『友だちのうちはどこ?』(Where Is The Friend's Home?)
監督 アッバス・キアロスタミ


 ちょうど昨年の今時分、高知自主上映フェスティバル'93 の上映候補作品を検討していたときに、一番気になっていたこの作品を、十一月になってようやく観ることができた。もう半年も前のことになるのだが、小さな宝石がその小粒さからは思いもかけない輝きを放っていたというその時の印象は、いまだに新鮮なものとして記憶に残っている。

 級友のノートを間違えて持ち帰ってしまった少年がそのノートを返さなくっちゃという一心で、名前だけを頼りに丘を越えた隣の村まで家を探して尋ね歩くというだけの話がこんなふうに心に沁みるのは、もちろん、その卓抜したカメラワークや少年のわずかな心のゆらめきをも掬い取るほどに接近しながら、けっして感情移入に堕することのない作家のスタンディング・ポジションの確かさによるものだ。だが、それもさることながら、この作品のほぼ全編にわたって反復継続される「あてもなく探し続ける」という行為そのものの持つシンプルな強靱さに負うところが大きいのではないだろうか。チラシには「誰もが幼い日に持っていた宝物」などといささか媚びた口調でキャッチコピーが印刷されているが、本当のところは「誰もがせめて幼い日には持っていたかった宝物」とでも言ったほうが現実に近いという気がしないでもない。

 探すということとあてもなく探し続けるということの間には、かなりな質的な違いがあって、浅薄な効率主義や合理主義がこれだけ浸透してしまった時代においては、もはや子供の世界ですら、既にそのような宝物は失われかけているという気がする。子供たちからそれを奪っているのは、無論、大人であって、子供にそうあってほしくはないと思うくせに、我が子に浅薄な効率主義や合理主義を押しつけない勇気を持つ親は、極めて少ない。そして、時代が悪者にされ、口実にされる。そのような時代の風潮を的確に捉え、揶揄した歌が私の高校時分に流行った「探し物は何ですか?」で始まる井上陽水の『夢のなかへ』だと思うが、近年これが女性アイドルによってリバイバル・ヒットしたのは、時代が相も変わらずどころか、ますますそのような状況にあることを物語っているとは言えまいか。

 浅薄な効率主義の目指すところではけっして得られない、活き活きと生きるための糧となるべきものを得たい、見つけたいとはおそらく総ての人が思っているのだろうけれども、悲しいかな、浅薄な効率主義が骨の髄まで染み込んでしまっていて、見つかるあてがないと探し始めることもできない。内心それを忸怩たる思いでもって過ごしている者にとって、あてもなく真摯に探し続けることだけを描いたこの作品は、そのシンプルさゆえにそのことが宝石の輝きとして記憶に残る。このシンプルさがただの単純さと繋がらずに、強靱さとして表れてくるうえでは、キアロスタミ監督の映像作家としてのスタンディング・ポジションの確かさが大きな力を持っているわけだが、それを培ったのは、昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭の審査員も務めたという彼のドキュメンタリー・フィルムに寄せる関心の強さであろう。

 この作品は、フィクションでありながら、いわゆる虚構性ゆえに可能な真実の純粋抽出といった方法論で表現を試みるのではなく、純粋抽出をするまでもないシンプルな構造のなかで、演ずるのではなくフィクショナルな設定を生きる実存としての人間をドキュメントすることによって、生の真実の表現を試みているという気がする。

 キアロスタミの作品だけではないのだが、劇映画がドキュメンタリー・フィルムに接近している一方で、ドキュメンタリー・フィルムの劇映画への接近という現象も顕著になってきており、これらが同時に目につく形で起こっているというのは、今の映画の状況のなかでも、特に興味深いことの一つだと思われる。

 昨年秋の自主上映フェスティバル'93 で、映画批評家のY・Y氏と会ってヴェンダースについての話に花が咲いたときに、氏が「最近、映画を取り巻く状況のなかで何か大きな地殻変動が起こっているような気がしてるんですよね。どうもそれは、感性から実存への揺り戻しというのがキーワードになっているように思うんですけどね。」というようなことを言ったのだが、この“地殻変動”という言葉が、それまでの私が漠然と感じていたものにピタッとはまる気がして、ひどく気に入った。言葉に関して、ふだんあまりこういう経験がないだけに、この一言でY・Y氏は非常に強い印象を残してくれている。
by ヤマ

'94. 3.23.  テアトル梅田2('93.11.26.)
県民文化ホール・グリーン('94.4.12.)



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