『マトリックス・リローデッド』(The Matrix Reloaded)
監督 ラリー&アンディ・ウォシャウスキー


 四年前に前作を観たとき、これは二十年前の『スター・ウォーズ』のように、その後の映画を変える作品になるかもしれないと思ったが、図らずもその後、『マトリックス』ふうの映像をさまざまな作品で見掛けるようになり、わずか四年の間にそれにもすっかり馴れてしまうようになった。だが、さすがに本家本元は一味も二味も違っていて、やはり一頭地抜きん出たカッコヨサを見せてくれる。何と言っても、アクション設計や画面設計の造形力が違うように思う。このスタイリッシュな見栄えは技術力だけではカヴァーできないセンスであって、スタッフ力の厚みのほどを感じさせてくれる。

 とはいえ、前作同様、その能書きの多さには些か閉口したところもある。しかも前作の能書きは、どっちが或はどこからどこまでがリアルとバーチャルなのかという根本的な謎めきがスリリングで、緊張感が持続したが、今回はあらかたマトリックスの構造が既知の前提となっているなかでの話だから、ある種の馴れが拭いがたい。そこへもって、リアルもバーチャルもなく、総てがプログラミングによるものだったかのような話にされると、少々脱力しないではいられないようなところがある。もっとも設計者アーキテクト(ヘルムード・バカイティス)の語ったことが事実であることの保証はないのだが、少なくとも映画のなかでは初めて、マトリックスから抜け戻ってきサングラスとコートを脱いでいても、アンダーソン(キアヌ・リーブス)が異能を目に見える形で発揮するのだから、ザイオンもゲリラ艇もバーチャルだったのか、ということになる。そうすると、モーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)やトリニティ(キャリー=アン・モス)、預言者オラクル(グロリア・フォスター)の存在も含めて、すべてアンダーソンの夢なり妄想なりの世界の話ということになって、一作目で彼を救世主としての目覚めに導くためにモーフィアスが語り教えた含蓄のあるプロセスがひどく色褪せたものに変質してくるような気がする。今作の冒頭の夢が単なる夢ではなく、予知夢であったことから、既にアンダーソンはバーチャル世界のマトリックス内での救世主ネオとしての目覚めを超えて、リアル世界でも超人的能力を発揮するようになったということなのかもしれないが、それは些か掟破りではないかという気がする。なにゆえ前作であれほどリアルかバーチャルかというところを以てスリリングに語っていたのかという気がしてくるからだ。

 しかし、“選択”ないし“自己決定”こそが人間の人間たるゆえん即ちアイデンティティであることを強く押し出した人間観は、前作の神がかり的な救世主思想より了解しやすいと同時に、人間のある種の始末の悪さというものを浮彫りにもしていて興味深かった。人の苦悩の源は、何かを選び何かを捨てる選択に対する自己責任と後悔というものに、確かにその大半が占められているのかもしれない。苦悩の有無が幸不幸と直結するわけでもないのだが、選択の余地なしのほうが苦悩自体は少なかろう。そういう人間の負っている根源的な悩ましさに及んでいるという点では、精神の目覚めによって肉体を超克し、リアルであれバーチャルであれ即ち事実であれ妄想であれ、自身の真実としての世界において果しうる自己実現を手に入れられれば、そこに自己革新はあるのではないかというオプティミズムよりも、総てをバーチャル世界としてしまっているかのような今作のほうが、実際の人間像に近いものがあるのかもしれない。

 妙に面白かったのが、割と随所に盛り込まれているネオとトリニティのラブ・シーンにほとんど官能性が宿っていないことに比べて、命を救うために体内に手を挿入し、心臓に鼓動を与えるシーンがえらく官能的に感じられたことだった。緑の透視線のようなデジタル的な映像を映し出していただけなのに、そのように感じられたのは、どうしてなんだろう。やはりエロスにおいて“命”は、キーワードなのかもしれない。




参照テクスト:掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録


推薦テクスト:「La Stanza dello Cine」より
http://www15.plala.or.jp/metze_katze/cinema2003.2.html#matrix_reloaded
by ヤマ

'03. 7.20. 松竹ピカデリー2



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