『PROMISE』(The Promise [無極])
監督 チェン・カイコー


 予告編を観たときには、張藝謀のHERO('02)やらLOVERS('04)をどうしても想起してしまい、同じ極彩色をあしらった劇画的な画面づくりにおける美感の差異の隔たりに、何だか陳凱歌の足掻きとやけくそを感じて、ちょっと情けない気分になった。同じ土俵に立とうとすれば、やはり映像の美的センスでは、もはや陳凱歌は張藝謀のライバルとも言えなくなっているような気がしたのだ。それは『HERO』での水滴を誘想させるような花弁の落下をオープニングで観た時点で確信に変わり、怒濤のように疾走する猛牛の群れのなかを奴隷の昆崙(チャン・ドンゴン)が目にも留まらぬ速さの四つん這いで逆走して牛の流れを変え、数の上では圧倒的に不利だった大将軍光明(真田広之)の戦に勝利を導く場面に至っては、陳凱歌は発狂してしまったのではないかとさえ思った。
 ところが、まるまる二時間を要する全編を観終えると、ちょうど『LOVERS』を観終えたときに感じたような“難点を不問にしたくなる満足感”が得られており、久々に「侮り難し!陳凱歌」との思いを新たにしてくれた。やはり彼の真骨頂は“骨太の力強さ”にあると改めて思った。だから、キリング・ミー・ソフトリー('01)とか北京ヴァイオリン('02)では持ち味が生きてこないのだろう。“一騎当千、白髪三千丈の詩文のお国柄”に相応しい空間的にも時間的にも有り得べからぬ大仰を、力強いダイナミズムで描いた力量に圧倒されたわけだ。そして、『LOVERS』同様、妙味ある最終場が用意されていたことにも満足した。
 『LOVERS』では女一人が死んで、彼女を愛した男は二人とも生き残るが、『PROMISE』では女一人生き残って、彼女を愛した男が三人とも死んでしまう。両作ともに愛の悲劇だったわけだが、前者では最も深き愛を全うしたのが女の小妹(チャン・ツィイー)で、物語的には愛よりもむしろ悲の余韻が強かったことに比べ、後者で最も深き愛を全うしたのは男の昆崙で、物語的に悲よりも愛の余韻が強く残る作品だったように思う。
 そして昆崙は、王妃傾城(セシリア・チャン)のみならず、光明をも深く愛していたような気がする。傾城に寄せる自身の想いを抑えたままに最後まで光明と傾城を結びつけようとするのは、奴隷根性などという身分的なことから生じたものではなく、自分の力と器量を認めて「今日からは立って二本足で駆けよ」と一人前の人間扱いをしてくれたばかりか、栄えある華鎧を代わって身にまとうことさえ許した大将軍への深い敬愛ゆえに他ならない。それに対し、決死の覚悟で身を挺して生命を救ってくれ、何があっても生き延びよと諭してくれた男に初めての愛を抱いた傾城が、実はその男が昆崙であったことを知ったうえでなお、傾城は瀕死の光明の元に寄り添う。それが昆崙の求めたことだったからなのか、華鎧の男を光明と勘違いして通じた情交の深さが残した真情ゆえだったのか、女心は定かでないけれども、公爵無歓(ニコラス・ツェー)に捕らえられ、縛り吊されていた傾城のために生命を賭けたことでは、光明は昆崙に些かも後れを取ってはいなかったように思う。
 他方、自分を騙し傷つけた娘が絶世の美女となっていて彼女に魅せられつつも、惹かれる程に恨みが募る形でしか内なる愛が結実しない無歓は、その名のとおり最も愛から遠く不幸な人物だったが、圧倒的な力を誇示して傾城自ら寄り添ってこさせることで解消すべく待ち足掻いている姿には、卑劣よりも哀れが漂い、傾城への並々ならぬ想いの深さを偲ばせていたようにも思う。
 率直で真っ当な光明の愛、大きく深い昆崙の愛、歪んだ無歓の愛、多種多彩な愛が傾城の元に集中して注がれるこの物語は、それゆえに女性客の支持を『LOVERS』よりも多く集めそうな気がする。そう思って一緒に観た妻に試しに尋ねてみたら、案の定、そのとおりだった。
 それにしても、せっかく昆崙が時空を超えて、“真の愛を放棄しない人生”のやり直しチャンスを幼き傾城に与えても、あの時点にまでしか遡らないのであれば、無歓は相変わらず救われぬ歪んだ愛に不幸にも囚われる人生を送ることになるわけで、その名に負わされた刻印というものは、満神との誓い以上に重く固いのかと些か気の毒だった。

推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0603_2.html#promise
by ヤマ

'06. 2.20. TOHOシネマズ4



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