『パッション』(The Passion Of The Christ)
監督 メル・ギブソン


 僕はキリスト教の信者ではないが、キリストの奇跡を信じているようなところがある。但し、それは例の復活の奇跡そのものではない。キリストの復活というのは象徴的に形象化された逸話であって、その示すところは、弾圧を受け直系の十二使徒に裏切られてもなお信仰を得て受け継ぐ者が現れるという形で教えが復活したことを意味しているのだろうと受け取っている。そして、何よりも奇跡的だと思えるのは、ゴルゴダの丘に至るまでの最後の十二時間をあの語り継がれるような形で対処し得たナザレのイエスの肉体と精神であったと考えている。この映画は、そのナザレのイエスの奇跡を描いて余すところのない作品だった。

 僕は“被る”イメージの強い「受難」という言葉よりも“引き受け”のイメージのある「受苦」のほうが適しているとかねがね思っていて、情熱とは異なる意味での「パトス」の訳には専らこちらを使用しているのだが、イエスのパッション即ち「受苦」は、責め苦に耐えるのが逃れられない形で一方的に虐待を甘受するのとは異なっている点が重要だ。とことん痛めつけられた身体で血を流し、よろめきながら、重い十字架を背負わされても、決して歩みを止めずに丘に辿り着き得た“意思の存在”が人々を圧倒するのだ。そして、ズタズタに鞭打たれる姿も、見るからに大変な重量の十字架を背負って歩く姿も、つぶさに民衆の目に触れていたからこそ、前述した“復活の奇跡”が果たされたのだという気がする。もし密かに拷問を受け処刑されていたとしたら、キリストの復活は起こらなかったように思うのだ。

 そういう意味で、この作品がイエスの受苦そのものに絞って、徹底的にリアルに描いていたことには、必然性以上の作品的核心があると言うべきものだと思う。あの状態で、どうしてゴルゴダの丘にまで辿り着き得たのかは、もはや奇跡と考えるほかないほどの不可解さがある。そして、なぜ彼は力尽きなかったのか、それを考え、畏怖する者が現れる可能性を生むに足るだけの数の民衆が使徒をも含めて目撃しており、それに相応しいほどの凄まじさがイエスの負った受苦にはあったということが、実に鮮烈に描出されていた。そのうえで、超人的な意思の力のみがヒロイックに宿っていたのではないということが描かれていた。実際、むしろ苦しさのなかで、父なる神の意思を問いかけたり、「彼らは自分たちのしていることが分かってないのだ」といった嘆きを零す姿があればこそ、尚更に彼が受苦を全うした姿に人々が打たれたのだろうと思うし、同時に彼をそこに追い込んだ人々のなかに深い悔恨を覚えさせる部分が生まれ得たのだろう。最後の最後まで居残ったローマ兵士が唯一人いて、彼が、降り注がれるイエスの血を浴びた兵士だったのも、そういうところを描いていたのだと思う。

 僕が観ていた劇場では、イエスの痛めつけられる姿を見ながら啜り泣いている人が何人もいた。おそらくは信仰者ではないかと思われるが、イエスの受苦を偉大なる神話的物語として見るのではなく、こういった生々しい描出のもとに目の当たりにすることで揺さぶられたものは、さぞかし大きかったろうと思う。

 それにしても、人が人に暴虐を尽くすとき、必ずのようにして伴う下卑た笑いの醜悪さには、本当に観るに耐えないものがある。僕自身は幸いにして現実として目にする機会を得たことがないけれども、ナチスの収容所でもアルグレイブの刑務所でもおそらくそうだったのだろう。平常心ではとてもやれないことだろうから、笑いながらか怒りながらかしかできないわけだ。日本鬼子 日中15年戦争・元皇軍兵士の告白を観たときのことを思い出した。むしろ、イエスの受けた虐待そのものの凄惨な描写よりも、僕はそちらのほうに気分が悪くなった。そういう意味では、イエスを演じたジム・カヴィーゼルとともに演者として際立っていたのは、彼を鞭打っていた兵士を演じた役者だったように思う。

 そして、イエスの受苦に付き従うことで彼に負けないくらいの受苦を背負いつつ、ゴルゴダの丘への息子の歩みに沿い続けた母マリアを演じたマヤ・モルゲンステルンの表情の深さに打たれた。また、総督ピラト(ホリスト・ナーモヴ・ショボヴ)の妻クラウディア(クラウディア・ジェリーニ)から貰った白布で石畳に溜まった息子の血をマグダラのマリア(モニカ・ベルッチ)とともに懸命に拭い取ろうとする姿の痛切さも心に沁みた。




参照テクスト掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録

推薦テクスト: 「マダム・DEEPのシネマサロン」より
http://madamdeep.fc2web.com/The_Psssion_of_The_Cheist.htm
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0508_2.html
推薦テクスト:「Muddy Walkers」より
http://www.muddy-walkers.com/MOVIE/passion.html
by ヤマ

'04. 8.25. 東宝3



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