『誰も知らない』
監督 是枝裕和


 親から養育放棄された子ども四人の生活を小学六年生の長男明(柳楽優弥)の視線で全編綴った作品だが、僕の印象に最も強く残った存在は、むしろ母親のけい子(YOU)だった。冒頭の引っ越しで幼子の多さを隠すためとはいえ、二人の子供をトランク詰めにして運ぶ異様さに意表を突かれながらも、その子供らが何の屈託もなく遊び感覚で出て来る描写の現実感に更に意表を突かれるとともに、何とも親密さに溢れる親子の様子が強く刻み込まれた。基本的にはよき母親であるはずの彼女が養育放棄に至ってしまうことについて、観る側がさまざまな思いを馳せずにはいられなくなる重要な場面が早々に登場するわけだ。それとともに、家族というものを社会の最小単位とする社会学的観点を前提としたうえでの現代日本“社会”の酷薄さという、この作品の底流をなす部分が、幼子が多いと住宅入居もままならない日本社会の現状をトランク詰めのエピソードで照射するという形で提示されてもいたわけで、振り返ってみて大した導入部だったと大いに感心させられた。

 その家主夫婦は人の良さそうな普通の人たちとして登場していた。恐らく、幼子が多いと入居契約を結ばないことを家主としての当然の権利と自由と考え、何の疑問も躊躇も抱いていないからこそ入居契約の条件としているはずだし、だからこそ福島母子は、幼子のトランク詰めといった非常手段による偽装に追い込まれていたのだろう。それが言うなれば、自己都合による強者の論理などとは毛頭想像できないであろうし、実際、今の日本社会でそのような入居条件が特段に不当なものとは糾弾されたりもしないように思う。なにせ規制緩和の時代だ。個人資産の管理と運用には、最大限の自由が保証されなければならないのが現代日本社会の錦の御旗なのである。強者の自己目的や利益の追求は、競争原理の称揚のもとに加速度を増している。

 そういう観点からすれば、この作品に描かれた母親の養育放棄は、現代日本社会の行動原理たる“強者の自己都合による弱者へのツケ廻し”であって、母親けい子だけの特殊性では決してない。夫の家庭放棄でツケを廻された彼女が更なる弱者の我が子らにツケを廻した結果、最弱者たる子どもたちがツケ廻す先がなくて全てを被り、最も幼いユキ(清水萌々子)が遂には死にまで至ったのだと思う。母親が基本的には子供たちにとって冷酷な鬼母ではなかったことがきちんと描かれていたからこそ、四人が四人とも心身ともに実に健やかで個性に富み、尚かつ年かさの重ねに応じた順番で普通以上にしっかりした子供に育っていたことに違和感を生じさせなかったように感じる。

 子供たちの悲劇は、母親の最初の1ヶ月の長期逃避に対し、明の鍛えられ卓抜した年齢不相応の生活力でどうにかこうにか苦境を凌いでしまったことに端を発するように思うのだが、何ともそれが痛切だ。消費税増税とゼロ金利政策による金融機関への所得移転並びに銀行への公的資金投入という強者の論理によってバブル経済崩壊のツケを弱者に押しつけても、ツケ廻しをされた側が自助努力でどうにかこうにか凌いでいると、さらに嵩に掛かってくる日本社会のシステムそのままだという気がしてならない。家庭にしても、経済にしても、日本社会というのは、そういう社会なのだと突きつけられているような気がする。


 最初の長期不在から後ろめたさと気後れを抱えて戻ってきたと思われる母親に、当然のこととして向けられた息子の視線に怯んで、私を責めるんなら父親のほうはどうなのと思わず口にし、自分の不幸を嘆く母親は、小学六年生の長男に「頼りにしてるからね」と口にしたとき、言葉のうえだけではなくて、本当にすっかり当てにしてしまう。そのことの不当さには疑問の余地がない一方で、ツケ廻しの行動原理に無自覚なるままに染まりきっているうえに、負担耐性が著しく劣化している現代日本の未熟なる大人の一人である彼女が、年齢を超えた頼もしさを備えた息子を当てにしてツケを廻し逃亡してしまったことに奇妙なまでの現実感が備わっていることのほうが、僕には衝撃的に感じられた。実話に材を得た物語だからということでは済まない現実感が作品に宿っていたように思うし、その現実感を了解できる感覚が、現代日本社会に生きている僕に自ずと備わっていることを自覚させられて戦慄したような気がする。とんでもない社会で生きているような気がして、実に情けなくなってくる。

 それは恐らく僕自身のなかに、けい子ほどのことはしないにしても、“自己都合によるツケ廻しの行動原理”と“負担耐性の劣化”に対する自覚や不安が潜んでいるからなのだろう。家主の無自覚や僕の不安とけい子の育児放棄とでは、無論、事の次元が違うと言えばそれまでなのだが、本質的には通底しているような気がしてならない。そこを突いてくるところがこの作品の力なのだと感じる。

 何とか自助努力で凌いでいこうとしていた明が二度、母親の元に電話をかける。送金のあった現金書留に記載されていた住所から辿ったものだ。一度目は、自助努力の限界を感じ、助けを求めるつもりだったのだろうが、自分たちの苦境と懸け離れた明るさで、福島姓ではなく山本姓を名乗る母親の声に絶望して、力無く自ら受話器を掛けて切った。二度目は、妹の一大事に抜き差しならなくなった遙かに困難な状況のなかで藁にも縋る思いでかけるのだが、呼び出しを待つままに十円玉が費えて繋がらない。単に馴染んでいるからではなく、山本姓を知ってても敢えて「福島けい子」で呼び出したと思うのだが、この明の二回の絶望シーンには、観ている僕の胸の内がざわめいた。後から再び送金してきた母親のなかでは、金が足りなくなって電話をして来るくらいだから、きっと頼りの明がなんとかやってくれているのだろうという程度にしか想像できていないことが容易に推察されて、心底やりきれない。現代日本“社会”が本当に人間をダメにしてきていることが身に沁みて、いささか応えた。


 柳楽優弥の寡黙な透明感が素晴らしく、絶賛を浴びるのも道理だ。と同時に、北浦愛[京子]・木村飛影[茂]・清水萌々子の弟妹の表情の豊かさにも驚嘆させられる。『幻の光』はともかく、『ワンダフル・ライフ』『ディスタンス』で、その題材が内包するテーマ性の重さに対して「映画の作りや人の生に向ける眼差しに、真面目ではありながらも、どこか小賢しさが潜んでいたような」印象を僕のなかでは残してきていた是枝作品が今回いささかもそのように映ってこなかったのは、彼らの存在に拠るところが大きいように感じた。まさに作品の題名どおり、大人の誰にもそこまでの苦境とは知られないままツケの全てを負っていた明とイジメによる不登校とおぼしき中学生紗希(韓英恵)の出会いは、ひとたびの別れを経たうえでの再縁であるだけに、孤独な魂同士の再会が生の同伴者としての殊のほかの掛け替えのなさを双方に抱かせているようなささやかな光を醸し出していたのだが、僕がその終幕にいささかの違和感をも覚えず、素直に感じ入ることができたのは、きっとそういうことだったのだろう。


参照テクスト掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録

推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2004/2004_09_20.html
推薦テクスト:「とめの気ままなお部屋」より
http://www.cat.zaq.jp/tomekichi/impression/houga7.html#jump13
推薦テクスト:「シネマの孤独」より
http://homepage1.nifty.com/sudara/kansou4.htm#daremo
推薦テクスト:「多足の思考回路」より
http://www8.ocn.ne.jp/~medaka/diary-nobodyknouws.html
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2004tacinemaindex.html#anchor001161
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20040808
推薦テクスト:「my jazz life in Hong Kong」より
http://ivory.ap.teacup.com/8207/107.html
by ヤマ

'04.11. 3. TOHOシネマズ5
      



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