『地獄の黙示録<特別完全版>』(Apocalypse Now Redux)
監督 フランシス・フォード・コッポラ


 二十余年前に物議を醸しながら、鳴り物入りで公開されたときに劇場で観逃し、その後TVでは観たもののスクリーンで観ることのなかった僕にとって、特別完全版の公開により、劇場で観ることができたのは、願ってもないことだった。オープニングで客席後方から聞こえてくるヘリのプロペラ音が、頭上左方向を旋回して前方に回ってきたところで画面にヘリが登場し、土埃を舞い上げたときには、もう嬉しくて仕方がなかった。やはり映画は、劇場で観るものだ。この空間的広がりは、少々ハイグレードなオーディオ・ヴィジュアル機器を備えたところで、家庭で果たせるものではない。そして、充分プロペラを印象づけられた後、天井のプロペラ型の扇風機の映像からウィラード大尉(マーティン・シーン) がくすぼっている夏のサイゴンのホテルの一室へと繋がっていく。映画というものは、やはりこうでなくっちゃいけない。

 それにしても、四半世紀近く前の作品なのに、大画面で観ると圧倒的なスケール感が、今に至ってもいささかも損なわれていないことに驚かされる。何らかの形で必ずCGが使われていると言ってもいいような最近の映画を観ていた眼には、却って印象深く感じられる新鮮さともあいまって、やはり壮大な傑作だとの感を改めて強くした。また昨今流行のハイスピードで展開する細切れのカットからすると、のんびり過ぎるほどにゆったりした編集であるにもかかわらず、テンションがいささかも緩まずに、却ってじんわりと深く重たい主題が泌み渡ってくる。煽り立てられるようなハイテンションでは得られることのない、滋養に溢れた味わいだ。しかし、そのもたらしてくれるものは、決して楽しく愉快なものではない。

 連日、朝一回の上映しかない地方公開だから、限られた休みの日だと思いがけなく見知った顔に遭遇する。知人の女性二人連れに誘われて、喜々として喫茶店に足を運んだ。最後の場面でカーツ大佐(マーロン・ブランド)を殺したウィラード大尉は、彼に代わって神の位置に就いたのだろうかと問われた。それはそうなのだろう。王国の人々は、彼を継承者と見なしたからこそ、ひれ伏したのだ。だが、ウィラード大尉は、高みの位置から自ら段を降り、カーツ大佐を殺害した武器を投げ捨て、大佐の遺言とも言える託された口伝を果たそうとするかのごとく、大佐が君臨した王国を出ていく。ウィラード大尉が石段を自ら降りるとともに群衆は立ち上がり、大尉と同様に手にした武器を投げ捨てていた。

 ジャングルにいたときは望郷に苛まれ、帰郷してみるとどこにも居場所がなく、再びジャングルを目指して戻ってきたと映画の冒頭で独白していたウィラード大尉が、アメリカ軍を震撼させ、事実上、軍内部からの暗殺指令とも言える非常手段に訴えさせるほどの端倪すべからざる権力を手中にしながら、恬淡とカーツ大佐の王国を捨てていったのはなぜだろう。少なくとも素朴な良心や特殊工作員としての使命への忠実さではあるまい。

 結局のところ、カーツ大佐の王国というのは、暗殺指令を出したアメリカ軍上層部が恐れたような覇権組織というよりは、軍人としてのスーパーエリートでありながら、詩人の魂をも備えた彼が、軍事としての殺戮と破壊に携わりながら見つめてきた人間存在の実存を具現化した世界ではなかったのか。生け贄と見せしめを必要とし、平然と殺戮を繰り返し、死体を放置し、力関係での支配と従属を必要とする集団であるということなのだ。カーツ大佐は、戦争という非常事態によって剥き出しにされたときの人間の実存というものに、自分自身を含めて出くわしながら、それが人間そのものの実存なのか、戦争によってもたらされた狂気なのかを見極めようとしてきたのだろう。それは、自己の問題としても未解決のままにはしておけないもので、だからこそ続けてそれに取り組み、より深く過酷なレベルで体感していくために、敢えて約束された昇進コースを捨てて、38歳の身でもって、19歳の若さでウィラードが耐えかねたと独白するグリーン・ベレーの訓練を再三の志願によって果たし、戦場を離れようとしなかったのだという気がする。もちろん、軍上層部や国家の欺瞞に対する嫌悪感もあっただろうが、最も強かったのは、その命題に対する探求心とそれを見極めることができるのは自分をおいてほかないという自負心と使命感であったようにも思う。それは、僕が十五年前に『プラトーン』を観て、日誌に「人が戦いを続けるには、何らかの大義名分なり名目が必要である。国家的レベルで謳われる戦いの意義が何の説得力も持たない戦場で、若き兵士たちは、常に死と隣り合わせのなかで、彼らなりの拠って立つところを求めようとする。」と綴ったことに繋がるようなものとしての、カーツ大佐が見出そうとした意味だったのかもしれない。軍人として生きてき、目撃し、体現してきたことの総てを集約し、到った世界観および人間観がすなわち彼の王国なのだろう。

 そのうえで彼が著し、遺したタイプ打ちの分厚い文献のなかに、赤ペンで「総てを焼き尽くす爆弾の投下が必要だ」というようなことを書き込んであったのが目を惹いた。あの文献こそが黙示録なのであろう。黙示録とは神の開示する秘密を記したものとなれば、カーツ大佐の遺した黙示録とは、戦争の本質とか狂気を書き綴ったものというよりは、それらも含めて、彼が王国で具現化させた「人間存在の実存」を開示したと解するほうが僕にはしっくりとくる。そして、その黙示録への手書きの書き込みとして総てを焼き尽くす爆弾を投下して消滅させるしかないという、何とも救いがたい人間性への絶望が終末観として塗り込められていたように思う。だが、カーツ大佐は心底から絶望してはいなかったような気がする。だからこそ、自らの到達した世界観と人間観を黙示録として遺し、ウィラードの到着を待ち、彼の手に委ねたのであろう。

 また、ウィラード大尉は、カーツ大佐の黙示録を狂気の産物と観ることなく理解し認識するための履修課程として体験し目撃する旅を経て、ようやくにしてカーツ大佐の使徒となり得たのだろうという気がした。特異な美学と死生観で戦争を享楽しているキルゴア中佐(ロバート・デュバル)との出会いから始まり、戦場で露わにされている女性の存在意義と価値の過剰に剥きだしにされた即物性と共にある根源性、悪なり狂気の論理と言えども、何らかの秩序のある確信的な悪よりも底知れぬ恐怖を誘うとも思える無秩序を目撃し、軍人魂をアイデンティティとすることの究極の自己実現とも言える世界である元フランス軍将校ユベール(クリスチャン・マルカン)の支配する農園の醸し出す閉塞感と孤立を知る。しかし、アメリカの戦争には、その農園ほどにも守り固執すべき実体がないことを指摘されるばかりか、蛸が自らの足を食らうがごとく、インドシナの仏軍を駆逐するためにアメリカ自身の養成したベトミンこそが、泥沼のような戦争で手を焼いているベトコンの母胎だと教えられる。

 こうして川を遡り、奥地へ奥地へと踏み込んでいくことが、そのままカーツ大佐が長い年月を経て到達した認識を理解するための準備作業とも修行とも言える過程だったような気がする。そして、ウィラード大尉は、その過程のなかで次第にカーツ大佐に惹きつけられていく。また、この過程は、同時に映画を観る者に対しても、ゆっくりとした時間のなかで用意されることで、泌み渡るような説得力を醸成しているのだ。本当に凄い作品だった。




参照テクスト:掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録
参照テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/taidan/0204jigokuno.html


推薦テクスト:「K UMON OS 」より
http://www.alles.or.jp/~vzv02120/imp/sa.html#jump30
推薦テクスト:「D坂髑髏亭」より
http://www5.big.or.jp/~hellcat/app_now/frame.htm
by ヤマ

'02. 4. 6. 東宝1



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