備  前  賞  田  廃  寺

備前賞田廃寺

備前賞田廃寺概要

昭和45年の発掘調査で、寺域は方1町と判明、金堂・塔・西門の基壇、廻廊(西および南)、築地痕跡(東・南・西)などが発見される。
塔(金堂南東)と西門(当時は西門との想定であった)は凝灰岩製の壇上積基壇であることが確認される。
金堂と推定される基壇は半ば地山を削り出し、地山の高さが十分でない部分は格段に丁寧な版築によって築きあげた高い基壇であった。この基壇上の建物は伽藍廃棄の最終まで使用され、白鳳前期から鎌倉期の瓦を混ぜて使用していたとされる。しかしこの最終の建物の建築に際し、礎石を石組に利用するなど、改変されたものであり、当初の構造物ではないとされる。
伽藍配置は川原寺もしくは薬師寺式と推定されるが、全貌はまだ確認はされていない。
出土瓦は飛鳥後期、白鳳期前期から鎌倉時代までのものが出土するが、飛鳥後期に相当する遺構は現在検出されていない。
上道氏の氏寺と想定され、精緻な壇上積基壇や築地塀の囲みなどが確認され、豪奢な寺院であったと推定される。
なお、賞田堂屋敷から脇田山東谷に、さらにその後脇田山山上へ移転したと云う脇田山安養寺は当廃寺の後身の可能性もあるとされる。
 ※賞田堂屋敷は賞田廃寺跡北西にあり中世の寺院跡である。この堂屋敷に寺域を構えた中世寺院は、
  賞田廃寺跡をも支配した可能性も指摘される。
 ※脇田山安養寺:(10.脇田山安養寺を参照)

2002年「史跡整備に伴う調査」のための発掘がなされ、10月29日その現地説明会が行われる。
     以下情報及び画像は「X」氏ご提供
現地説明会の要点は次のとおりである。
 1)当初西門と考えられていた遺構は塔であり、東西二つの塔があったことが判明する。
 2)両塔の基壇はいずれも中世に破壊される。
 3)白鳳期に建てられた金堂は中世に基壇の周囲を掘り下げて基壇を縮小する。
 4)寺域は奈良時代に大きく拡張されていた。・・・・など

賞田廃寺西塔
 1)いわば二段重ねの基壇を構成する。
  二段の重ねの内側基壇は一辺約11m四方の凝灰岩壇上積基壇で構成され、
  この内側基壇外装の外側を、自然石を用いた一辺約16m四方の石組が取囲む形態の基壇である。
   (石組の北・東・西では一段、南面では二段以上の石を積む。)
 2)壇上積の基壇外装は西辺の北半分と東階段の基底部(延石と地覆石)のみが残る。
 3)石階は東西二面あるが、大半は中世に破壊される。
 4)基壇の中央には盛土中に特に多くの石が入れられ、これは心礎を受けるために特に基壇の強化を図ったと見られる。

賞田廃寺西塔1(東南方向から撮影)
 :下図拡大図

手前石列が基壇外側石列である。
写真中央右に東石階が写る。

賞田廃寺西塔2(東から撮影)
:下図拡大図:東階段基底部

手前が東側の外基壇石列で中央やや右に東石階が見える。

賞田廃寺西塔3(北から撮影)
 ;下図拡大図:東階段基底部

 精微な切石の構造であった様が分かる。
 

○2011/10/28追加:「史跡賞田廃寺跡−史跡環境整備事業に伴う発掘調査報告−」岡山市教育委員会、2005 より
西塔:基壇は一辺11.2m。
階段の地覆石幅1.75m、東塔東階段とほぼ同規模で6段になると推定されるが、基壇石材の厚さが厚いため、地覆石から葛石までの高さは90cm程度と判断される。壇正積基壇を取り囲む外周の列石は1辺16mで、北側は1石、南側は2段以上を積む。
 賞田廃寺西塔発掘図

賞田廃寺東塔
 凝灰岩壇上積の基壇外装を施した、一辺約12m四方の基壇で、階段が東西二方向に付設される。
 西塔同様、中世に大きく破壊される。

賞田廃寺東塔1(北側基壇を西北から撮影)
今回は北辺の発掘が実施される。:下図拡大図

賞田廃寺東塔2(北側基壇を北から撮影)
精緻な基壇の片鱗が覗える。:下図拡大図

「X」氏情報
発掘関係者の見解:
「今回の発掘で、西門跡とされていた遺構は西塔であると判断を変更する。そして、東西両塔の造営時期は両塔とも奈良期と推定される。
しかし、白鳳期の金堂を中心に考えると、この東西両塔の配置は西塔が西に大きく偏って不自然である。東西両塔の均衡を考えると、両塔の中間に奈良期の金堂が建てられ、寺院の中心線に変更があった可能性も視野にいれる必要があるとも考えられるのではないか。」
もしそうだとするとかなり複合的な寺跡であり、「両塔の中間にあると想定される金堂、南門、講堂などの位置の確認が待たれるところである。」

○2011/10/28追加:「史跡賞田廃寺跡−史跡環境整備事業に伴う発掘調査報告−」岡山市教育委員会、2005 より
東塔:塔一辺は6.90m、中央間2.7m、両脇間2.1m。塔基壇一辺は12.4m。
基壇化粧は凝灰岩製の壇正積基壇である。地覆石は上面で幅10cm、底で幅9.5cm、深さ1.5cmの溝を彫る。各辺、角に束石枘穴あり。
階段は地覆石外幅1.8m、1段分の出が25cmで6段に復原でき、延石から葛石上面までの高さは約69cmと想定される。
 賞田廃寺東塔発掘図

2007/04/25追加:「吉備の古代寺院」から
 賞田廃寺伽藍配置図
確認できている遺構は凝灰岩製壇上積基壇の塔2基と乱石積基壇の金堂1基で、講堂・中門・南門・廻廊などは未確認。
塔は2基あるが、金堂は東塔寄りであり、講堂位置も明確ではなく、特異な伽藍配置である。
 ※この伽藍配置図は発掘調査報告会で配布されて資料でもあり、
 上述の「発掘関係者の見解」の「両塔の中間に奈良期の金堂が建てられ、寺院の中心線に変更があった可能性も視野にいれる必要がある」
 との見解に立脚するものであろう。
2007/04/25追加:「岡山の宗教」から
 賞田廃寺西門遺構:※西塔遺構。この当時 、「西塔」は「西門」として認識されていた。

2011/07/14追加:「賞田廃寺発掘調査報告」賞田廃寺発掘調査団、昭和46年 より
   ※なお以下文中の「小尺」「中尺」という「尺」の意味が良く分からない。

 廃寺跡の現状では礎石は一つも確認されず,土地の人の口伝によると、戦前の用水護岸工事に石材として抜きとったとのことである。
先年、この用水護岸改修がおこなわれ,その時に護岸中より礎石が数個現われ,近くの安養寺に安置されたとのことである。
現在,安養寺境内に8個,南の高島小学校に1個の賞田廃寺出土と伝えられる礎石がある。
 ※上述:脇田山安養寺:(10.脇田山安養寺を参照)

 昭和45年住宅建築などの計画があり、緊急発掘調査が実施される。
今回の発掘調査は,予備踏査で確認された5つの基壇状地形のうち、4か所と、東築地、西築地、南築地、南回廊、南西築地角、および近接して宅地工事で発見された窯址の露出部分の発掘を計画する。
発掘調査の結果、塔・講堂・西門の各基壇・南築地・東築地・小基壇・窯址等の遺構と伽藍が一町四方であることが確認される。
以上の遺構配置から,伽藍配置は一応法起寺式と推定されるに至る。

 調査の結果,第T基壇は,奈良期初めに建立された壇上積基壇の塔基壇と断定され,西門も同時期の壇上積基壇であったことが判明する。
(壇上積基壇の出土は,地方寺院としては全くまれな出土例である。)
◇第T基壇
第T基壇は壇上積基壇であり、東階段・正方形プラン・中央部での心礎抜取り跡と確定される撹乱穴の検出等があり、柱間が中央小尺9尺,両脇小尺7尺2寸5分の方三間の塔であったことが判明する。
基壇規模は、萬石上面で方38尺と推定され、地頭石外面間は38.5尺に復原される。
(飛鳥寺のそれは39.5尺、法隆寺は41.1尺、川原寺は39尺、四天王寺は38尺、安芸国分寺は36尺を測る。)
心礎は,その抜取り跡からみて、基壇底部近くに据えられていたことが判明する。
なお基壇は、現状で地覆石上面のレベルまで耕作去れているため、基壇の上半部が破損、礎石,根石,掘り方,さらに蕨石,束石は検出できなかったと云う結果となる。
 賞田廃寺東塔東階段     賞田廃寺東塔東階段2     賞田廃寺東塔地覆石:東北隅
 賞田廃寺東塔地覆・延石:北側      賞田廃寺東塔心礎抜取穴

◇第V基壇
第V基壇は現存する塔基壇に先だち白鳳期初めに建立された建造物の基壇で、現存する寺院遺構では最初のものである。
推定基壇規模は東西小尺50尺,南北43尺からみて、堂の規模は,桁行35尺×梁行28尺で,桁行5間,梁行4間であったと推定される。
この基壇は、塔との位置関係から一応講堂に比定されるが、塔の建立以前の白鳳の建立であり、その後天平・平安と二度の改築がなされ、賞田廃寺の終末まで存在したまさに中心的存在の建物である。
建立時は金堂であったと考えられるが,最終時期の遺構検出で発掘を止めているので、その変遷については、今後の調査・検討をまたねばならない。あるいは、西塔が存在し、第V基壇は金堂であり、第V基壇の北に講堂基壇が埋もれている可能性もあるが 、今般は底まで追求はするに至らず。
今回の調査の結果、賞田廃寺は飛鳥時代末に創建され、白鳳期末若しくは奈良期初頭に伽藍が完備し、その後徐々に衰微しながら、鎌倉初頭まで存在していたことが判明する。
◇西門基壇,西回廊基壇
伽藍西側で溝をもつ造成土壇と石英粗面岩製壇上積基壇地覆石・延石とそれに続く東側階段が検出される。
位置からみて,前者は西回廊基壇部,後者は西門基壇と断定される。
西門基壇は、変形重成基壇ともみることができ,壇上積基壇の石材も(西門地覆石=長84・4cm,幅44.5cm,厚さ13−16cm,柄溝幅12.5cm,束石柄穴9×11cm,塔地頭石=長77・2cm,幅35・8cm,厚さ13・9cm,柄溝幅10.5cm,束石柄穴7×13cm)塔基壇より一周り大きもので基壇構築が賞田廃寺内の基壇で最も入念に強固に築造されている。
推定西門規模は桁行中尺24尺(中央間中尺9尺)、梁行中尺21尺は、門としては必ずしも大きなものではないが本格的な西門の存在や、壇上積基壇であることは地方寺院としても特異なものであろう。
 賞田廃寺西門東階段     賞田廃寺西門東階段2     賞田廃寺西門東階段3     賞田廃寺西門地覆石:西側
◇第U基壇
第U基壇は基壇基礎地形の黒褐色有機質粘質土の施設からみて何らかの小基壇が存在していたと推定されるが、遺構的には明確に検出しえない状態であったので、何であるかは判断しがたい。

2011/07/14追加:「史跡賞田廃寺跡」岡山県教育委員会、2005 より

平成13年〜平成15年にかけて、史跡環境整備事業に伴う発掘調査が実施される。

今回の調査によって、賞田廃寺には東西方向に並ぶ2つの塔が存在していたことが明らかとなる。
東塔については、前回の調査によって確認されていたが、西塔については前回調査で西門とされた遺構が西塔として認識されることとなる。

伽藍配置について分からない要素が多い。現在確認されているのは東西の両塔と金堂だけである。
 ◎賞田廃寺伽藍配置図
金堂は礎石が本来の位置のままで残存していたものが1個検出されたことによって示されているように、南側をのぞくと、全体的な残存状態は良好であった。しかしながら、塔のように基壇化粧は認められなかった。
前回の調査では、後世の改変の結果であるが結果として乱石積基壇であったとされる。今回の調査では基壇化粧の石積などは全く検出されなかった。そのため金堂がどのような基壇化粧であったかについてはよくわからないが、金堂裾部や周囲から多量の瓦が出土しており、当然金堂建物に属する可能性が最も高いわけではあるが、1つの可能性として瓦積基壇であったことも推測しておきたい。また、両塔とはサイズの異なる壇上積基壇の部品が検出されており、それらが金堂の基壇に本来的には用いられていた可能性もある。いずれにせよ、金堂の化粧基壇については、現況ではやや不明瞭であるといえる。

一方堂塔の建立時期については以下のように整理できる。
賞田廃寺から出土した瓦からすると、その創建時期は飛鳥期である。しかしながら飛鳥期の建物については未検出で、瓦の量も極めて
少ない。おそらく一部に瓦を象徴的に用いる程度の小堂が当初の賞田廃寺であったと考えられる。
本格的な建築物の出現は白鳳期であり、金堂が建築される。この期に属する瓦は飛躍的に増加するが、現況では金堂以外の建物は検出されていない。
奈良時代に入ると東・西の両塔が建築される。ただし、両塔は基壇化粧石材のサイズが異なることや、それぞれから出土する軒丸瓦の箔傷の進行具合を追求した結果などから東塔が先に建築されたといえる。つまり、小堂→金堂→東塔→西塔の順に寺院が整備されていったのである。そして、奈良時代に造営された塔については当時の最も格の高い基壇様式である壇上積基壇が採用されたのである。

さて、前回の調査でも課題として残っていたものに講堂の存在がある。幾っかの候補があったが、今回の調査でも検出することはできなかった。
伽藍配置からすると、金堂の背後が適地と考えられるが、検出されてはいない。

賞田廃寺西塔基壇:左図拡大図
賞田廃寺西塔基壇全景
賞田廃寺西塔基壇全体図
賞田廃寺西塔西辺:西から撮影
賞田廃寺西塔西階段:西から撮影
賞田廃寺西塔東階段:東から撮影
賞田廃寺西塔東階段2:北から撮影
賞田廃寺西塔基壇中央部
西塔外側列石と石段:南から撮影

賞田廃寺東塔北辺:西から撮影
賞田廃寺東塔全体図

賞田廃寺金堂基壇
賞田廃寺金堂基壇北辺:礎石及び瓦溜

◆賞田廃寺出土石製擦管・風招

○石製擦管:凝灰岩製
 賞田廃寺擦管:左図拡大図
 賞田廃寺擦管実測図
T28の西塔南方の瓦堆積層上層の真砂土(近世)から出土。
凝灰岩製で産地は基壇化粧石と同様に香川県の火山(ひやま)産であろうとする。
外径25.5cm、高さ27.2cmの筒状で、内径は15.5cm、深さ13.0cmである。外面は滑らかに調整されているが、内面には加工痕である聖痕が 明瞭に残っており、仕上げ加工を施してはいない。

○風招
 賞田廃寺風招
 賞田廃寺風招実測図
風鐸(風招部)である。
T23の西塔基壇東側の瓦溜まりから出土。断定はできないものの塔に使用されていたと推定される。

2008/06/28撮影
備前賞田廃寺復元遺跡

 西塔・金堂・東塔の基壇が復元され、基壇上には建物礎石も全て復元される。また主要建物を中心として広い範囲で樹木が伐採される。
確かに視覚的には盛時の伽藍の規模・様相が一目で理解できるが、しかし金堂礎石の一部を除き、すべてレプリカであり、「本物」を期待して見学に訪れた者には「安物の粗悪品」を見せられ「騙された」気分にはならないであろうか。
 何れにしろ、「本物」は覆い隠され、おそらく、私が生きている間には「本物」を見る機会はないであろうと思われるが、遺跡の保存と公開の有り方としてこれで 良いのであろうか。
 賞田廃寺金堂・東塔復元基壇:左が金堂基壇、右が東塔基壇

 賞田廃寺東塔復元基壇1     同           2     同           3     同           4
 賞田廃寺西塔復元基壇1     同           2     同           3     同           4

 賞田廃寺金堂復元基壇1
   同           2:桁行5間・梁間4間の規模で、全ての礎石が復元配置される。正面西の5個の礎石以外は復元礎石。
   同           3:正面西の本物の礎石5個、おそらく大部は脇田山安養寺より戻したものと推定される。
                                          (報恩大師開基・備前四十八ヶ寺・10.脇田山安養寺)
 賞田廃寺礎石(推定):西塔の北側に礎石と思われる石が10個置かれる、出土した推定礎石を集めて展示用に配置したものと推定される。

2015/10/28「A]氏撮影画像:
 復元賞田廃寺遠望


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