過去の訪問した塔婆・ご提供画像(2003/01/05〜2003/03/28 )

過去の訪問塔婆履歴

2003/03/28 中野宝仙寺三重塔 三重塔跡および三重塔の詳細は「中野宝仙寺」のページを参照ください。
旧山城燈明寺三重塔 現在は横浜三渓園に移建されている。
詳しくは「山城燈明寺」のページを参照ください。
相模龍口寺五重塔 詳しくは「相模龍口寺」のページを参照ください。
相模本蓮寺多宝塔   同上
相模江の島弁財天 詳しくは「江島弁才天」のページを参照ください。
2003/03/27 成田山新勝寺三重塔 詳しくは「成田山新勝寺」のページを参照ください。
成田山新勝寺大塔   同上
中山法華経寺五重塔 詳しくは「中山法華経寺」のページを参照ください。
中山法華経寺銅製多宝塔   同上
中山法華経寺銅製宝塔   同上
中山法華経寺聖教殿   同上
浅草浅草寺五重塔 詳しくは「浅草浅草寺」のページを参照ください。
浅草寺五重塔「標石」   同上
浅草寺淡島堂宝塔   同上
上野寛永寺五重塔 詳しくは「上野寛永寺」のページを参照ください。
谷中天王寺五重塔跡 詳しくは「谷中天王寺」のページを参照ください。
旧安芸竹林寺三重塔 詳しくは「安芸竹林寺」のページを参照ください。椿山荘に 現存。
東京護国寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同      本堂
昭和14年建立。一辺5.3mのおそらく石山寺多宝塔をモデルにした純和様の大型塔です。
護国寺は天和元年(1681)桂昌院の創建(開山は亮賢)で、享保年間には焼けた護持院(知足院)が当寺に再興される。(筑波山中善寺のページを参照)新義真言部豊山派本山として幕府権力を背景に隆盛を誇り今なお広大な境内を有する。塔のほか本堂(重文・元禄11年<1698>建立・桁行7間、梁間7間)、月光殿(重文・園城寺日光院から昭和3年移築)などが健在です。
地下鉄護国寺駅展示
五重塔
地下鉄護国寺駅改札横に、玩具もどきの粗末な五重塔模型が展示されていました。なぜ五重塔なのか誰が何のために・・かはまったく不明ですが、参考資料として掲載。
旧攝津畑山神社多宝塔 詳しくは「摂津畑山神社」のページを参照ください。狭山山不動寺 に現存。
旧播磨掎鹿寺多宝塔 詳しくは「播磨掎鹿寺」のページを参照ください。狭山山不動寺 に現存。
狭山山不動寺(参考) 塔婆には関係ありません。
詳しくは「狭山不動寺」のページを参照ください。
埼玉金乗院五重塔 鉄筋コンクリート製の八角五重塔と称するものです。実態は不明です。平成11年落慶。
関東で盛んな例の新義真言宗のようです。山口観音と称する。
2003/03/26 池上本門寺五重塔 詳細については「池上本門寺」のページを参照ください。
池上本門寺宝塔 詳細については「池上本門寺」のページを参照ください。
(参考)池上本門寺日樹上人五輪塔 池上本門寺五輪塔のページを参照ください。日樹上人の建立石塔とされる。
旧大和長弓寺塔初層 詳細については「旧大和長弓寺三重塔初層」のページを参照ください。 高輪プリンスホテルに現存。
東京東禅寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
三重塔画像1−2は「X]氏ご提供。訪問時、門が閉まっていて立入りが出来ず。近所の人の談:「最近は閉まっていることが多いです。」
昭和63年。木造彩色。標準的な大きさで、純和様のようです。
臨済宗妙心寺末。慶長14年(1609)飫肥城主伊東祐慶が麻布に建立。寛永19年現地に移転。
幕末には最初の英国公使館として当寺が当てられたことで有名。
東京東禅寺宝塔1
 同        2
 同        3
宝塔画像1−2は「X」氏ご提供。訪問時は宝塔が建っている墓地も閉められていて立入り出来ず。
詳細は不明ですが、身は鉄筋コンクリートと推測します。
東京本光寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同    題目碑
木造(おそらく欅)彩色なし本瓦葺きの小型塔です。昭和60年完成。
三重塔は本堂背後(北西)にある。本堂横は墓地であり、その一角にある。
日什上人年表:至徳2年(1385)見付玄妙寺・品川本光寺創立とある。
東京本光寺宝塔1
 同        2
 同        3
三重塔と同時期昭和60年完成のようです。木造(おそらく欅)で彩色なし。
屋外塔としては超小型塔です。山門を入ってすぐ右(東)にある。
塔身は漆喰ではなく、板張です。軒はニ重繁垂木、四手先を用いる。
日什上人年表:至徳2年(1385) 見付玄妙寺・品川本光寺創立とある。
2003/03/21 陸奥孝勝寺五重塔 (有)瓦・造形にらつか様から仙台孝勝寺様五重塔画像をご提供頂きました。
青森ひばの純木造塔。総高約32m、初重柱間4.7m、五重約3m、軒出は全層共2.88m。設計:(株)鹿野設計事務所鹿野克己氏。部材総数:約16,100、斗総数:1,852個という。心柱は二重目から立つ。基礎:鉄筋コンクリート造べた基礎で相当な耐震性を持つという。完工は平成14年末、落慶は平成15年秋を予定。
光明山と号する。開山は永仁3年(1295)日門上人、寺号大仙寺。伊達家の帰依を受け全勝寺と改号。さらに孝勝院(忠宗室)などの寄進を受け孝勝寺と改号。伽藍は度々炎上し、現伽藍は近年の再興になる。江戸初期の敷地:7万坪、現在は約7千坪。
2003/03/05 和泉久米田寺多宝塔1
  同         2
  同         3
「X」氏ご提供画像
再建中多宝塔の覆が解体され、多宝塔の全貌が現れたようです。木造の伝統工法による塔のようです。高さ17.73mで大型塔のようです。落慶は平成15年10月下旬の予定。設計は南一建設株式会社・高瀬章雄氏(宮大工のようです)。
臥竜山隆池院と号する。高野山真言宗。天平10年(738)行基の開基とし、行基建立の49院の一つという。以降の寺暦は明らかでないようですが、鎌倉期は寺運衰微し、わずかに金堂・多宝塔・坊舎2,3宇と他は疎石ばかりという有様だったようです。
建治3年(1277)安東蓮聖(北条氏得宗被官)が熊野詣で託宣を受け久米田寺に参詣しその再興を志す。この頃、当寺は南都東大寺の兼帯所のため、東大寺より譲与を受け、蓮聖は行円房顕尊(西大寺叡尊高弟)を聘じて開山とし、久米田寺を華厳、律、真言の兼学道場として再興したと伝える。
南北朝には当寺は和泉の一拠点として南北両軍の挟間に立ち、南北両朝から寺院と寺領の安堵を受けるなど、その複雑な動きを知ることの出来る各種の文書を残している。後醍醐天皇綸旨や南朝の禁制が当寺に保管されているようです。一方では、足利直義が当寺に利生塔を建てる旨の御教書を発し、久米田寺塔婆の修造を命じた北朝光明院の院宣が下り、直義が同塔に仏舎利2粒を安置したとも伝えられる。これは全国66ヶ所の利生塔建立の最初と云う。
永禄5年(1563)三好・畠山の久米田合戦により堂塔は兵火で焼亡し、什宝、古文書は槙尾寺に難を逃れたという。今日の伽藍は江戸期に復興に着手、延宝2年(1674)再興がなり、宝暦-明和(1751-72)の修理を経て今日に至っている。天保14年の寺社覚:高野山宝性院末。開山行基堂・観音堂・明王院・華厳院・多聞院等の堂宇を有するとされる。現在多聞院、五大院、花厳院、阿弥陀院、明王院の5院を残す。
2003/03/05 黒谷・真如堂塔婆 イトーピア東山(マンション)の新聞折込広告より転載。2002年6月空撮。左:真如堂、右:黒谷
2003/02/22 大和大安寺西塔跡発掘調査現地説明会 詳しくは大和大安寺東西両塔跡のページを参照ください。
2003/02/21 山城教王護国寺五重塔1
  同           2
  同           3
山城教王護国寺夜景(夜間撮影モードで撮影しましたが、手振がひどいようです。)
2003/02/15 美濃岐阜公園三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
「X」氏ご提供画像です。
この塔は大変撮影が難しいのですが、ほぼ全容が写っている写真を頂きました。
2003/02/01
(今般淡路には、「X」氏に同行させていただきました。)
淡路平和観音寺十重塔1
  同           2
  同           3
実態はよくわかりませんが、豊清山平和観音寺といい、世界平和大観音像と称するものがある。
ここに十重塔がある。昭和57年建立?。高さ40m強。おそらく鉄骨で組上げ、新建材で壁を作った?という類の代物と思われます。地元出身の奥内某氏が事業で財を成し、造立したようです。一応相輪は上がっていますが、正規の塔婆には遠い代物です。(その他構造物のページに掲載)
淡路八浄寺瑜祇塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
淡路七福寺の一つで大黒天を祀る。そのため近年は流行仏として繁盛しているようです。
高野山真言宗。
瑜祇塔は瑜祇七福宝塔と称するようです。平成11年11月11日落慶。鉄筋コンクリート製と思われますが、外観は正規の様式で造作されています。高さなど不詳ですが、かなりの大型塔です。塔本尊は大日如来。
淡路蓮華寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同     仁王門
文化2年(1805)の建立。一辺約2.2mの大変な小型塔(地面から背伸びをすれば初層の組物手が届きます)ですが、正規の建築です。(おそらく)欅材を用いる。相当痛んでいたと思われますが、近年腐朽部の材料は入替、屋根は葺き替えられてたようです。初層は本瓦葺き・二軒繁垂木、上層は銅板葺き・ニ軒扇垂木。初層には擬宝珠高欄のある縁をめぐらす。正面中央間は桟唐戸・脇間は連子窓ですが、残りの三面は全て板壁とする。中備はありふれた蟇股を置く。本尊は金剛界大日如来のようです。
当寺は高野山真言宗を奉じ、五百羅漢像で有名のようです。(実見はしていません。)仁王門正面に本堂がある。羅漢堂に五百羅漢を安置する。羅漢は中興・実怒和尚の発願で天明4年(1784)釈迦如来と十六羅漢を造仏し、その後、実静、実賢、実栄の三代の住職が、66年の歳月をかけて嘉永3年(1850)に五百羅漢を完成させたという。当日は多宝塔の西に接する堂(羅漢堂?)の取壊し中でした。
淡路千光寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
文化10年(1813)頃の建立とされる。正面石段横には文政13年(1830)の銘がある。
一辺4.4m、高さ約26mで大型塔の部類です。塔本尊:五智如来。
軒は二軒繁垂木で3層目は扇垂木を用いる。 初層本瓦葺で2−3重は銅板葺きのようです。高田屋嘉兵衛らが改修したとも伝える。
先山(447)の頂上にある。本尊は千手観音で、延喜元年(901)の創建と云う。江戸期には50石。現伽藍は江戸期初め蜂須賀氏が再興したものと云う。
淡路國名所圖會:清浄皇院千光寺「(先山の絶頂にあり。本尊観世音は当国33所巡拝札所の第1番なり。・・麓の諸村に門下の寺12区あり。無本寺)護摩堂・三層塔(本堂の前、左の傍にあり)香炉堂・・・六角堂・・・経蔵・・・鐘楼・・」
千光寺全図  同部分図
(参考)
淡路蓮光寺ニ層堂1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5

淡路鶴が岡八幡宮
2003/2/18:以下の記述は新しい事項が判明したので修正しています。
年代は不詳ですが、見た感じでは明治以降あるいは近年の建築のものと思われます。組物は唐様の三手先、柱間:中央間は桟唐戸・脇間連子窓、上下層とも高覧を載せ塔風の意匠もありますが、相輪は載せず、また正面に不釣合いな唐破風の向拝を造り、塔としての構想があった可能性は低いと思われます。高野山真言宗。四国淡路第2番札所。
淡路國名所圖會では
「八幡宮(上内膳村の中央にあり。即ち岩屋街道の傍なり。鶴が岡といふ)
本殿・応神天皇、末社 住吉社・荒神祀(本社の左傍にあり)管神祀(本社の右傍にあり)」
「蓮光寺(八幡宮石段の下にあり。社僧なり。西北山遍明院と云ふ。本尊十一面観世音、坐像、長1尺6寸ばかり。古製の半鐘あり)」とあります。
八幡宮の社僧であったようで、記事中の「半鐘」とおもわれますが、寺蔵の梵鐘には「文亀元年(1501)、淡州上内膳八幡宮」と追銘されているようです。
淡路国分寺塔跡1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
(同 6は「X」氏ご提供)
塔跡:史蹟。塔心礎および円柱座に出臍を持つ礎石6個を残す。ただし原位置より北へ2m移動しているとされる。塔跡には大日堂が建立され、心礎は大日堂内にあるが現在は堂正面に鎧戸(シャッター)が取り付けられ残念ながら、見ることは出来ません。心礎はほぼ円形(径1.36m)で径75cm、高さ7cmの円柱座を造り、径26.6cm高さ4cmの出臍を持つ。塔基壇の一辺は13.2mとされる。
国分寺は寛文5年(1665)再建され、現在は本堂・大日堂と仏像(丈六の釈迦如来)を残す。
淡路國名所圖會:護国山国分寺:
記事:「七重塔の跡(本堂の向かふ左傍あり。今小堂を営み大日如来を安ず。堂の四面に古の塔の礎石あり。・・・今の大日堂は元禄年中に造営すと云ふ)」
国分寺全図  同部分図
淡路成相寺大日堂1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同      大門
  同      中門
仁治4年(1243)高野山大伝法院の争乱で実弘上人が淡路に配流されたとき、高野山に模して建立したという。しかし、貞応2年(1223)の「淡路国大田文」には寺名称が記載されているので、それ以前に創建されていたものと考えられているようです。本尊薬師如来立像(像高156.2cm一木彫・平安初期・重文)、伽藍絵図(室町後期作・県文)、石盤(応永23年<1416>・県文)などを残す。往時は大慈院、遍照院、明王院、長福院、善如院、真栄院、影仙院などの坊舎があったと云う。永禄年中に壇越であった細川氏が滅び、衰退し、元禄年中に本堂・大日堂のみとなり、中門も礎石を残すのみとなる。その後やや堂宇が復興され、現在は大門(西方遠くにある)、中門、金堂、大日堂、天野社(成合三社明神)などが現存する。
淡路國名所圖會:擁護山成相寺(真言宗)本尊瑠璃光仏:
「大日堂(本堂の左、上の方にあり。大日如来を安ず。いにしへ大塔の本尊なりといふ。運慶の作なり)・・鐘楼・大門・・・・寺説にいふ、・・仁治4年、高野山の僧実弘法師淡路国に配流の時、高野山を模して堂塔を成相谷に建立し、擁護山成相寺と号す。金堂・大塔・大門・中門・護摩堂・釈迦堂・大日堂・聖天堂・祖師影堂等巍々たりしこと、当山伽藍の古図に見えたり。今なお礎石ここかしこに遺れり・・」いにしえは大塔(?)が存在したようです。
成相寺
(部分図)の向かって左の大日堂のある場所が、かって大塔(?)が存在していた場所とも推測できます。が確認は出来ませんでした。もし現大日堂基壇が大塔跡であるならば、その規模から多宝塔であったと思われます。成相寺大門・三社明神
(参考)
淡路安国寺跡
栖賢山安国寺。淡路守護細川師氏(あるいは氏春)が、居宅を改めて安国寺とし、大道一以を招いて開山としたという。多くの堂宇が建立されたが、永正14年(1517)細川尚春の没落により衰退、廃寺となったされる。
淡路國名所圖會:「大久保村にあり。寺山と称す。門前の池と号するあり。・・・
仏殿・法堂同時に建立なりて神祠・祖堂・亘殿の左右に連なる。しかうしてのち、僧堂・山門造営する。・・・今寺山の廃跡の上にあるは大雄仏殿の跡、その左は祖堂の跡なり。立石の正中を円鏡の形に彫りたるあり。俗にこれを鏡石といふ。・・・下の平地は演法堂の跡なるべし。その真下は僧堂の跡、または山門のありし所といふ。犂かれて田圃となれるところ多し。・・・」
現在は安国寺跡の石碑があるのみです。山門のあった場所とも思えます。その石碑の右手の山地に伽藍跡地があった痕跡があるようです。あるいは左手田圃の地が伽藍地であるのか・・判然とはしません。なお利生塔の場所は不明のようで、ここの大久保に比定する見解もあるようです。
淡路賀集八幡宮本殿
  同       拝殿
  同 護国寺本地堂
淡路國名所圖會:賀集山八幡宮
記事:「(八幡村にあり。右八幡のはしの向かふに鳥居あり。・・・)
護国寺
本社・応神天皇。摂社・羽生明神(本社の右に列す。・・・)
荒神祀(羽生社の南にあり)拝殿(両社の前、下の方にあり)放生池(拝殿の艮にあり)・・・
当社古図1幅(本社・摂社・拝殿・舞殿・楽屋・長床・護摩堂・講堂・食堂・多宝塔・篭所・仁王堂・御供所・神宮寺・僧坊14区あり。寺家はおよそ、池の坊・如意坊・北の坊・周遍院・地蔵院・中の坊・奥の坊・金剛院などいへりとぞ。今、廃して護国寺のみ存すと聞こゆ。境内に礎石多し)
往古は毎年、一切経供養、四季陀羅尼、不断経および舞楽祭礼等あり。・・・・
賀集山八幡宮縁起一軸(釈行教作といふ。・・)・・・
応永14年、九輪を鋳たる日記(この時宝塔を建立ありしなるべし)・・・」
賀集山八幡宮   賀集山八幡宮社頭
いにしえは多宝塔が存在したようです。建立は応永14年と伝えるようです。
「 賀集山八幡宮」の図の「舞台」とされる基壇様なものが多宝塔跡の可能性がかなり高いと思われます。(残念ながら、跡地など詳しく実見しませんでした。)
「 賀集山八幡宮社頭」の図中仁王門・鐘堂などは失われ、また護国寺の本地堂(重層の堂)・本堂・庫裏などは建替られているようです。しかし建替られた本地堂は図のとおりの重層で、図のとおりの雰囲気で建替えられたようです。
多宝塔は拝殿北側にあったという別の資料もあるようです。
現状八幡宮に続く長い緩勾配の参道があり、その両側にはおそらく寺家(坊舎)跡とおもわれる平坦地を多数残す。嘉慶2年(1388)には如意坊、大門坊、池坊、中之坊、地蔵院、大坊、南坊、楽頭坊の8坊、文明15年には金剛院、光明坊など16坊、永正6年(1509)には21坊を数えたという。
護国寺(真言宗)は最期まで残った寺家(別当)であり、開基は行教上人という。上人は貞観元年(869)豊前宇佐八幡宮に参詣し、その後2年余りをここで過ごしたという。
至徳3年(1386)の火災以来何度か堂宇を焼失荒廃したが、寛永8年(1631)に蜂須賀氏により再建された。本殿及び拝殿はこの時のもののようです。護国寺本尊は胎蔵界大日如来坐像(重文・檜の寄木造り)で、平安末期の作とされる。また「表面:淡路国三原郡賀集御庄 八幡宮本堂、裏面:永享五癸丑年十一月(143)」の銘を持つ鰐口を残すという。
なお護国寺は淡路七福神の一つ布袋尊を祀り、そのため繁盛しているようで、堂宇が一新されているようです。なお本地堂には、本地仏を安置しています。
2003/01/12 大和巨勢廃寺心礎 再訪
紀伊神野々廃寺1
  同      2
  同      3
  同      4
  同      5
一辺約13mと推定される基壇状の土壇が残る。土壇上に緑泥片岩製の心礎のみ残る。2,8m×13.mの大きさで径84cm・深さ10cmの大きな孔を持つ。塔の以外の伽藍は確認されていない。出土瓦から奈良期前期の建立とされる。「紀伊続風土記」では観音寺三重塔跡であると云う。
塔跡の外には何の案内もなく土地の人にもほとんど知られていないようです。
紀伊名曽廃寺1
  同     2
  同     3
  同     4
  同     5
  同     6
  同  金堂跡
心礎は、今なお信仰の対象のようで、護摩堂と云う小宇の中にある。塔基壇は瓦積み基壇で一辺10mとされ、復元整備されています。その復元基壇上に護摩堂と塔礎石がある。心礎は2.3m×1.3mで径60cm深さ10cmの孔とさらにその孔の中央に径22cm深さ5cmの孔を持つ2段式です。
心礎は護摩石と呼ばれ、これは長徳4年(998)に祈親上人定誉が心礎上で護摩を修したことに由来するようです。堂内には弘法大師像安置する。
なお発掘調査により法隆寺式伽藍配置と確認されているようで、金堂基壇の東側の一部(15m×12m)もきれいに(アスファルト)復元整備されています。
紀伊慈尊院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
再訪
紀伊天野社 紀伊丹生都比売神社
詳しくは紀伊天野社多宝塔跡のページを参照下さい。
2003/01/05 紀伊東照宮三重塔跡 詳細は「紀伊東照宮三重塔」のページを参照下さい。
紀伊海禅院多宝塔 詳細は「紀伊海禅院屋宝塔」のページを参照下さい。
紀伊紀三井寺多宝塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
  同         9
  同        10
  同        11
再訪。
木立が多く写真の撮り難い塔です。
参考
紀伊土産店層塔風建物1
  同           2
紀三井寺門前近くの土産店の屋上に、それぞれに相輪を載せた方形堂形の造作が2基あります。
おそらく仏堂ではなく、単に土産店の「宣伝効果」を狙ったものと思われますが、出来栄えは一商店のものとしては良いものと思われます。なお建物1の背景は紀三井寺です。
紀伊萬精院多宝塔跡 詳細は「紀伊萬精院多宝塔跡」を参照下さい。
和泉長慶寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
平成3年完工。行基開山堂と称する。木造彩色本瓦葺きの正式の中型多宝塔です。
長慶寺は金泉山慈昌院と号する。寺伝では行基開創という。 また聖武天皇勅願寺であり、往時は海会宮寺と号し、現在の一丘神社周辺が寺地であり、五重塔など七堂伽藍を備えていたという。
覚鑁上人が根来寺に逃れ、以来根来寺の末寺として繁栄する。織田信長の根来焼討ち(1578)で焼亡。 中の島奥之院観音堂が類焼を免れたため、慶長年間、豊臣秀頼の命により観音堂(本尊如意輪観音)を現在地に移築し、年号を逆にして長慶寺と改名したという。
近世は岸和田岡部氏の祈願所となる。明治維新で荒廃する。
近年、本堂・客殿の改築、庭園造築、山門( 仁王門 ) 建立等で復興したようです。現在は真言宗御室派。
和泉海会寺跡全景
  同    伽藍図
  同     塔跡
  同  復元塔跡1
  同  復元塔跡2
  同  復元塔跡3
  同   金堂跡1
  同   金堂跡2
  同  復元講堂跡
現一丘神社の地が海会寺跡とされる。
塔基壇は一辺13.2m、高さ約2m、柱間2.4m。発掘調査に基づき塔基壇・礎石が復元されています。心礎・塔礎石については不明のようです。
金堂基壇東は一丘神社社殿が建立されている。21m×17.2m(推定)。柱座を持つ礎石3個が発見され、社殿東に置かれているとのことです(実見しませんでした)。そのほか講堂跡(復元)、西側回廊跡(復元)、南門跡などが検出される。なお海会寺主軸は、金堂・塔・回廊と講堂・南門では約4度の違いがあり、、講堂・南門は遅れて建立されたとされる。
和泉大鳥神社 五重塔跡等が皆目推定できず、写真は撮影していません。
詳細は「和泉大鳥神社五重塔」のページを参照下さい。
2003/02/01 山城教王護国寺五重塔1
  同           2
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山城教王護国寺夜景(ノーマルモードで撮影)

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