狭  山  山  不  動  寺

狭山不動寺

狭山山不動寺と称する寺院が、西武球場の道を隔てた丘陵地にある。
 西武ユネスコ村の一施設でもあるようです。(創建の経緯とかは未調査で実態は不明。)
 天台宗別格本山とも称する。多宝塔2基の他、各地の文化財が集められる。

播 磨 椅 鹿 寺 多 宝 塔    ◆摂 津 永 福 寺 多 宝 塔    ◆芝 増 上 寺

※狭山山不動寺は西武鉄道堤康次郎の手により建立と云う。
戦後、西武鉄道は罹災した芝増上寺徳川家霊廟敷地を、プリンスホテル建設などの目的で買収、
買収した土地は墳墓の改葬などで更地にする必要があり、敷地に残存する建築、文化財などを搬出・保存するために不動寺を建立した一理由と推測される。
2007/10/26追加:某ブログ※で以下の見解がある。
  ※http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-date-200702.html
  ※白雪姫と七人の小坊主達200702
「これ(ユネスコ村)は西武が大名や宮様の土地を買収して、その上にホテルなりなんなりをたてる時に、じゃまになった歴史的建造物をよせ集める場所であった。」・・・云い当て て妙と思われる。
「そもそも徳川家の霊廟とか、歴史的建造物とかは人類共通の遺産であり、その建造物を所有している一家族(徳川家とか)なり、一宗教法人なりにまかせておいていいものじゃない。その所有者が歴史的建造物を維持できなくなったなら、公共のものに移管してなんとかするのが真の文化国家というものではないか。」・・・同感。
問:「狭山不動尊て、西武が増上寺の墓をつぶした際、そこにあったものをうつすためにつくった寺ですよね。」
答:「あれは増上寺のためにつくったものじゃないよ。だって宗派天台宗だよ。戦後すぐの寛永寺座主が西武の堤康次郎氏と仲が良くてね」

芝増上寺台徳院(二代将軍徳川秀忠)霊廟勅額門
  重文、寛永9年(1632)家光の建立になる。

芝増上寺台徳院勅額門1:左図拡大図
  同           2
  同           3
  同           4
  同           5
  同           6

芝増上寺台徳院(二代将軍徳川秀忠)霊廟御成門
  重文、寛永9年(1632)家光の建立になる。

芝増上寺台徳院御成門1
  同           2
  同           3:左図拡大図
  同           4
  同           5
  同           6

  崇源院(お江与の方・二代将軍秀忠正室)霊廟・霊牌所丁子門(重文)も移築されている。・・・未見。

 芝増上寺台徳院宝塔

 2011/02/27追加:
 なお、元地芝増上寺には台徳院霊廟惣門(重文・西武所有か)、有章院霊廟二天門(重文・西武所有か)、
 芝増上寺鋳抜門(旧文昭院殿霊廟<徳川家宣>宝塔前中門・増上寺所有)、清揚院殿霊廟(徳川綱重)水盤舎しか残らない。
 芝増上寺のページ全般を参照。
  2011/02/19撮影:
  増上寺台徳院霊廟惣門1     増上寺台徳院霊廟惣門2     増上寺台徳院霊廟惣門3
  増上寺台徳院霊廟惣門4     増上寺台徳院霊廟惣門5     増上寺台徳院霊廟惣門6
  有章院霊廟二天門は未見
  芝増上寺鋳抜門:旧文昭院殿霊廟(徳川家宣)の宝塔前の中門であった。
  芝増上寺水盤舎1     芝増上寺水盤舎2     芝増上寺水盤舎3
   :清揚院殿霊廟(徳川綱重)の水盤舎であり、明治の解体・昭和の空襲を逃れる。現在地に移築されたものである。
 

芝増上寺御霊屋石灯篭
 今もおそらく20基を超える石灯篭が残存する。

  狭山不動寺石灯篭1    同        2

弁天堂(六角円堂)
 近江清涼寺(井伊家菩提寺)から昭和23年に移建。万治2年〜元禄6年の建築とされる。
 本尊は上野寛永寺現龍院から遷座した仏像という。

  狭山不動寺弁天堂

大黒堂
 大和極楽寺歌塚堂(柿本人麻呂ゆかりの堂という)を昭和38年移建。
 本尊大黒天は上野寛永寺見明院から遷座した仏像という。

  狭山不動寺大黒堂

桜井門(切妻・四脚門)
 大和桜井寺(十津川)山門を移建。桜井寺は幕末天誅組の本陣であった。

  狭山不動寺桜井門1    同        2

そのほか
 総門(長州藩江戸屋敷門)、羅漢堂、鐘楼などが移建。寺内に康信寺と称する堂宇もある。

堂塔の凡その移築履歴。
昭和23年、現弁天堂(彦根清涼寺経蔵)を移築。
年代不明、現不動寺総門(長州藩毛利家屋敷門)を移築。
昭和28年、現羅漢堂(港区麻布井上馨邸より)を移築。
昭和29年、現羅漢堂山門(虎ノ門田中平八郎邸の門)移築。
 山城高田寺鐘楼(高田寺とは不詳・奈良県興福寺より移築)を移築。
昭和35年、摂津永福寺(畑山神社)多宝塔を移築。
 勅額門、丁子門、御成門(1632年築)を移築。
 増上寺の灯篭などが約1000基がユネスコ村や周辺寺院に移築される。
昭和38年、現大黒堂(大和極楽寺歌塚堂−柿本人麿のゆかりの地)を移築。
昭和39年、播磨掎鹿寺多宝塔を移築。
昭和50年、天台宗別格本山狭山山不動寺開山、落慶大法要、本堂は京都東本願寺から移築。
2001年、本堂(京都東本願寺から移築・七間堂)が焼失(不審火)。すぐに再興されたと云う。
 


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