おさるの
日本史豆知識
奈良時代
和銅三年(710年)-延暦十三年(794年)
関連ページ: おさるの日本刀豆知識-日本刀の歴史・上古刀の部
奈良時代は、710年に女帝である元明天皇(げんめいてんのう/持統天皇の異母妹)が、藤原京から奈良盆地の平城京(へいじょうきょう・へいぜいきょう)に遷都(せんと/都を移す事)した事に始まります。大宝律令を修正した養老律令(ようろうりつりょう)が作られ、これを基本として国家が形成されていきました。
奈良の平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)は唐の都である長安を手本に造られました。都だけでなく、政治や経済、文化などあらゆる面で唐を手本としました。また、2004年に中国で遣唐使の墓誌が発見されました。734年のものなのですが、その中に「国号日本」とあり、日本という国号が資料に現れた最古のものです。従ってこの頃から『倭』から『日本』に国号を変更したと考えられています。
注) 最近では平城京を「へいぜいきょう」と読むべきではないかという意見があります。詳しくは豆知識-平城京の読み方をご覧下さい。
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奈良盆地の北部に造られた平城京は、東西約4.3キロメートル、南北約4.8キロメートルの長方形でしたが、東側の上半分付近には一部張り出した区域があり、これを外京(げきょう)と呼び、外京には興福寺(こうふくじ)、元興寺(がんごうじ)、葛城寺(かつらぎでら)など多くの寺社が営まれました。外京は東西約2キロメートル、南北約2キロメートルあり、外京を含めると平城京の東西は約6.3キロメートルに及びました。そして大仏さんがある東大寺は外京の東側に建てられました。また、平城京の北辺西寄りにも、北へ少し張り出した部分があり、これを北辺坊(ほくへんぼう)と呼びます。
平城京の南端中央には入口である羅城門(らじょうもん)がありました。羅城とは都を取り囲む城壁のことで、羅城門はその羅城に設けられた門のことです。通常、中国などの都は外敵から守るために周囲を羅城で囲みますが、日本においてはそういった周囲を囲む羅城はありませんでした。しかし、平城京においては発掘調査の結果、少なくとも羅城門周辺には瓦葺き(かわらぶき)で12メートルの高さの築地塀(ついじべい)があったことが分かっています。築地塀とは、柱を立てて板を渡し、その両側を土で塗り固めた塀です。また正面の門の柱と柱の間は約29メートルあったと考えられており、現存する東大寺の南大門と同じくらいの大きさであったと考えられています。
羅城門は二階建て構造となっており、それぞれの屋根は瓦ふきとなり、二回部分には欄干(らんかん)が巡らされ、格子(こうし)の付いた窓が付き、柱や欄干など木の部分は朱塗りで、二階の格子窓は緑青(ろくしょう)色、扉(とびら)の隅などには金メッキの金具を取り付けてあったと考えられています。羅城門は都の入り口であり、外国からの使節を迎えたり、様々な儀式を行ったりした場所で、朝廷の威厳を示すよう、このように十分に材木を使って豪華に建てられたのだと考えられています。
注) 欄干とは、木造の橋や縁側の廊下などにある、落下を防止するための装飾を兼ねた手すりのことです。また緑青とは十円玉などの銅が錆びた(さびた)場合に出る緑色の錆のことで、昔は緑の塗料として用いられました。
羅城門を入ると、北に向かって道幅約80メートル、長さ約3.8キロもあるメインストリートである朱雀大路(すざくおおじ)が走っていました。この朱雀大路の両側には柳の木が植えられていたと言われ、この不必要に幅の広い道路も朝廷の威厳を示すものであり、外国の使節は護衛の兵に先導されてこの大路を北へとパレードしました。
朱雀大路の北の突き当たりには朱雀門(すざくもん)があり、この先は平城宮(へいじょうきゅう)と呼ばれる平城京の中枢部で、天皇の御所がある内裏(だいり)や、各種の儀式などを行う建物、政府の各役所がありました。このように、平城京はその北辺中央部に天皇の御所や政府関係の庁舎が建ち並ぶ区画が設けられ、東辺の上部には外京と呼ばれる多くの寺社が建ち並ぶ張り出し部分が設けられ、それ以外の部分が天皇の臣下である貴族や官人(かんじん/役人)、各国から労働者として集められた農民などの住居として割り当てられました。
注) 平城宮は平城京に含まれる一区画で、単に平城京と言う場合は平城宮も含んだ意味となります。
新しい律令国家の中心地として、東、西、北の三方が山に囲まれ、南が開けた地が都としてふさわしいとされ、新しい都の建設地に選ばれました。和銅元年(708年)、稲の穫り入れが終わると、予定地の住民を立ち退かせました。現在も西大寺の南に「菅原」という地名がありますが、当時ここには小さな村落があり、和銅元年九月十四日に元明天皇がこの地を訪れ、立ち退きの保証として布や穀物が支払われたと言われます。
この地は三方を山に囲まれた丘稜の麓(ふもと)にあったため、北から南にかけて傾斜があり、一番高低差がある所で14メートルもの高低差がある土地であったようです。そのためこの高低差を無くして平らな地面にする必要があり、丘稜を崩して谷を埋め、丘の上にあった大きな前方後円墳(平城天皇陵)の前方部がちょうど予定地の北の端にかかっていたため、この部分も壊したそうです。
しかし丘を崩した土だけでは足らなかったため、近隣の山から土を運んでこなければならず、奈良国立文化財研究所の計算によると、平城宮の造営に二年かかったとして、この造成工事だけで一日に3,000人の労働力が必要だったと言います。また、土木工事は造成工事だけではなく、宮殿や各役所の基礎工事や庭園、排水のための溝掘りなど多岐にわたりましたので、平城京全体を造り上げるには膨大な労働力が必要だった事がうかがえます。
それでは、広大な平城京がどのように造られ、どのような都だったのかを見ていきましょう。
平城京は、天皇の住居や政務を行う庁舎、各役所がある平城宮と、天皇の臣下である貴族や下級官人、地方から労働力として集められた農民などが住居を割り当てられた地域、外京(げきょう)と呼ばれる寺社が建ち並ぶ地域から成ります。これらは東西南北に走る大路(おおじ)と小路(こうじ)によって、碁盤の目状に区画された区域に配置されました。東西に走る大路を条大路(じょうおおじ)、南北に走る大路を坊大路(ぼうおおじ)と呼び、これら条と坊によって碁盤の目状に区画された町割りを、条坊制(じょうぼうせい)と呼びます。
大路や小路の配置や平城宮の一などは図で示せば一目瞭然なのですが、私は全盲なので図を用意することが困難なので、言葉での説明となります。図は他のホームページなどに掲載されている物を参考にして頂きたく、ここではなるべく文字だけでイメージがつかめるよう、詳しく解説していきます。
町割りを造るにはまず道路が造られました。と言うよりも、側溝(そっこう)が掘られたと言った方が良いかもしれません。平城京の大路・小路には、みな両脇に側溝、つまり溝(みぞ)が掘られました。そしてこの側溝に挟まれた部分を道路として整備しました。この側溝は生活排水を流したり、汚物を流す役目を果たしました。
側溝の幅はその道路によって異なり、道幅が広い道路では側溝の幅も広くなります。そして道路の幅は、その道路を挟む側溝の中心から中心の距離を言うことに注意が必要です。平城京の中央を南北に走る、メインストリートである朱雀大路(すざくおおじ)を例にすると、その道幅は80メートルで、その側溝の幅は6メートルもありました。道路の幅は片側の側溝の中心からもう片方の側溝の中心までの距離を言いますので、側溝幅の半分×2が道幅に含まれていることになります。朱雀大路の場合は3×2で6メートル分は側溝であり、実際の道幅は74メートルということになります。
道路が造られた順番は分かりませんが、ここでは説明する便宜上、説明しやすい順に書きます。従って実際にこの順番で道路が造られた訳ではありません。
まずは平城京を東西に貫く大路です。これは平城京の一番北端から南へ順に一条北大路(いちじょうきたおおじ)、一条南大路(いちじょうみなみおおじ)、二条大路、三条大路、四条大路(しじょうおおじ)、五条大路、六条大路、七条大路(しちじょうおおじ)、八条大路、一番南の端が九条大路(くじょうおおじ)で、合計10本の東西に走る大路を造ります。
大路の間は533メートル(高麗尺1500尺/唐大尺1800尺)(注1)の間隔を空けて造られました。
これにより、大路と大路の間に挟まれた東西に長い9つの区画ができました。これらの区画は南に接する大路の名で呼ばれました。一条北大路と一条南大路の間の区画だけは例外で、単に一条と呼ばれ、一条南大路と二条大路の間の区画は二条、三条大路と四条大路の間の区画は四条(しじょう)、八条大路と九条大路の間の区画は九条(くじょう)と言った具合です。
一条北大路が平城京(平城宮)の北端の大路、九条大路が平城京の南端の大路となり、九条大路の南側に側溝を挟んで羅城門が造られました。
注1) 唐尺と高麗尺
中国の唐の時代に用いられていた長さの単位に唐尺(とうじゃく)がありましたが、それは大尺(一尺=29.6センチ)、小尺(一尺=24.6センチ)というものでした。日本においては、朝鮮半島の高麗尺(こましゃく/一尺=35.5センチ)を大尺とし、唐尺の大尺(29.6センチ)を小尺とするよう、養老令(ようろうりょう)によって定められていました。
そして大尺(高麗尺)は土木、建築に、それ以外には小尺(唐尺の大尺)を用いるよう定められていました。しかし、和銅六年(713年)、全てにおいて唐の大尺、小尺が採用されたのですが、土木、建築関連においては、長く使用されて普及していた高麗尺が使用され続けたため、大尺には一尺の長さが異なる高麗尺(一尺=35.5センチ)と、唐大尺(養老令で言う小尺/一尺=29.6センチ)の二種類が共存することとなったのです。
奈良時代の天平年間(桓武天皇の時代)頃からは、唐尺の大尺(一尺=29.6センチ)が主として使用されましたが、一尺の長さは時代や地域によって様々に変化を遂げています。江戸時代に至り、現在の長さにほぼ等しい長さとなり、明治時代に正式に一尺=30.3センチと定められました。
これらは同じ一尺でも、現在の一尺(30.3センチ)とはそれぞれ長さが異なるため、同じ長さを尺で表す場合に、それがどの尺によって表すのか、つまり高麗尺なのか、唐尺なのか、現在の尺なのかによって、その結果が全く異なってしまうのです。従ってこのサイトでは、混乱を避けるために、何尺といった数値の後にその単位を明記します。ただし、一尺の長さは時代や地域によっても異なるため、厳密にその時代の一尺が何センチなのかは分かりません。従って、特殊な場合を除いて、一般的な長さには現在の一尺(30.3センチ)を用います。
注) 最近の発掘で、平城京は十条まであったという報告もなされています。
次に平城京のメインストリートである朱雀大路を造ります。これは平城京の東西方向の中央を南北に貫く、幅80メートルもある大路です。始点は平城京への入り口である羅城門(らじょうもん)で、終点は平城京(平城宮)北端の一条北大路ではなく、二条大路です。一条北大路と二条大路との間の区画の一部は、天皇の住居や各役所が建ち並ぶ平城宮であったのですが、この区画全てが平城宮であった訳ではありません。その範囲を今説明するとややこしくなりますので、ここでは話を簡単にするために平城宮は無視して、朱雀大路は一条北大路まで通してしまいます。
南北方向の中央にメインストリートの朱雀大路を通したことにより、平城京は朱雀大路を中心に、左右(東西)2つのブロックに分割されました。この東側のブロックを左京(さきょう)、西側のブロックを右京(うきょう)と呼びます。「東側が左?」と思われるかもしれません。北を上にした、私達が普段見慣れている地図では東は右側になっているからです。しかし、この場合の左右は天皇から見た左右なのです。平城宮の項で詳しく解説しますが、平城京の北端にある平城宮にいる天皇は、南を向いて座るため、天皇から見た右手側は西、左手側が東となるのです。
これにより、先に造った一条、二条という東西に長い区画は左京、右京ともに存在することになります。従って、これを区別するために左京一条、右京一条、左京三条、右京三条などと呼び分けます。
次はメインストリートである朱雀大路と平行に、南北に走る大路を造ります。これらは北端の一条北大路から、南端の九条大路まで、平城京を南北に貫く大路です。
まずは右京(西側)に平城京の西端となる、平城京を南北に貫く大路を造ります。これは平城京北端の一条北大路の西端と、南端の九条大路の西端を南北に結ぶ大路です。この大路を起点に、533メートル(高麗尺1500尺/唐大尺1800尺)の間隔を空けて、中央を走る朱雀大路との間にさらに3本の南北に走る大路を造ります。これらの大路も北は一条北大路から、南は九条大路に至る大路で、始めに造った西端の大路と合わせて、これで4つの南北に走る大路が右京(朱雀大路の西側)に造られた事になります。
次に、平城京の東端となる大路を左京に造ります。これは一条北大路の東端と、九条大路の東端を南北に結ぶ大路で、後は右京と同様に朱雀大路とこの東端の大路との間に3本の大路を造り、左京にも計4本の南北に走る大路が造られました。
これらの南北に走る大路は坊大路(ぼうおおじ)と呼ばれ、朱雀大路に近い順に一から四までの名が付けられます。右京(西側)の場合、朱雀大路の西隣が西一坊大路(にしいちぼうおおじ)、その西隣が西二坊大路、その西隣が西三坊大路、そして一番西の端が西四坊大路(にししぼうおおじ)となります。左京(東側)の場合は、朱雀大路の東隣の大路が東一坊大路(ひがしいちぼうおおじ)、その東隣が東二坊大路、その東となりが東三坊大路、そして一番東の端が東四坊大路(ひがししぼうおおじ)となります。
東西に走る10本の条大路に挟まれた、一条から九条までの横長の区画は、南北に走る4本の坊大路と朱雀大路の計5本の大路によって、右京・左京共にそれぞれ4つの区画に分割されました。この一区画を坊(ぼう)と呼びます。そして東西南北に走る条大路・坊大路は533メートル(高麗尺1500尺/唐大尺1500尺)間隔で造られましたので、1坊は一辺が533メートルの正方形ということになります。
注) 1坊は正確には一辺が533メートルの正方形ではありません。挟まれる大路の幅によってその一辺の長さが異なってくるからです。これについては大路と小路の項で解説しますので、ここでは話を簡単にするために、一辺が533メートルの正方形としておきます。
条大路と坊大路によって区画された一辺が533メートルの坊は、右京一条には4つ、二条にも4つと九条までそれぞれ4つずつ出来ましたので、右京には36個の坊が出来たことになります。左京も同様ですので、右京・左京で合計72個の坊が出来たことになります。
この坊は、右京、左京ともに朱雀大路に近い順から一坊、二坊・・と名前が付けられます。例えば、左京(東側)一条の場合、朱雀大路の東に隣接する坊は左京一条一坊、東一坊大路を隔てた東隣は左京一条二坊、東二坊大路を隔てた東隣は左京一条三坊、東三坊大路を隔てた東隣は左京一条四坊(しぼう)となり、東の突き当たりが東四坊大路となります。つまり左京の場合、坊の名前は東に隣接する坊大路の名が付けられていることになります。
右京(西側)一条の場合は、朱雀大路の西側に隣接する坊が右京一条一坊、西一坊大路を隔てた西隣が右京一条二坊、西二坊大路お隔てた西隣が右京一条三坊、西三坊大路を隔てた西隣が右京一条四坊(しぼう)となり、西の突き当たりが西四坊大路ということになります。従って、右京の場合は西二隣接する坊大路の名が付けられているということになります。
一辺が533メートルの坊は、さらに東西に走る3本の小路(こうじ)、南北に走る3本の小路によって16分割されました。その16分の1の区画を坪(つぼ)と呼びました。ただし、後の平安京では、平城京の坪に相当する区画を町(ちょう)と呼びましたので、平城京の坪も同じように町と呼ばれる場合があります。
この坪(町)にはそれぞれ番号が付けられましたが、少し変わった番号振りになっています。例えば左京(東側)の一条一坊を例にすると、朱雀大路に隣接する一番上の左端(北西のかど)の区画が一、そこから南へ向かって二、三、四となり、今度は四の東隣が五となり、そこから北へ向かって六、七、八となり、八の東隣が九となり、また南へ向かって十、十一、十二となり、十二の東隣が十三、そして北へ向かって十四、十五、そして一番上の右端が十六となります(下表参照)。このように、交互に折り返す様子を千鳥式と呼びます。
1 | 8 | 9 | 16 |
2 | 7 | 10 | 15 |
3 | 6 | 11 | 14 |
4 | 5 | 12 | 13 |
従って、左京一条一坊の場合、一番上の左端の区画は左京一条一坊一坪(町)、一番上の右端の区画は左京一条一坊十六坪(町)という呼び名が付けられることになり、現在の住所のような役割を果たしました。なお、右京(西側)の一条一坊の場合は、朱雀大路に隣接する、一番上の右端の区画(北東のかど)が一となり、後は左京と同じように千鳥式に番号がふられました。
この1坪(町)が貴族への宅地割り当ての基準となり、その地位などによって割り当てられる宅地の広さが変わりました。なお、この1坪(町)は一辺が533メートルの正方形を16分割したものですから、一辺が約133メートルの正方形ということになりますが、実はそうではありません。これについて詳しくは下の大路と小路をご覧下さい。
注) ここで解説した坪(町)は、長さや面積を表す単位である「坪」や「町」とは関係ありません。条坊制における区画を表す名称です。従って、長さや面積を表す坪や町とはその長さ(広さ)が異なります。詳しくは下の区画としての「町」と面積の「町」をご覧下さい。
平城京には東側に張り出した部分があり、これを外京(げきょう)と呼びます。これは一条南大路から五条大路間の坊が、東へ3坊分張り出したものです。これまでの説明では、平城京の西の端は西四坊大路、東の端は東四坊大路でしたが、東側(左京)の一条南大路から五条大路の間のみ、東へ3坊分追加されることになります。そのために坊大路も三本追加され、平城京(外京を含む)の東端は、東七坊大路(ひがししちぼうおおじ)となりました。
一条南大路から五条大路までの区画は、二条、三条、四条、五条の4つですから、それぞれが3坊ずつ東へ張り出したので、4×3で12の坊分が東へ張り出していたことになります。従って、一条南大路、二条大路、三条大路、四条大路、五条大路は東へ3坊分延長され、南北に走る坊大路のうち、一番東の端であった東四坊大路の東側に、新たに他の大路と同様に533メートル間隔で東五坊大路、東六坊大路、東七坊大路が造られ、平城京(外京を含む)の南北に走る坊大路のうち、東端は東七坊大路となったのです。
この外京には多くの寺社が営まれましたが、平城京の東の端、つまり外京の東の端にある東七坊大路の東側には、東大寺がありました。一条南大路を東へ進むと東七坊大路に突き当たります。ここは一条南大路と東七坊大路がカギ形に交差する場所ですが、この角の東七坊大路に面して開いていたのが東大寺の転害門(てがいもん)で、二条大路を東へ進むと同様に東七坊大路に突き当たりますが、ここの東七坊大路に面して開いていたのが東大寺のかつての西大門でした。
さて、随分話が長くなってしまったのでお忘れかもしれませんが、平城宮の位置を確認しなければなりません。平城宮とは天皇の御所や各役所が建ち並ぶ一角です。これまでの説明では、平城京の北の端を東西に走る一条北大路と、二条大路の間に平城宮があり、その東と西の範囲は後回しになっていました。
結論から言うと、平城宮は北は一条北大路、南は二条大路、東(左京)は東一坊大路、西(右京)は西一坊大路に囲まれる範囲です。坊と坊大路を説明した後でなければ、この範囲を説明しにくかったので後回しにしていました。
これまでの説明では、話を簡単にするために朱雀大路は平城京南端の九条大路から、平城京北端の一条北大路まで通してしまいました。しかし、これでは平城宮のど真ん中を朱雀大路が走ることになります。従って実際は、朱雀大路の終点は二条大路です。二条大路の北に隣接して、平城宮への入り口である朱雀門が設けられた築地塀(ついじべい/柱の間に渡した板の両面を土で塗り固めたもの)がありました。
従って平城宮の範囲は、二条大路から北へ伸びて一条南大路と交差し、平城京北端の一条北大路に突き当たるまでの朱雀大路と、それの西側に隣接する右京一条一坊・二条一坊、東に隣接する左京一条一坊、二条一坊の範囲になります。このように、右京・左京ともに一条一坊、二条一坊は平城宮の敷地として取り込まれているため、一条、二条については右京・左京ともに二坊以降が貴族などへの宅地として与えられました。
平城宮は、一条北大路、東一坊大路、二条大路、西一坊大路の4つの大路に面した塀で囲まれ、これら4つの道路に面してそれぞれ3つずつの門が設置されていました。南の二条大路に面して造られた3つの門のうち、中央の門が朱雀門(すざくもん)で、平城京の入り口である羅城門をくぐってメインストリートである幅80メートルもある朱雀大路を進むと、3.8キロメートルも彼方にこの朱雀門がそびえていたのです。
また、一条北大路と二条大路の間には一条南大路があり、ちょうど平城宮の南北の中間を貫通する位置にありましたが、一条南大路は平城宮内は通ってはいませんでした。一条南大路は、西一坊大路に面した塀に設けられた3つの門のうち、中門から西へ向かって平城京の西端である西四坊大路に突き当たります。また東一坊大路に面した塀に設けられた3つの門のうち、中門から東へ向かって平城京の東端(外京の東端)である東七坊大路に突き当たりますが、ここが東大寺の転害門(てがいもん)でした。
注) 平城宮を囲む東西南北の塀には、それぞれ3つずつの門が設けられていたと書きましたが、南側と西側にはその遺構が発見されていますが、北側では見つかっていません。そして問題は東側なのです。実は平城宮にも東側に張り出し部分があったのです。それは東院(とういん)と呼ばれ、孝謙天皇(こうけんてんのう/女帝)、称徳天皇(しょうとくてんのう/孝謙天皇が再び即位)の時代に用いられた、内裏(だいり/皇居)に準じる宮殿があったとされる区域です。平城宮の東側に東西270メートル、南北750メートル張り出したものでした。そのため東側の門がどこに設けられていたのかははっきりとは分かっていないのです。しかし、ここでは話を分かりやすくするため東側にも西側と同じように3つの門があったと想定して書いています。またこれにより、左京(東側)においては、貴族などの宅地として割り当てられた区画は東院の分だけ少なかったと思われます。
平城京はこのようにして大路、小路によって碁盤の目のように区画されました。それでは、これら大路・小路はどれくらいの幅があったのでしょうか。またこれら大路、小路に囲まれた、坊や坪(町)はどれくらいの広さだったのでしょうか。
発掘の結果、メインストリートの朱雀大路はその道幅が80メートル、側溝は幅が6メートルもあったことが分かっています。道路を造って区画するで既に説明しましたが、平城京の大路・小路にはみな両側に側溝が掘られ、道幅とは大路・小路を挟む2つの側溝の中心から中心までの距離を言います。朱雀大路を例にすると、道幅80メートルには側溝の幅が含まれています。朱雀大路を挟む2つの側溝の半分ずつが含まれていますので、3メートル×2=6メートル分は側溝であり、正味の道路幅は74メートルということになります。
一条北大路の道幅は、約16メートルで、南側の側溝は幅3.5〜4メートル、深さ約70センチと判明しています。そして東西のメインストリートとも言える二条大路はその幅が36メートル、九条大路の道幅は27メートルであったことも判明しています。
このように、平城京の入り口である羅城門をくぐってすぐの九条大路、そこから平城宮の入り口である朱雀門を結ぶ、メインストリートの朱雀大路、この朱雀門に面する、平城京の東西のメインストリートとも言える二条大路などは、他の大路よりも広めに造られていました。従って、大路・小路共にその道幅は一定のものではありませんでした。
道路を造って区画するで、東西に走る条大路と南北に走る坊大路によって囲まれた区画は坊と呼ばれ、1坊の大きさは一辺が533メートルの正方形だと説明しました。これは条大路、坊大路ともに、533メートルの間隔で造られたからです。しかし、注意書きとして囲まれる大路の幅によってその広さは異なると説明しました。
大路の間隔を、一方の大路の内側から、坊を挟んだ向かい側の大路の内側までの距離として533メートル取れば、もちろん坊は533メートル四方の正方形になりますが、平城京ではそうではなかったのです。平城京の場合、向かい合う大路の中心から中心までを533メートル(高麗尺1500尺/一尺=35.5センチ、唐大尺1800尺/一尺=29.6センチ)で割り付けているのです。
注) 当時は唐尺、高麗尺という、一尺の長さが異なる単位が共存していました。詳しくは唐尺と高麗尺をご覧下さい。
大路の間隔を、坊を挟んで向かい合う大路の中心から中心として533メートルで割り付けると、その533メートルの中には道路の半分の幅と、隣接する側溝の幅も含まれてしまいます。例えば、道路幅28メートル(側溝幅4メートル、正味道幅24メートル)の大路に囲まれた坊があったとします。
注) 平城京の道幅は、道路を造って区画するで解説しました通り、片側の側溝中心から、道路を隔てた向かい側の側溝の中央までの距離を言います。従って、その道幅には側溝の幅も含まれています。
533メートルというのは、道幅24メートルの大路の中心から、向かい合う道幅24メートルの大路の中心までの距離ですから、その中には大路の道幅の半分と側溝の幅が含まれています。すると12メートル+4メートルで16メートルとなり、向かい側も同様ですから16メートル×2で32メートルは道路と側溝で取られてしまいます。すると坊の一辺は501メートルとなります。
注) 南北を囲む条大路と東西を囲む坊大路が異なる幅であった場合は、それらに囲まれる坊は正方形ではなく長方形になる場合もありました。
このような坊を、東西南北に走るそれぞれ三本ずつの小路によってさらに16分割したのが坪(町)です。単純に言うと533メートル÷4で、一辺が133メートルの区画が16個出来ることになるのですが、上で説明しました通り、これには小路の幅と側溝の幅が含まれています。
従って宅地としての坪(町)は、一番狭い幅6メートルの小路で囲まれた区画でも、一辺は小路の幅6メートルの半分×2で6メートルは道路として取られますので、一辺は127メートルとなり、さらに側溝や塀などを造れば125メートルくらいになりますので、平城京の区画としての1坪(1町)は一辺が最大で125メートル四法くらいの正方形であったと言えます。ただし、平城京の場合は大路・小路の中央から中央までの距離で割り付けていますので、正方形ではなく長方形であることが多かったと思われますが、ここでは宅地として割り当てられた区画がおよそどれほどの広さであったのかを知るために、単純に正方形として書いています。
125メートル四方の正方形の面積は、およそ4,700坪(1坪=3.3平方メートル)です。4,700坪と言ってもピンとこないかもしれませんが、分譲マンションでちょっとゆとりのある間取りの3LDKがおよそ25坪ですから、188戸分の広さです。この広大な面積が貴族と呼ばれた特権階級に与えられた宅地面積の基準ですので、貴族がどれだけ贅沢であったかがうかがえます。
・条坊制における区画としての「町」
平城京には貴族や下級官人、全国から招集された農民などが住む宅地が割り当てられていました。そして貴族に割り当てられた宅地の基準が1坪(1町)というものでした。ここまでで解説してきた1坪(1町)は、東西南北を走る大路によって区画された坊を、さらに東西南北に走る小路によって16分割したうちの一区画でした。そしてこの1坪(1町)は一辺がおよそ125メートルの正方形でした(大路と小路参照)。
坪と呼ばれたこの一区画を「町(ちょう)」とも呼ぶのは、平安京が一辺120メートルの正方形の宅地を「町」と呼んでいたため、後世になって平城京の一区画もこれに習って「町」と呼ぶようになったのです。しかし、平城京や平安京で宅地として与えられた坪(町)は、長さや面積を表す単位である坪や町とは関係ありません。あくまで条坊制において、区画に付けられた単なる名称なので混同しないよう、注意が必要です。
・長さや面積の単位としての「町」
律令時代には、長さや面積の単位として歩(ぶ)というものがありました。長さの単位としての1歩は六尺(1.82メートル)とされ、面積の単位としての1歩は、一辺が1歩の正方形の面積を表し、およそ3.3平方メートルになります。
そして現在、土地の面積を表す単位として「坪(つぼ)」がありますが、これも一辺が六尺(1.82メートル)の正方形の面積を表しますので、1歩の面積は現在の1坪の面積と等しいということになります。ちなみに、1坪の面積(3.3平方メートル)は、畳2枚分に相当します。
律令時代には60歩(約109メートル)が1町とされ、一辺が1町(60歩=109メートル)の正方形の面積を1町歩(ちょうぶ)としました。従って、律令時代の1町歩は60歩×60歩で3,600歩となり、1歩の面積=1坪ですから、現在で言う3,600坪(11,880平方メートル)になります。
なお、面積を表す町歩は単に町とも書かれますが、長さの単位である町と混同しないよう、町歩とも呼ばれ、このサイトでは面積を表す場合は町歩としています。
中世(鎌倉時代-戦国時代)になると、土地や建物を測る単位として「間(けん)」が使われるようになりました。六尺五寸(1.97メートル)が1間(いっけん)とされていたとも言われ、60間が1町とされました。しかし、時代や地域によって変動があったようです。
豊臣秀吉が天下を取ると、これまで地域などによってバラバラであった長さや面積の単位が統一されました。天正十七年(1589年)、秀吉は六尺三寸(1.91メートル)を1間(いっけん)とし、60間を1町と定めました。そして一辺が1間の正方形の面積が1坪(歩)とされました。
また、これまでは一辺の長さが1町(60歩)の正方形の面積を1町歩(60歩×60歩=3,600歩)としていましたが、5間×60間=300坪(歩)を1反(いったん)と定め、10反を1町歩と定めたのです。
つまり、5間×60間=300坪(歩)の長方形を1反とし、この上に9反分を積み重ねた、50間×60間=3,000坪(歩)の長方形を1町歩と定めたのです。従って、秀吉時代までは1町歩は一辺が1町の正方形の面積を表しましたが、秀吉により1町歩は一辺が1町の正方形では無く、50間×60間という長方形となったのです。
ちょっと話がややこしくなったので、表にまとめてみました。
1町の長さ | 1町歩の定義 | 1町歩の面積(1坪=3.3平方メートル) | |
律令時代 | 60歩(109メートル) (1歩=六尺=1.82メートル) |
3,600歩 60歩×60歩 |
3,600坪(11,880平方メートル) |
中世 | 60間(118メートル) (1間=6尺5寸=1.97メートル) |
3,600歩 (60間×60間) |
4,220坪 (13,924平方メートル) |
秀吉時代 | 60間(115メートル) (1間=六尺3寸=1.91メートル) |
3,000坪 (50間×60間) |
3,328坪 (10982平方メートル) |
現在 | 60間(109メートル) (1間=6尺=1.82メートル) |
3,000歩 120ヘクタールを121町と定める |
9,917平方メートル |
中世には、六尺五寸が1間、60間×60間で3,600坪が1町歩とされていたのを、秀吉は六尺三寸を1間、50間×60間で3,000坪を1町歩と改訂しました。つまり1間の長さを短くし、1町歩も1辺を60間から50間と短くし、50間×60間の長方形に改訂しました。なぜこのような改訂を行ったのでしょうか。その理由は、1つは臣下となった者に与える領地を名目上増加させるため、2つは軍役(ぐんえき)を実際よりも多く課すため、3つは増税のためなどが考えられます。
1については、例えば上の表において中世の寸法で1町歩と言えば現在の4,220坪になります。これが秀吉の時代になると、同じ1町歩と定義される面積でも、3,328坪となります。すると、中世の1町歩の領地は秀吉の時代には1.27町歩になります。面積は変わっていないのに、測るものさしが小さくなったため、数字の上だけ領地が増えたことになったのです。実際には1町歩の領地なのに、名目上は1.27町歩の領地となったのです。
2については、秀吉の臣下となった者達は支配を許された領地の大きさに応じ、決められた軍事力を維持することを義務づけられました。これを軍役(ぐんえき)と呼びますが、領地の大きさによって維持する武士、槍、馬などの数が定められたのです。秀吉が敵対する者を征伐する際、これらの軍事力を提供させたのです。従って、秀吉が改訂した基準によると、実際よりも2割以上も広い領地を与えられたことになるため、より多くの軍役を負担させることができたのです。
3についても同じ理屈で、1町歩と定義された面積が小さくなったのに、1町歩に課す税率は変わらなかったため、実質2割以上もの増税となったのです。
言葉だけでの説明でしたのでずいぶんと長くなってしまい、前の話を忘れてしまったかもしれませんので、ここで平城京を入り口である羅城門から反時計回りにグルリと一周してみましょう。
平城京の南端にある羅城門をくぐり側溝を渡ると、道幅が27メートルもある九条大路が東西に走っています。正面には道幅が80メートルもあるメインストリートの朱雀大路が北へと延々と続いており、その3.8キロも先に平城宮への入り口である朱雀門がそびえ立っています。道幅80メートルは、今の道路で言えばおよそ20車線以上もの道幅になります。この朱雀大路の右側(東側(が左京、左側(西側)が右京です。えっ、東側が右京?と思った方は朱雀大路を参照して下さい。
九条大路を東へ進むと、左側に見えるのが左京九条一坊で、そのまま進むと南北に走る東一坊大路が見えてきます。さらに進むと左京九条二坊が、そして東二坊大路が見えてきます。そのまま2キロほど進むと東四坊大路に突き当たります。九条大路はここまでで、今度は東四坊大路を北に進むことになります。
左手に左京九条四坊を見ながら東四坊大路を北に進むと、左側に八条大路が見えてきます。なお、右手側はそれより東には何も無く、壁があったかもしれません。そして八条大路を左に見ながら北に進み、八条大路の北に接している区画が左京八条四坊です。
さらに北に進むと左側に七条大路が見えてきます。七条大路を左に見ながら北に進みます。七条大路の北に接している区画が左京七条四坊です。さらに北に進み六条大路を左に見ながら北上すると、五条大路が見えてきます。ここは九条、八条、七条、六条とは異なり、交差点(十字路)になっています。つまり五条大路は東四坊大路と交差してさらに東へ延びており、この延長された五条大路の北側に、東四坊大路から東に張り出した部分が外京(げきょう)で、多くの寺社が建立されていました。
九条大路の東の端からこの東四坊大路と五条大路の交差点まで、およそ2.1キロほど北上したことになります。
五条大路と東四坊大路との交差点を右折し、五条大路を東に進むと、左にあるのが左京五条五坊で、もう少し進むと東五坊大路が見えてきます。また右側(南側)には何も無く、壁があったかもしれません。外京は東に張り出していますので、五条大路を挟んだ向かい側(南側)には、何もありませんでした。そして延長された五条大路をさらに東に進むと、左側に東六坊大路が見え、さらに進むと東七坊大路に突き当たります。ここが外京の東の端であり、平城京の東の端となります。外京は五条大路と東四坊大路との交差点から東に坊3つ分張り出していますので、交差点から外京の東端まではおよそ1.6キロとなります。
ここからは北に進むことになりますが、左手に寺院が建ち並ぶ外京を見ながら、北に進むごとに四条大路、三条大路、二条大路が左側に見えてきます。二条大路は道幅36メートルもある大路で、西側から延びてきた二条大路は、今歩いている南北に走る東七坊大路に突き当たって終点となり、東大寺の西大門が東七坊大路に面して開いていました。
平城京の外周を一周するためには、左折して二条大路には入らずに、今いる東大寺の西大門前のT字路をまっすぐに北に向かわなければならないのですが、ちょっと寄り道して二条大路を西に進んでみましょう。
ここからは、両側に寺社が建ち並ぶ外京の二条大路を西に進むことになります。二条大路の一本北には一条南大路があり、五条大路からこの一条南大路までが東に延びて外京となっています。
二条大路を西に進むと、左手側(南側)が左京三条、右手側(北側)が左京二条となります。東西に走る条大路に挟まれた区画である条は、南に接する条大路の名で呼ばれたので、二条大路の北に接する条は二条、二条大路の南に接する条(三条大路の北に接する条)は三条となります。
しばらく二条大路を西に向かうと、二条大路と東六坊大路との交差点に出ます。さらに西に進むと東五坊大路との交差点、さらに西に進むと東四坊大路との交差点に出ます。この東四坊大路は左京と外京との境界線です。ここを左折して南に向かって七坊分(およそ3.7キロ)進むと、突き当たりが平城京の南端に当たる九条大路の東端ということになります。
注) 東四坊大路が左京と外京との境界だと書きましたが、実際は外京も左京の一部ですので、東に張り出した坊は、左京二条七坊などと呼ばれます。ここでは文字のみの解説ですので分かりやすくするために、外京と左京の境界としましたが、実際は外京も左京の一部だと覚えておいて下さい。
二条大路と東四坊大路の交差点を西に渡ると、外京を出てここから左京となります。そして二条大路を西に四坊分(およそ2.1キロ)進むと、メインストリートである朱雀大路の北端、つまり平城宮への入り口である朱雀門の前に出ます。そして道幅80メートルもある朱雀大路を西に渡りきると、そこからは右京になります。二条大路は平城宮への入り口である朱雀門の南に接して東西に走る、東西のメインストリートなのです。
さて、現在は朱雀門の前にいるのですが、ここでは平城京の外周を一周するのが目的ですから、二条大路を東に戻って寄り道する前の東大寺西大門の前まで戻りましょう。
東大寺西大門前に戻ってきました。ここは外京の東端に当たる東七坊大路と、二条大路が交わるT字路で、二条大路の東の終点です。ここからは東七坊大路を北に進みます。1坊分進むと、一条南大路に突き当たります。この一条南大路が外京の北端で、東七坊大路とぶつかるこの角が一条南大路の東の終点です。そしてこの一条南大路と東七坊大路がぶつかる角の、東七坊大路に面して開いていたのが東大寺の転害門(てがいもん)です。
注) 東大寺周辺には東大寺お抱えの刀鍛冶がたくさん居住しており、東大寺の中門に応じて刀剣を造っていました。詳しくは姉妹サイト「おさるの日本刀豆知識」の鎌倉後期の大和伝の作風を参照して下さい。
一条南大路とぶつかるこの地点が東七坊大路の北の終点です。そして一条南大路が外京の北端ですので、ここからは一条南大路を西に向かうことになります。
西に向かうと左側には寺社が建ち並ぶ外京があります。右手側(北側)には何も無く、壁があったかもしれません。ここは平城京の東に張り出した外京の北端ですので、この北側には何もありません。西に進むと、東六坊大路が左側に見えてきます。ここは外京の北端である一条南大路ですので、東六坊大路がぶつかるこの地点はT字路になっています。
そのまま西に向かうと東五坊大路が左側に見えてきます。ここもT字路です。そしてさらに西に進むと一条南大路と東四坊大路の交差点に出てきます。ここが外京と左京の境界です。これで外京の南側、東側、北側を反時計回りに歩いたことになります。
さて、現在は一条南大路と東四坊大路との交差点にいます。一条南大路は一条北大路と二条大路の中間に位置しています。交差点を北に向かうと一条北大路に突き当たり、南に向かうと二条大路と東四坊大路との交差点に出ます。平城京の外周を一周するためには、この交差点を北に向かって一条北大路に行かなければならないのですが、再び寄り道して、一条南大路をさらに西に向かってみましょう。
一条南大路をこのまま西に向かうと、東三坊大路との交差点に出ます。そしてさらに西に向かうと東二坊大路との交差点に出ます。そしてさらに西に向かうと東一坊大路に突き当たります。ここは交差点ではなくT字路となります。東一坊大路を渡った先にあるのは、天皇の御所や役所が建ち並ぶ平城宮の東側の塀で、そこには平城京へ入るための中門が設けられています。
現在、一条南大路と東一坊大路とのT字路を、西に向いて立っています。正面の東一坊大路を渡った先に平城宮の中門が見えています。右側(一条南大路の北側)の区画は左京一条二坊、左側(一条南大路の南側)は左京二条二坊です。東一坊大路を渡った先には、左京一条一坊、左京二条一坊があるはずなのですが、平城宮を造るで解説しました通り、この2つの区画は平城宮の敷地に取り込まれていますので、左京一条一坊、左京二条一坊は存在しません。これは右京についても同様です。
この中門を入ると役人達の仕事場である平城宮ですが、平城宮の東西南北を囲む塀に設けられた諸門は、夜明けと共に開けられますがその後は閉じられますので今は入りません。なお、平城宮で働く役人達について詳しくは貴族とその暮らしをご覧下さい。
さて、寄り道してしまったので元の位置に戻りましょう。元の位置とは一条南大路と東四坊大路の交差点です。一条南大路を東に向かってこの交差点まで戻ります。
戻ってきました。ここは一条南大路と東四坊大路との交差点です。東四坊大路は左京と外京との境界にあります。先ほどは、外京の南側、東側、北側と外京の外周を反時計回りに回ってこの交差点まで来ました。それでは東四坊大路を北に向かいましょう。
東四坊大路を北に向かうと、左手に見える区画は左京一条四坊です。右手側には何もありません。塀があったかもしれません。ここは外京の北端に当たる一条南大路の北側なので、この区域には何も無いのです。
北に進むと一条北大路に突き当たります。ここは東四坊大路の北の終点で、一条北大路の東の終点でもあります。ここは鍵型になっていますので今度はこの一条北大路を西に向かいます。
角を左折して一条北大路に入ると、左手側の区画が左京一条四坊です。右手側には何もありません。一条北大路が平城京の北端ですので、これより北には何もありません。一条北大路を西に進むと、東三坊大路とのT字路が見えてきます。さらに進むと東二坊大路とのT字路が、さらに進むと東一坊大路とのT字路が見えてきます。この角は平城宮の東側の塀で、ここを左折し、右側(西側)に平城宮の東塀を見ながら東一坊大路を南に進むと、一条南大路となり、平城宮東塀に設けられた中門が見えます。先ほど一条南大路を西に進んで寄り道した所です。
また寄り道してしまったので、平城京を一周するために一条北大路まで戻ります。
戻って来ました。ここは平城宮の東側の塀に面する東一坊大路と、一条北大路がぶつかるT字路です。このまま一条北大路を西に進みます。左手には平城宮の北の塀があります。この塀にも3つの門が設けられていたと思われます。先ほど一条北大路が平城京の北端だと書きましたが、平城宮の北端でもあります。
また、平城京(平城宮)の北端である一条北大路より北には何も無いと書きましたが、ここには松林苑(まつばやしえん)などと呼ばれた区域があったようです。ここは東西500メートル、南北1キロの範囲を塀で囲み、狩りや宴会などを催したと記録が残っている場所です。それは平城宮の北側の塀に設けられていたと想像される、中門の前、一条北大路を隔てた向かい側にあったようです。
平城宮北側の中門(遺構は未発見)を過ぎると、そろそろ右京の区域となります。このまま平城宮の北側の塀に沿って進むと、やがて平城宮の北西角になり、左手に西一坊大路が見えます。ここが平城宮の西端です。西一坊大路を西に渡った左手側の区画は右京一条二坊です。さらに西に向かうと西二坊大路、西三坊大路が左手側に見え、さらに西に進むと平城京の西端である西四坊大路に突き当たります。ここが一条北大路の西の終点となります。今度はここを左折して、西四坊大路を南に進みます。西四坊大路は平城京の西端ですので、ここからは延々と南に進みます。
南に進むと一条南大路、二条大路、三条大路を左に見ながらトットコトットコ南に進みます。およそ4.8キロ進むと九条大路に突き当たります。ここが西四坊大路の南の終点ですので、左折して九条大路を東に進みます。そしておよそ2.1キロほど東に進むとやっと平城京の入り口である羅城門に到着です。これで平城京を一周しました。お疲れ様でした。
平城京の北辺にある、天皇の住居である内裏(だいり)と、各役所、政治上の儀式を行う建物などが建ち並ぶ空間を宮城(みやぎ)と呼び、平城京の宮城を平城宮(へいじょうきゅう/へいぜいきゅう)と呼びます。平安時代になると、この宮城を大内裏(だいだいり)と呼ぶようになります。
平城宮は南北およそ1キロメートル、東西およそ1.2キロメートルで、その東側の北寄りに東院(とういん)と呼ばれる東西270メートル、南北750メートルの張り出し部分があり、総面積はおよそ125ヘクタールとなります。これは東京ディズニーランドおよそ2.5個分の広さです。
宮はその周囲を厚さ約2.7メートル、高さ5メートルの築地塀(ついじべい)で囲まれ、東西南北にそれぞれ3つずつ、合計12の門が道路に面して設けられていたと考えられています。正門である南側中央の朱雀門(すざくもん)は、羅城門同様の朱塗りで二階建て、横25メートル、奥行き10メートルの豪華な門でした。
注) 築地塀とは、柱を立てて板を渡し、両側を土で塗り固めたものです。
なお、平城宮の12あったと考えられる門のうち確認されているものは、南側は西から若犬養門(わかいむかいもん)、朱雀門、壬生門(みぶのもん)で、これらは二階建て、入母屋造、瓦葺きであったと考えられています。西側は一条南大路に通じる中門・佐伯門(さえきもん)と、南門である玉手門(たまでもん)、東側は南門である小子門(しょうしもん)で、北側はその遺構は見つかっていません。
平城宮を造るでも解説しましたが、平城宮の東側には東院(とういん)と呼ばれる張り出し部分があり、孝謙天皇(こうけんてんのう/聖武天皇の娘)・称徳天皇(しょうとくてんのう/孝謙天皇が再び即位)の時代に、内裏として使用された区域です。そのため、東塀の南門は確認出来ているのですが、東院があった関係で、中門と北門の遺構が確認できていないのです。
平城京のメインストリートである朱雀大路を北に進むと、平城宮のメイン入り口である朱雀門に突き当たります。朱雀門を入ると、平城宮となります。すると左手前方に回廊(かいろう/建物を取り巻く廊下)に囲まれた、朝堂院(ちょうどういん)があります。ここは平城宮の中枢(ちゅうすう/中心となる重要な部分)であり、朝堂院で朝政(あさまつりごと/ちょうせい)や様々な儀式が行われました。
朝堂院は北から大極殿(だいごくでん)、朝堂(ちょうどう)、朝集堂(ちょうしゅうどう)と並ぶ3つの建物から成り、南北3町(約375メートル)に及びました。
注) 朝政とは、早朝に貴族以下官人が参集した上で、天皇がその政務を見る事です。
朝堂院の正門である南の門を入ると、そこには東西に2つの朝集堂がありました。朝集堂は、朝政や儀式のために集まってきた位階を持つ官人が衣服を整え、時刻まで待機する場所です。また平安時代には渤海使(ぼっかいし)の帰国の際に饗宴を行なったりしました。平城宮では築地塀(ついじべい)、平安宮では回廊(かいろう)で周囲を囲まれていたと考えられ、建物は南北に長く、平城宮の場合は約14メートル×約35メートルの建物であったと考えられており、朝堂院の建物はすべて朱塗りの柱に瓦を葺いた様式でした。なお、平城宮の東朝集堂は、唐招提寺の講堂として奈良時代後半に移築されて現存しています。
注) 築地塀とは、柱を立てて板を渡し、両面を土で塗り固めた塀です。また回廊とは、建物を取り巻く廊下のことです。
注) 朝堂院の正門は、平安時代には応天門(おうてんもん)と呼ばれ、この門が放火される事件が起こり(応天門の変)、この事件を題材とした『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』も有名です。
注) 渤海(ぼっかい)とは、満州、朝鮮半島北部、ロシア沿海地域にかつて存在した国で、日本は渤海と使節のやり取りを行っていました。
朝集殿を出ると朝堂へ入る門があります。朝堂は実際の政務や各種儀式を行う庁舎です。朝堂の門を入ると、大きな広場を挟んだ北側正面に大極殿(だいごくでん)がありました。大極殿は広場に面した壁面が解放されており、そこに天皇の玉座(ぎょくざ/天皇が座る椅子)が据えられていました。広場の西側には、6つの朝堂がL字型に、広場を挟んだ東側にも6つの朝堂が逆L字型に建てられていました。つまり中央の広場を北側の大極殿が、東西、南側を合計12のL字型、逆L字型の朝堂が取り囲むような構造でした。
この12の朝堂は臣下達が着席する建物で、役所ごと、役職ごとに座る位置が決められており、広場に面した側はオープンになっていて、廂(ひさし)が巡らされていました。各種儀式はこの中央の広場で行われ、この広場を朝庭(ちょうてい/「庭」は「廷」と同意)と呼びます。
朝堂院の正殿が大極殿(だいごくでん)です。奈良時代前期には朝堂院の北方中央に、後期には東寄りに移動して建てられました。復元された奈良時代前期の大極殿は瓦葺き(かわらぶき)で、礎石(そせき/柱を固定する石)を用いた建物で、45メートル×15メートルの規模であったと推定されています。
『年中行事絵巻』御斎会の巻に描かれている、12世紀(平安後期)の大極殿はおよそ次の通りです。
殿舎は土を盛って固めた一段高い地盤の上に建ち、土台には石を敷き詰め、土台の北側と南側には階段が設けられ、母屋は約45メートル、四面ともに庇(ひさし)付きで、木部は朱塗りで屋根は入母屋造(いりもやづくり)、緑釉瓦(りょくゆうがわら)葺き、大棟に鴟尾(しび)を一対上げています。大極殿の南にある朝庭に面する母屋の壁面中央は開放され、中央には高御座(たかみくら)が設置され、天皇はここに座して朝庭で行われる儀式などを見ました。
また殿舎の両脇には軒廊(こんろう/屋根付き渡り廊下)があり、背面中央には登廊(のぼりろう/階段状の廊下)があり、小安殿(こあどの)に通じていました。小安殿は大極殿と同じような造りの殿舎で、大嘗祭(だいじょうさい)などに用いられました。
入母屋造とは、上部が切妻造(きりづまづくり)で、下部が寄棟造(よせむねづくり)になっている屋根です。
切妻造とは、屋根の形が「へ」のようになって、斜面が2個ある屋根の形です。
地面と平行に延びる屋根の頂点の線を大棟(おおむね)と呼びます。「へ」の頂点から、向かい合う「へ」の頂点を結んだ線です。
そして大棟と平行な建物の壁面を平(ひら)、大棟と直角な建物の壁面を妻(つま)と呼びます。長方形の建物を例にすると、長編側の壁面が平(ひら)、短辺側の壁面が妻(つま)となります。妻側は上部が「へ」の形となっており、この妻側の屋根を短く切っていることから「切妻造」と呼ばれます。
ちなみに、「妻」は中心に対して端を表す語で、「刺身のつま」も隅っこにあるためこう呼ばれます。
また、寄棟造は四方向に傾斜面がある屋根のことです。切妻造が妻側の屋根を短く切り落としているのに対し、妻側にも傾斜面を付けたものです。そして入母屋造は寄棟造の上に切妻造を乗っけた形式となります。
注) 緑釉瓦は緑色に発色した瓦です。陶器を焼く際には、表面を硬くして保護したりする目的で釉薬(ゆうやく/うわぐすり)をかけて焼きます。これはガラス質の液で、含まれる物質や火の作用によって様々に発色します。
注) 鴟尾とは、屋根の大棟に取り付ける魚の尾の形をした飾りで、後の鯱(しゃちほこ)や鬼瓦のようなものです。
大極殿の南には儀式広場である朝庭がありましたが、大極殿と朝庭との間には竜尾壇(りゅうびだん)が設けられていました。これは大極殿と竜尾壇より南に位置する臣下の場である朝堂、朝庭とを区分けする施設です。2メートルほど土を盛り固め、東西に長く造られています。つまり朝庭や朝堂など臣下の場所は竜尾壇よりも低い位置に造られており、天皇が臣下を見下ろす形となり、天皇の絶対的上位を示す造りとなっていました。
壇の東西には蒼龍、白虎の楼(ろう/高く構えた建物)があり、また壇に昇るための階段が設けられ、壇の上には朱塗りの高欄(こうらん/欄干)が設けられていました。
また、平城宮の東側には東院(とういん)と呼ばれる、東西270メートル、南北750メートル張り出した部分がありました。孝謙天皇(こうけんてんのう/聖武天皇の娘/在位:749年-758)から、称徳天皇(しょうとくてんのう/在位:764年-770年/孝徳天皇が再び即位)までの間に、内裏として使用されたと考えられています。緑釉瓦葺きの殿舎が建てられ、地形を生かした池があり、儀式などが行われたと考えられています。
天皇の住居である内裏(だいり)は禁中(きんちゅう)、禁裏(きんり)、御所などとも呼ばれ、平城宮では朝堂院の北側にありました。外郭(がいかく)と呼ばれる築地で囲まれた約180メートル四方の敷地に、羅城門や朱雀門などの中国式の建物とは異なり、掘っ立て柱(ほったてばしら/礎石なしで柱のみ地面に差した柱)に、檜皮葺(ひわだぶき/ひのきの皮を重ねて造った屋根)という、日本の伝統様式の建物が建ち並んでいました。
外郭で囲まれた内裏の南側に内郭(ないかく)と呼ばれる回廊で囲まれた区域があり、その中にある主要な建物である正殿は約45メートル×約25メートルの大きさであったと考えられています。そして内郭と外郭との間には、天皇の家政機関(かせいきかん/身の回りの世話全般をおこなう機関)である、後宮十二司(こうきゅうじゅうにし)など、天皇の生活に関係深い役所が建ち並んでいました。
これまで平城宮にあった朝堂院と内裏について解説してきましたが、これら朝堂院や内裏の周辺には二官八省一台五衛府(にかんはっしょう いちだいごえふ)と総称される政府の役所がありました。これまでの発掘調査で、太政官(だいじょうかん)、宮内省(くないしょう)、式部省(しきぶしょう)、兵部省(ひょうぶしょう)、大膳職(おおかしわでのつかさ/だいぜんしき)、造酒司(みきのつかさ)、馬寮(めりょう)などの役所が確認されています。
ところで、『続日本紀』には、聖武天皇の時代にたびたび松林苑(北松林、松林宮とも)と呼ばれる場所で宴(うたげ)を催したり、騎射などの儀式を行ったとあります。この松林苑と思われる遺構が発見されています。平城宮の北側に、松林苑の南端の築地跡と思われるものが発見されています。松林苑は南北約1キロメートル、東西約0.5キロメートルの広大な敷地を築地塀で囲み、池などがある庭園であったと考えられています。
さて、これまで平城京や平城宮について解説してきましたが、これほどの広大な敷地に建物などを建設するとなると、一体どれくらいの資材と労働力が必要だったのでしょうか。
奈良国立文化財研究所の推定によると、平城宮の建築に必要だった材木は7,500立方メートルであり、これを一辺が30センチ、長さが3メートルの角材に換算すると27万本となり、これは現在の60u(およそ20坪)の木造家屋が7,000戸も建つ量だと言われます。これは大変な量ですが、どの建物もおよそ70年の間に平均四回も建て直されたと言われますので、膨大な量の木材が必要でしたが、これは平城京の一部である平城宮のみに必要な材木であり、平城宮のおよそ20倍もの面積がある平城京の工事や建設も同時進行で進められたでしょうから、その必要な労働力と材木などは途方も無いものであったと思われます。
こういった工事は今とは違って重機や車もなく、全て人力でしたのでかなりの重労働であったと思われます。労働力として駆り出された農民達は、そのあまりの過酷さに逃亡する者が絶えなかったと言われます。しかし、逃亡しても故郷へ帰れば捕まってしまうため故郷へも帰れず、逃亡者を出した土地からは代わりの者を出さなければなりませんでした。
注) 藤原京から平城京へ引っ越しする際、藤原京の建物を取り壊した木材もリサイクルされて平城京の造営に使われています。
平城京にはおよそ5万から10万の人が住んでいたと考えられていますが、どのような人達が住んでいたのでしょうか。
平城宮には天皇の住居である内裏、東宮(とうぐう/皇太子の住居)や、中宮(ちゅうぐう/皇后の住居)などの殿舎、儀式場や中央官庁の各役所がありました。平城京は基本的に各役所で働く人達が住んだ所です。各役所に勤める役人やその家族と使用人、僧侶、平城京の土木工事などに労働税として駆り出された全国の農民、全国から庸・調といった税を自力で都まで運んでくる農民達、全国から選抜されて都や天皇の警護にあたった兵士など、全国から様々な人達が集まってきていましたが、その中心は畿内(きない)と呼ばれる大和国(やまとのくに/奈良県)、河内国(かわちのくに/大阪府南東部)、摂津国(せっつのくに/大阪府北西部・兵庫県南東部)、山城国(やましろのくに/京都府南部)、和泉国(いずみのくに/大阪府南部)の人達でした。
これら畿内と呼ばれた地域の住人は、税の1つである庸(よう)を免除、調(ちょう)を減額されていました。これはこの地域の住人が優遇されていたという訳ではなく、都に近いという事から、平城京の工事に狩り出されていたからなのです。これは雇役(こえき)と呼ばれる賃金が支払われる労役で、雇役に従事する代わりに庸を免除し、調は半分納めれば良いとされました。こうして広大な平城京の土木工事や寺社の建設など、公共工事に狩り出された人達も平城京の住人でした。
平城京の大路(おおじ)・小路(こうじ)には側溝がありましたが、この側溝の掃除などにあたったのも狩り出された人達でした。これは仕丁(しちょう)と呼ばれる、労働で支払う税の一種によって地方から集められた人達でした。
また、当時は地方の軍事組織として軍団(ぐんだん)がありましたが、これら各国に置かれた軍団の兵士は軍団のある近隣の農民が徴兵されました。そして軍団の中から優秀な者は都へ送られ、平城京の諸門を警護する衛門府(えもんふ)や、平城京内の警備をする衛士府(えじふ)の末端兵士である衛士(えじ)として、任期中は平城京に住んで任務にあたりました。
平城京の住人のうち、貴族と呼ばれた特権階級の者はたった120人、それに家族を含めてもせいぜい数千人です。それに対し、六位以下、初位以上の位階を持つ者がおよそ600人、位階を持たない下級官人がおよそ6,000人いたと言われます。これら下級官人はそのほとんどが単身赴任であり、畿内および全国から労働力として駆り出される農民達もまた単身赴任でした。従って、平城京の住人は、そのほとんどが下級官人、労働力として駆り出された農民、僧侶、貴族や皇族に仕える使用人、税を納めるために一時的に上京した農民などであったということになります。
このように平城京には様々な人達が住んでいましたが、東に張り出した寺社が建ち並ぶ外京には僧侶達が、天皇の御所や役所が建ち並ぶ平城宮近くには貴族が、それ以外が下級官人や労働力として駆り出された農民達の宅地として割り当てられていました。
貴族はおおよそ五条から北に宅地が与えられ、平城宮に近づくほどより位階が高い貴族が住んでいました。
注) 貴族が必ずしも五条よりも北に宅地が与えられた分けではなく、六条、七条にも貴族の屋敷跡らしきものが発見されています。ただ、おおよその目安としては五条より北が貴族の宅地と考えて良いと思われます。
こういった貴族の暮らしぶりや屋敷については、貴族とその暮らしで詳しく解説しますので、ここでは一般庶民の住居について少し解説します。
平城京の南端からは、32分の1町(坪)の宅地跡が発見されています。こういったあたりは下級官人や、労働力として各地から集められた人々の宅地に割り当てられました。
32分の1町とはどれくらいの広さだったのでしょうか。大路と小路で解説しましたが、平城京の区画としての1町(坪)は、一辺が125メートルの正方形でした。32分の1ということは、4×8とすると1町の縦を4分割、横を8分割することになりますので、縦が31メートル、横が16メートルほどの長方形となり、およそ500平方メートルということになります。これはおよそ150坪ですから、分譲マンションのちょっとゆとりのある間取りの3LDK(25坪)6戸分もの広さです。下級官人や庶民といえども、こういった広い宅地を与えられていたとなると、ずいぶん贅沢であったと思われるかもしれませんが、実際はそうではありませんでした。
宅地の中には建物が1つ、もしくは2つあり、井戸もありました。その建物は地面に穴を掘って柱を立てるだけの掘っ立て柱で、壁は板張り、屋根も板葺きでした。屋内には部屋を仕切る壁などはなく、床も板を敷いたりむしろを敷いたりしただけの粗末なものでした。また敷地のわりには建物は小さく、およそ10坪ほどであったようです。10坪は畳20畳ですから、6畳の部屋が3つほどの建物ということになります。
このような住居には、全国から労働力として集められた農民や、単身赴任の下級官人が複数人で共同生活していたものと考えられています。建物には部屋を仕切る壁もなく、恐らく家具などもなく、各人が雑魚寝するといった感じの生活だったのではないでしょうか。そして建物に対してやけに広い敷地では、毎日食べる野菜などを作っていたのではないかと考えられています。貴族には様々な報酬がありましたが(貴族の収入参照)、六位以下の下級官人には充分な給料は支払われず、こうした宅地の庭を利用した家庭菜園や、休暇の時に実家へ帰って口分田を耕し、そこから得られる収穫、写経のアルバイトなどで暮らしを立てていたようです。
平城京には東市(ひがしのいち)、西市(にしのいち)の2つの市場(いちば)がありました。東市は左京八条三坊、西市は右京八条二坊に開かれ、市司(いちのつかさ)が管轄しました。
これらの市では様々な物が売られていたと思われますが、平安初期に書かれた『延喜式(えんぎしき)』には、市で売られていた物が記されていて、絹や木綿などの布、帯や着物、櫛(くし)や裁縫用の針、筆や墨といった筆記用具、大刀(たち)や弓、馬具などの武器武具、米や野菜、魚介、調味料などの食料品、牛や馬までもあったようです。これらの商品が東西それぞれ4町(坪/およそ250メートル四方)の広さの市場に並んでいました。
注) 『延喜式』とは、『養老律令(ようろうりつりょう)/法律』を施行する際の細かな規定をまとめたマニュアルです。
お店を出すには市司(いちのつかさ)への届け出が必要で、販売する商品名を書いた看板を立てなければなりませんでした。またその価格は10日に一度、市司の役人がチェックして品質と価格を調査しました。
平城京に住む人達は市で買い物をしましたが、役所や寺社が公的に使用する物を買うこともあり、また逆に不要な物を売却することもあり、貴族がお店を出すこともありました。また市の近くには、全国から税の一種である調を都まで運搬してくる農民の宿所が設けられ、農民達は納めるべき税を市で購入して納めることもありました。
市が開くのはお昼からで、日没には閉められました。
「平城京」は、以前は「へいじょうきょう」と読まれていました。私もそう習いましたが、最近の教科書では「へいぜいきょう」と書かれているものもあるようです。
日本は文字として漢字を中国から取り入れましたが、同時に漢字の読みとして中国語の発音も取り入れ、それぞれの漢字の読みとして利用して来ました。これを字音(じおん)と呼びます。中国の発音にも時代や方言によって変動がありますので、取り入れた時代などによって日本での読みにも変動がありました。
例えば、漢音(かんおん)と呼ばれる唐の長安の標準発音を取り入れた読み方では、「宮」を「キウ」、「近」を「キン」、「明」を「メイ」と読み、呉音(ごおん/和音とも)と呼ばれる、中国南方呉地方の発音を取り入れた読み方では、「宮」を「クウ」、「近」を「コン」、「明」を「ミヤウ」と読みます。
「へいじょう」という読み方は、上記の漢音+呉音という読み方になっており、当時は漢音と呉音を混ぜて使う事はありませんでしたので、漢音に統一して「へいぜい」にしようという事になったようです。また平城天皇(在位806-809)を「へいぜいてんのう」と読む事もその理由の1つのようです。
平城京は、大きな川から離れた位置にあり、都には小さな川が流れているだけでした。従って物を大量に運ぶ事ができる大きな船が都に入る事ができず、10万人もいたと言われる人口に対して食料や水が常に不足していました。また、排泄物は宅地に穴を掘ってそこに溜めておき、溜まったら側溝へ捨て、ゴミも宅地に穴を掘って埋めたり、側溝へ捨てたりしていました。
側溝へ捨てられた排泄物やゴミは、川から引いてきている水で流されて行く造りになっていたのですが、水がほとんど流れないため、排泄物などが溜まり不衛生きわまりない状態となっていました。