選出された。
 結成大会では、「労働組合法を早急に制定せよ」「越冬資金1500円を支給せよ」などの要求が掲げられ、要求が受け入れられなければ1946(昭和21)1.10正午から東海道本線はストライキに入ると決議した。
 この1946(昭和21)1.10東海道本線でのストライキ決行宣言が「熱海事件」の発端となった。
 一方、国鉄当局は、「鉄道委員会」の組織化に乗り出し、1945(昭和20)12.28東京原宿道場で結成大会を開こうとしたが、これを知った労働者たちは、その場にいた滝東京鉄道局長、唐沢管理部長らをつるしあげ解散させてしまった。