「映画の変容」をめぐって
DAY FOR NIGHT」:映画館主・Fさん
シューテツさん
TAOさん
junkさん
ヤマ(管理人)


  No.4844(2004/09/14 14:50)より

(映画館主・Fさん)
 ヤマさん、こんにちわ~。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、Fさん。

(映画館主・Fさん)
 ウィンターボトムの『CODE46』を見ましたが、いやぁ~、これがまた・・・(笑)。実は、先日忍者ハッタリくんことシャマランの『ヴィレッジ』を見て、ありゃりゃりゃりゃ~と思ったんですけど。

ヤマ(管理人)
 『ヴィレッジ』のほうは、食指が動かないんですが(苦笑)。 

(映画館主・Fさん)
 マジメな方には向かない映画です(笑)。

ヤマ(管理人)
 っていうか『アンブレイカブル』で萎えてる感じですね(苦笑)。

(映画館主・Fさん)
 僕は娯楽映画専門でゲテモノもいただく方なんで・・・。

ヤマ(管理人)
 僕には専門を標榜するジャンルは特にありませんが、ゲテモノはけっこう好きですよ(笑)。好奇心が強いほうですから(笑)。

(映画館主・Fさん)
 ウィンターボトムとシャマラン、そして、その前のチャン・イーモウの『LOVERS』でしょう? 共通するとまでは絶対言わないですし、そもそも何の共通性もない連中なんですけど、みんな一体どうしたんでしょうか? 何か同じ方向を目指しているとしか思えないんですけど(笑)。

ヤマ(管理人)
 そうなんですか!(笑)ウィンターボトムとシャマランが、ですか(驚)。今回の作品、僕はどちらも未見なんですが。

(映画館主・Fさん)
 こう思うのってオレだけかなぁ???
 まぁ、僕はあまり厳密に映画を見るほうじゃないですし、アレコレ勝手に考えて見るのが好きなんで、全然違うじゃねえかと言われるかもです(笑)。

ヤマ(管理人)
 「アレコレ勝手に考えて見るのが好き」っていうのは僕も同じですね~。そういうものを触発してくれるとこがいいんですよね、映画って。誤解を恐れずに言うなら、僕の場合、映画そのものよりもこの「アレコレ勝手に考える」ことのほうが好きで、それに最も都合がいいもんだから、何かついでに映画も好きになってるっていうような感じですね(笑)。

(映画館主・Fさん)
 キーワードは、チマチマしたこたぁどうでもいい・・・です(笑)。

ヤマ(管理人)
 へぇ~、まぁ、受け手の感受性も変わってきてますからねぇ。
 そこに大きな流れがあるとしたら、ひょっとするとその口火は『マトリックス』なのかもしれません(笑)。

(映画館主・Fさん)
 で、僕はそういうチマチマしたこたぁどうでもいいっての、まったくキライじゃないです。

ヤマ(管理人)
 緻密さや丹精、完成度に替わるだけのものが備わっていれば、ね~。

(映画館主・Fさん)
 もちろん僕はどちらかと言えば保守的な映画ファンなので、セオリーとか映画文法とか組み立てとかについては、それなりに気にしているつもりではありますが。

ヤマ(管理人)
 それなりどころか、お書きになっているものを読めば、僕なんかより遙かにそのことに敏感でおいでるように感じますよ。

(映画館主・Fさん)
 ですが、同じアイテムをテコとして、同じ方向に中央突破を図ろうとしているようなのが不思議で。

ヤマ(管理人)
 同じアイテムをテコにというのは、ワイルドにいこうっていうか、“パワーアイテム”ってことですかね?
 あるいは、キェシロフスキのイレーヌ・ジャコブへのような、イーモウのチャン・ツィイーへのような、“入れ込みアイテム”とか(笑)。

(映画館主・Fさん)
 で・・・不思議だというだけの事です(笑)。また変な事を書いちゃいましたね(笑)。

ヤマ(管理人)
 んなことないでしょ(笑)。何か大きなとこでの変化というか、動き始めている感じってのは、僕も近年感じているところですよ。まだボヤッとして掴みかねてるとこがありますけど。おっしゃるように、チマチマしたとこじゃなく大きなとこでの動きだって感じがあります。
 で、そこんとこでの動きのようなものを感じると、不思議という以上に、興味深いものが生じてきますよね。Fさんもそこのとこが気になってウォッチャーしてみよって心境になっておいでるんじゃありませんか?(笑)

(シューテツさん)
 ヤマさん、おはようございます。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、(シューテツさん)。

(シューテツさん)
 Fさんとのやりとりで何か大きなとこでの変化というか、動き始めている感じってのは、僕も近年感じているところですよ。と書いてあるのを読んでいて、ふと思ったのですが…、話の大筋とは関係ないのですが、イオセアーニ監督の作品って実にチマチマしたこと(小事)が描かれているのですが、作品を観た後の印象では、作者自身は(鑑賞者も)何か凄く大きな方向へ向いている(向かされる)様な気がするのです。

ヤマ(管理人)
 そーなんですか。イオセアーニ監督作品は全く観たことがないのですが、何だか自分が好みそうな気がしてきましたよ(笑)。

(シューテツさん)
 例えば、それとは反対の印象なのが、マイケル・ムーア監督作品などでは、描かれていることは一見非常に大きなテーマ(大事)が描かれているのですが、実は、作者自身の興味の対象は非常に小さなものへの関心のような気がして、(鑑賞者も)大きな問題に触れているような錯覚に陥るのですが、実は、逆の方向へ向いている(向かされる)気がするのです。
 と、なんか漠然とした印象談ですが、そんなことをふと思ってしまいました。

ヤマ(管理人)
 なるほどね。
 ムーア自身の興味の対象が“非常に小さなものへの関心”というのは、確かにそうですよね。何せ、モンの凄く具体的ですからね(笑)。広がりも何もありゃしない。拡散する余地なし!ですよ。
 って華氏911はまだ観てなくて、明日にでも行こうと思ってるんですが(笑)。

(映画館主・Fさん)
 わ~、これは心強い。
 ヤマさんが何か大きなとこでの変化というか、動き始めている感じってのは僕も近年感じているところですよ。と書いておいでるとこには、上の(シューテツさん)の書き込みも併せて、ホッとしてますよ(笑)。というのは、僕もそれが“何か”つかみかねているし、よく分かってない。だけど、どうもここ最近の目立つ映画には何か共通点がある。そういう事を漠然と考えていたんですよね。

ヤマ(管理人)
 どう言ったところで、少ないとはもはや言えない量の新作映画を、一応のリアルタイムで観続けていれば、否応なく感じますよね~。

(映画館主・Fさん)
 それは例えば、常に悪い例で挙げちゃうんで気の毒なんですが(笑)、ちょっと前の『ホワット・ライズ・ビニース』あたりが代表する無神経なジャンルの越境やら映画の話法の無視とか、ああいう幼稚で安易な「細かい事言わないで」的映画づくりとは、まったく違うのではないかと思うのです。

ヤマ(管理人)
 あれも確信的と言えば、確信的でしたよね。だけど、言われてみれば、Fさんが『LOVERS』の感想文で書いておいでたような「志みたいなものを伴った確信性」を感じさせてはくれませんでしたね。その作品名が出たところで、ゼメキス繋がりで思い出したのですが、キャスト・アウェイもあの頃に「昔の作品だったら、こうはならない」って思いを強く誘ってくれましたよね。今、自分の日誌を振り返ったら、図らずも『ホワット・ライズ・ビニース』と並べて言及してました(笑)。

(映画館主・Fさん)
 ところが、外面上の特徴は『ホワット・ライズ・ビニース』なんかと酷似するから話はやっかいで、「どこが違うんだよ」と言われると言葉に窮してしまうんです。でも、確かに何かが起きている。

ヤマ(管理人)
 僕は、うえにも書いたように、Fさんの感想文から触発された「志を伴った確信性」が当面、言葉にできる「違い」かなって思いました(笑)。

(映画館主・Fさん)
 そうなんですけどね。ただ、「志って何よ?」って言われちゃうと説明出来ないとこありますし(笑)。

ヤマ(管理人)
 表現としての可能性の開拓なり進展を自覚した志かな(笑)。商品としてのウケなり面白さを狙った新規さや奇抜さに留まらない志ってことでもあるような気がしています。作り手当人がどう考えているかという以上に、受け手の自分がそんな風に感じられる形で宿っているかどうかが、僕の関心としては重要なんですが。

(映画館主・Fさん)
 僕は、要は、何かを達成するために何かを捨てた・・・とか、何かより何かのほうが優先順位が高まった・・・とか、いやいや、そんなものを問うのもヤボかもしれませんが、少なくも自分は問わない訳にはいかんだろうと思ってまして。

ヤマ(管理人)
 ん? 志っていうのは、やっぱり払うべき犠牲の存在を必要として初めて成立するものなんでしょうかねぇ??

(映画館主・Fさん)
 僕は、何かを達成するために何かを捨てたの「何か」が分かれば、おそらくは何が起きつつあるか、分かる気がするんですよね。

ヤマ(管理人)
 まぁ、変化という以上、新たに得たものと失ったものとがあるってことを指摘しておいでなのですね。つまり、単に失われたものの正体が何かということを確認したいのであって、志というものを感じるうえでの条件としているってことではないんですね(笑)。

(映画館主・Fさん)
 その変化というのは、ヤマさんが挙げておいでた『マトリックス』以降の「それ」とも違う気がするんですが、ひょっとしたら『マトリックス』を通過したからできた気もします。

ヤマ(管理人)
 むろん決定的な一作ということでもないのでしょうが、象徴的な一作ということでは、あれかなって気が僕はしています。ちょうど物語性の復権みたいなとこでの“ドキュメンタリーと劇映画の相互乗り入れの動勢”を象徴する意味でのモニュメンタルな作品として友だちのうちはどこが想起されるように。

(映画館主・Fさん)
 実は『茶の味』『誰も知らない』にも同様の感触を感じてまして、かなり僕は最近動揺が激しいのです(笑)。

ヤマ(管理人)
 日本映画も、ってことですね。どちらも観てみたいな~。それと、そういうことを考えるうえでは、高知で『ユリイカ』が上映されずに、自分が未見に終わっているのが残念ですよ(とほ)。

(映画館主・Fさん)
 ただ、確かに映画100年を経過して、従来のセオリーみたいなものが、ある種の金属疲労みたいなものを起こしていることは確かで、そこにテレビやインターネットやテレビゲームといった異種映像に慣れ親しんだ人々が出てきている。その中で、映画ひとりが変わらずにいられるわけもないのか・・・と思ったりもしていますが、

ヤマ(管理人)
 そうですよ!

(映画館主・Fさん)
 原因はまったく不明です。

ヤマ(管理人)
 原因があってどう、という因果で以てロジカルに動くものでもないですよね、変化って(笑)。ある種、営みとしての成り行きって側面のほうが強かったりするものですよ。結果というものも「結果」というほどに固定的なものではないと思うのですが、ある時点での定点としての「結果」というものに、原因を求めると、これこれこういったことが、と列挙できるものが幾つか思念できるってなもんじゃないんでしょうか(笑)。
 惚れた女について、惚れた理由や原因を求めてみると確かにこれだと思えるような事柄がいくつか取り出せてはみても、それが決定的な理由だとか原因だと考えると何処か無理があったりするようなことに通じている気がします(笑)。

(映画館主・Fさん)
 ええ。まぁそうなんですけどね(笑)。でも、因果で以てロジカルに動くものでないにしても、どこかで指針はつくっておかねばと思ったりします。
 一つには、あまりに曖昧な「印象」というもので、映画なり何なりが語られたり評価されたり、批判されたりもするでしょう。それは避けたいよなって気があるんですよね。まぁ、自分はどこか一線を引きたいというか。

ヤマ(管理人)
 そうですね。これは僕も常々思ってます。
 ですから、評価や批判ということ自体に、さほど気持ちが向きません(笑)。感受したものや喚起されたもの、触発されたものを振り返る作業のほうが、個人的には、自身の楽しみとしても充実感がありますね。まぁ、そうは言っても、評価的言辞や批判的言辞を弄したりする部分も少なからずあったりはするのですが、そのときには、「なぜ」という理由や「なにゆえ」という根拠などをきちんと追う作業に努めますね、少なくとも(笑)。
 まぁ、自身に対しても、あんまり説得力のない「印象記述」だけを残してみても、自分のための日誌という点での記録性のとこで、自分自身がつまんないですし(あは)。記述そのものに味のある文学的というか読み物的到達度なり面白さが、例えば、Fさんがお書きになるもののうちの快作レベルにまであれば、印象だろうが、論理性だろうが、お構いなしで、記述そのものに創造的価値が宿りうるのですが、僕などあくまで日誌ですし、ね(笑)。

(映画館主・Fさん)
 それともう一つは、僕が本来はそういう「印象」の人でして、本音を言えば、あまり理屈は言いたくない(笑)。そういう「文系」(これも異論ございましょうが<笑>)の悪いクセみたいなものを意識的に排除していかないと、いかんという、僕にとっての手かせ足かせでして(笑)。

ヤマ(管理人)
 そういう自覚って、その事々の当否はともかく、持つこと自体に意味がありますよね。んで言えば、僕の場合、何なんだろう?(苦笑) 僕も文系なんですが、よく論理性の塊のように見られるんですよね。でも、基本的には感覚的というか直感タイプですね。ただツールというか技術的な意味での論理性というのは不得手なほうではなく、むしろセルフ・コントロールとして課しているのは、技術的な論理を走らせないってことでしょうか。あ、それより何より、根っからの横着者でわがままなんで、いいとこ取りやずるさに走らないようセーブを心がけることかも。心がけてもまっとうなんて出来るはずもなく、馬脚は現してますけどね(苦笑)。「理想通りいかないのは世の常(笑)。」ってことです(笑)。

(映画館主・Fさん)
 少なくとも僕の感じでは、外国映画、西欧映画、アジア映画、日本映画、さらには娯楽映画、アート系映画限らずに、この新しい傾向が大なり小なり出ている予感がします。やや妄想ですが・・・(笑)。

ヤマ(管理人)
 妄想なもんですか(笑)。
 もはや、というか、元々ジャンルや国境というのは便宜的なもので、本質的にはむしろ越境してますよね、映画は特に。越境しているからこそ、その越境性を感じ取る座標軸のようなものとして、いわゆるジャンルや国境のようなものが有用性を果たすのであって、その座標軸のほうから物事を考えるのは、実は逆なんですよね。先に存在があって、座標軸は後から設定するものですよ。文法より先に言葉が生まれたのと同様に。

(映画館主・Fさん)
 そうなんですけど(笑)、理想通りいかないのは世の常(笑)。というか、概念をくくる上で座標軸が必要な時には、その座標軸が今まさに刷新されようとしているわけですから、旧来の座標軸自体を自分の中でキチンと整理しないと、それがうまく理解できないかと思ったりもします。

ヤマ(管理人)
 それは、おっしゃるとおりですね。

(映画館主・Fさん)
 以上は、すべて僕個人の中の問題なんですけどね。だから一般的に・・・とか他の方々とは違うかもしれません。

ヤマ(管理人)
 そう言えば、美術館冬の定期上映会“旧ソビエト空想映画館 SF・幻想・怪奇映画 傑作選 で1924年作品の『アエリータ』を観たときの興味深さとか、“映画生誕100年記念「ジョルジュ・メリエス映画祭」”“映画の誕生 リュミエール映画祭”を観たときの越境性とかを思い出しました。

(映画館主・Fさん)
 つまらない事を長々と語って来ましたが、今のところ僕にもこれ以上は何とも分からないんですよね。ただ言える事は、ロジカルな構成で積み上げていく話法は、否定されないけど絶対視もされなくなった、ということ。

ヤマ(管理人)
 そのとおりですね。
 そして、これは映画に限らず諸相に渡って顕著になってますよね。

(映画館主・Fさん)
 映像の力か何らかの感覚的なものかは分かりませんが、そちらの方が訴求力を持てるならば、それを最優先にする。

ヤマ(管理人)
 表現よりも伝達を重視することは、ある意味で大切なことですが、そのバランスを模索するなかでの表現のありようの変化と言えるかもしれませんね。

(映画館主・Fさん)
 ・・・そういう新しい「何か」が芽生えつつあるように思います。な~んて、まったく何の事だか分かりませんが(笑)。

ヤマ(管理人)
 僕もよく分かってません(笑)。

(TAOさん)
 ヤマさん、Fさん、こんにちは。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、(TAOさん)。

(TAOさん)
 「奇妙な符合」が昨日からどうも気になって、あれこれ考えていたんですが、ちっともまとまらず、とうとうまだ見てない『LOVERS』のFさんの感想をさっき読んじゃいました。

ヤマ(管理人)
 TAOさんも感じておられたんですね~(笑)。意見交換をしていると、一人であれこれ考えるよりも、効率がいいですよ。

(TAOさん)
 例によってストーリーに関わる部分は巧みに飛ばしながらね(笑)。そしたら、「野太さ」って言葉が目について、うわーやっぱりこれか、と驚いたんですよ。『誰も知らない』と『CODE46』に共通するキーワードは、人間の<ワイルドネス>だと思っていたので。

ヤマ(管理人)
 「野太さ」も「ワイルドネス」もライヴ感なり生命力みたいなもんですね。それも描く対象の、ということではなく、映画作品それ自体の。
 そこんとこのダイナミズムが作品に宿ったとき、それが小事を描こうが大事を描こうが、アート系であろうが娯楽系であろうが、映画自体の印象として「野太さ」を感じさせるってことでしょうかね。

(TAOさん)
 シューテツさんお薦めのイオセアーニ、私は『月曜日に乾杯!』しか見ていませんが、やっぱり単調な繰り返しの毎日からちょっとだけはずれて、ワイルドネスを獲得する話をのんしゃらんと描いてた気がするんです。

ヤマ(管理人)
 「癒し」なんかじゃないんですね(笑)。あえて言えば、「蘇生」かな。

(TAOさん)
 『誰も知らない』『CODE46』にも共通して言えるのは、「ワイルドでいこう」と声高に語ってるわけではないんですよ。むしろみずからの野性を注意深く掘り起こしてみせてくれてるかんじ。

ヤマ(管理人)
 カラ元気じゃなくて、魂の蘇生。表現としての映画ということでも、ある面、行き着くとこまで行ってからの蘇生ということになるのかも。

(TAOさん)
 だから一見、マールボロのCFのようなわかりやすいマッチョなワイルドとはちがうんですよね(笑)。

ヤマ(管理人)
 ああいうのは、カラ元気か懐古ですからね(笑)。

(TAOさん)
 自然に還れ、ではなくて、内なる自然の声をききなさい、みたいな。はは、こう書くとニューエイジっぽいですが。

ヤマ(管理人)
 蘇生っていうのは、そう言えば、エコロジーの時代っていうのとも繋がってきますね。

(映画館主・Fさん)
 そうなんですよ。「ワイルドにいこう」なんだけど、それに押付がましさがない(笑)。
 実は再来週あたりジョン・ブアマンの『未来惑星ザルドス』の感想文をアップするんですけど、これなんか逆の典型で。

ヤマ(管理人)
 遠い昔に観ましたよ。オズの魔法使いでしたよね、確か(笑)。

(映画館主・Fさん)
 未来の高度管理社会の不毛が描かれてるんですけど、最後に高度管理社会がぶち壊され、ワイルド最高!ってなる(笑)。いつもこのワンパターンぶりに呆れてはいたんですよね。

ヤマ(管理人)
 確かに管理社会の不毛と異議申し立てによる破壊なり、管理システムそのものによる社会の自壊って、ある種、パターン化されたものでしたね。もちろんヴァリエーションはさまざまな作品においてありましたが、社会派的雄弁さというのが押しつけがましいという観方もできます。とにもかくにも、「主張する」作品ではあるわけです(笑)。

(映画館主・Fさん)
 ところが今ここで挙がっている「ワイルドもの」(笑)は、そんな紋切にはならない。ユートピアも破壊しない。『CODE46』でも『LOVERS』でも社会を革命で破壊はしない。

ヤマ(管理人)
 『CODE46』は未見ですが、LOVERSでは唐の朝廷との戦いにはなりませんでしたよね、確かに(笑)。

(映画館主・Fさん)
 元々ワイルドネスってのはもっと内面のことだろう

ヤマ(管理人)
 うん、うん(共感)。

(映画館主・Fさん)
 ・・・ってところにいくんですよ。心の自由っていうんでしょうか。ココロのボスみたいな(笑)。
 で、ちょっと突飛なんですけどマイケル・ムーアも『華氏911』では同じ事を言ってると思うんですよ。

ヤマ(管理人)
 そうなんですか。今晩観に行こうと思ってるんですけどね。21:15始まりの回で。

(映画館主・Fさん)
 あいつの言ってる事というのは、「何でも馬鹿みたいに受け入れればいいってもんじゃないだろう。自分の頭で考えろ、ならば心だけは自由でいられるぞ。」・・・みたいなですね。

ヤマ(管理人)
 ほほぅ、それってマニファクチャリング・コンセントで感じた、メディア・リテラシーを前提としたカナディアン・テイストとして、前作ボウリング・フォー・コロンバインに僕が感じたものとまさに符合しますね。ここの掲示板でも、いつになく多くの方々と話したことでした。『華氏911』も同じスタッフだったのかな?

(映画館主・Fさん)
 僕はあいつのシンパでも何でもないですが、そこだけは同意できた。で、テーマ的にはそこらあたりにみんなが注目してきたと思います。

ヤマ(管理人)
 このあたりは、まだ観てないせいか今ひとつピンときません(詫)。

(映画館主・Fさん)
 ただ、それで終わると「文系」的考察に終わるんですけど(笑)、昨今の映画ってのが違うってのは、それをテーマとして出すと同時に、表現でもそれを体現しようとしている。

(TAOさん)
 そうそう、そこです。

ヤマ(管理人)
 ですよね~。

(TAOさん)
 『CODE46』のケータイで撮ったようなサマンサ・モートンのアップとか、ベルトルッチの『ドリーマーズ』のわざとらしい引用シーンなんて、ぎこちなくてもいいから、心のふるえをできるだけ率直に伝えようとしているかんじがありますよね。

ヤマ(管理人)
 こういう青臭さって、かつては新人監督の野心に支えられてたように思うんですが、それだと同時に、どうしても声高に主張することになっちゃうんですよね(笑)。

(TAOさん)
 あれは、『マトリックス』以降の劇画的な誇張ともまた違う気がします。

ヤマ(管理人)
 視覚的なスタイルとしては、明らかに違いますよね。でも、自分たちのやりたいことを破調を問題にせず、できるだけ率直に伝えようとしているという意味でのスタイルとしては、やはり通じているようには思うんですよ。それも単にゼメキス的な「商品としてのウケなり面白さを狙った新規さや奇抜さ」だけに留まらないパーソナルな感じがあったでしょ。このパーソナルっていうのも「野太さ」同様、ライヴ感や生命力に繋がっていくとこですよね。

(TAOさん)
 私は見ていませんが、ソクーロフの『エルミタージュ幻想』でしたっけ、美術館の中を全編ワンカットで撮ったというやつ。あれなんかも今思うと、カメラの息づかいまでを伝えようとする“志のある試み”だったのではないかと思ってます。

ヤマ(管理人)
 同感ですね。エルミタージュ幻想は、僕的には、かなり『マトリックス』に近いです(笑)。とても奇異な話かもしれませんが。

(TAOさん)
 最近なにかで読んだんですが、「見る」という字は目に足がついてるんですよ。

ヤマ(管理人)
 確かに(笑)。

(TAOさん)
 編集してつないだ映像には対象との距離感がないんですよ。でも、ワンシーンワンカットで撮った映像や、ハンディカメラで撮った映像には距離感が出る。

ヤマ(管理人)
 時間感覚の実感や距離感の実感みたいなものが出るってことですよね。

(TAOさん)
 CG全盛の時代だからこそ、そういうことにこだわりたくなってきたし、見るほうも、フラットな画面やスムーズな編集からは多くを喚起されなくなってきてるのかもしれないですね。

ヤマ(管理人)
 それは、そうですね。そういったところがヌーベルバーグの昔に遡る、カメラの屋外への持ち出しであり、手持ちであったりするわけでしょう。でも、表現としての可能性の開拓なり進展を自覚した志自体を声高に主張したのが昔のそういうスタイルの作品群だとするなら、昨今のは、その志自体のほうは、作家主義的雄弁さで主張してないように思うんですよね。それより心のふるえを率直に伝えようとしているかんじなんですよ。うーん、段々イメージが掴め掛けてきたような気がするぞ~(笑)。

(映画館主・Fさん)
 題材と表現が一致している。表現がこうである必然がある。そこらへんが確かに見事かも・・・と思うんですね。

ヤマ(管理人)
 そうです、そうです。
 『ボウリング・フォー・コロンバイン』でも僕が注目したのは、『マニファクチャリング・コンセント』に通じる部分の他には、まず第一には、日誌にも綴った瓢箪から駒のような面持ちで、凄い!と両手を広げ、コロンバイン校事件の被害者たちと喜び合うムーアの笑顔には、表現や製作に閉じ篭もっているわけではない活動家の充足感が窺える。という場面でした。映画の作り手の部分を逸脱している場面ですよね。ある意味で、やはり破調だったように思うのです。
 でも、TAOさんがおっしゃるぎこちなくてもいいから、心のふるえをできるだけ率直に伝えようとしているかんじというのがありましたよ。そして、それがまさにFさんのおっしゃる題材と表現が一致している。表現がこうである必然があるということに直結してたように思うんです。

(映画館主・Fさん)
 そして、そここそがヤマさんおっしゃるところの「志」の部分ではないかと思ったりします。

ヤマ(管理人)
 まさしくそうですね。表現としての可能性の開拓なり進展を自覚した志ですよ。

(映画館主・Fさん)
 いや~、青いですねぇ我ながら(笑)。

ヤマ(管理人)
 いや、お互い様です(笑)。


-------産地直送映画としての模索-------

(映画館主・Fさん)
 分かってないくせに知ったかぶりついででいきますね(笑)。
 まずはこの「志」映画(と、仮に言いますけど)のどこがどう違うのか?・・・という話をする前に、僕が外見的には変わらないと言った例の悪名高いゼメキス映画を再検討したいんですけど。

ヤマ(管理人)
 はいはい。

(映画館主・Fさん)
 ヤマさん御指摘の「商品としてのウケなり面白さを狙った新規さや奇抜さ」・・・とは、ちょっとだけ違うかもしれないと思ってまして。

ヤマ(管理人)
 そうなんですか?
 勿論それだけしか宿ってないわけじゃあなかったんですけど、狙ったのは、面白さやウケってことだと僕は感じてました。ただ狙わずとも宿る根っからの映画好きならではの感じというのもありましたよね。で、面白さやウケを狙うのが悪いってことには勿論ならなくて、誰も彼もが今ここでいうところの「志」映画を撮るようになると却って、映画全体としては、つまらなくなっていきますよね(笑)。

(映画館主・Fさん)
 要は、面白きゃ何でもアリぐらいの無神経さ、無邪気さで映画に取り組んでいる気がするんですよ。何というか、フセイン倒せばイラクは民主化間違いなし・・・ぐらいの無邪気さ単純さ加減で(笑)。

ヤマ(管理人)
 まぁ、どっちかというとこっちのほうなんでしょうが、これほど単純でもあれないはずで、そういうふうに目に映る部分が、作り手たるゼメキスが根っからの映画好きってとこなんでしょうね(笑)。
 それはともかく、『ホワット・ライズ・ビニース』は、Fさんから「ヤマさん、事件です(笑)。 」って言われて観に行った映画で、この間借り人の部屋でもNo.237~240あたりでちょびっと意見交換しましたね。

(映画館主・Fさん)
 で、なぜココの点を再確認するかと言いますと、僕もあまり好きではないし、ヤマさんもそういうつもりでは言ってないと思うんですけど、商業性・非商業性、あるいは作家性・非作家性・・・という、そういう分け方では見ない方がいいかなぁ・・・と、後々の事を考えると思ったりもするんですよね。

ヤマ(管理人)
 おっしゃるようにジャンルを越えて、映画全体が見舞われている状況ですからね。

(映画館主・Fさん)
 興味深いのは、いずれ劣らぬ映画話法の達人なり、映画のテクニシャンたちが、あえてそのテクを捨てているかのように見える映画づくりをしているわけなんですね。もちろんよく見れば捨ててはいないんですけど。

ヤマ(管理人)
 掲示板No.240の書き込みに映画は優れて、時代の空気を掴まえるものだと思うのでとも書いたのですが、そこを踏まえていればこそ、Fさんがあえてそのテクを捨てているかのように見えるとおっしゃるような映画の作り方をし始めたんでしょうね。

(映画館主・Fさん)
 技術や話術やテクの重要性を十分知り尽くしているのに、知り尽くしているからこそ、一旦はそれを留保しようとあえてしていることが重要な点です。

ヤマ(管理人)
 そうですね。できないんじゃなく、やらないんですからね。

(映画館主・Fさん)
 それって上にも書いてあるんですけど、もっと言うと、おそらくは彼らは「作り手」と「受け手」の関係を映画というシステムの中で一種の「産地直送」状態にしたいと思っているのではないか(笑)。作り手の思いの「産直」状態で映画を見せたいと思い始めているんではないか?

ヤマ(管理人)
 あ、まさしくね。ライヴ感や生命感にこだわった受け渡しってのを、そう呼ぶんですよね(笑)。

(映画館主・Fさん)
 そこに「技巧」がチラつくとその鮮度やナマさが落ちると。そういう事ではないかと思ったりもするんですけど。何だか訳分からなくなってきましたね(笑)。

ヤマ(管理人)
 「技巧」のほうは、Fさんがお書きのように「もちろんよく見れば捨ててはいない」ってとこが重要ですよね。チラつくことで鮮度を落とすのは、僕は「技巧」よりも「志の声高な主張」のほうじゃないかって気がします。

(TAOさん)
 「産直」! いよいよ核心に近づいてきた気がしますね。

ヤマ(管理人)
 確かに(笑)。三人寄れば文殊の知恵って昔から言いますし、おかげさまで何やら少し分かったような気になってきました(礼)。

(TAOさん)
 それで思い浮かんだのは、野崎洋光という料理人です。とかく料亭はなにかと手間隙をかけた料理を出すものですが、この人は、自分がこの野菜は茹でただけで塩をつけて食べるのがいちばんおいしいと思ったら、堂々とそういう料理を出せる店を作りたかったと言うんです。

ヤマ(管理人)
 なるほどねー。これって殊更にそう言うくらい、やりたくっても、なかなか出来ないことなんですよね、確かに。

(TAOさん)
 素人ができないプロの技で料理の価値を無理矢理上げるんじゃなくて、素材のよさとそれを生かす技法を見極める判断力でおいしい食べ方を提供する。

ヤマ(管理人)
 そもそもは、“素人ができないプロの技”ってとこがプロの面目なんですからねぇ。それを投げ出すわけには、なかなかいかないとしたものですよ。そこを敢えて捨て“素材のよさとそれを生かす技法を見極める判断力”ってとこにプロとしての面目を懸けるわけですね。

(TAOさん)
 産直映画と同じでしょう?

ヤマ(管理人)
 確かに。

(TAOさん)
 映画にかぎらず、世の中全体がそういう方向に向きつつあるのかもしれないですね。

ヤマ(管理人)
 エコロジーとかスローライフってのも含めて、ね。

(TAOさん)
 生命力とかライブ感が落ちてる証拠かも。

ヤマ(管理人)
 きっとそうなんですよ。

(TAOさん)
 それと、もうひとつ。私は、ネットの世界にはまるで疎いんですが、たまに家人が見せてくれるいろんなフラッシュを見ていると、うわーこれは新しいメディアだと驚くのです。すでにセレクトされた傑作ばかりを見ているせいもありますが、お金をかけたTVのCMなんかよりはるかに面白く、インパクトがあり、作り手の熱い思いが生々しく伝わってくる。これこそ産直媒体ですからね。そのくせ、表現としてもすでに素人離れしてるんですよ。

ヤマ(管理人)
 何事によらず、玄人はだしの時代です(笑)。プロを自任している者は、うかうかできませんよね。

(映画館主・Fさん)
 これはですね、やっぱりコンピュータがすごく大きいと思います。
 僕も一応「ものづくり」の末端というか末席を汚しているんですが、マックの普及が与えた影響は絶大です。

ヤマ(管理人)
 マックですか(笑)、ますます僕の未知の領域ですね。ハンバーガーのほうさえ、随分と遠ざかってますもんね~(笑)。

(映画館主・Fさん)
 何がすごいって、結局素人でもかっこだけはもっともらしく出来るようになりましたし、それを発表する場もある。

(TAOさん)
 ちょっとまえ、ハウスミュージックが生まれたときも、ああこれからはセンスと思いつきなんだなと思ったけど、こんどはそれのビジュアル版ですよね。

ヤマ(管理人)
 なるほどね。イカ天の次は、エビ天だったようなものなんですね(ちゃうか(笑))。

(映画館主・Fさん)
 だからプロは技巧ではなく素材の発見・発掘やセンスやら、あるいはそのサンプリングやらミキシングの妙というところに追いやられていった訳ですよ。
 でなければ、当たり前ですが真のオリジナリティーですね。しかもサンプリングやらミキシングってのは素人でもある程度できる。だから結局は自分の頭から持ち出してきたワン・アイディア、原生林から切り出したばかりの原木みたいので勝負するしかなくなったわけです。この当たり前が一番難しい。

ヤマ(管理人)
 あ、この“真のオリジナリティー”のあたりなら、ちょっと分かるぞ(笑)。「この当たり前が一番難しい。」とか(笑)。

(映画館主・Fさん)
 実はこれも理想どおり行かぬのが世の常ですが(笑)、ちゃんとしたクリエイターだったら、そこまで思いつめて、真面目に原生林に踏み込まねばいかんなと思っているはずです。

ヤマ(管理人)
 ここんとこが「志」ですね。

(映画館主・Fさん)
 彼ら先端の映画作家が思いつめたのも多分そこで、それにはメディアの多様化の他に、デジタルビデオカメラの普及も一役買っていることでしょうね。

ヤマ(管理人)
 Fさん天敵とのソクーロフ(笑)の『エルミタージュ幻想』は、これ抜きにはあり得ませんものね~。

(映画館主・Fさん)
 ヤマさんが「できないんじゃなく、やらないんですからね。」とお書きになったこと・・っていうのは、そういう事なんだと思います。


-------これまでにない不思議な映画作品の数々-------

(TAOさん)
 それで、マイケル・ムーアのスタイルってかなり意図的にフラッシュを意識してる気がしますねえ(不思議とまだTVCMにはこの手のスタイルは現れてない気がしますが、時間の問題でしょう)。

ヤマ(管理人)
 僕は、そのフラッシュというのが今いちピンと来ないんで、何とも言えないんですが(とほ)。

(TAOさん)
 そういう存在意義は大いに認めたいと思いますが、『華氏911』を見て、私はやっぱりこの男はきらいだーと思いました(笑)。

ヤマ(管理人)
 暑苦しいですか?(笑)。

(TAOさん)
 ニール・ヤングなんて反則技も使うし。ヤマさんはいかがでしたか?

ヤマ(管理人)
 さっきまで日誌を綴ってました。明後日の更新でアップしますが、出だしはカナダの傑作ドキュメンタリー映画『マニファクチャリング・コンセント』を彷彿させた『ボウリング・フォー・コロンバイン』からすると、いささか物足りない出来栄えだった。という一文です(笑)。

(映画館主・Fさん)
 マイケル・ムーアはですね、好きじゃないけど志は買えます。人を憎んで映画を憎まずじゃないけど(笑)。

ヤマ(管理人)
 僕も彼を好きとは言えないかも(笑)。でも、エライよな~って思いますから、志は買ってますね。

(TAOさん)
 ヤマさんは「フラッシュというのが今いちピンと来ない」と書いてらっしゃいますが、私なんか、マックの、しかも古いOSを使ってるもんで、フラッシュを見るソフトが入れられないんですよ(苦笑)。ヤマさんはその点はたぶん大丈夫ですよね。『海外ボツ!ニュース』の「一人の編集室」のバックナンバーから<「もうだめぽ」の神話>を選び、本文であらかじめ背景を頭に入れて、そこで紹介されているフラッシュをご覧になってみてください。ちょっとグッと来る作品です。

ヤマ(管理人)
 拝見しましたよ。作品もさることながら、その背景たる「母(ママン)なる”2ちゃん“の深部」とやらの気配のほうに、いっそう感じ入るものがありましたよ(笑)。でも、作品も相当に大したもんですね。一回観てもわかりにくいとこが今風でなおさらに(笑)。元の板を追ってみると、クリエイティヴィティが更に確認できますね。あれだけのものを作らせるとこが、既に神化と言えるかも(笑)。

(TAOさん)
 私はフラッシュの成立についても無知ですが、ビジネス用のプレゼンツールと同根なのではないかと思うんです。

ヤマ(管理人)
 なるほどね~、いかにも、いかにも。

(TAOさん)
 よくハリウッド映画でもプレゼンテーションのシーンに使われているあのしらじらしいやつです(笑)。数値データや映像、イラスト、音楽や端的な言葉を総動員して上司やクライアントや説得するわけですね。『ボウリング・フォー・コロンバイン』を見たとき、これはドキュメント映画というよりパーソナルなプレゼンテーションだなと思ったのです。

ヤマ(管理人)
 僕は、先ずスタイル的なところで『マニファクチャリング・コンセント』が来ちゃいましたから却って、そういうふうには映りづらかったですが、確かにそういう観方のできる面が濃厚にありますね。

(TAOさん)
 ただ伝えたいテーマが企業案内とかどうでもいい商品コンセプトではなくて、彼自身の強烈な関心に基づくパーソナルなものだから、こんなに力があるし、面白いんだなと広告屋の端くれとしてしみじみ思いました(苦笑)。その点、こんどのはブッシュという素材に頼りすぎて、フラッシュっぽい面白さはなくなってましたね。

ヤマ(管理人)
 そうなんですよ~。面白さのポイントが、フラッシュっぽいか否かであるのかはともかく、映像作品としての面白さは、ものすごく減退してましたよね。それって、やっぱり映画としての面白さに直結しますし、ね。

(TAOさん)
 ただやっぱりアメリカの軍産共同体の実状やブッシュの背景を活字以外で世界に知らしめたっていう部分ではエライ。

ヤマ(管理人)
 そうそう。映画であると否とを問わず、活動家としての面目は、充分立っている作品ですよね。そして、観られるべき値打ちは間違いなくありますね。

(TAOさん)
 「暑苦しい」とは思わないけど、確信的幼児的な媚びがヤだなー。

ヤマ(管理人)
 こりゃまた、キッツイお言葉で~(笑)。

(junkさん)
 一応ネット世代と呼ばれる私からFlashについてのみ。仕事でWEBデザイナーにFlash組んでもらうことも多々あるし。『華氏911』も『CODE46』も観てないので、文脈上皆さんと噛み合わなくなりそうですが、とりあえず情報を提供いたします。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、junkさん。ありがとうございます。

(junkさん)
 で、私も確証はできませんが・・・Flashについては、制作に多少通常のhtmlよりコストが発生するため、プレゼンテーションツールとして使われてきた歴史はないのではないでしょうか。

ヤマ(管理人)
 もともと作品的側面が強いってことですかな。

(junkさん)
 ちなみに私はTAOさんがご指摘のしらじらしいプレゼンをこの1ヶ月毎週やってきて死にそうになってます(爆)。

ヤマ(管理人)
 Fさんにしても、TAOさんにしても、junkさんにしても、みなさん、アド関係のお仕事なんですよね、そう言えば(笑)。そう言えば、グロリアさんもそうなんじゃないかと…。僕、全然そっち系の仕事したことなんですがね~(笑)。

(junkさん)
 パワーポイントにアニメーションを組みこみ、さらにアリものの映像を組み合わせてビデオでイメージをつけるとか(同マイクロメディア社のdirecterなんかがそのよい例ですね)。そういうのはありますけど、Flashは全く別物。動画コンテンツの疑似ムービーとしてのみ使用します。「ちょっと目を引こう」というときにFlashムービーを使用することは多いですね、うん。
 で、TAOさんがおっしゃっているFlashってのは、そういう映画サイトや企業・個人サイトのTOPにあるようなFlashムービーの意図とはちょっと違うようで、2ちゃんねる界隈で発生した系統のものですね。あ、私も好きです・・・Flash職人さんすごいなあ、と何度思ったことか。

ヤマ(管理人)
 あそこは、そういう面での創造的な潮流をも生み出してるんですか! そいつは凄いもんですね~(驚)。

(junkさん)
 有名になった『電車男』は好みじゃなかったけど、『ドラえもん最終話』なんかはよく出来てたなあ。おっと脱線。

ヤマ(管理人)
 ち~んぷん、かんぷん(苦笑)

(junkさん)
 ・・・で、むしろ、このテの作品の原典はコメディの常套である「パロディ作品」や「パスティーシュ作品」なんじゃないでしょうか。「事件・噂」をアスキーアートを交えて楽しく見せている、ああいったストーリーって共有している前提があるわけですよね。むしろそこにおいて私はムーアのセンスとの共通性を感じるんですけど。

ヤマ(管理人)
 なるほどねー。それも、いかにもいかにも、だなぁ。僕は、メディア・リテラシー先進国カナダのドキュメンタリー作品を想起し、TAOさんはフラッシュで、junkさんはパロディか、ムーアもやりますね(笑)。

(junkさん)
 つまり、前提を共有することでより可笑しさや哀しみを視聴者に共有させうる。ボウリング~のときには「アメリカの銃社会はおかしい」という前提を共有したからこそ日本で大ヒットを記録した面もあるのではないでしょか(逆に興行的に華氏のときほどじゃなかったのは、銃社会がおかしいという前提がアメリカで共有されなかった故の面もあるのでは?)。今回の『華氏911』に関して微妙な議論が多いのは、その前提の共有が日本人にはなかなか難しかった側面から来てるものがあると思うのですよ。所詮、対岸の火事的なね・・・
 だからこそ、今回選挙を控え、政権に対して違和感を持ち始めていた人々の増加がありヒットに結びついた。そんなとこもあるなんじゃないかなーって。まあ、観てから書けよ私も、と思うんですが。そんな雑感。

ヤマ(管理人)
 Flashについては、何カ所か読んでも??なとこがあるピンぼけぶりが情けないですが、とても参考になりました(礼)。それはそれとして、「前提の共有」とヒット性の相関というのは、僕には今ひとつピンと来てないとこがあります(詫)。もちろん伝達可能という程度には「前提の共有」は必要ですが、その度合いによってヒットや支持が左右されるんですかねぇ(ハテ)。叶姉妹や細木数子がヒットするのや『冬ソナ』がヒットするのが「前提の共有」の強さにあるようには、あまり思えないんですよ(笑)。おっしゃるところの「前提の共有」というのを、僕が、受け掴み損ねてるかもしれませんが(苦笑)。

(映画館主・Fさん)
 僕は全然アドなんて立派な世界には暮らしてないですよ(笑)。せいぜいアホどまりでして(笑)。フラッシュもよくわからんです。ストロボのことかな(笑)?

ヤマ(管理人)
 そりゃあ、やっぱりタイトルにお書きのように、ハニー!でしょ(笑)。

(映画館主・Fさん)
 いろいろ僕もクドクドとホザいてきましたが、昨年あたりから今年にかけて、何だかいいんだけど、なぜいいのか分からない。構成やら要素だけ見ていくと、どう考えてもマズイし破綻しているはずなのに、妙にイイ。しかも一見いいかげんそうにつくっているけど、つくってるのはどれもそれなりの技巧派やテクニシャン。・・・という映画が徐々に増えてきてて、腑に落ちなかった。

ヤマ(管理人)
 そうですね。なんかパラダイム自体が変化してきているような感じです。

(映画館主・Fさん)
 ここで今までずっと話題にしてきたのは、そういう映画の事ですよね。

ヤマ(管理人)
 はい。

(映画館主・Fさん)
 考えてみると、これまでも何かと話題にしてきた映画って、みんなそういう要素を持った作品ばかりのような気がします。

ヤマ(管理人)
 だから、あぁだこうだと意見交換してみたくなるってとこ、ありましたよねー。

(TAOさん)
 わー感謝!junkさん。
 プレゼン続きとはおつかれさまですー。連休は休めましたか? フラッシュムービーに関する説明、ありがとうございました。いやはや私ときたら、企業や個人のHPのTOPにあるアレのことは、文字通り眼中に入ってませんでした(笑)。なにしろ私のマシンでは見れないもんですからねえ。お薦めのは、家人のマシンで見せてもらうことにします!
 ヤマさん、私は家人を介してたまに垣間見るだけですが、2ちゃんねるがもつ創造力とか、まっとうな鑑賞力って、驚くべきものがあると思ってます。

ヤマ(管理人)
 そうなんですか。耳目に入るのは悪名ばかりで、たまに覗いても隠語が多すぎて、どうもなじめないんですよ(とほ)。

(TAOさん)
 いや私もおんなじです。隠語の飛び交う世界って排他的ですからねー。

ヤマ(管理人)
 そうそう、それです(笑)。

(TAOさん)
 ただ認識だけは変わってきました。いまは、その世界にはなじめないけど、そこから突き抜けてくる何かを楽しみにしてるといった状態ですね。

ヤマ(管理人)
 うん。僕もそのオイシイとこだけいただきたい(笑)。

(TAOさん)
 ラジオの深夜放送がブームだったときの熱気もあんなだったのかなあ(すでに朝型だったので、まるで体験できませんでしたが)。あれもいちおう双方向でしたよね。オンタイムじゃあないけど。

ヤマ(管理人)
 僕も深入りしてませんが、確かにそう言われれば、あの世界も隠語で流通しているようなところがありましたし、双方向性のみならず、深夜帯とか電波を越えた文化を生み出してましたね。あそこでも、音楽のムーヴメントについては特に大きな影響を及ぼしていたように思います。

(TAOさん)
 この週末はFさんお薦めの『茶の味』を見てきたんですよ。

ヤマ(管理人)
 これは誰も知らないに増して、こちらで観られるかどうかが危ぶまれますね~(とほ)。

(TAOさん)
 ほんと、かなりへんなのに、妙にイイ!(笑)

ヤマ(管理人)
 そうですか。

(TAOさん)
 ヤマさんがもはや「癒し」ではなく「蘇生」だろうとおっしゃってましたが、まさしく蘇生映画と呼びたいような。

ヤマ(管理人)
 ほっほぅ~。

(TAOさん)
 公開されてもうずいぶんになるのに、12時すぎの回は立ち見が出そうな勢いでした(早起きの私はその前の回だったから楽勝でしたが)。

ヤマ(管理人)
 ならば、こちらにも及んでくるかも(楽しみ)。

(TAOさん)
 たぶんクチコミで広がってるんでしょうね。みんな「へんだけどいいよー」って言ってるのかなあ(笑)。

(映画館主・Fさん)
 そうなんですよ、『茶の味』って変な映画なんですよ。完成度が高い映画・・・じゃない気がする。悪ノリも多いし。だけど、思いつきだけでやってるとは思えないんですよ。そしてたまらなく素敵な映画なんですよね。不思議な映画なんですよねぇ、評価に困ります。

ヤマ(管理人)
 そいつは、まさしく「不思議な映画」ですねぇ(笑)。楽しみだな~。

(映画館主・Fさん)
 評価に困ると言えば、ホウ・シャオシェンの『珈琲時光』が。これってみんないいと思ってるんでしょうか?

ヤマ(管理人)
 そんなのもあるんですか。こっちじゃもう、しばらく彼の映画は掛かってませんよ(とほ)。

(映画館主・Fさん)
 別な意味で評価に困る一作でした(涙)。

ヤマ(管理人)
 食指、動きませんね(笑)。

(映画館主・Fさん)
 この人どこからこんな変な袋小路へ入っちゃったのか。

ヤマ(管理人)
 昔のは、よかったですよ~。

(映画館主・Fさん)
 どう考えても描きたい題材もなければ創作意欲も減退しているとしか思えない出来栄えなんですよ。部分的にはすごくいいのに。
 そういやウィンターボトムに入れ込んだり、『茶の味』気に入ったり、『誰も知らない』にビビッたり・・・。実はこの後にくる山田洋次もいいんですよ。でも、僕が山田洋次っていうのもなんだかねぇ・・・(笑)。

ヤマ(管理人)
 僕は、『息子』以降、ちょっと見直しちゃいましたからね(笑)。『学校』シリーズだって、たそがれ清兵衛だってOKですもん。

(映画館主・Fさん)
 今年は、自分が思い描いていたようなベストテンになりそうもない、かなり困惑の「らしくない」一年になりそうですよ。

ヤマ(管理人)
 いいじゃないですか、刺激があって(笑)。不惑!だなんて、老け込まずに済んで儲け物だと考えることにしましょうよ、お互い(笑)。

(TAOさん)
 Fさん、『茶の味』は確信的にへんですねえ。従来なら、そういうへんな映画って、内輪受けを狙ったものが多くて、広がりがないはずなんだけど、

ヤマ(管理人)
 確かに確かに(笑)。マニアックだとか言って喜び合うんですよね。

(TAOさん)
 だけど、『茶の味』は、なんだかスケールが大きいですよね。深いし。完成度はともかく(笑)、志はとても高いと思いました。

ヤマ(管理人)
 およよ、これはまた、とてつもない! でもって蘇生映画ですか。なんかとんでもない話になってきたな~。そんだけの作品が、しかも都会でヒットしてて、こっちで上映されなかったりしたら、憲法違反ですよね(笑)。平等の原則にも、幸福追求権にも、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利たる生存権にも全て反してるじゃないですか!(笑)

(TAOさん)
 まあまあ、ヤマさん、落ち着いて(笑)、「小夏の映画会」の田辺浩三さんみたいな人がいる幸せを噛みしめてくださいよ。

ヤマ(管理人)
 確かにね(笑)。いやぁ、ありがたいことですねー。

(TAOさん)
 おうちで晩ご飯を食べた後、自転車でふらっと映画を見に行ける幸福もね。

ヤマ(管理人)
 原動機ついてますけど(笑)、これももうそれが当たり前になっちゃってますよ(あは)。

(TAOさん)
 この『茶の味』を敢えてなにかに喩えるなら、よしもとばななの小説みたい。へんであることをおそれずにある種の真実を正確に描こうとしてる。

(映画館主・Fさん)
 何で『茶の味』は破綻しているのにオッケーなのか?・・・って話は、僕の中では『LOVERS』とか『CODE46』などと微妙にリンクしているところがあるんですよ。それは来週の『CODE46』感想文で明らかにします(笑)。

(TAOさん)
 もうめちゃくちゃ楽しみですー。

(映画館主・Fさん)
 宣伝でした(笑)。

(TAOさん)
 宣伝効果ばつぐん!(笑)

(映画館主・Fさん)
 でも、全然「明らか」になんてなってないんですけど(汗)。

ヤマ(管理人)
 うーむ、その宣伝は、強力に効いたぞ~(笑)。しかし、両方とも観ないと読みに行けないっていうか、話になりませんよね(苦笑)。果たして、当地で両方とも上映されることになるのか否か! 次週、その結末を待て!って次週あたりじゃ答え出てそうにないけど(笑)。

(映画館主・Fさん)
 あと・・・宣伝はかなり大げさですから期待せずに(笑)。シャマラン効果とでも言いましょうか(笑)。


-------映画における“自然さ”とは-------

(映画館主・Fさん)
 実は、うちの掲示板のタンミノワさんの書き込み読んでいて、ふと思い出したことがあるんですよ。香港映画『インファナル・アフェア』のことです。
 あれって絶賛絶賛の嵐で、確かに僕も面白いと思った映画なんですが、ヤマさんはごらんになってますでしょうか?

ヤマ(管理人)
 観てますよ。観て満足して終わって日誌は綴ってませんが(苦笑)。
 でも、感心したもんでした。娯楽映画としての洗練度といいますか、敢えてハリウッドを持ち出すのが失礼かってなくらい面白く見せてもらったような覚えがありますね。スリリングだったし、これ見よがしとまでは言えない適度なヒネリもあったし、エモーションも豊かでしたし、ね。

(映画館主・Fさん)
 ともかく物語ぐらいはご存知かと思いますが、要は合わせ鏡みたいに善悪腸ねん転状態になっちゃった男二人の皮肉な運命をギリシャ神話チックかつオペラ・チックかつ『ゴッドファーザー』チックに描こうとした映画でして(笑)。まるっきり左右反転、ネガとポジ、黒と白の世界観で、全編を描ききった映画なんですよね。コテコテなのも香港お約束でうれしい。

ヤマ(管理人)
 僕は不思議と香港臭のコテコテというのは、それほどには感じてなかったように思いますよ。

(映画館主・Fさん)
 で、確かに面白いんだけど、おそらく世が世なら、どこかの誰かが絶対に図式的すぎる、不自然だ、リアリティがない・・・うんぬんとケチつけたはず。それがまったく聞かれなかったというのも不思議な気がしたんです。今までだったら絶対にこういう野暮なことを言う奴がいた(笑)。そのことの是非はともかくとして(笑)・・・ですよ。

ヤマ(管理人)
 でしょうかね~(笑)。僕は、感服したんですが。でも、あんまり後に残っているものはなくて、実は「潜入捜査官と裏でマフィアに通じていた敏腕デカの文句なしに面白かった映画」という残り方しかしてなくて、実は2が公開されると知って観に行く前にはFさんとこで前作のオサライをしておかなくっちゃって思ってたところですからね(たは)。

(映画館主・Fさん)
 で、普通の大衆娯楽映画のレベルで、世界的にですよ、映画の基調が必ずしもリアリズムや自然さでなくてもいいって、一体いつから変わったんでしょうかね? 例えばローカル的には日本の時代劇映画が血も垂らさずに、踊るように人を斬ったりしてましたし、インド映画とかもあった。こういう局地的には不自然なものも容認されて存在してたけど、それって現地の人からも、あまりシリアスには受け止められてはいなかったと思うんですよね。
 世界的・・・ここではいろいろご不満もおありでしょうが(笑)、『インファナル・アフェア』はハリウッドでリメイクもされますから、これはハリウッド的にも認知されたはずなんですよ。これをグローバル・スタンダードにするなというご批判はともかく。
 そうすると、一応はリアリズムや自然さが基調となっていたはずの大衆娯楽映画で、そういうタガがはずれたのって一体いつか? それってあの『マトリックス』以降の映画とどこか連動しているのか? さらには先日こちらで話題にしていただいた、「どこか破綻しているのにそれでよしとされる」作品群ともつながりがあるのではないか?(ヤマさんはそれらも『マトリックス』が源流とおっしゃってたので、おそらく源は同じと思われてますよね?)このあたり、ヤマさんはどうお考えでしょうか?
 何だか国会答弁みたいですが。野党からの質問です(笑)。

ヤマ(管理人)
 悪ノリして国会答弁ふうに書こうとしたら、あれって何言ってるかわからないように書かないと、それふうにならないことに気づいてやめました(笑)。
 まず映画の基調が必ずしもリアリズムや自然さでなくてもいいって、一体いつから変わったんでしょうかね?との問いですが、いつから変わったっていうか、ハリウッドの大衆娯楽映画ってそんなにリアリズムを信奉してました?? むしろ夢物語というか、現実の世知辛さや生々しさを遠ざけたところで僕らを楽しませてくれてたように僕は思うんですけど。
 それに抗った潮流としてニューシネマってのがありましたから、それを経て後は、単純に夢物語を描いていたわけでもないですが、ある種のデコレーションっていうのが失われることはなかったように思います。特に敢えて大衆娯楽映画というほどに間口を広げた作品ではね。でも、自然さというか観ててスムーズに観られるスタイルというのは、リアリズムとは異なる点で娯楽映画のキモの部分でしたよね、嘗ては確実に(笑)。
 このへんのところについては、僕も少々関心があって、約束事とされている映画の作法に従うことで自然に見せることとリアリズムの問題が混同されてるように思えて、拙著のなかでカウリスマキの『コントラクト・キラー』に言及したときに、つらつら綴ったものでした。少々長くなりますが、引用しますね(笑)。…アキ・カウリスマキという監督さんは、映画というものをとてもよく知っている監督だという気がします。映画にとってのズレと自然という問題をこういう形で、つまり、現実感覚とのズレよりも映画の文法や話法とのズレのほうが映画にとっては感覚的に興味深いものがあるということを明らかにした形で提起した作品というのは、とても珍しいように思います。 これとは逆の形、つまり、現実的にはおよそありそうもない絵空事を映画の文法や話法になじませて、もっともらしく描くというのは、映画の最も得意とするところです。観客も感覚的にそれに慣れ、親しんでいるわけです。それどころか、この現実的にはズレているが、映画的にはズレていない映画の中でしか、映画のリアリティの問題すら、問われさえしないという気がします。というものです。
 そういう僕の感じからは、例えば日本の時代劇映画が血も垂らさずに踊るように人を斬ったりしてたことに対して、アメリカ映画が生々しい流血を見せるのも、リアリズムというよりは、派手さというか迫力の追求だったように思ってますね、僕は(笑)。
 次に、「タガがはずれた」ような広がり方についてですが、リアリズムのほうはともかく、お約束事に従った自然さというものを、カウリスマキのような好事家狙いの作品ではなく、もっと間口を広げた大衆娯楽映画でも、それこそタガを外すように「観やすい自然さ」を放棄することが氾濫してきてますよね。
 そういう意味では『インファナル・アフェア』も、おっしゃる腸捻転と言うに足るだけの少々分かりにくいややこしさを人物配置の図式とは異なる作品構成の点では、確かに備えていましたよね~。近頃の娯楽映画では別に珍しくもありませんが(笑)。
 でもって、『マトリックス』との関連ですが、どこか破綻しているのにそれでよしとされる」作品群ともつながりがあるのではないか? ヤマさんはそれらも『マトリックス』が源流とおっしゃってたので、おそらく源は同じと思われてますよね?とお問い掛けの件については、そのとおりです、はい。お約束事からの逸脱というか、お約束事がお約束事ではなくなっているという点で、それらは共通していると思ってますねぇ。

(映画館主・Fさん)
 ええと、概ね分かったつもりでおります(笑)。

ヤマ(管理人)
 国会答弁にならなくてよかった~(笑)。

(映画館主・Fさん)
 ただ、映画の自然さとリアリズム云々というのは、僕はちょっと違った見解を持っておりまして。

ヤマ(管理人)
 そうですか、それはそれで興味がありますが…、

(映画館主・Fさん)
 これを語ると長くなるのと、掲示板という型式では限界がある・・・というのと、言葉による言葉ゲームになりかねないきらいがあるかと思いますので、深入りはしません。

ヤマ(管理人)
 確かに、そういうきらいがあるとおっしゃることもよく分かりますので、またいつか、お目に掛かった機会にでも、もし話の流れがそういうふうに向いたら、伺ってみたいと思います。

(映画館主・Fさん)
 ただ、こういう事はあるかと。ハリウッドの大衆娯楽映画ってそんなにリアリズムを信奉してました??とのことなんですが、ここでまず第一の混同がありまして、“物語のリアリズム”と“見た目の映画的リアリズム”というのがありますよね? もっとも、そこでも自然という言葉とリアリズムという言葉の混同だというもう一つの論議を引き起こしかねない。

ヤマ(管理人)
 このへん、言葉遊びになりかねないとの御懸念、ごもっともですね(笑)。僕は、自分の語感として「リアル」がらみでは、表現手法でのリアリズムというのと、表現されたものの中に宿っているリアリティという使い分けをしてますが、そのへんは「事実」と「真実」の違いということでビッグ・フィッシュの日誌で綴ったことにも通じるようなものが、僕の中にはありますね。

(映画館主・Fさん)
 僕は残念ながらあまりボキャブラリーがないので、申しわけないですが言葉の正確な使い分けが出来てないですが、そういう高尚な話ではなくもうちょっと大づかみな論議で捕らえていただければと思っております。

ヤマ(管理人)
 何に違和感のない自然さを感じるかということですね。映っている事物に対してか、文法話法の約束事に対してか、という観点よりも、Fさんの関心としては、東洋と西洋で感覚的に違いがあったことのボーダレスみたいなとこに、より大きな関心があるということですね。

(映画館主・Fさん)
 そういう意味で、僕は日本の時代劇とインド映画を引き合いに出しましたが、それは明らかにルックの点では、アメリカ映画の現実っぽさ・・・いや、自然っぽく見せようとする語り口・・・と言うべきなんですよね。それとは昔から異質だっただろうと。粗っぽく言うとアジア映画に顕著な様式的娯楽映画と、明らかに違う何かだと思うわけなんですよ。

ヤマ(管理人)
 日本で言えば「見立ての様式」、インドなら「見せ物小屋様式」みたいなことですかね?(笑)
 確かに、それらはハリウッドスタイルとは異なるものですね。ですが、ハリウッドにはハリウッドのスタイルというか様式があって、今はそういうのが崩れているってのはありますね。

(映画館主・Fさん)
 アジアの様式的娯楽映画とアメリカ映画の現実っぽさの違いというのは、アメリカ映画におけるニューシネマの洗礼以前からそうだったと思いますが、いかがでしょうか?

ヤマ(管理人)
 『マトリックス』には見立て様式も見せ物小屋様式も窺えるように思いますが、確かにそういうのは、旧来のハリウッド映画では少なくとも主流ではなかったし、おっしゃるように、そのことはニューシネマの洗礼以前からですよね。

(映画館主・Fさん)
 ニューシネマは明らかにヨーロッパ映画の影響ですし、

ヤマ(管理人)
 そうですね。

(映画館主・Fさん)
 その源はイタリアのネオなんたらかんたら(笑)あたりなんでしょうが、それは映研の方々にお任せしてですね(笑)。そういうのとは別に、自然っぽく見せてナンボのところはあったと思うわけですよ。

ヤマ(管理人)
 見立てや破天荒な見せ物とは明らかに異なる「モノホンらしさの様式」ってことですね。様式主義なればリアリズムとは異なるわけですが、様式として求めていたものがもっともらしさだったというのは、大いに合点がいきますね。例えば、理想主義的なものを想起すると、現実の不条理や割り切れなさよりも、美化された愛や理想、正義、かっこよさなどのほうが、ずっともっともらしいですもんね(笑)。これらは、ニューシネマ以前のアメリカ映画に顕著に窺えた傾向ですよね。

(映画館主・Fさん)
 対して、アジアでは「これはこう見てあげる」のがお約束の映画が昔からあって、それで通用したわけですね。

ヤマ(管理人)
 文法や話法での約束事ではなく、映っている事物自体に対しての見立てないしは了解のお約束事ってことですね。了解です。

(映画館主・Fさん)
 日本の怪獣映画が着ぐるみ主流で、海外のそれが人形アニメや実際の生き物を使ったものだったりしたっていうのも、どうもそのへんが絡んでいるような気がするんですよ。

ヤマ(管理人)
 なるほどね。命のない物としての人形か、命ある生き物か、そのどちらかであれば、どっちを映画で動かしても落ち着いていられるけど、着ぐるみで動くみたいな中途半端な代物は、どうも落ち着きが悪いって感覚でしょうかね(笑)。これは見立てともまた違ったとこに繋がるのかな? 通じるとこもありそうに思うけど、ちょっとビミョーですね(笑)。

(映画館主・Fさん)
 そもそも映画やら「自然」やら「現実」ってものの考え方が西欧とアジアでは全然違うんじゃないだろうか?

ヤマ(管理人)
 同じ文化圏でも個体差ありますし、異なる文化圏なら尚のことでしょうね。そのウェイトがどっちのほうが大きいかっていうのは、実にむずかしい問題ですね。人の価値観や世界観っていうのは、なかなか一括りにはしにくくて、アジアの王侯貴族やエスタブリッシュメントよりも欧米の労働者のほうが我々庶民には近そうな気がしたり、アジアの女性よりも欧米の男のほうが理解しやすい気がしたりと悩ましいと同時に、やっぱり東洋と西洋って違うよな~って思いますし、ね。

(映画館主・Fさん)
 で、今はそれが妙な具合にクロスオーバーしてきたか、

ヤマ(管理人)
 だから、ますます自分自身のなかで混濁もして来ちゃうんですよねー(笑)。

(映画館主・Fさん)
 あるいはアジア流に振れてきたのか、それは分かりませんが。

ヤマ(管理人)
 そういう感じもありますよね。20世紀の前中期と後期では、ものすごい違いがあったような気がしますね。

(映画館主・Fさん)
 で、このあたりの事って今までちゃんと語られた事はないけど、ホントはキッチリやっといたほうがいい事なんじゃないですかね。

ヤマ(管理人)
 なんか、むちゃくちゃ難しそうですがね。

(映画館主・Fさん)
 で、このあたりの検証には、両方の映画の世界に片足づつ乗っけていた、黒澤明の映画の分析あたりから始める必要があるんじゃないかと思っていたりするんですよ。

ヤマ(管理人)
 なるほど。足掛かりとしては絶好なのかもしれませんね。Fさんの黒澤アイともいうべき、感想文への頻出ってのは、そのあたりの問題意識が根底にあったからなんでしょうね。


DAY FOR NIGHT」掲示板での談義
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報告とお礼です。 投稿者:ヤマ 投稿日:2004/10/11(Mon) 16:06 No.5808

Fさん、こんにちは。
昨日づけの拙サイトの更新で、こちらの『トロイ』を
いつもの直リンクに拝借しております。

あの映画は『グラディエーター』を観逃している僕には
久しぶりのスペクタクル史劇系の作品で、図らずも
昔ながらのスペクタクル・ロマンとの違いぶりや変化を
つくづく感じたものでしたが、Fさんは、緊急特集まで組んで
大々的に論じておいでますね~、ブラピ映画として、
ペーターゼン作品として、そして何よりも
「ハリウッド伝統のジャンル」映画として…。
やはり僕は、このジャンル映画としての変化に注目してたんですが、
時代的変化以上にペーターゼンの作家的個性によるものとして
語っておいでのところを非常に興味深く拝読しました。
ありがとうございました。

ちょうど、このところ拙サイトの掲示板で交わしてた対話とも
被さってくるところがありますよねー。


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スペクタクル・ドラマの世界 映画館主・F - 2004/10/11(Mon) 21:18 No.5812

やっぱり僕らから前の世代の映画ファンあたりって、
ハリウッド・スペクタクル映画ってものの洗礼を受けてるので、
ああいった映画にはどこか無条件に抵抗できないところが
ありますよねぇ(笑)。ああいう豪華さに弱い(笑)。
もちろん「グラディエーター」「トロイ」と
こうしたハリウッド・スペクタクルが復活した背景には
CGの発達があったのは間違いないですね。こりゃやれるって。
だけど、あのどこか「無駄な豪華さ」ってのがないと
ハリウッド・スペクタクルとは言えないじゃないですか。
そのへんどうしてるのか・・・ってあたりが気になった。

それとブラピとペーターゼンって何ともミスマッチなメンツ
って「不思議」もあったりして、この作品には何だかんだと
注目させられた訳なんですよ。
ま、やっぱりミスマッチっていうか、奇妙な映画でしたね。

そちらの掲示板でいろいろおしゃべりさせていただいた事は、
実は今週アップした「スウィングガールズ」感想文とも
密接につながりがあるんですよ。
こういう時って何でも繋がってきちゃうんですかね?


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『スウィングガールズ』 投稿者:ヤマ 投稿日:2004/10/13(Wed) 07:01 No.5837

Fさん、こんにちは。
 >そちらの掲示板でいろいろおしゃべりさせていただいた事は、
 >実は今週アップした「スウィングガールズ」感想文とも
 >密接につながりがあるんですよ
とのことで、早速拝読。

「この映画が「映画」として成功しているのは、実にこの一点にかかっている」
全く同感です。『ウォーターボーイズ』の成功も、ここにありましたね。
最後に実際上達して、見せるに足るだけの実演レベルに来ている姿を
それこそ「記録」してみせるわけですから、それまでの数々の
そんなんで、おいそれ出来るようになるわけないってな事々が
全て否応なく受け入れさせられるようになるとも言えます(笑)。

でも、僕は、この両作、そこんとこには納得で、見終えた後の気分の良さからも
決して嫌いな作品ではないのですが、最後に実演の力業で心地よくしてくれるものの、
それに至るまでのギャグやエピソードを語る語り口の演出過剰というか大仰さが
僕自身のなかで、うまく笑いに繋がらないとこがあって
体質的にフィット感が得られないんですよ(たは)。
でも、例のイノシシの場面には笑いましたね。

あれ、確かストップモーションではなくて、
ストップモーションを「演じてた」ような気がするんですが、
それによって、写真のような動かない映像の持つ、
動く映像以上に強調される記録性と事件性みたいなとこを意識させて
「サッチモの名曲『ホワット・ア・ワンダフル・ワールド』」を被せてくると
いまどきなら誰しもが『ボウリング・フォー・コロンバイン』を連想させられますね。

前作ともども矢口作品は、侮りがたいアイデア性の豊かさに支えられていて
題材素材への目の付け所のよさが際立つように思えますが、
僕自身のパーソナルな体質的フィット感は別にして、
アイデア勝負だけの思いつき芸ではなく、
Fさんがおっしゃるように、娯楽映画の王道というか、
きっちり「基礎」をわきまえて、ちゃんと「作る」ことをしてますよね。
たまたま出来た、みたいな偶然性に依存している度合いが非常に小さいように感じます。
そこには、功罪ともにあるように思いますが、ちょっと颯爽としてますよね。
ハードボイルドに(笑)。

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楽しめましたよね! 映画館主・F - 2004/10/13(Wed) 13:17 No.5840

感想文ではくどくどと並べてみましたが、あまり意味なかったか
・・・と、ちょっと反省してもいます。ヤボだったかも。
ともかく僕は大衆映画が好きなもので、この作品のような、
大衆が見たいものを見せてくれる映画を見つけると、
うれしくてハシャギたくなるんですよ(笑)。
ですから、多少目に余る点はお見逃しください(笑)。

それとキッチリつくった映画は今時貴重だと思ったので、
そこも素直に評価したかったんですね。
功罪の「罪」については僕はあまり感じませんでした。
「作り」で固めていながらヤマ場は「記録」で押し通す、
その両輪がうまく噛み合った映画だと思ったからです。

イノシシの場面はジオラマみたいに俳優を配置して、
静止状態を演じさせたものなんですよ。あれは思いつかない。
しかも、思いっきりローテクというか根性でやってるのに、
効果としては「マトリックス」のマシンガン撮影みたいな
不思議な気分さえ出ている(笑)。これが笑えた。
そういう意味で、発想の新鮮さを買いたいと思いました。

ただ、
>『ホワット・ア・ワンダフル・ワールド』を被せてくると
>いまどきなら誰しもが『ボウリング・フォー・コロンバイン』
>を連想させられますね。
・・・とは、あの映画を未見のため知りませんでした。
知ったかぶりをしてお恥ずかしい限りです。


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ヤボは、むしろ僕のほうで(詫) ヤマ - 2004/10/13(Wed) 23:27 No.5843

Fさん、こんにちは。
僕にしても前述のとおり、観後感はよく、観終えて納得の作品でしたよ。
若さっていいよなぁ、チームっていいよな~って思えますし。
お見逃しくださいだなんて、とんでもありませんよ(苦笑)。

 >キッチリつくった映画は今時貴重
 >素直に評価したかった
とのお気持ちも非常によく分かります。
お粗末・乱暴な作りならまだしも、ハズシとハズレを勘違いして
いい気になってるように思う作品を目にするにつけ、
長年の映画愛好者として、今回嬉しさ余るってのは率直な心境でしょう。
僕も体質的に笑いに繋がらなかった部分が繋がってさえいれば、
こんなふうにきちんと「作る」ことをやってる作品を
両手をあげて支持したくなったでしょうからね。

それと、イノシシ場面のアイデアは、やっぱり秀逸ですよね。
「写真のような動かない映像の持つ、動く映像以上に強調される
記録性と事件性」そのものは、おそらくムーアの作品から
作り手が触発されたものでしょうが、それを大仰に打ち出すのではなく
曲ひとつを被せるだけで、触発されたよ~って返してるんだろうと思います。
しかも、その返し方が、動くはずのものを敢えて動かさないショットを
差し込むことで「記録性と事件性」を際立たせるという
ちょっとひねった返し方になっているところがアイデアですよ。

きっちり作ることの功罪って話は、むしろ一般論的なものなんですが、
少々言葉足らずで申し訳ありませんでした。
下のほうで丸山さんがコーエン兄弟を引き合いに出されておいでですが、
前にFさんとお会いしたときに話した
コーエン兄弟の作品についての印象を語ったことと通じるものなんです。
コーエン作品は、きっちりと計算どおりに作り上げている見事さに感心させられると同時に
その感心が計算通りの狂いのなさに対して生じるが故に
計算外の創造性の宿りを感じさせてくれにくくなるってな話をしましたよね。
あくまで僕の個人的印象なんですが、「作り」というものの功罪っていうのは
つまりはそういうことなんです。

コーエン作品と比肩するまでのところには及んでいないように思える分だけ
逆に言えば、功罪の罪のほうも『スウィングガールズ』は際立ちませんよね。
僕が感じたのは、個人的体質とのズレであって
「作り」映画の功罪としての罪ではありませんでした。
Fさんの感想は、非常に楽しく、かつ興味深く拝読したのですが、
なんだか水を差してしまったようで、申し訳ありませんでした。


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うまく言えませんが 映画館主・F - 2004/10/14(Thu) 14:25 No.5846

いえいえ、こちらこそ失礼いたしました。
どうもアレは今時珍しい「作りこんだ映画」にハシャギすぎて、
読む人にある種の神経逆なでやら不快感をも抱かせるような
ものになっていたのでは・・・と。
ちょっとマズかったかなと思っておりましたもので。

「ボーリング~」については前述のごとく未見のため、
ここで言及することができません。悪しからずということで。
挙げていただいたコーエン兄弟はちょうどいい例だと思います。
トゥマッチに「作りすぎ」てるコーエン兄弟作品が
どうしてイヤミしか感じられないのか・・・という理由は、
今回の「スウィングガールズ」みたいな映画を例にとると、
わかりやすいかもしれませんね。
ちょうどヤマさんもおっしゃっていたように、
コーエン兄弟は計算どおりにつくってたぶん破綻がない。
その狂いのなさゆえに面白くないってことはあると思います。

本来だったらどんな分野のものでも「作品」とは
創造者のプラン通りできればできるほど優れているはず。
もちろん創造者のプランがちゃんとしたものだという前提が
あってのことなんですけど・・・。
ところが映画ってやつはそれでは足りないらしいんですよね。
何か創造者の計算外の要素が混入しないと面白くない。
ハプニングのない映画はつまらないんです。

それってやっぱり映画が「幻」や「ウソ」であると同時に、
「記録」でもあるということが絡んでくるんでしょう。
そういう要素を考えずに映画をつくった時には、
やっぱりそれなりの結果しか出ない。
作りに作りこんだけれど、もっとも大事な部分は「記録」に
すべてを託したという点が、「スウィングガールズ」の
もっとも優れた点なのではないでしょうか?
何だか舌足らずで申し訳ないのですが・・・。


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そうそう、そうなんですよ。 ヤマ - 2004/10/14(Thu) 17:28 No.5848

Fさんもご承知のように、僕はコーエン作品は
観られる機会が得られれば、観ずにはいられないほうなんで
やっぱり愛好してるんですよね(笑)。
それでも、そういう印象を残す傾向があるのは否めないように思います。
 >ところが映画ってやつはそれでは足りないらしいんですよね。
 >何か創造者の計算外の要素が混入しないと面白くない。
 >ハプニングのない映画はつまらないんです。
そうなんですよね~。
ここが映画の難しいとこで、かつ魅力的なとこです。
でも、『バーバー』なんかは、相変わらずきっちりと作ったうえで尚
それまでの作品とは異なる印象のエモーションが宿っていて
とても味わい深く感じました。映画って不思議ですよね(笑)。

 >それってやっぱり映画が「幻」や「ウソ」であると同時に、
 >「記録」でもあるということが絡んでくるんでしょう。
僕もそんな気がします。

 >作りに作りこんだけれど、もっとも大事な部分は「記録」に
 >すべてを託したという点が、「スウィングガールズ」の
 >もっとも優れた点なのではないでしょうか?
なるほど。そうですね、それは言えるかもしれません。
観後感よく、観終えて納得させてくれましたもの(笑)。


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コントロールの度合い 映画館主・F - 2004/10/14(Thu) 21:59 No.5850

僕も本来だったらコーエン兄弟は好きなはずで、
初期の作品なんかでひどく気に入ったものも少なくないのに、
最近の何作かはちょっとなぁ・・・と思ってしまうんです。

で、「バーバー」が好感触だった理由ですけど、
ひょっとするとコーエン兄弟のコントロールの度合いが
従来よりも多少少な目になっていたのではないかと。
僕個人としては、ビリー・ボブ・ソーントンという
俳優の資質に依存している度合いが大きかったんじゃないか
・・・そんな事を勝手に思っていたりもしますが、
ハッキリとは分かりません(笑)。
それともコーエン兄弟が、技術や技巧よりも個人的感情を
優先した結果かもしれませんし・・・。

ともかくこの一連のお話ってのは、
先日ヤマさんの掲示板でやりとりした事の
延長線上にあるように感じて、不思議な気がしますね(笑)。
by ヤマ(編集採録)



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