『ナルニア国物語 第1章ライオンと魔女』
(The Chronicles Of Narnia:The Lion,The Witch And The Wardrobe)
監督 アンドリュー・アダムソン


 僕は、C.S.ルイスの原作を読んでないのだが、7章にも渡るらしい全話が『指輪物語』『ハリー・ポッター』などのように、これから順次映画化されていくのだろうか。そのような予感に見舞われるにつけ、今世紀に入って、こういうファンタジー系大作が矢継ぎ早に打ち出されてきていると改めて思った。
 映画をそれなりにコンスタントに観続けてくるなかで、自分が大人になってからの劇映画の流行的な特徴というものが、'80年代後半・'90年代・'00年代で割合くっきりとした形で像を結んでいるように常々僕は感じている。
 '80年代後半から'90年代にかけては、一般映画で性愛作品がもて囃された時代だった。日誌にも綴った金曜日の別荘で('91)の原作者アルベルト・モラヴィアの映画化作品が毎年のように入ってきていたような覚えがあって、'92年の『氷の微笑』の大ヒットは、僕にとってのシンボリックな記憶として残っている。そして、'93年に観たボンデージ』の日誌には「ポルノ映画の衰退と一般映画のポルノ化のなかで、昨今エロティックな作品がもてはやされていて、なかでもSM・覗き・フェティシズムなど、さまざまな倒錯的な性の官能の煌きというのが今風の流行のようである。」という記述が残っている。
 '90年代は、ドキュメンタリー・フィルムへの近接が目立った時代だった。映画新聞から依頼を受けた'95年1月号掲載の書評のなかでも、僕は「九〇年代に入って、それ以前とはかなり違う形でドキュメンタリー・フィルムが注目されるようになってきている。…劇映画とドキュメンタリー・フィルムの相互乗り入れという状況のなかに顕著に窺える。特に最近のアッバス・キアロスタミの公開やケン・ローチのレトロスペクティヴ、セミョーン・D・アラノヴィッチやキドラッド・タヒミックへの関心の寄せられ方などを見ると、それは、単なる流行ではなく、映画の状況の現在を示す最も興味深い現象として捉えられるべきではないかと思われる。」と綴っている。
 そして、『マトリックス』の公開された'90年代末からは、アニメーション&ファンタジーが一般映画に大きく作用するようになり、CASSHERN』『キューティハニー』『下妻物語』の僕の日誌には「今回たまたまこの三作品を続けて観て思ったのは、90年代が実写劇映画とドキュメンタリー映画の相互乗り入れが際立った時代だったとすれば、00年代が実写映画とアニメーション映画の相互乗り入れの際立つ時代になるのかもということだった。実写映画に従来の映像展開にはなかったような形で漫画的なカットや編集が施され、それに相応しい映像加工のされた作品が頻出してくる一方で、イノセンスアップルシードの3D感志向や『ポーラーエクスプレス』の予告編などを観ると、アニメーションの映像が戯画化とは異なるほうを熱っぽく志向しているような気がする。CG技術の飛躍的な進歩が両者のこの動きを支えていることを思うと、単発的なキワモノ作品に留まらない映像表現の一スタイルとしての定着を果たしそうな気がする。」と記しているし、奇しくも東京国立近代美術館フィルムセンターが、'04年7月から二ヶ月近くに渡って「日本アニメーション映画史」という企画上映で長短篇あわせて230本以上もの作品を上映したりした。ファンタジックなまでの純愛物語が韓国ドラマを契機に大流行し、邦画でも世界の中心で、愛をさけぶがセカチュー現象を引き起こした。十五年前に綴った“一般映画のポルノ化”と相反する“純愛ブーム”の到来だ。リアリズムを排した現実逃避の心境が時代的気分として支配的なのかもしれない。先頃観たばかりのPROMISEなどは、そういう点での“映画の今”をがっしり捉え反映している作品だったようにも思われる。
 だから、チラシに「誕生から55年、映像化不可能といわれたC.S.ルイスの英国ファンタジーの至宝」と書かれている『ナルニア国物語』映画化の幕開けが始まったのは、とても時宜に適ったことのように見える。そして、いかにもディズニー映画的な満足を残してくれたこの作品の一番の功労者は、白い魔女を演じたティルダ・スウィントンだったような気がした。
 物語的には、自己犠牲を果たしたことで偉大さを印象づけたはずのアスランがあっさりと生き返ってしまったことにはいささか拍子抜けをしたのだが、振り返ってみると、あれは、裏切り者ユダに相当するエドマンドの罪を背負って孤独な死による贖いで救済を果たしたアスラン=イエスということだったような気がする。そう解すれば、アスランが祭壇に向かって実にのろのろと階段を上っていたことや、その歩みに向かって嘲笑や揶揄の罵声を浴びせかけられていたこと、たてがみを無惨に刈り取られる辱めを受けていたことが、まさしくパッションに描かれたイエスのゴルゴダの丘への歩みと重なるものだったことに思い当たった。さればこそ、必然的にアスランは復活を遂げなければならないわけだ。これが原作にも色濃く施されていた意匠なのか、映画化に際しての脚色なのかは、原作未読の僕には不明なのだが、もし原作に込められていたアナロジーだとしたら、非常にキリスト教文化色の濃い『ナルニア国物語』が戦いを軸とした冒険物語であることに対して、改めて想うところがあった。つまり、キリスト教文化における“戦うこと”へのパラノイア的なまでの価値付与と重視が浮かび上がってくるような気がしたわけだ。
 弾圧との戦いであれ、[信教の]自由の獲得の戦いであれ、自身の内なる欲望との戦いであれ、キリスト教文化というのは、いかにも好戦的で、常に戦いを求め、賞揚していて、解脱や悟りといったものを目指したりは決してしない文化だという気がしないではいられない。修行によって自ら“悟る”のではなく、鍛錬と教化によって“導かれる”ものだと信じられているから、キリスト教文化というものには、常に何らかの押しつけがましさが期せずして宿ってしまうのだろう。同時に、だからこそ、パワー志向が強くもなるのだなという気がする。無論そこには功罪ともにあるわけだが、長年、僕がキリスト教に少なからぬ関心を寄せ、心惹かれつつも、感覚的に馴染めないでいるのは、そのあたりの事情が影響しているからなのかもしれない。要するに、脱力志向の僕には向いてない価値観なのだ。特に四十代を迎えてからは、戦闘シーンや格闘アクションを観てワクワクしてくるようなところが全くなくなり、映像的な造形におけるスケール感やリズム感に目を向けて観てはいても、ジャーヘッドでスオフたちが地獄の黙示録のビデオを観ながら昂揚するような気持ちの盛り上がりには一向に繋がらなくなった。そういうところがロード・オブ・ザ・リングを観ても、僕が気持ちのうえで乗っていけなかった理由なのかもしれないというようなことを日誌に綴っているのを思い出した。
by ヤマ

'06. 3.12. TOHOシネマズ6



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