美術館冬の定期上映会“旧ソビエト空想映画館 SF・幻想・怪奇映画 傑作選 ”

一日目[2/8]
①『アエリータ』('24) 監督 ヤーコフ・プロタザーノフ
②『宇宙飛行』('35) 監督 ヴァシリー・ジュラヴリョフ
③『火を噴く惑星』('61) 監督 パーヴェル・クルシャンツェフ
④『惑星ソラリス』('72) 監督 アンドレイ・タルコフスキー
二日目[2/9]
⑤『石の花』('46) 監督 アレクサンドル・プトゥシコ
⑥『火の馬』('64) 監督 セルゲイ・パラジャーノフ
⑦『妖婆・死棺の呪い』('67) 監督 コンスタンチン・エルショフ
⑧『スタフ王の野蛮な狩り』('79) 監督 ヴァレリー・ルビンチク
三日目[3/1]
⑨『ピルクスの審問』('79) 監督 マレク・ペストラク
⑩『死者からの手紙』('86) 監督 コンスタンチン・ロプシャンスキ
⑪『エルミタージュ幻想』('02) 監督 アレクサンドル・ソクーロフ

 三年ほど前に東京や大阪で“ロシア映画秘宝展[幻想&SF]特集”という形で行われた企画上映からのセレクションをベースに、いくつかの作品を加えて再構成したオリジナル・プログラムである。加えられているのは、『宇宙飛行』『惑星ソラリス』『石の花』『火の馬』『エルミタージュ幻想』の五作品。セレクション作品が押し並べて資料的興味を惹く怪作・意表作であるのに対して、付加作品はアート系と言われるものが目につく。美術館上映企画としての工夫なのだろう。
 ただ1920年代から80年代までの旧ソビエトの作品群に、例によっての“この際型”で、昨年のカンヌ映画祭コンペ部門の出品作である『エルミタージュ幻想』というロシア・ドイツ・日本の合作作品で、旧ソビエト映画ではないものが押し込まれているのが、少々気になった。時期を逸しない内に上映したかったのだろう。“映画史上初!! 驚異の90分ワンカットの映像”と宣伝された話題作だ。予告編を観ると、この映像群がワンカットで撮られているとは凡そ考えられないものだったし、ハイビジョンのDVカム作品が、フィルム撮影に遜色ないことを雄弁に語っていただけに、上映作品に加えられていることを大いに歓迎したのだが、公立美術館という学芸施設としての定期上映会プログラムなのだから、“旧ソビエト空想映画館”からは外れる、関連の特別上映枠であることをチラシなどでは説明しておくべきではないかと思う。唯一の二回上映作品で、チラシでも一番大きくメインで扱っているこの作品の写真のなかに“旧ソビエト”と標題文字が入っていると、やはりちょっと首を傾げないではいられない。


*一日目('03. 2. 8.)

 初日の4作品は、揃ってSF宇宙ものということになろうか。それぞれ火星、月、金星、未知なる惑星というヴァリエーションで、戦前戦後二本づつという配置だ。20年代の『アエリータ』などは、映画というものがまだジャンル化されていない時代だったのかもしれないとの思いを誘われるほどに、エンターテイメントとしての諸要素が並列的に混沌と投げ込まれていて、軸になっているものが何やら判然としない落ち着きの悪さがあって、逆にいかに普段、ジャンル映画的に構成された作品に親しんでいるのかということを教えてもくれるところが興味深い。犯罪捜査ものだったり、恋愛劇だったり、コメディだったり、風刺パロディ劇だったりもするのだが、SF的意匠としての衣装やセットにロシア・アヴァンギャルドによる斬新なデザインが取り入れられているそうで、大いに目を楽しませてくれた。ソビエト映画史上初のSF映画とのことだが、科学性よりはファンタジーとして造形されていたように思う。

 その点、十年後に製作された『宇宙飛行』は、宇宙物理学者を顧問に迎え、当時の最先端技術の形象化を意図した作品だそうで、主役はセットなりプロダクション・デザインであることが否応なく感じられる見事な造形だった。月に降り立ってからの部分が、今観ると笑えるところも多々あるが、宇宙ロケット発射基地や壮大なロケットは威容を誇っており、巨大ロケットを画面に捉えつつ人間に模した小さな人形にコマ撮りで与えていた動きや、ロケットの巨大さを印象づけるようにカメラが基地内を大きく移動しながら捉えた形の映像展開には、すっかり感心させられた。この圧倒的なスケール感は、まさに国威誇示の効用も果し得たのではないかと思えるほどだった。

 しかし、それから四半世紀後の60年代になって製作された『火を吹く惑星』は、レニングラード科学普及映画スタジオという製作スタジオの名称自体がギャグではないかと思えるほどの奔放さで金星での冒険を描いた怪作だった。最初こそ、生命体の存否を問題にしていたが、巨大な肉食植物が現れ、海があり、雨が降り、火山が爆発して、恐竜が出てくるに至って、錠剤を服用するために宇宙帽を開いたりする始末だ。最終的には人間と似た生命体が残しているカメオのような代物を石のなかに発見する。人間が敬語で指示しなければ命令に従わないロボットの存在が可笑しいのだが、言葉遣いについての注意を喚起したりする意味が窺える面からも、子供向けの娯楽作品だったのだろう。
 初日の最後の上映作品は、十五年前に自分たちで上映したこともある『惑星ソラリス』だったので、翌日の四本連続鑑賞のための余力を蓄える意味もあって見送り、帰宅した。


*二日目('03. 2. 9.)

 企画の標題からすれば、二日目は「幻想・怪奇」の4作品というわけだ。カラー映画の歴史において、語られぬことのない『石の花』は、もう随分前に観た覚えがあるのだが、日誌を綴ってなかったので、再見することにした。1946年の作品なのだが、独特の色合いが美しかった記憶がある。当時、カンヌ映画祭で色彩映画賞を受賞した作品なのだが、今回再見しても、実に味わい深い色合いだ。相当に古い映画なので、劣化も当然にしてあることで、かつて僕が観たときも今回も、当時の色合いそのままではないのかもしれない。しかし、今回観た色合いが僕にとっては独特の味であって、それは随分昔に観たときの印象と異なるものではなかった。
 今回上映された『惑星ソラリス』も『妖婆・死棺の呪い』もそうなのだが、モス・フィルムのカラー映画には、緑色に独特の味があるとかねがね思っている。そのことを最初に強く印象づけてくれたのは、83年に観た『愛の奴隷』(ニキータ・ミハルコフ監督)だった。緑色は僕の一番好きな色で、『愛の奴隷』は僕がそれと意識して観た初めてのソビエト映画だったのだが、ソビエト映画の緑色はなんて美しいのだろうと驚嘆した覚えがある。緑に限らず、色彩全般において艶やかで、派手な輝きはなく、しっとりと落ち着いた柔らかな色合いだという気がする。そして、それが緑色において最も味わい深く、際立っているように思う。青にも、いつもどこか緑掛かった翳が差しているような感じがある。
 今回再見した『石の花』に色彩の劣化があったとしても、モス・フィルム製作作品の色合いの特徴から推し量ると、やはり色褪せの度合いが小さいような気がするし、色合いの傾向自体は、質的なものとして、充分窺い知ることができると思う。そして、この作品では、石工ダニーラが初めて仕上げるトカゲの飾りの付いた小箱が深く美しい緑色であるばかりでなく、まるでロシアン・グリーンとも言うべき色合いを誇るかのように、随所で緑色が使われ、まさに基調色となっているかのようだった。この物語が老人の子供たちに語る伝説であることを示す冒頭の場面では、緑色が強調されるわけではないが、セットで造形された作り具合と色合いの調和が油彩画を観るような味わいであった。特殊撮影もファンタジックに鮮やかで、映画作品そのものに職人的丹精が篭もっているように感じられるのだが、物語もまた職人の話だ。
 主人公ダニーラは、石工として石の心を究めるためにはカーチャとの新婚生活も省みず、銅山の女王の誘いに乗って、女王の住む奥山に踏み込む。しかし、職人としての本懐さえ遂げた後は、美しい女王からの求婚も富も退け、カーチャとの愛を貫き、捜し訪ねてきた新妻に応える。それは一面、若い二人の誠の愛を謳いあげた物語のようでありながら、ある意味、それだけ深く愛するカーチャを悲しませてでも石の花を見届けようとする職人の業を描いた話でもあるわけだ。権力任せにほしいままに職人を酷使する貴族の下で、主人が望む以上の孔雀石細工に精出す職人の誇りは、「人の命よりも遥かに石の命は長い」との台詞に窺えるように、主人たる貴族のために丹精込めて作るのではなく、石の美しさを最大限に引き出し、末長くこの世に在らしめる技の証にあるわけだ。銅山の女王のもとで壮大な石の花を彫りあげたダニーラが「誰の目にも触れない仕事には喜びがない」と呟く台詞もある。いずれの台詞も造形職人の魂が窺える台詞で、同時に映画の作り手たちの想いが投影されていたのではないかという気がする。その台詞がこのように聞こえてくるあたりが不朽の名作であることを図らずも語っているような作品だ。

 次に観た『火の馬』は、セルゲイ・パラジャーノフの監督作品だ。以前に『アシク・ケリブ』を自分たちで上映したこともあるのだが、彼の作品を観るのは、93年に『スラム砦の伝説』を観て以来だから、十年ぶりになる。その二作品よりも二十年あまり前に撮られた『火の馬』は、僕のイメージに残っているパラジャーノフ作品とは少々趣が異なるものの、それゆえに興味深くもある映画だった。つまり、深い土着性のなかにあって、ポップ・アートにも通じるような飛躍力と色彩感覚の強烈さが印象深かったという点では、この作品は、やや地味でストーリー性が勝っている気がしたのだが、強烈な長回しや場面転換の飛躍、台詞をろくに使わずに、歌とも唸りともつかぬ情念の響きと大胆で独特な話法で綴る個性の強烈さは、初期から圧倒的だったことが偲ばれたところが面白かったのである。親同士が殺し合うまでの憎悪で対立していたにもかかわらず、幼いときから惹かれ合う恋を宿命づけられ、死に別れた後もマリチカが忘れられずに、パラグナとの結婚生活を破綻させ、死に至るイワンコの物語で、ストーリーを語ることよりも、感情的な切迫を延々と表出することにひたすら熱心な作品だった。それにしても、タイトルが何故『火の馬』なのかは、さっぱり腑に落ちなかった。

 今回のプログラムでは、この後に上映された『妖婆・死棺の呪い』『スタフ王の野蛮な狩り』が“怪奇”のカテゴリーに位置されているのだろう。ジャンル的には確かにそうなのだが、テイストとしては、そう一筋縄ではいかないところが面白い作品だ。両者ともちっとも恐くもなければ、不気味でもない。では、単なる失敗作かというと、不思議な味がある。共通しているのは、何とも言えない緊迫感のなさで、前者にはとぼけた明るささえある。そして、妖怪の登場する場面や死せる美女が蘇るシーン、妖婆を肩に乗せての飛行シーンなどが、けっこう魅力的なのだ。妖婆が最初に何故ホマーを見込んだのかとか、妖怪なり妖婆の意図したことが何だったのかは、さっぱり判らないままだったが、カルト的な支持を得ていることが容易に了解できる怪作ぶりだった。
 後者もまた、物語的には相当壊れているような気がする。叔父が財産目当てに未亡人を発狂させようとしたとの顛末だったように思うが、手が込み入り過ぎているうえに、村人を巻き込んで犠牲者を重ねるリスクを負うことの必要性が解せない。もったいぶった仰々しさと謎の溜め置き方のしつこさにいささか参ったが、画面に不思議な味と雰囲気があった。20世紀の夜明けの直前、由緒がありながらも陰を含んだ旧家に行き合わせた民俗学者が、まさに金田一探偵に当たる、邦画の横溝もののような作品で、二百年前に先祖が犯した裏切りの暗殺にまつわる呪いの伝説を背景に、怪事件と謎の死が続くという設定だ。しかし、怨讐や因業の根深さやもっともらしさを念入りに凝らした横溝シリーズを観ている目には、いささか拍子抜けさせられるラストだった。


*三日目('03. 3. 1.)

 三週おいての三日目は、『エルミタージュ幻想』を午前と夕方の最終回の二度にわたって上映するほどに前面に出したプログラムだったが、間に上映された二本のSF作品が思いの外、充実していた。
 1979年の『ピルクスの審問』は、初日の最終回に上映した『惑星ソラリス』と同じ原作者であるレムの『審問』の映画化作品だそうだが、人間存在の根源的なアイデンティティに迫る問題意識を孕みつつも、極めてスタンダードな娯楽映画仕立てで、『惑星ソラリス』とは対照的な印象を残す作品だ。オープニングの人造人間の製作場面の観せ方が非常にスマートで、いきなりハリウッド映画ばりじゃないかと驚かされた。そこへもって「他社に契約を取られないでよかった」とかいう字幕が出たので、ソビエト映画でそれはないだろうとてっきり誤訳かと思ったら、なんと舞台がアメリカなのだ。ボンネットに下手糞な字で“POLICE”と文字入れしたパトカーが登場し、ぎこちない筆致で描かれた水着姿の女性の大看板が街道沿いに設置されていたりするのだ。また、“PAN AM”や“AIRPORT ”といった表示も記されていた。旧ソビエト映画にアメリカを舞台にした作品があったとは、しかもそれが技術力の高さを示す形で描かれていたとは、大いなる驚きで非常に新鮮だった。
 しかし、それがアメリカであることには、それ相応の理由もあって、人間と見分けもつかないような、自我や主体性、自己決定力を備えたロボットを開発することの非を第一義的に描いた作品でもあったから、ソビエト批判の形は取れなかったということかもしれない。
 だが、その開発の是非よりも、僕にとって面白かったのは、限りなく人間に近いものとして造形されたロボットが、保身と自己防衛のみならず、自己の希少価値を高めることを明確な目的意識として自覚したうえで、そのために張り巡らせていた権謀術数なり罠なりに窺えるエゴイズムのありようだった。そして、どこまでも人間に近く、かつ能力的には人間を上回るロボットに欠けていた人間的特性が、まさに“懐疑性”というものであったことにも心惹かれた。答えを留保し、迷いや懐疑を以て状況に臨むというのは、確かに最も機械的ではない特性だ。字幕では、「人間の弱さがロボットの完璧さを上回る局面がある」といった訳が施されており、ピルクス中佐は、それを求めて考えあぐねていたのだった。
 ところで、この作品にはチラシで“サイボーグ”という解説が添えられていたが、それだと“改造人間”で、元々が人間ということになってしまい、この作品の示唆する問題の根本が違ってくる。映画の字幕でもロボットとなっていたのに、何故“サイボーグ”などという書き方をするのだろう。いささか恥ずかしい文言だと思った。

 次に上映された『死者からの手紙』は、核爆発後の世界に生き延びた人々の絶望を描いた映画だが、物語的にはほとんど了解ができない作品だった。しかし、あれだけ観念性を排した具体的な描写を重ねながら、具体的なドラマとして息づいてこないことが逆に力を感じさせるところがあり、物語性の代わりに、高い象徴性とメッセージの具体性、状況的な絶望感だけはひしひしと伝わってくるという不思議な味わいがある。都市が破壊されているときがオレンジ系のモノトーンだったのは区別がついたけれど、イエロー系のモノトーンの色調とブルー系のモノトーンの色調の使い分けにいかなる意図があるのか不明のままだった。だが、画面づくりだけでなく、アインシュタインに似た風貌のランセン博士の嘆息や芸術家の辞世の言葉などが意味深長で、風格と品位を備えた作品でもあった。
 製作年の1986年は、ちょうどチェルノブイリ原発事故のあった年なのだが、何か関係があったのだろうか。旧ソビエトというのは、どうもそういう国ではなかったような気がするのだが、前年にゴルバチョフが開始したペレストロイカによるグラスノスチは、もしかしたら、そのようなことを可能にしたのかもしれない。ちょっと興味深いところだ。それはそれとして、この興味深い作品をチラシで「『ザ・デイ・アフター』を越える」といった形で紹介しているのは、少々奇異に感じられた。確かに題材的に共通する部分はあるのだが、TVドラマのヒットから劇場版編集が急遽公開されたと記憶のある『ザ・デイ・アフター』という作品は、当時話題にはなったけれども、こんなふうにひとつの評価軸として提示されるような位置づけにある作品なのだろうか。はなはだ疑問である。
 かように今回の企画上映のチラシの解説は、プログラムとしての面白さと明らかに不釣合いに、いささか御粗末な部分が目に余るという感じなのだが、おそらくは配給会社の宣材をそのまま引き写しているのであろう。商業上映の宣材なら、関心を引き寄せられればそれでいいということになるかもしれないが、仮にも公の学芸施設の自主企画として実施する“公共上映”のチラシなのだから、こういった部分にも、もう少し自覚的であってほしいものだ。せっかく好企画を打ち出しているのに、少々残念な気がする。

 さて、今回の企画上映の最後を飾ったのは、昨年のカンヌ映画祭で話題を集めたとの『エルミタージュ幻想』だ。美術館での上映とあって、映画ファン以上に美術ファンの関心を集めたか、今回のプログラムでは最も高い集客を果していた。しかし、一番の見所は、エルミタージュ宮殿という稀有なトポスを得て、曲者ソクーロフがいかなる捉え方をするかというところにあったわけだから、世界遺産にもなっている美術館の所蔵品や調度品を専ら楽しみにしていた向きには、かなり物足りなかったかもしれない。けれども、DVカムでないと果し得ない90分ワンカットという途方もない構想のなかで、大宮殿にどのような導線を取り、いかなる人物にいかなる動きを与えて配置するかという勝負を仕掛けて、確かに驚異と呼ぶに足る壮大で破天荒な映像作品を造形していた。
 ワンカットにどれだけの意味があるのかと言ってしまえばそれまでなのだが、ワンカットであるが故に壮大で破天荒な作品だと感じられるわけで、その壮大さと破天荒さこそが300万点を越えるとも言われるらしい所蔵作品を持つエルミタージュ美術館の壮大さと破天荒さであり、そこがまたロシアというばかでかい国の象徴とも言える姿であると捉えているのだろう。そしてまた、まさしく宮殿の流麗さを現出するかのように、カメラが実に流麗に移動していき、膨大な時間と莫大な数の人々を飲み込んできたであろう宮殿にふさわしい数の人々が、時代を越えたコスチュームで登場し、淀みなく流れていく。圧巻と言うほかない。こんな時間と動きの設計をよくもまぁ果し得たものだと呆気に取られながら観ていた。
 一応は案内人のような存在がいて、一人がカメラの持ち手という位置づけか、声のみで登場し、もう一人はウィーン会議に出たフランス人とのことだったから、タレーランかと思いきや、チラシによると、外交官キュステーヌ侯爵という人物で、声のみの主はソクーロフ自身とのことだった。この二人がさして深い意味があるとも思えない会話を交わしながら、時を越えて宮殿内を移動していく様子が、どこか『千年女優』を想起させる趣だったのが面白い。こちらは、千年ではなく、近世・近代のロマノフ王朝三百年というわけだ。エルミタージュ美術館の基を築いたエカチェリーナ2世のみならず、アレクサンダー1世やニコラス2世だの、かつて世界史で記憶した覚えのある名が続々と登場していた。それら、歴史上の人物としての名のみぞ知る人々の間を、彼らが生活をもした宮殿のなかで、臨場感と言う以上の隣接感で目にしていく感じは、宮殿と歴史の時間のなかをさ迷っている幻想感を束の間もたらしてくれる。巧い日本語タイトルだ。英題としては“Russian Ark ”という文字が映し出されていたが、まさしくロシアの聖櫃なのだろう。
 それにしても、予告編を観たときに、どう考えても無理なくワンカット内に収まるとは思えなかった映像群が、本当に無理矢理という印象を与えられない形で、ワンカットの時間のなかに連なって現れてきたのには、ほとほと感心してしまった。屋外から屋内に入り、中庭に出て再び屋内。そして、最後は、いかにもソクーロフらしい幻想感の漂う海へと連なる。僕は、ソクーロフの作品があまり好きではなく、特に近年は、むしろ嫌悪感のほうが強くなっていたから、観る前は、かなり冷ややかな眼差しで臨んだのだったが、この作品に関しては、お見事!と素直に賞賛したい気持ちになった。
 ただ今回の上映では、フィルムのほうがワン・ロールというわけにはいかなかったのは仕方がないにしても、余りに映写技師のフィルムチェンジが御粗末で、繋ぎ目に作品と全く関係のないグラビアモデルのような女性のカットが二度も映写される始末で、いささか気分が損なわれてしまった。“驚異の90分ワンカット!! 美のジェットコースター!”と触れ込んでいるのだから、ワンカット気分を著しく削いでしまう映写を一度ならず繰り返したのは、何とも残念なことではないか。しかも二度目の上映の回なのだ。猛省を望みたい。

参照サイト:「高知県立美術館公式サイト」より
https://moak.jp/event/performing_arts/post_158.html

*『エルミタージュ幻想』
推薦テクスト:「La Stanza dello Cine」より
http://www15.plala.or.jp/metze_katze/cinema2003.2.html#hermitage

by ヤマ

'03. 2. 8・9. & 3. 1. 県立美術館ホール



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