ドキュメンタリー作品との丹念で誠実なコミュニケーション
 /鈴木志郎康著「映画素志」書評
映画新聞」第114号('95.1. 1.)掲載
[発行:映画新聞]


 九〇年代に入って、それ以前とはかなり違う形でドキュメンタリー・フィルムが注目されるようになってきている。それは、一方では、かつて劇映画においてドキュメンタリー・タッチと称されたスタイルの問題とは本質的に異なる、方法論の問題として劇映画を触発し、他方では、ドキュメンタリー・フィルムのドラマティックな編集という、いわば、劇映画とドキュメンタリー・フィルムの相互乗り入れという状況のなかに顕著に窺える。特に最近のアッバス・キアロスタミの公開やケン・ローチのレトロスペクティヴ、セミョーン・D・アラノヴィッチやキドラッド・タヒミックへの関心の寄せられ方などを見ると、それは、単なる流行ではなく、映画の状況の現在を示す最も興味深い現象として捉えられるべきではないかと思われる。
 そのような状況認識に立つなかで、この一年を振り返って見渡すと、鈴木志郎康氏の『映画素志−自主ドキュメンタリー映画私見』の発行が目に留まる。この著作は、氏が六九年から九一年までのさまざまなところで書いたものを社会イメージをキーワードに編集構成したものである。むすびにあるように「その自ら考え出す社会イメージの映像によって実現する」ものとしてドキュメンタリー・フィルムを丹念に観続けるなかで培った、氏のドキュメンタリー・フィルムに対するスタンスは潔く、率直に語ることにより、とても力のある、わかりやすい評論となっている。
 特に作品論は、各作品の掲載頁の欄外に作品名と共に土地の名前を印刷してあり、ちょっとした配慮で読みやすくするだけでなく、さりげなく氏の見識の確かさを窺わせるものとなっている。また、自らも表現者であることや都市生活者であることなどに対する強い自覚を課したうえで、観る側に徹したポジションを貫いていることも美しい態度だと言える。そのうえで、語られる作品論は印象による抽象的な論評ではなく、作品とそれを観た著者鈴木氏との具体的なコミュニケーションの記録としての言葉によって記されているから、わかりやすく、力のあるものとして伝わってくるのであろう。力のない、虚仮威しの言葉によるペダンティックで胡散臭い評論が横行しているだけに、読んでいて気持ちがいい。
 制作者が自ら現実にかかわる態度を鮮明にしない限り、現実の構造が見えてくるものではない。そして現実へのかかわり、格闘が作品の方法を決定し、映像の質を決めるのだとか、現在、ドキュメンタリー映画というのは、個々の監督が、自分を表現者として、記録の対象となるものを介して、社会とどう取り組んでいくかというところに成立している、あるいはドキュメンタリーは具体的に個々の人間や事実を顕在化させ残していく。だが、それが個別的なままでは意味を持ち得ない。その個別性を超えた場を出現させなければ、意味が生まれてこないのだ。現在のドキュメンタリー映画は、多分、その個別性ということを明らかにして、さらにその個別性に基づいて、それを超えて意味が生じてくる場を探りだそうとしているのだといった視点から取り上げられた作品群や作家たちは、その大半が、高知では上映されていないのが実情である。観るべき作品で観逃しているものが多いのは、何もドキュメンタリー・フィルムに限った話ではないのだけれども、氏の丹念で誠実な作品とのコミュニケーションの記録を読むと、自分の目にはどのようなコミュニケーションが生まれるのか、出会ってみたい気持ちに駆られる。私見と謳っているコミュニケーションを、読むことだけで借りてしまうのは、氏に対しても、作り手に対しても失礼なことになろうから。
by ヤマ

'95.1. 1. 「映画新聞」第114号



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>