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●延享4年(1747)
●寛延元年(1748)
●寛延2年(1749)
●宝暦2年(1752)
●宝暦4年(1754)
●宝暦5年(1755)
●宝暦6年(1756)
●宝暦7年(1757)
●宝暦8年(1758)
●宝暦10年(1760)
●宝暦13年(1763)
輸出伊平貝への課税を規定する。
12月22日-鳥取藩が城下に米相場役所の設置を許可する。
幕府の目付、来藩。町方人口は、鳥取1万3,125、米子5,677、倉吉2,928人。
8月3日−暴風雨による洪水に襲われる。
勘定頭安田七左衛門の改革始まる。会見郡を東・西に二分する。
3月24日−鳥取藩が、藩公用の用紙を黄色紙と定め、領内での黄色紙売買を禁止する。
1月10日−米価高騰のため、鳥取藩が窮民へ粥を施す。
藩学問所の普請を始める。
藩学問所で授業始まる。
10月22日−鳥取藩が、因幡・伯耆それぞれに担当の郡奉行を決め,山々への植林を命じる。
在方政治刷新の27カ条々目(安田条目)を発布する。
筆頭庄屋制をしく。
宝暦8年以来設置の領内目安箱15カ所となる。
7月8日−鳥取の町人が、藩の発行した銀札の正銀引き替え滞りを訴えるため、町奉行宅へ
押しかける。9月5日、藩は町々の役人を処罰する。(銀札騒動、翌々年まで続く)